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ジェンダー法・政策研究叢書第10巻
『ジェンダーの基礎理論と法』(辻村みよ子編)
はしがき
本書『ジェンダーの基礎理論と法』(東北大学21世紀COEジェンダー・法政策研究叢書第10巻)は,研究叢書全12巻のうちの第3巻(辻村・山元編『ジェンダー法学・政治学の可能性』2005年)とともに,総論的研究を扱っている。本COEプログラム拠点は,法学・政治学を中心に,社会学・教育学・生物学等の諸分野を広くカバーしつつ既存の学問体系を再編成し,「ジェンダー法・政策」研究という新たな学問分野を確立することを目的としてきた。そのため6つのクラスターと3つの部門からなる研究体制をとってきたが(「刊行のことば」参照),本書は,そのうち「基礎研究部門」の研究成果である。
同時に,本書は,COE中間評価における貴重な評価コメントに応える意味ももっている。すなわち,21世紀COEプログラム委員会の中間評価コメント(2005年)では,これまでの「極めて活発・旺盛な活動」,「研究の社会的・制度的・実践的条件整備(第1段階)」について高く評価した上で,「他学問領域の角度も取り入れて理論武装し,知的基盤を築くという第2段階への橋渡し」や「法・政策・実証のもととなるアプローチの手法」について今後の課題が指摘された。そこでは,さらにネットワークを広げながら「プログラム全体に流れる理論の構築(第2段階)」や「政策的提言(第3段階)」にむけて努力することの必要性が指摘され,昨今のいわゆるバックラッシュにも対応できるような基礎理論の構築に期待が寄せられていた。これらは,本拠点が試みてきた新しい研究分野構築の意義や活動内容を十分に咀嚼した上での,極めて正鵠を得た指摘であると思われた。そして,その後の活動,とりわけ自然科学分野との連携や,「理論と政策の架橋」を目指した大規模な国際シンポジウムの開催(2007年7月末開催,内容は本叢書第11巻に掲載予定),および,政策提言(本叢書第12巻に掲載予定)に向けて,「研究のウイングを拡げつつ」着実に歩を進めるために,確かな目標を与えるものであった。
そこで本研究拠点では,日本学術会議「学術とジェンダー」委員会(江原由美子委員長)等,内外の多くの研究組織・団体と連携して活動し,日本学術会議の公開講演会「身体・性差・ジェンダー──生物学とジェンダー学の対話」(2006年7月8日)およびシンポジウム「ジェンダー視点が拓く学術と社会の未来」(同年10月30日)などを後援した。これらの機会に,まさに各分野の最高峰の研究者との交流を通して,ジェンダー学・フェミニズム論・社会学・歴史学・生物学・進化論・医学・体育学・農学・工学・社会政策学・経済学等の広範な視点から今日のジェンダー問題を学際的に検討することができた。
とくに生物学的性差(セックス)と社会的・文化的性差(ジェンダー)との関係について,生物学・医学・体育学とジェンダー学等との間ではじめて直接に議論が交わされた上記公開講演会は,ジェンダー視点にたった学際的研究の重要性と課題が明らかにされた点で,きわめて有意義であった(詳細は,日本学術会議『学術の動向』2006年11月号特集参照)。昨今のバックラッシュと呼ばれる現象のもとでは,生物学的性差(セックス)を理由に「女らしさ」「男らしさ」などの固定観念やステレオタイプを導き出し,「ジェンダー・フリー」の語をあたかも性差を否定するものであるかのように誤解ないし曲解したうえで,この用法のみならずジェンダー研究自体をも攻撃しようとする傾向がある。そこで,上記委員会では,ジェンダーの視点が学問や社会にとっていかに重要であるかを検討し,提言するため,対外報告書を公表した(日本学術会議「学術とジェンダー」委員会の対外報告『提言:ジェンダー視点が拓く学術と社会の未来』2006年11月22日,http://www.scj.go.jp/ja/info/iinkai/gender/index.htmlを参照)。
本書では,第一部に,このような性差──ジェンダーとセックス──をめぐる学際的研究の成果を収録した。ここでは,まず,ジェンダー概念の意味や有効性を明確にするため,社会学の立場から,日本におけるジェンダー研究の第一人者である江原由美子教授と上野千鶴子教授に,それぞれ「ジェンダー概念の有効性」と「ジェンダー概念の意義と効果」について寄稿して頂いた。これによって,1970年代から広く採用されるようになったジェンダーという概念が,なぜ必要とされたのか,いかなる有効性があるか,が明らかにされた。また,ジェンダーの概念にも,性自認,性心理,性役割,性的指向等の異なる水準があり,多義的なものであることも明快に論じられた。同時に,ジェンダー概念の導入によって,一見中立的・客観的に見えるさまざまな領域のなかにも隠されたジェンダー・バイアスがあることを批判的に検討するためのジェンダー研究の意義が強調された。
さらに第一部では,上記公開講演会におけるジェンダー学と生物学との対話をふまえて,進化論研究の長谷川眞理子教授に「進化生物学とジェンダー」,生物学の束村博子准教授に「セックスとジェンダー,そして男女共同参画」,スポーツ科学・体育学の観点から井谷惠子教授に「スポーツする身体とジェンダー」について執筆して頂いた。ほかに,本COEプログラム事業推進担当者の研究成果として元東北大学医学研究科和田裕子講師他による「遺伝子と性差」,健康政策専攻の坪野吉孝教授・大森芳氏の「女性と高齢者介護問題に関する疫学的アプローチ」を掲載した。
これらによって,生物学における性(セックス)とは有性生殖を行なうすべての生物にみられる「雄性と雌性の生物学的特徴」であり,外部生殖器や内部生殖器などが「それぞれの性に特徴的なかたち」へと発達し,「脳もまたホルモンの影響などを受けつつ,性に関するアイデンティティを形成していく」ものであることが明らかにされた。しかしこれらの生物学的性差は,殆どの場合平均値としての違いであり,人間としての価値を規定するものではないこと,脳の機能的な性差やジェンダー・アイデンティティと外見的性との間の不一致も,人としての価値にとって何らマイナス要因となるものではないことが主張された(束村論文参照)。長谷川教授は「男と女の間には,生物学的な性差が存在する」ことから,「だから男と女は異なる扱いを受けて当然である」などの価値判断を導く議論(従来の特性論や性別役割分業論)を,「自然主義の誤謬」と断罪した上でヒトの性差について論及している(長谷川論文参照)。また,スポーツ科学の研究成果でも,「男女の筋肉量の違いや体格の差などによって性別二分カテゴリーが維持されたが,スポーツの世界でもジェンダー解体の契機が内在している」ことが明らかにされた(井谷論文参照)。実際には,性差医療や介護の面で,生物学的性差に基づく対処が求められる場面が多いが,これらも厳密に検討してみると社会的なジェンダー・バイアスや性別役割分業論に由来するものが多く,ジェンダー視点に立った研究がいっそう必要であることが示されたといえる。
本書第二部では,おもに歴史学と人権論・フェミニズム論・思想史研究の視点から,女性の地位・権利やフェミニズム思想の展開を検討した。フェミニズムという用語は19世紀末から20世紀初頭にかけて使用されるようになったが,これを女性解放のための思想ないし実践活動のように広く捉える場合には,その起源を近代以前に遡ることも不可能ではない。実際に,前近代から男女平等思想は存在したが,近代人権論に対する批判論として,18世紀末にオランプ・ドゥ・グージュやメアリ・ウルストンクラフトによる女性の人権論が登場し,これがフェミニズムの萌芽となった。さらに19世紀後半以降の女性参政権運動と結びついていわゆる第一波フェミニズムが確立された後,1960年代後半以降の第二波フェミニズムのなかでジェンダー概念が発見され採用された。その後は,生物学的性差といわれてきたものにも社会的性差による偏見等が存在することが指摘され,ジェンダーとセックスの二分論にも異論が出現して,いわゆるポスト・フェミニズム(ないし第三波フェミニズム)の潮流のなかで多様な議論が形成されてきた(もっとも,第一波という呼称は,本書の竹村論文にもあるように,第二波フェミニズムを中心にして「遡及的,便宜的に付けられた」ものにすぎない)。
そこで第二部では,古代における女性の地位,近代における女性の権利論とフェミニズムの萌芽,現代フェミニズムの起点としてのボーヴォワール,さらに第二波フェミニズムにおける公私二元論批判,その後のポスト・フェミニズムの理論展開,のように歴史の各段階を追いつつ,そのなかで,女性という性(セックス/ジェンダー)がどのように扱われてきたかを明らかにした。ジェンダーの語が第二波フェミニズム以降のものであり,かつ,思想史的展開をみる場合には,「イズム」の問題とする限りジェンダーの語でなくフェミニズムの語を用いる方が適切である(竹村論文参照)こともふまえて,第二部ではジェンダーとフェミニズムの関係,とくに女性の権利論とフェミニズムの歴史的・思想史的展開を検討することにした。
ここでは,まず,歴史学専攻の桜井万里子名誉教授の「古代ギリシアにおける家(オイコス)の継承」において,「市民身分の女に市民予備軍である正嫡の子を産ませる」ことによって存続してきた家父長制の成立条件と意義,およびオイコスの継承のために母系親族が果たした役割などが明らかにされた。ついで,近代市民革命期にフランス人権宣言を批判して1791年に初めて女性の権利宣言を著したオランプ・ドゥ・グージュを取りあげた。これは,本COEが主催した「オランプ・ドゥ・グージュ研究の新地平」と題するシンポジウムの成果でもある(日仏女性研究学会と共催で2006年11月13日に東京日仏会館で開いたシンポジウムでは,フランスの社会学者クリスチーヌ・フォーレ氏のほか文学・演劇論等の専門的研究者の貴重な報告が得られた。これらの内容は,COE研究年報(和文・欧文)各第4号を参照されたい)。また,同時期にイギリスで『女性の権利の擁護』を執筆したメアリ・ウルストンクラフトについて,梅垣千尋専任講師に「メアリ・ウルストンクラフトと女性の人権」と題して寄稿して頂き,近代の普遍的人権と女性の権利の関係について考察を深めた。
さらに,20世紀中葉に『第二の性』(1949年)などを発表して現代フランスフェミニズムの基礎を築いたシモーヌ・ド・ボーヴォワールの今日的意義について,井上たか子名誉教授に解明して頂いた。これは本COEが後援した「ボーヴォワール100周年記念シンポジウム」(日仏女性研究学会主催)の成果でもあるが,「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」と表現して「ジェンダー概念の先駆」(井上論文参照)をなしたボーヴォワールの位置づけは,本書にとってもきわめて重要なものである。
ついで,英米の現代フェミニズムについて,第二波フェミニズムの特徴である「公私二元論批判」に関する政治学・思想史研究の成果として,田村哲樹准教授の「公/私区分の再定義」を掲載した。ここでは,キャロル・ペイトマンら多くのフェミニストが公/私区分を完全に解体しようとしたわけではないことを明らかにしつつ,「政治」を「公的営みとしての政治」として規定することなどによって公/私区分を領域横断的に理解すべきことが主張された。
また,第二波フェミニズム以降の新たな展開(ポスト・フェミニズムないし第三波フェミニズム)については,この研究の第一人者である竹村和子教授に「フェミニズムの思想を稼働しつづけるもの」と題して寄稿して頂いた。ここでは,フーコー,バトラー,ラカンらの問題提起とフェミニズムの対応を敷衍しつつ,「言説理論」「精神分析」「マルクス主義」「脱構築」などの理論枠組みに現代フェミニズムが対峙し,「塗り替えて」ゆく可能性が論究され,今後の課題が明らかにされている。
本書第三部では,ジェンダー法学の意義と課題に関する検討の成果を集めた。周知のように,アメリカを中心に1970年代以降キャサリン・マッキノンらによってフェミニズム法学(Feminist Jurisprudence)が確立され,1980年代後半以降,女性のみならず性的マイノリティや性差自体を検討対象とするジェンダー法学研究がさかんとなった。日本でも,2003年末にジェンダー法学会が設立されたため,本COEではたえずこれと連携して活動し,2005年12月に仙台国際センターで開催された第3回学術大会を後援した。
第三部では,日本におけるジェンダー法学の方法論を確立することについて鋭い問題意識をもつジェンダー法学会の理事会メンバーの諸論稿を掲載した。ここでは,上記第一部・第二部の学際的研究の成果をふまえて,ジェンダーの視点を法学研究に活かすべく,法思想・法制史・憲法学・ジェンダー法学の視点から検討を加えた。
まず,岡野八代准教授が「フェミニズムと法・国家論」と題してフェミニズム法学の意義と課題を国家論との関係で明らかにし,消極的国家批判論としてのマッキノンの議論とこれを批判するコーネルの議論を検討した。ついで三成美保教授が「ジェンダー法史学の課題と展望」について,社会科学へのジェンダー視点導入の必要性・重要性を詳細に論じ,とくに近代日本の「家」制度的=天皇制国家型ジェンダー秩序や,現代日本の企業社会型ジェンダー秩序を批判的に解明する必要を明らかにした。ここで,ジェンダー法史学を法史学の一分野として確立するだけでなく,法史学自体をジェンダー化する必要があると指摘されていることは,法学のすべての分野に当てはまるものであろう。この問題提起を受けて,続く拙稿「ジェンダー法学の意義と課題」ではジェンダー法学の具体的諸課題を論じ,ついで中里見博准教授が,憲法学におけるジェンダー研究の意義と課題を論じている。ここでは「公私二元制」を批判するジェンダーの視座,性的自己決定権論の確立や平等論の再検討の必要性のみならず,憲法構造自体のジェンダー構造分析へと議論が展開される。最後に,小島妙子弁護士の「ドメスティック・バイオレンスをめぐる法政策」では,ジェンダー視点を法学に導入する際のもっとも端的な検討課題といえるDV問題を素材に,最近の法政策における「人権アプローチ」の進展と「福祉アプローチ」の停滞という傾向,および自立支援の課題等が明らかにされた。
このように,本書では,各界第一線の研究者の協力を得て,ジェンダー学と生物学,歴史学・人権論とフェミニズム,政治学・法史学とジェンダー法学など領域間の関係を横軸に,歴史的展開を縦軸に設定しつつ,ジェンダー概念の有効性やジェンダー法学の課題を明らかにすることを試みた。本COE拠点では,上記の活動以外にも「両性平等とポジティヴ・アクション」に関するシンポジウムをパリで開催するなど,内外の多くの研究者・研究団体との研究交流を進めるなかで,広範な研究領域にジェンダーに敏感な視点を導入する意義を明らかにすることができたと考えている。(これらのシンポジウム等については,COEニューズレター8‐16号,本COEホームページhttp://www.law.tohoku.ac.jp/gelapocを参照されたい。)なお本書では,各執筆者の専門領域が大きく異なるため,註記方法等にも編集上の不統一がある。御寛恕をお願いしたい。
多くの研究者のご協力と友情とに支えられた本書によって,広範な学術分野においてジェンダー視点導入の意義と重要性が共有されることになれば,これにすぐる喜びはない。今後もジェンダーの基礎理論をふまえた総合的・学際的研究が進展し,そのための研究フォーラムが形成されることを願ってやまない。
ご多忙にも拘らず本書のために多大なご協力を惜しまれなかったすべての執筆者の皆様に,心からお礼を申し上げる次第である。また,編集に際してお世話になった東北大学出版会編集委員会ならびに査読委員の皆様,本巻編集協力者の坪野吉孝教授と上野友也・竹田香織日本学術振興会特別研究員(COE)にも心からお礼を申し上げたい。
2007年7月 辻村みよ子