自然体で、自分が本当にやりたいことを追求しよう

あら ただし

弁護士(荒総合法律事務所)・日本弁護士連合会(日弁連)前会長
東北大学法学部S54年卒
1982年に弁護士登録、仙台弁護士会へ入会
日弁連の消費者問題対策委員会副委員長などを歴任し、2012年に日弁連事務総長に就任
2020年に東京弁護士会・第一東京弁護士会・第二東京弁護士会・大阪弁護士会以外からは34年ぶり2人目となる日弁連会長に就任した

課外活動に全力投球の中高時代、土壇場で志した法学の道

 私の通った中学校は、相馬市内の五つの学校の統合で生まれた、開校10年目くらいの新しいところでした。街中や海の方、山の方からいろんな人が通っていたから、同じ地域の人ばかり集まる環境よりも刺激的でしたね。そこで3年間、野球三昧の日々を送っていました。私はキャプテンを務めていたんですが、野球部は当時やっぱり花形で。他校との定期戦があれば、全校生徒が球場に駆けつけて応援していましたね。それともう一つ、私は足が速かったから陸上の選手にもなっていました。一時期は市内の中学校で最速の選手でした。あの時代は私の絶頂期と言ってもいいですね。(笑)

キャプテンを務め、学校創立以来初の県大会出場を果たす

 この頃、理数科が全国にでき始めて、福島県では安積高校と会津高校、相馬高校に作られました。真新しい相馬高校理数科の第二期生になった私は、漠然と理科系に進むんだろうと思っていましたね。それから、一年生の頃は陸上部に所属しました。さらに学業との両立など色々悩んで、生徒会活動に切り替えて三年間続けました。一年生で副会長に就任して、制服・制帽の廃止を目指した臨時集会を開いたりしました。先生方には相手にされませんでしたが...。バンカラ気質の、旧制中学校の気風が残っている高校生活でしたね。

 高校三年生の秋頃までは、理数科の環境だったり先輩の影響もあって、東北大学の応用物理学科に進みたいと考えていました。やっぱり相馬から見た仙台は大都会で、そこにある旧帝国大学といえば憧れでした。ところが勉強する中で、受験に必須の物理が苦手になってしまったんです。そこで思い切って文系に転身しようと決めたのが、三年生の二学期。志望先は東北大学の法学部にしました。法律はあらゆるところに開かれていて、将来さまざまな分野に挑戦できる。こんな考えが決め手でした。そして幸い、翌年の受験に合格できたんです。

大学生活で広がった交友の輪、一生ものの財産に

 昭和48年。私が入学した当時の東北大学は、本当に自由な雰囲気でした。勉強より遊びに打ち込む人ばかり。学生運動もまだ盛んな時期で、辺りを見れば色とりどりのヘルメットが交錯していたり、デモが行われていたり。一年生の時点で進路を考える人なんていませんでしたよ。先輩も友人も、大学とはまず第一に自分の幅を広げる場所だと語っていましたね。

 そんな環境で、私はとにかく人と話しました。いろんな内容です。哲学の話だったり、映画の話だったり。肩ひじ張って大人びた会話をするんです。

 私を含め、地方から来た学生というのは、入学直後に疎外感を味わったものです。仙台の高校から大勢入ってきてグループを作っている学生たちに、当初は戸惑いました。でも、彼らだって、こちらと関わって刺激を受けたいわけです。だから、徐々に固まりがばらけていって。一年、二年で学部の仲間との付き合いが広がっていくのがすごく嬉しかった。

 卒業後に10人前後で北杜会(ほくとかい)という集まりを作ったけれど、いまもその付き合いは続いています。そういう一生の友人が出来たことが大きな財産。大学は学ぶ場所だけれど、まずは人間関係を確立したり、高めたりするところだと、後になって感じましたね。

相馬の浜辺で語り合った法学部の友人(写真右)。今も交友関係は続く

自分らしい生き方の発見、退路を断ち挑んだ司法試験

 大学の交友関係を通じて得たのは、自分らしく、自然体で生きていいんだという実感でした。真面目なキャプテン、真面目な生徒会役員で過ごしていた中学・高校時代は、いわば自分のカラーが出ていない状態。飾らない自分へと変われたのは、やっぱり人と人とのつながりやその楽しさを味わった大学での経験のおかげですね。本当の自分とは一体何か、問い直すきっかけになりました。その上で、私は自分が何になるべきかまだ分からなかったし、そのままの調子で大学に通い続けていました。

 当時の法学部は素晴らしい教授陣に恵まれていたんですが、どの講義も私には非常に難解で。どうしても眠くなってしまうから困っていましたね。(笑)そんな中、三年生の頃に私が出会ったのは、藤田宙靖先生の行政法のゼミでした。当時の藤田先生は学生に比較的近い年代で、話す内容も分かりやすいのでほっとしたのを覚えています。特に印象深いのは「説明概念と道具概念」の話です。単に説明するだけじゃなく、そうして作られた定義が行為規範や判断基準として機能してこそ学問的な意味がある。この理論に興味をひかれました。今でも頭の中に残っている重要な概念です。

 四年生になって、周りが就職活動をしている姿を見た時、正直もったいないなと感じました。とにかくいろんな業界を受けて、内定をもらったところに行くと聞いて、本当にしたいことは何なのだろうかと。私は一年留年して、自分の進路を決める考えでした。そんな私が司法試験を視野に入れたのは、四年生の秋頃のことです。周りが次々と就職を決める中、試験勉強を始めました。

 留年一年目には、企業に勤めながら司法試験を受けるのも一つの選択肢じゃないかと考え、民間企業の就職活動も同時に進めました。ある意味で中途半端な状態です。その年の秋、慶応大の司法試験の合格者が講師を務めていた勉強会に参加しました。そこで講師の方に言われたのは、「司法試験は片手間では絶対に受からない」ということ。「(当時)500人しか受からないわけだから、全精力をかけてようやく受かるかどうか」の試験だと。そこで私は企業の内定を辞退し、司法試験一本に絞ろうと決めました。

 結局、留年は二回、大学には六年間在籍しました。留年二年目の3月に卒業して、その年の秋に司法試験に合格。2年間本気の勉強を積み重ねて、やっとのことでした。

歩み出した弁護士のキャリア、吹き荒れる多重債務問題

 司法修習生になってからは、弁護士と裁判官の二つで迷っていました。当時は修習が二年間だったから、まずは色々見て、経験してみようと考えましたね。最終的には、一つの場所に拠点を置いて、民事・刑事含めた幅広い分野の仕事がしたいと思い弁護士を選びました。

 若手の頃、昭和50年代から60年代にかけては、消費者金融やクレジット会社に対する多重債務問題が吹き荒れていました。ここでの被害者支援の経験は、のちの日弁連の消費者問題対策委員会での活動にも生かすことができました。仙台弁護士会の仲間と協働して、さまざまな悪徳商法に対する対策を講じてきました。こうした活動を経て、人権感覚というものを学べたようにも感じています。

震災、コロナ禍、数々の難局を経て果たした会長の責務

 私は平成24年に日弁連の事務総長となりましたが、その前年に発生したのが東日本大震災でした。被災者支援の取り組みや現地での活動経験を、その後の日弁連の運営に生かしていく、そういった意味合いでの就任だったように思います。言葉を選ばず言えば、事務総長はすべてを仕切る『権力者』です。一方では国会議員や各省庁官僚と協議したり、他方では予算・決算・人事・労務など重要な意思決定に関わったり。日弁連の活動全てを見られるわけです。だからこそ、私はこの経験を通じて日弁連の役割の重要性を思い知りました。政党や国会議員に一定の影響力を持っているのは確かだし、官僚も裁判官も私たちの意見書を見ています。完全な自治権をもつ日弁連という存在。その重みが骨身に染みましたね。

 事務総長の仕事をやり切った後、平成以降は東京、大阪の弁護士会のみから選出されてきた日弁連の会長に立候補することを決めました。組織の活性化のためには、地方から積極的に手を挙げなければならない。そんな思いで再投票にも辛うじて勝利し、令和2年より会長を務めるに至りました。その直後、私たちを襲ったのが新型コロナウイルスです。緊急事態宣言の発令で、組織の活動は両手両足を縛られた状態となりました。ですが先の見えない状況というのは、東日本大震災の時も同じでした。当時の経験を踏まえ、コロナウイルス対策や支援活動を真っ先に行いながら、検察官の定年延長問題や少年法改正に関わる事案など、さまざまな仕事に着手してきました。自然体で物事を捉え、自分がおかしいと思ったものに対して働きかける。学生時代に培った感覚が、こうした仕事に生かされたのだと思います。コロナ禍で東京にいる時間も長かったですが、この状況を生かして訴訟のIT化に関する議論を深めたり、やれることはやり切ったという実感ですね。

他者を救い、自己の可能性を拓く「魔法のバッジ」

 いま私が関心を向けているのは、この胸につけている弁護士バッジです。男女ともに使えるよう、従来のネジ留め式からピン留め式へ変更しました。来年の司法修習生から一律で仕組みが変わるようになります。

 私にとって、弁護士バッジは『魔法のバッジ』です。これを身につけて、弁護士として他者を救済したり、自分のしたいことを対外的に実現したり。こんなに素晴らしいバッジは他にありません。このことを若い皆さんに伝えていかなければと思います。それに私自身も、まだまだチャレンジし続けたいと思っていますよ。例えば、罪に問われた障害者や薬物依存症の人の再犯を防ぎ、地域で受け皿をつくる支援活動です。司法と福祉の連携を強めて、地域社会をつくり変えていくきっかけにしたいですね。

『魔法のバッジ』を胸に、荒氏の挑戦はまだまだ続く

学生時代、真に進むべき道を決するのはあなた自身

 せっかく歴史と伝統のある旧帝国大学に進学したからには、自分の進むべき道を見つけ出して、それからしっかり努力してほしいと思います。学生時代は、自分が本当にやりたいことを考える時期であり、それを選び取る時期だと思います。これをやるのは、皆さん一人一人です。これからも、自分自身の将来について一生懸命考えていってください。

荒総合法律事務所にて記念写真。松尾大弁護士(右端)も本学OB


聞き手:高野 篤郎(4年)
藤田和郁見(3年)