東北のさらなる発展を目指して

高橋たかはし 宏明ひろあき

出身 宮城県
東北大学法学部卒業後の1963年に東北電力株式会社に入社。
2005年、同 取締役社長に就任。5年後の2010年に、同 取締役会長に。
現在は同 特別顧問や、日本電気協会会長、東北ILC推進協議会名誉顧問、仙台フィルハーモニー管弦楽団理事長など複数の役職を兼任。
仙台市特別市政功労者章、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ(仏)や、旭日大綬章を受章。

小中学校時代は“仰げば尊し我が師の恩”

 私は小学校までは宮城県白石市、中学以降は仙台で育ちました。私が小学校に入学した昭和22年(1947)から、国語の教科書がひらがなに変わりました。それまでカタカナでした。当時の担任の先生には、小学校4年生、6年生には、全員ビンタを2回貰ったような熱血の先生でした。けれども、日記や作文などを細かく指導してもらいましたし、授業中「次郎物語」(下村湖人)を読んでくれるので、楽しみにしていました。

 中学時代は、応援団長とか卓球部が中心の生活だったので、勉強に遅れをとりました。成績は20番以内ぐらいには入っていないとまずいのですが、50番ぐらいになってしまいました。父には「朝から晩まで卓球ばかり!」と怒られ、どういう訳か、小学校の先生まで呼ばれて叱られていました。(笑)

 また当時の中学校では英作文コンクールというのがあって、各学校の代表2名がそのコンクールに参加して競うわけです。私は代表の一人に選ばれましたが、学校の評判に関わるということで、当時クラス担任だった英語の先生が、私に半年ぐらい特訓して英語を見てくれました。それがもととなったのか、今日まで語学に興味を持ち続けています。小中学校は本当に「仰げば尊し我が師の恩」だったと思います。

 高校時代は、家庭の事情から大学受験に失敗することは許されず、私立大学にも行くことができなかったので、東北大学法学部一本で受験しました。合格の番号が掲示板に張り出されたときは、本当にホッとしました。

 といっても、実は文学部のフランス語学科に行きたかったのです。ただ父から「フランス語では食えないぞ」と言われ、戦後の大変なひもじさを経験した後なので、即文学部は止めとなったわけです。そこでつぶしの利くと言われた、法学部にしました。


激しい学生運動の中 大学で学ぶ

 小中高と皆勤賞だったのですが、大学は休んでもよいのだというムードがありました。特に昭和34年(1959)の入学時から、日米安保条約の改定に対する激しい反対運動が学内でもあって、教室入り口にはバリケードが築かれ、教室に入ることができなかったのです。学生は連日デモに繰り出し、授業を受けるどころではありませんでした。中には吊るし上げられる先生もいました。私はリーダーではありませんでしたが、デモには参加しました。デモに出たのでフランス語の授業を欠席した時、フランス語の先生が前回休んだ分を教えてくれました。

 自分としては、大学生活4年間精一杯の生活をしたつもりです。習っていた範囲の法学の勉強は最大限やりました。おかげで今日まで、会社勤務の中でもいろいろ法律の知識が役立っています。ただ、今でも残念なのは、興味のあった刑法の授業が、総論だけで終わってしまい、各論まで行かなかったことです。また商法や訴訟法などは、社会生活の経験がない中での勉強でしたので、私はダメでした。(笑)

身振りと共に当時を語る高橋さん(右)。秘書室の柳谷泰斗さんも本学OB(左)


法曹ではなく東北電力に就職を決意

 将来自分はどうするかと考えた時、司法試験を受けて、法曹を目指すということも考えました。しかし、日々の生活を安定させることが優先で、大学時代は家庭教師のアルバイトにかなりの時間を費やしました。ですからとても司法試験を受ける準備は出来ませんでした。一方、当時の就活は売手市場で、企業への就職が楽な時代でしたから、Easyな方に行ったとも言えますね。そんな中でも、生まれ育った東北に貢献したいという気持ちがあり、また固い職業というイメージから、東北電力を選びました。親や兄弟と同じ所に住める、というのも大きな理由でした。

 今考えてみると,法学部を出たからと言ってみんなが法曹の仕事に就くことはないと思っています。今はコンプライアンスの時代で、企業の行動は常に法律的な判断が求められます。そのような場で貢献することは現実的ですし、重要なことです。ただそれにしても、もう少し東北大学出身の法曹の方々、行政官が居ても良いのではないか、とは思いますが。


幸運に助けられてきた人生

 私のこれまでの人生は、学校では良い先生に恵まれ、会社では認めてくれる上司がおり、さらに立派な友人が沢山おり、家族も応援してくれ、本当にラッキーの連続だったと思うのです。それでもいろいろな場で転機がありました。二つお話ししたいと思います。

 まず私の人生で最大のエポックは、職業軍人だった父が、昭和21年(1946)に私が5歳の時、ソロモンの戦地から生還(復員)したことです。これが人生最大のラッキーです。戦争では日本人が300万人以上も死んだのですから、軍人は戦死が当たりまえの時です。そして生還した父がその後警察に勤めて、私たちは何とか大学まで出ることができました。しかしもし父が戦死していたら、母の手一つで兄弟3人を育てるのはとても無理だったと思います。恐らく私は全く別の人生を歩んでいただろうと思います。そうした思いもあって、今年夏に、ソロモンの戦いの実録である父の作品『運命の悲劇』を、父没後40年余で刊行しました。

『運命の悲劇』のページをめくる高橋さん。

 二つ目は会社に入社8年目の昭和45年(1970)頃に、初めて渡米した時のことです。その若さで海外出張することは当時異例のことでした。合衆国原子力委員会(USAEC:当時)との2日間の、ウラン濃縮契約交渉でした。1日目が終り、3次会ぐらいのパーティーがお開きになった真夜中午前2時頃です。交渉団長から突然「明日はお前が通訳をやれ」と言われました。一気に酔いが覚めビックリ仰天。徹夜をし、朝食もとらず何とか準備し、役目を果たしました。以降、どんな時も調子に乗り過ぎたり、油断をしてはいけないという、強烈な教訓を得ました。


東北電力の社長として

 東北電力の社長を務めていた時には、電力の安定供給と原子力発電に注力しました。特に原子力ではまず徹底して安全であること。さらに、ウランの調達、核燃料サイクルの確立などが中心で、プルサーマル計画はその一つです。11年前の東京電力福島第一原発事故などで、今皆さんは原子力発電に対し事故がまた起きるのではないかという不安があると思います。その気持は良くわかります。けれども、私の考えでは、今後日本のエネルギー供給は原発なしではやっていけないと思っています。例えば風力発電や太陽光発電などの再生可能エネルギーだと、もちろん良い面がありますが、風が吹かなかったり夜の暗闇だと電気が作れません。だから発電量に波があって、コントロールが難しく、また産業用に使うのは現時点では難しいと思っています。さらに最近はカーボンニュートラルが時代の要請となりました。こういうことをもあわせて考えると、やはり原発なしでは済まないと思います。もちろん安全を守るのが最優先ですが。

 もう一つ社長時代以後に進んだのは電力の自由化ですね。それまでは経済産業省と電力会社の間で電気料金を適正に決めて、皆さんからお金をいただいていました。しかし電力をもっと安くするには競争が必要だということになり、電力の自由化となりました。そして多くの新しい電力会社さんができました。ただ、みなさんは自前では発電所を持っていないので、余っている電気を買い上げてお客さまに売るという経営手法です。ですから国全体で電力が足りなくなると、買い上げ額も高くなり、売り値以上になる(逆ザヤ)ことがあります。そうすると、ペイしなくなります。この頃の電気料金の値上りで、新規参入した電力会社さんはどんどん撤退しています。今は大手の電力会社でさえ、エネルギー価格の高騰を受けて、やむなく値上げしています。世の中が普通の状態での自由化はいいけれども、最近のように発電原価が異常に値上がりした場合に対応できるかな、という問題が生じています。


東北のため 様々なフィールドで奔走!

 私は東北電力社長を交代して、会長、相談役となり、現在、東北電力の特別顧問です。このような役職の中でやって来たことを2~3紹介しましょう。

 まず、東北経済連合会の会長をやりました。その中でも特に頑張ったのは、東北放射光と国際リニアコライダー(ILC)の誘致ですね。そして東北放射光は、その後「ナノテラス」として現在完成目前です。

 もう一つ、国際リニアコライダー(ILC)ですが、これは電子と陽電子を超・高速エネルギーで衝突させ、宇宙の始まり(ビッグバン)から1兆分の1秒後の状態を、再現しようという装置です。これにより、宇宙の真空の本質、時空の構造、質量の起源などを解き明かそうとするものです。これを日本に誘致し、岩手県北上へ建設することを目標に、10年来東北大総長と共に努力して来ました。建設費用は大変高額ですし、技術的にも非常に難しい点があります。が、日本は一番こうした技術が進んでいるらしいです。これを岩手県北上山地に誘致できると、その最先端技術を応用して、岩手だけでなく、東北全体にいろんな産業が広がることになります。国際学術研究都市もできます。ですから、何とか誘致に成功して東北の発展に繋げたいのです。

 それから、東北の観光推進もやりました。各県知事さんとも協力しながら、特に韓国,台湾など海外からのお客様や全世界のクルーズ船の招致を図ったのです。手づるもなしに飛び込みで勧誘したのですが、クルーズ船はかなり反応がありました。何でも動いてみれば成果が出るものだ、と実感したものです。

 私はさらに、仙台フィルハーモニー管弦楽団で理事長をしています。なかなか儲かる仕事ではありませんが、楽団の発展と地域文化の向上に努めています。仙台は「楽都仙台」も標榜しています。方針としては、皆さんが知っている音楽を演奏曲目に必ず取入れて演奏を楽しんでもらう。そして集客を図り、経営の安定に努めています。


個人的なことなど

 少し個人的なことを話しますと、私は勲章を2つ頂いています。

 1つはフランスから、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ章です。

 これは、フランスと原子力協力関係に貢献したということで平成28年(2016)に頂きました。フランス大使館で行われた授与式では、全てフランス語で挨拶して喜ばれました。

レジオン・ドヌール勲章授与式にて(フランス語でスピーチ)

 もう1つは日本の旭日大綬章です。

 これは多年にわたり、電気事業や産業経済の発展、行政運営の円滑化に寄与したということで令和3年(2021)に頂きました。

 授章式では、皆さんを代表して、天皇陛下に御礼のご挨拶をしましたが、とても緊張しました。

親授式が終り皇居を背景に(雨天でした)

 また、会社の男声合唱団に所属して50年になります。今はコロナで練習も制約されていますが、先日は東北日本カナダ協会のクリスマスパーティーで、アトラクションとして10曲ぐらい歌いました。

東北電力ミッターゲッセンコールの一員として合唱する高橋さん(前列左端)

 さらに、長年ラジオで英会話とフランス語講座を学んでいます。それ程難しくもなく、気楽に楽しんでいます。ただラジオの時間帯は朝早いので、少しきついとは感じます。フランス語は個人レッスンも受けています。


先輩としてのメッセージ

 80歳も過ぎましたので、僭越ながらこれまでの人生を振返って、思うことを2つほど申し上げます。

 一つは、学問はその時々に良く学ぶことですね。大学での授業は、その時は分らなくとも深い意味があるものです。必ず将来役に立ちます。

 もう一つは、いくら優秀な人でも、1人の人間の知識経験には限りがあり、独善に陥ると大きな間違いを起こします。常に他の人の考えや意見を聞き、謙虚にそれを取入れようとする姿勢が大切だと思っています。


インタビュー御礼のネクタイを手に笑顔

聞き手:吉田縁(3年)
    鈴木刀磨(4年)