東北大学

寄稿:公共政策大学院長 伏見岳人教授「文学に現はれたる我らが東北大学法学部生」

同窓会

本学公共政策大学院長の伏見岳人教授からご寄稿がありましたのでご紹介します。
テレビドラマ「踊る大捜査線」の室井慎次、ご専門の「後藤新平」はじめ文学と法学部生について書かれたユーモアあふれる内容です。
卒業シーズンの三月。法学部生に向けた先生の温かい眼差しを感じてみませんか。


文学に現はれたる我らが東北大学法学部生

伏見岳人

室井慎次氏

日本で最も有名な東北大学法学部の卒業生の一人に、室井慎次氏がいる。一九九七年の一月から三月にかけて放映されたテレビドラマ「踊る大捜査線」の登場人物の一人であり、織田裕二氏が演じる主人公ら現場の警察官とは対照的に位置づけられることが多かった秋田出身の警察官僚である。同じく秋田出身の柳葉敏郎氏が演じて人気を博し、二〇〇五年には、『容疑者 室井慎次』というスピンオフ映画も上映されている。

ドラマの中では、室井氏が東北大の卒業生であることを、揶揄されるシーンも若干目立った。深津絵里氏が演じた現場の警察官から、「あなたも東大出身の官僚だから冷たいのね」といった趣旨のことを言われ、室井氏が「自分は東北大出身だ」と述べると「なんだ、官僚は皆、東大出身者だと思ってた」と悪気なく返され、ムッとした室井氏が「東北大出身で何が悪い」と反論するシーンや、別の場面で、筧利夫氏が演じた東大法学部出身の後輩官僚から、リスクの高い仕事を押し付けられ、「室井さんは東北大出身でしたよね」、「自分には東大閥の先輩がいますから、この仕事で無理をする必要はありません」、「受験で遊ばず、死ぬほど勉強しておいてよかった」などと、嫌味ったらしく煽られてしまうシーンは、現在なお YouTube 上でも再生されている名場面となっている。

二〇二四年、その室井氏の晩年が、再び映画として取り上げられたことは、記憶に新しい。『室井慎次 敗れざる者』、『室井慎次 生き続ける者』という二本立てが相ついで公開され、二〇二一年に警察庁を辞めたあと、地元の秋田に帰った後の生活が丁寧に描かれている。最初のドラマ放映から数えれば二七年以上が経っており、これだけの時間が経ってなお、退職後の市井での日々まで映画化されてしまうような有名人ということであろう。朴訥で生真面目な室井氏の姿は、東北大学法学部の卒業生に対して、世間の人々が抱く典型的なイメージの一つだと言ってもよい。

この二本立ての映画では、「シンペイ」という秋田犬が重要な役割を果たす。どのように重要なのかは、ネタバレ防止の観点からあえて伏せておくが、ここではその名前の由来に注目してみたい。映画の解説によれば、戦前の政治家である後藤新平にあやかって、室井氏が命名したとのことである。映画をよく見ると、室井氏の本棚には、後藤新平の伝記である、鶴見祐輔著、一海知義校訂『<決定版>正伝後藤新平』(藤原書店、二〇〇六年)の七巻(東京市長時代)と八巻(「政治の倫理化」時代)が並んでおり、彼が後藤の晩年に関心を抱いていた、という舞台設定の跡がうかがえる。

もっとも、室井慎次と後藤新平の関係性は、この二〇二四年の映画において、初めて登場した演出のようだ。それ以前のドラマや、二〇一二年に放映された映画「踊る大捜査線THE FINAL」まででは、室井慎次という人物像の中に、後藤新平の影響はおよそ言及されていないからである。

それもそのはずで、後藤新平について世の中の関心が特に高まったのは、二〇一一年三月一一日の東日本大震災の後からのことである。それ以前より、後藤の生まれ故郷である岩手県奥州市には後藤新平記念館が存在し、政治学者や歴史学者の間では、後藤新平の存在は知られていた。また、二〇〇四年には顕彰団体「後藤新平の会」が発足して、後藤に関するシンポジウムが毎年行われている。それでも知名度は、やはり一部の人々に限られていた。テレビドラマを愛好する人々にまで、後藤の事蹟が知られるようになったのは、東日本大震災後に、「創造的復興」の源流として、後藤新平による関東大震災後の復興計画の意義が再注目されてからの現象ではないかと思われる。

そして、二〇二〇年からの新型コロナウィルス感染症により、日本で最初の大規模な検疫事業を行なった後藤の業績に、再び光が当たった。二〇二三年には関東大震災一〇〇年を迎え、また二〇二五年には日本の公共放送一〇〇年として、東京放送局の初代総裁として、日本で最初のラジオ放送を行なった後藤新平があらためて取り上げられた。僭越ながら、二〇二五年三月二六日放映の NHK「歴史探偵」に、私がゲスト出演させてもらったのも、こうした後藤の顕彰活動の延長線上にある。これと同じ流れを受けて、後藤と同じく東北出身である室井慎次氏の人物設定に、後藤の影響が最近になって追加されたのではないだろうか。このたびの「シンペイ」の登場に、後藤新平の顕彰に関わっている多くの人々からは、喜びの声が多くあがっていた。

後藤新平の「国難来」

室井氏の書棚にあった後藤新平の正伝の七巻と八巻では、一九一六年から一九一八年までの寺内正毅内閣において副総理格の内務大臣や外務大臣を務めた後藤が、やや格下にあたる東京市長(現在の東京都知事)に就任した後、一九二三年に関東大震災の復興計画を策定したのちは公職から離れ、在野での「政治の倫理化」運動などに尽力した時期が扱われている。経済的利害関係による結合を基盤とする政党政治に対し、後藤は終始、批判的であり、国民一人一人が、自身の正義や信念に基づく一票を投じることで、「政治の倫理化」を実現することを広く説いて回った。政治権力の獲得競争で言えば、それはしばしば「敗者」の論理に陥りがちであるものの、その主張は時を越えて、現代を生きる我々にも響く内容を含んでいる。そこに、「踊る大捜査線」の制作者が、宿願だった警察改革に挫折したあとの室井氏の姿と重なる像を見出したことは、想像に難くない。

この「政治の倫理化」運動の嚆矢となった後藤の講演録が、近年、復刊されている。一九二四年三月五日、東北帝国大学にて、当時の大学生を対象に語られた講演の記録であり、「国難来」というタイトルで、当時は非売品として限定的に冊子化されていた。これが、後藤新平『国難來』(藤原書店、二〇一九年)として、現代風に改訂されて出版されたわけである。

後藤は、旧仙台藩領である岩手県水沢(現奥州市)の出身であり、仙台藩出身のネットワークにも深く関わっていた。おそらく、その縁もあって、関東大震災の復興担当の職を離れた直後に、東北帝大での講演に臨んだのだと推察される。

この講演で、後藤は、当時の国際社会や日本政治について、なかなか厳しい認識を示している。第一次世界大戦後のヴェルサイユ体制に対し、ソ連(ロシア)を排除していることが致命的な弱点であるとして、後藤が批判的だったことは、日本政治外交史の研究者の間ではもはや通説的な解釈になっている。講演の中でも、後藤は、ヴェルサイユ条約調印の日は、「世界戦争の終りの日ではなく、むしろ第二次世界動乱の始めの日である」と直感したとまで述べている(同書二七頁)。それにもかかわらず、日本政治は、それぞれの利害関係に結びつく政党政治に翻弄されており、「最大級の国難として挙げざるをえないのは、政治の腐敗・堕落である」と喝破する(同書三四頁)。そこで、今こそ「政治は力なり」という誤解を退けて、「政治は奉仕なり」という信念に従ってふるまい、常に謙虚な心で政治を「倫理化」しようとする政治家が必要なのだと、後藤は若き学生たちの前で熱弁をふるったのである(同書七七頁)。

この講演を聞いた東北帝大の学生たちが、どのような感想を抱いたのか。残念ながら、その参加者側の記録などは、まだ全く見つかっていない。「政治の倫理化」を訴える後藤の演説記録は、音声データが残っており、彼がかなり強めの東北訛りだったことがわかっている。別のラジオ演説においても、「自分は東北訛りだから聞きにくいだろうが」といった発言をしており、後藤がこの東北アクセントを終生、気にしていことがうかがえる。だからこそ、仙台で東北帝大の学生たちを前にした講演では、この点で臆することなく、自信をもって、「国難」を雄弁に語ることができたのかもしれない。

この講演から五年後の一九二九年四月一三日、後藤新平は、七一歳でこの世を去る。その前月の三月に、彼が生涯で最後に出した政治パンフレットが、最近新たに見つかった。その名は「経済的国難来る」。世界恐慌から半年前に、アメリカ資本が中国大陸に大量に流れこもうとし、東アジアにおいて日本との対立を深めている、との警鐘を鳴らす内容であった。世界恐慌を、あるいはその後の日米対立を、予言しているようでもあり、その配置図を少し加工すれば、今日の世界政治の分析にも応用できそうな話になっている。現在その出版準備を急いで進めており、今年二〇二六年の前半期になんとか間に合わせられればと日々励んでいる。

川内で学んだ人々

話を室井慎次氏に戻すと、人物設定上、彼は一九六四年一月生まれで、一九八六年に東北大学法学部を卒業している。つまりは、昭和の終わり頃に、仙台で学生生活を送ったことになる。二〇〇五年の映画『容疑者 室井慎次』にあわせて、『Diary 野口江里子の日記1983-1985』(講談社、二〇〇五年)という本も出ており、そこには熱心に勉学に励む学生時代の室井氏の姿が、間接的に描かれていた。

もう少し後の時期に、東北大学法学部生の青春を描いた名作が、伊坂幸太郎『砂漠』(二〇〇五年、実業之日本社)であろう。こちらは、入学直後に出会った 5 名の法学部生が、仙台の街と、川内キャンパスを舞台に、友情をはぐくみながら、共に成長していく物語である。作者の伊坂氏は、一九七一年生まれで、一九九五年に本学部を卒業されているから、おそらく平成初期に学生時代を過ごした経験がこの土台になっているのだろう。

二〇一一年に、私の本学部での初めての講義に際し、この小説を話題にしてみたところ、意外にも多くの学生から、「私も『砂漠』を読んでいます」との声が寄せられた。伊坂氏の作品が次々に映画化されていた時期でもあり、震災直後で、果たして通常の四年間を過ごせるのかどうか、不安に思っていた当時の学生たちは、この小説のような穏やかでありながらも刺激的な生活に、若干の憧憬を抱いていたようにも感じられた。

もっとも、学部と大学院の長い時間を東京で過ごしていた自分には、初めて『砂漠』を読んだ時、二つの疑問点も浮かんでいた。一つは、この小説に、大学教師が出てこないこと。もう一つは、若干のネタバレをご容赦いただきたいが、一年生の最初に出会った人間関係が、卒業時まで、あまり変化なく固定されていることである。

他大学の友人も含め、自分の周りでは、三年生以後に所属した「ゼミ」が、入学時とは異なる新たな人間関係を作りなおす場となっていた。そこでは、大教室での講義とは異なり、個性豊かな大学教師との交流の機会が、制度的に保証されていた。

『砂漠』の登場人物たちには、それぞれ法学や政治学を深く勉強している形跡がうかがえた。だからこそ、それを修得するための肝心の場である「ゼミ」が登場していない点が、初読時には大きな違和感として残ったのである。

最近、同じく本学部の卒業生である三沢陽一氏の『致死量未満の殺人』(早川書房、二〇一三年)を読む機会があった。こちらは、第三回アガサ・クリスティー賞を獲得した本格ミステリー作品であり、日本法制史ゼミの学生たちによる群像劇(と呼ぶにはあまりにも不穏すぎる話)である。作者の三沢氏は、私と同年代の一九八〇年生まれで、法学研究科修士課程まで修了されているから、主に二〇〇〇年代に大学生活を過ごされたはずだ。

この印象的な本のタイトルには、刑法の講義内容が関係していることが、本書を読み進めれば明らかになってくる。こちらも、法学部で学んだ人ならではの叙述が随所に散りばめられており、たとえば、戦前生まれの学問である法制史は、メジャーな民法や刑法ほどの知名度はなく、かといって新たに生まれた他分野のように注目を集めるものでもなく、いわば「エリートの長男」と、「二枚目の三男」に挟まれ、その「影に隠れるようにしている次男坊」のような学問だ、といった指摘などは、割と同じような境遇にある日本政治外交史という分野を担当している「次男坊」(私には三歳違いの兄と弟がいる)としては、クスッと笑ってしまう鋭さがあった。

ただ、この本についても、その「ゼミ」の描かれ方がやはり気になった。新潟の良家に生まれた担当教授は、長野に立派な別荘を有しており、10 名のゼミ生の中には、彼とただならぬ関係性を帯びた者も登場する。ミステリー小説に、リアリズムを求めすぎるのは筋違いだと重々承知しているが、それにしても、東京圏の有名私大であっても、あまり聞いたことがないような華麗な舞台設定が、『砂漠』とは対照的で、かえって心に残ったのである。

令和の学生像を求めて

本学部での教歴も十五年近くなり、「ゼミ」履修を必須としていない教育体系であるからこそ、「自主ゼミ」という学生団体が基本的な学習組織となる本学部の姿について、今ではよく理解しているつもりである。実際には、魅力的な「ゼミ」が毎年多数開講されており、そこでの交流を一生の財産にしている卒業生が数多く存在していることも、段々とわかってきた。それでも、文学作品あるいはテレビドラマにおいて、東北大学法学部での「ゼミ」の魅力が伝わるような描写にあらためて出会ってみたいという思いを、依然として消すことができない。それは、むしろ授業を提供する我々教員一人一人が、いま一度、頭の片隅で考えてみてもよいことなのかもしれない。

ところが、以上の思いを、今の学部生たちと話しても、さらにまた世代間ギャップを感じることが最近多い気がする。コロナ禍によって、「自主ゼミ」の対面活動も大きな制約を受け、特に二〇二〇年度と二〇二一年度の二年間で、それまで継承されてきた上級生から下級生への暗黙知が、どこでも一度、途絶えてしまった。そして、その復元過程において、平成期の学生生活とは異なるスタイルが、新たに形成されているように思えてならない。毎年の期末試験の受験者数一覧を見比べていると、学部全体での履修登録者数が減っている印象を拭えないし、インターンという名の就職活動の隆盛に伴い、進路選択の締切が前よりもさらに早期化している。三年生になると、そもそも大学内で友人知人の顔を見なくなっている、との声すら学生たちから時折耳にする。室井慎次氏も、『砂漠』の登場人物たちも、令和の法学部生たちからは、ずいぶんと遠い存在になっていると痛感させられることが、最近あまりに多いのである。

二〇二六年三月末を持って、東日本大震災における地震・津波被災地域は、十五年間の復興期間を満了することになる。もちろん原子力被災地域の復興はまだまだ道半ばであり、東北大学としてその関わりはこれからも続いていくが、少なくとも川内キャンパスや仙台市内については、これが大きな一つの区切りになることは明らかだろう。余震の冷めやらぬ二〇一一年に『砂漠』を引用して始まった私の教歴も、まだまだ道半ばであり、十五年経過後の二〇二六年には、次なる若者たちとの出会いを求めて、また新たな授業に取り組んでいく所存である。

令和の東北大学法学部生たちは、一体どのような存在として、後世において表現されていくのであろうか。それもまた今からの楽しみの一つである。

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