多様な価値観を認め合える社会へ! バランス感覚で正義を実現する

枝野えだの 幸男ゆきお

1964年生まれ。栃木県宇都宮市出身。1987年東北大学法学部卒業。弁護士。1993年に旧埼玉5区から衆議院議員初当選。民主党幹事長、政策調査会長、憲法調査会長などを務める。民主党政権では、内閣官房長官、経済産業大臣、内閣府特命担当大臣(行政刷新、沖縄及び北方対策、原子力損害賠償支援機構)を歴任。2017年に立憲民主党を設立し、2021年まで代表。現在、衆院議員10期目。

政治家を目指して進学 心から楽しんだ学生生活

 政治家になりやすい仕事は何だろうかと考えて、弁護士かジャーナリストになろうと中学生ぐらいからずっと思っていました。司法試験受験生向けの『受験新報』という雑誌を、中学生のときに本屋で立ち読みしていました。

 サークルは無料法律相談所(法相)でした。司法試験を受ける人が多いという話を聞いたので入りました。当時は学部棟の1階にあった控室でたむろし、夕方になると誰かと飲みに行くという生活でした。隣の部屋が模擬裁判実行委員会で、そこにいた同じクラスなどの連中も誘ったりして。無料法律相談所は今も頑張って活動しているみたいですね。

 卒業後も、法相の同期とは年に一回ぐらい会うほど、いまだに深いつながりがあります。模擬裁メンバーや同じクラスの仲間を含めて50人ぐらいは今どこで何をしているか大体わかります。コロナ禍でZoom飲み会をやったときは、海外から参加した人もいました。

 当時でも珍しかった賄い付きの下宿に一人暮らしでしたが、あまり大きいところではなく、下宿のおばさんもときどき手を抜く。500円もらって、「今日はちょっとごめん、ごはん外で食べてきて」みたいなことも結構ありました。

憲法は国会議員になるまでよくわからなかった(笑)

 ゼミは3年で刑法、4年で憲法を取りました。憲法だけは当時よくわからなかったような感じで、国会議員になってようやく理解できました。民事法は二人の当事者の利害調整をすれば良いし、刑事法は間違いのないように罰を与えるということで、わかりやすいじゃないですか。一方で、公法の世界だと何の利害調整をしているのかよくわからなかったわけです。

 国会の憲法調査会のメンバーになって一年ぐらい経って初めて、憲法というものが何なのかピンときました。「なるほど、我々政治家は憲法によって有権者・主権者から縛られているんだ」と。国会議員という公権力をお預かりしている立場で憲法に携わることでわかりました。ただ、普通の国民としては憲法によって公権力を縛っている意識をなかなか実感する機会はない。民法だったら、例えば、教科書で不法行為が扱われるときのように、ボールで窓ガラスを割っちゃったというような、日常の自分が当事者になれる世界から入っていくわけです。しかし、憲法を通じて公権力を縛っていることなど、主権者としてはなかなか体感できないし、逆に縛られる側になって会得した感じがします。

3.11 津波に飲まれる閖上に学生時代の記憶を重ねる

 東日本大震災のときは東北の土地勘が活かされたと思います。3月11日の夜の時点で「頼むから(合併前の)旧町名で呼んでくれ!」と叫んだんですよ。例えば、南相馬市とか言われてもわからないが、合併前の旧町名なら大体どの辺か知っているし、実際に行ったところも多い。そうでなかったとしても、近くまでは行ったことがあるからどういうところかわかります。あと、岩手は想像以上に広いというような、距離感がわかっていたことも助けになりましたよね。

 津波被害が大きかった三陸にも行ったことがありました。リアス海岸で津波が大変だったけど、実は沿岸のすぐそばは高い崖になっていて、その上には結構道路が通っているから、そこを復旧できれば物資を届けられるはずだといったことは、もともと土地勘があるからこそ言えた話です。

 3月11日の夕方5時前だったと思うけど、上空からの映像が首相官邸の危機管理センターに入ってきて、津波が遡上してくるシーンを見ました。その場にいた職員は誰も読めなかったけど、場所は「閖上」(ゆりあげ)とある。そこで、津波の甚大な被害は三陸だけではないと実感し、初動もだいぶ違ったものになったという自負があります。

 というのも、閖上は大学時代にアルバイトで回ったところだったからです。高校野球の季節に、宮城県営球場以外にも名取など各地の球場で予選が行われて、そこで記者が書いた記事とフィルムを持って支局に届けるというアルバイトです。あと、指定されたところに戸別訪問する対面式の世論調査のアルバイトもしていて、僕の担当地域がたまたま閖上でした。そういう思い出のある閖上が流されている映像は、他人事じゃなく、ものすごくショックでした。

 災害後に被災地を訪れる人はたくさんいますが、災害前を知っているとイメージが全然違います。閖上には毎年3月11日前後に、一種の定点観測として足を運んでいます。町の中心部がほぼ全滅した女川も震災前の姿と比較してしまうし、景色が一変した気仙沼も無料法律相談所の出張相談で行ったところでした。そういったよく知っているところが津波で様変わりしているというギャップを感じて、何とかしなければいけないと心動かされてきました。

日本は「危機管理の司令塔」を求めている

 この国には危機管理の司令塔のシステムがありません。東日本大震災のときは、その司令塔の役割をたまたま属人的に私がやることになりました。菅直人総理(当時)はイメージと違って、実は任せてくれる人なので、全体の指揮は官房長官の枝野に任せた、と言って福島第一原発の対応に集中しました。それと、菅さんは記者会見でよく噛むのですが、国民が不安になるからああいうときは噛んではいけない。だから、記者会見も基本的に私がやります、ということで発信を全部担うことにして、半ば強引に司令塔をやる形になりました。

 外務副大臣の経験がある福山哲郎官房副長官(当時)は、私があまり携わってこなかった国際関係・対外関係を一手に引き受けました。彼は、外交では我が党の中で五本の指に入り、アメリカとのパイプもしっかりあります。官房長官経験者である仙谷由人官房副長官(震災後の3月17日に就任)には、官僚関係、霞が関のマネジメントを全部預けました。当初、元財務大臣の藤井裕久先生が、「社会保障と税の一体改革」の関係で官房副長官を務めていましたが、こんな緊急事態には若い者でないとできないといって身を引いてくれました。こうして、菅さんに任された私が全体を見て、福山さんが対外関係、仙谷さんが霞が関関係、といった形でチームとして対応しやすい官邸の体制が作れました。

 ただ、本来それではまずいです。役所の「縦割り」が全部悪いとは思いませんし、逆に変にちょっかいを出すとかえって混乱させたりします。そうはいっても、緊急事態には「縦割り」があったら手に負えないので、緊急時のシステムというか、司令塔機能をちゃんと用意しておかなければなりません。システムを作るのに時間がかかるのであれば、たとえ属人的にやるとしても、新しい政権ができるたびに、いざというときには誰が何を統括するのかという体制を、常に意識していないと危ないと思いますね。

 阪神淡路大震災の教訓から作られた内閣府防災は、東日本大震災のとき、たいへん頑張って機能したと思っています。でももっと強化しなければならない。それこそ「防災省」にしなければならない。経験者が内閣府の中で防災以外の分野に人事異動されては困るんですよ。それでも今、東日本大震災を中堅で経験した職員はできるだけ他分野には異動させず、頑張ってやってくれているようだけれども。

 僕は若いころは霞が関一括採用論者だったけど、やはり各役所でスペシャリティ(専門性)を高めてもらわなければならないと思うようになりました。局長などになる段階になったら幅広い分野も何らかの形で少し学んでもらえばいいけれども、基本的には各役所でスペシャリストを育てなければいけません。

 内閣府防災は他省からの出向者が多いけれども、国交省などが持っている防災の機能と、官邸が必要とする防災の機能ではだいぶ違います。国交省の所管するようなレベルのことは実は日本は信頼度が高く、東日本大震災のときも道路の復旧が一番早かったし、台風対応でも国交省はよく機能しています。だけど、例えば、経産省は災害対応や緊急対応の経験がなかった役所で、危機管理のシステムも日常的に作られていないという状況で、物流やガソリンの供給などで影響が出ました。こうしたところも全体的に目配りするのが官邸と内閣府防災の役割です。

ボランティアには感謝 一方でソフト支援の問題も

 日本のボランティアの黎明期は阪神淡路大震災です。そこで初めてボランティアが広く皆の目に触れるようになったんですよね。社会貢献が一般に認められる形としてNPO法が必要だと、我が党などはもともと言っていましたが、奇しくも同じタイミングで自民党の加藤紘一さんも言い出したんです。

 東日本大震災では、ボランティアを初めて政府がシステマティックに動員した。悪く言えば「使った」わけです。NPO出身の辻元清美さんを首相補佐官にして、現地に派遣しました。ボランティアの活動によりものすごく助かったのは間違いないです。私の立場からは感謝します。

 ただし、課題も感じました。一つ目は、ボランティアの継続性をどうやって確保するかという問題です。ボランティアの中でも、特に大学生のボランティアで一番有効なのは、コミュニティの再生やソフト面の支援といった長期戦になる場面です。二つ目は、災害直後のハード面は本来ボランティアに依存しないでやらなければいけないのに、ボランティア頼みにしてしまったことです。準備がない中での東日本大震災だから仕方なかったけど、あれが当たり前になったら、それこそ昨年や一昨年の自然災害の際に、新型コロナで県境を越えてボランティアを集めることができなくてすごく困ったでしょ。そういうことが今後も起こりうるし、首都直下型地震が起こったときにどこから誰がボランティアに来るのかということも予想されますよ。

 この二点が東日本大震災後に残された課題ですが、それもボランティア活動が活発になったために可視化されたのかもしれません。

 ソフト面のボランティア活動に関しては、国もそれなりに支援しているつもりだけど、長期戦になった後のボランティアは評価が難しいです。実際には、自治体に財源を渡して活動をセレクトさせないといけないですが、どれぐらい財源を渡すかはシビアな財政論の問題になります。もう一つ、自治体に評価能力があるかという問題も出てきます。ボランティアが活発な自治体では、国が関与しなくてもうまく回ります。一方、ボランティアを入れて地域コミュニティを支えてもらわないとダメになるような町は、自治体にボランティアを活かす能力がなく、そこをどれくらい国でサポートできるのかは結構難題です。

 辻元さんみたいな政治家は重要で、現場を分かっている人が国の権力の内側にいるのはすごく有意義なんですよ。その意味では、我が党でもそういう人間をピックアップして、彼女の後継者を育てているつもりです。

立憲民主党の結成 衆院選での大躍進

 2017年10月2日、一人で記者会見をやって、立憲民主党の立ち上げを表明しました。その前月の民進党代表選で私の代表選の選対を務めた人たちが、ほぼ立憲民主党の立ち上げメンバーでした。ただ、変にその中の何人かで会見するより、単独でやったほうがいいということで、単独での結党会見になったわけです。

 「希望の党」にみんなで参加するのを前原誠司さんが決めた翌日には、私は失敗に終わると確信しました。ただ、新しい党を立ち上げても正直どうなるんだろうと思って、10月2日に記者会見をやった段階では、とにかく立憲に参加した現職だけでも選挙で生き残らないといけないという感覚でした。あれ?と思ったのは、3日の午後に有楽町で行ったゲリラ街宣のときです。私は、有楽町駅前で何回も街頭演説をやっていますが、集まってくる人の熱量が普段と全然違ったんです。都知事選だったかで小沢一郎さんと、志位和夫さん、そして私と三人並んだときに次ぐ人の集まりでした。自分は当選したうえで、たぶん現職に若干のプラスアルファまで勝つんだなあという印象でした。でも実際に結果が出るまで、まさか野党第一党になるとは思いも寄らないことでした。


多数派の獲得と独自の政党カラーのバランスを模索する

 ただ、野党第一党となることが確定した段階で、「仕切り直し」が必要だなあと思いました。立憲民主党に期待をしてくれた声に応えるということと、野党第一党の責任を果たすということは、実は簡単には両立しないとわかっていました。どこでどう仕切り直しをして、両立し難いことを両立させ、その後をどうするか、ということを考えながらの代表四年間でした。

 1994年に小選挙区制度を導入したときには、二つの大きな政治勢力に収斂させて政権を奪い合うというモデルでした。でも、単に政権交代すればいいというアプローチは(民主党への政権交代が実現した)2009年に終わったんです。だけど選挙制度は維持されている。この選挙制度で多数派を取らなければならないので、そのためにはできるだけ幅広い連携が必要です。一方で、ネットの進化が象徴的ですけど、社会状況、時代状況は政治に「エッジを立てる」(他党などと比較して強烈な印象を与えるものを持つ)ことを求めています。幅広い層を糾合することはエッジを立てることと矛盾します。エッジを立てつつ幅広く連携して、各選挙区では一騎打ちの構造に持ち込まなければならない、という時代に2009年以降入っている。その矛盾に対する答えを見つけたときが立憲民主党の仕切り直し、あるいは私の仕切り直しです。

 自民党は安倍晋三さんという特異な能力とキャラクターによって、その矛盾を克服してきました。自民党が与党にいる間は権力という求心力があるので分裂はしないですが、今、公明党まで含めた相当広い幅を抱えながら、政治リーダーとしてエッジを立てることの無理矛盾が噴き出している。安倍さんという重石が取れた瞬間に全部噴き出しているわけです。だけど、幅を持っていないと権力を失うと分かっているから、そこには手をつけない。岸田文雄首相はみんなに気を遣って何もしないことしかできずに、エッジが立たなくなり、支持率が下がるんです。そういう意味では、我々もようやく対等のスタートラインに立ったというところでしょうか。

 幅を抱えながらエッジを立てるという一見矛盾するようなことができなければ、政権を取ってはいけないんです。政治をやってはいけない。世の中の矛盾を調整するのが政治なんです。その矛盾をどうやったら一番効率的に効果的に解決できるかというのが、特にここから5年、10年の日本の政治リーダーに与えられたミッションでしょう。そのミッションに答えを出した上で、いい方向にこの国を持っていかなければならない。そのためには、難しいんだけど、一言でいうと「カリスマ」をつくることが必要なんです。カリスマであれば、エッジを立てていても周りがついてくるんですよ。

 自民党でいえば、安倍さんをカリスマ化することによって政治を回していこうという考えが安倍さんの周辺にはありました。少なくともカリスマの兆しがあったところから、それをうまく活用する、利用するという人たちが一定数周囲にいた。そうした点を、政治の技術という観点の限りで僕は評価しています。政治の中身というか、政策については全く評価しませんが。

 安倍さんの実例が示すように、政治は実に属人的なもので、たぶんシステム化できるようなものではないと思います。そこが政治と行政の違いで、逆に行政は誰がやっても同じ結果を出すような仕組みを作ることが求められます。

永田町の「普通の変な人」でありたい

政治家を目指した当初から、興味は国政、lawmakerでした。弁護士は2年しかやっていないけど、その短い経験からでも、どんな優秀な弁護士がいても、ルール自体が歪んでいたらダメだというのはかなり実感しました。ルールがそれなりにまともなものであるからこそ、それをきちんと運用することで正義が実現される。ルールがダメではどうにもならない。だったらルール自体変えた方が早いじゃないか、と思いました。

 もともと厚生関係に関心がありました。子どものころは小児喘息で体が弱く、親に野口英世記念館に連れて行かれて、大やけどで障害を負っても立派な医学者になったという伝記も読まされました。でも、そういわれると「血を見るのが嫌いだし、厚生大臣になった方がたくさんの人の命が救える」とか生意気なことを返す小学生でしたね。それが原点の一つということもあって、新人議員のころは厚生委員会で薬害エイズの問題に取り組みました。

 民主主義のプロセスは、ある目標を全て達成することは基本的にできないというか、できたこととできなかったことでどちらが多いかという世界です。私は、議員になった最初、一回生のときから薬害エイズがあり、金融再生法や消費者契約法にも一定の影響を与えたと自負しています。東日本大震災時の対応にも様々な評価があると思いますが、あのときは他の誰よりも私がやって良かったと自分では思っています。希望の党騒動でも、あの段階ではベストな選択と行動ができたと思っています。そういう意味では満足しているし、勝ち越していると思います。

 初当選から30年、政治理念としては一貫して、多様な価値を互いに認め合える社会を作りたいと言ってきました。一回生のころからずっと取り組んでいるテーマの一つに「選択的夫婦別姓」があります。

 政治手法という意味では、「バランス感覚」を常に意識しています。何が正義か、何が正解かということを知ること自体は政治家にとって前提条件で、それと現実との折り合いをつけるのが政治だと思っています。

 そして、一番大事なことは「普通」であることです。永田町には、良い変な人、悪い変な人、普通の変な人しかいないので、私は普通の変な人になりたいです。街中で自分の顔写真がベタベタ貼られているのを平気だなんて変な人ですよ、僕は全然自分ではそう思わないけど(笑)。一回生のころから普通のお兄ちゃんでありたい、今は普通のおじさんでありたいという感じです。その意味で、私自身は永田町のアウトサイダーだと思っているので、永田町のインサイダーになってしまっては自分の存在価値がなくなるという一種の恐怖があります。もちろん、他の政治家と一緒に仕事をして、リーダーとして役割を果たそうとすれば、インサイダーにならざるを得ないこともたくさんあるわけですが、ならなくて済む部分はアウトサイダーでいたいという意識です。

 僕は義務的なところ以外では議員バッジを付けない。そうでないところで付けることがあるとすれば葬式に行くときぐらいです。議員バッジは「普通でない」ことが求められている証というか。もう今だと面が割れているので、付けていようがなかろうが一緒だけど。

 政治家になりたいと言いながら、大学時代には全く政治に参加していなかったんですよね。その代わりに、今と違って開票速報が面白かったので、誰かの下宿でみんなで溜まって見るのが常でした。中選挙区制だったし、そこまで出口調査を緻密にやらなかったから、ドラマがあったんですよ。そうして一緒に開票速報を見ていた中の一人が私の地元の秘書になっています。

 特定の政策をめぐって政治行動をするというのはハードルが高くて、その手前のもっと緩やかな政治参加につながるツールがとても減っていると感じます。ネットの書き込みなんかハードルは低いけど、不特定多数で荒れるから、かえって距離を置いてしまう人がたくさんいます。だから、ネットという低いハードルの中で少しクローズドなコミュニティを作り、緩く政治に参加できるような場をもっと作りたいと思っています。

議員事務所とは思えないほど数々の芸能人のサイン

枝野さんが東北大生に聞いてほしい楽曲:欅坂46 8thシングル「黒い羊」


 直近でいうと、乃木坂46の新曲「好きというのはロックだぜ!」は悪くないと思いますね。それからAKB48の最新曲「久しぶりのリップグロス」もいい。これも早く覚えなきゃ(笑)。

 最近カラオケで歌っているのは、あいみょんですね。あとは、YOASOBIの『群青』かな。歌詞が立憲民主党のためみたいな曲なんですよ。だから『群青』は2曲続けて歌ったりします。2曲目は谷村新司の『群青』ですけどね。

学生時代こそ人生で最良の時期

 歳をとって今思うのは、大学時代が人生で一番いい時期だということですね。もちろん体力的にもそうですし、勉強をはじめ何か物事をインプットするにも、頭の回転が速いという点においても最適な時期だと思います。もったいないからどんどん今という時を活かしてほしいですね。歳をとってくると遊ぶ体力さえもなくなってくるから(笑)。

 今後の活躍を祈っています!

聞き手:清水拓(2年)
東泉直宏(4年)
武藤誉仁(公共M1)