負けん気と好奇心をエンジンに みやぎの魅力を全国に届けます

熊谷くまがい 望那もな

東北放送アナウンサー
東北大学法学部2016年卒
2014年に「せんだい・杜の都親善大使」を務める。
2016年に東北放送に入社。
「サンドのぼんやり〜ぬTV」(2018〜)
「サタデーウォッチン」(2019〜)
「Nスタみやぎ」(2022年〜)など、東北放送の代表的なコーナーからラジオ放送まで、幅広く活躍する。
2018年  東北大学111周年ホームカミングデー記念祭司会
2021年  第2回東北大学材料科学ウェビナーMC

腕を脱臼!?わんぱくな子供時代

 小学生の頃は本当にわんぱくな子供で、外遊びばかりしていました。私の生まれた岩手県の二戸市は、小学校の一学年に13人しかいないような田舎でした。習い事や塾に行っている子がそもそもいなかったので、学校が終わったら外で遊び、家に帰ったら祖父母と遊ぶという日々を送っていました。典型的な、わんぱくな子ですよ。ほぼ毎回私が仕掛けるのですが、2歳上の姉ともよく喧嘩をしていて、テレビのリモコンの奪い合いになって、腕を脱臼したこともありました。他にも、廊下で転んだり、鉄棒で怪我したりした傷が、20年以上経った今も残っています。

楽しい世界を夢見て進学、出会ったのはスパルタ恩師

 小学5年生のときに、県南の一関市というところに転校しました。そういう経験から、その場その場で新しくできるお友達や人との出会いというのが、すごく好きなほうだったと思います。

 私が中学生のときに、姉が盛岡一高に進学しました。すると、どちらかというと大人しかった姉が、すごく面白い高校だと言って、生き生きと輝き始めたんです。それを聞いて、もっと楽しい世界があるんだろうな、姉についていきたいなと思いました。中学校のメンバーと同じ環境にいるのもいいけれど、盛岡一高に行ったら、岩手県じゅうから集まった面白い人と会えるかもしれないと思って。学力うんぬんよりも、いろんな人と出会ってみたいという好奇心で盛岡一高を受験しました。

 盛岡一高に進学して、その後の人生に大きく影響を与える恩師と出会いました。担任の、数学のT先生。その先生が本当にもう、スパルタだったんですよ。「盛岡一高に来たからには、とにかく上を目指してもがきなさい、人生かかってるからな!」「何が何でもやり遂げろ!」みたいな。私は当時、数学が苦手で、授業前にT先生の足音が聞こえただけでお腹が痛くなっていたぐらいでした。

 そんなT先生の影響で、高校時代は人生で一番勉強をしました。中学までは部活や運動に明け暮れていて、勉強に苦しむことはあまりなかったのですが、いざ高校に入ると出会ったことがないような天才や秀才がいっぱいいるんですね。1年生の時のテストで3桁の順位をとって、上には上がいるということを痛感しました。私は先生に質問しては、問題が解けない自分が悔しくて、時には人目もはばからず職員室で泣き、ある日「皆についていけないし、多分もともとが違うから無理です」って弱音を吐いたんです。でもそこでT先生は弱音を許さなくて、「できないんじゃないの、やってないだけなの」と。それで、もともと私が持っていた「負けたくない」というワンパク精神に火がつきました。そこからは必死に食らいつき、ある意味ガリ勉ライフを謳歌していました。頑張れたのはT先生の熱いパッションと、向上心に溢れた同級生に引き上げられたからだと感じます。

 T先生は、来るもの拒まず去る者追わずといったスタイル。努力を放棄した生徒には余計な口出しはせず、ガッツのある生徒には愛を持って接していて、私は「社会ってそんなもんなんだろうな」と感じました。「努力しようと思った人だけに、掴みとれる何かがあるんだろうな」と。それがモットーとして染みついて、今の私を形作っていると思います。T先生には感謝しかありませんし、卒業後も会いに行くほど、今となっては仲良しです(笑)。

法学部って一番かっこいいよね

 スパルタT先生と進路相談をしたら、「熊谷は東京に行ったら埋もれるかもしれない、でも東北だったらどうだろうね」なんてことを言われました。実は東京に憧れもあったのですが、T先生の言葉を鵜呑みにしました。センター試験の点数とも相談して、東北大学を受験しようと。学部の選択には願書提出期日まで悩みましたが、法学部が一番カッコイイと思って法学部にしました。法律を知っていれば生きていく上で武器になると思ったし、法学部で得られる人脈にも興味があったので。すごく単純ですよね(笑)。

 弁護士などの法律関係の仕事を漠然とかっこいいと思っていましたが、法曹への道は早々と方向転換することに。教科書の内容と量に圧倒されてしまったからというのと、法律の道に進むことができる人は、ひとつのことを深く勉強できる人だと思ったからです。私は、ひとつのことに集中するというよりは、色々なことを広く浅く勉強したいタイプでした。だから、法律の道もいいけれど、もっと視野を広めてもいいかもしれないと思って。周りの友人たちも個性的でおもしろい人が多く、我が道を自由に楽しんでいて、とにかく今目の前に広がっている世界はとてつもなく広いんだ!と刺激を受けました。ネガティブな断念というよりは、ポジティブに他の道も探してみようという形でした。

 とはいえ、法律を学ぶのは楽しかったです。法律って、法学部に入らないと、そこまで身近ではないじゃないですか。でも、法学部に入ったら、民法とか刑法とか、日々のニュースが自分目線で見られて面白くなってきました。一時期は裁判傍聴にもハマって通っていましたね。学んだことを人に話せたり、実生活にすぐに役立つ知識も多かったりして、いろんな武器を持てているなという喜びを感じました。

 印象に残っているゼミは、4年生のときの遠藤聡太先生(現在は早稲田大学・法学学術院)の刑法ゼミです。卒業に必要な単位は3年生のうちに取り終わっていたのですが、もう一歩勉強したいという気持ちが芽生えまして。刑法ゼミに入ってみたら、私以外はみんな法曹(ほうそう:法律を扱う専門職)を目指すロースクール生だったんです。私だけが大学院に行かずに就職が決まっていたので、自己紹介のときにも困惑されました。

「同じほうそう業界ですとか言いながら…」
笑いを取る熊谷アナウンサー

 みんなロースクール生だから、案の定ゼミのレベルについていけないんですよ。初回の授業の後で遠藤先生に「場違いでした、私、このゼミおります」とメールを送ったのですが、「せっかくだからちょっと頑張ってみましょう」と返されて、1セメスター頑張ってみることにしました。それは、卒業要件なんて関係なく、ただ純粋に、法律に浸る時間でした。苦しかったけれど、ロースクールに行くような仲間たちとディスカッションをしたり、ゼロからテキストを見て一生懸命に考えたりした時間は、すごく貴重なものでした。どんどんのめり込んでいって、刑法ゼミが終わるころには、「やっぱりこっちの法曹業界に行ってもよかったかな」って思っちゃいました。知れば知るほど楽しい法律の世界だったことに、4年生になってから気がついた感じです。

 サークルは10個くらい転々としました。テニスサークルだったり、マジックサークルだったり…。せっかくなら、法学部以外の色々な人と出会いたかったから、あえて理系の人が多い全学のサークルに入ったりしていました。

学部生時代の熊谷望那さん
(当時の法学部ウェブサイトより)

杜の都親善大使に アナウンサーという職業と出会う

 2年生から3年生にかけての春休みに、フィリピンに留学したんです。アルバイト代しか資金がなかったので、その予算内で行けるところを自力で調べて、フィリピンの学校を見つけました。短期の留学ではありましたが、英語の力を上げたいという目標があったので良い経験になりました。

 フィリピンからの帰国途中、この先、学生生活のような自由な時間はないだろうし、いずれ就活の波に飲まれてしまうなら、今のうちにやりたいことを全部やっておこうと思ったんです。そんなとき、たまたま駅で「せんだい・杜の都親善大使」というポスターを見かけました。

 募集要項を見たら、「観光のプロモーション活動、18歳以上の誰でもOK。賞金10万円」と書いてありました。お金がない私にとって、10万円は大きな額でした。しかも、観光などのアクティブなことが好きだったので、「お金をもらいながら観光に携わる仕事ができるんだ!」と感動して、その日のうちに応募しました。そうしたら幸運にも選考を突破して、3年生の1年間、せんだい・杜の都親善大使を務めることになりました。

 私を含め3人の親善大使で、北は北海道、南は鹿児島まで行って、仙台の七夕祭りや光のページェント、ずんだなどの特産品の魅力を発信しました。青葉まつりでパレードに参加したり、七夕まつりで踊ったりもしましたね。仙台の魅力を勉強して、県外に発信する、メディアにも出るというような、すごく楽しい1年を送らせてもらいました。1年間でたぶん、500人以上の方と名刺を交換したと思います。

 この活動が、アナウンサーを目指すきっかけになりました。名古屋のテレビに七夕まつりのPRで出演したら、帰りぎわ、放送局のスタッフから「将来どうするの」と訊かれて。「何も考えてないです」と答えたら、「放送局とか、アナウンサーとか向いてるんじゃない?考えてみたら」と勧められました。私にとってアナウンサーは、そもそも別世界というか、普通の就職活動でなる職業とは思っていなかったので、「おもしろそうだな」と、そこで初めて意識しました。

 とはいえ、すぐにアナウンサーのスクールに入ったりはせず、3年生の1月まで、親善大使の活動やアルバイトで目まぐるしく過ごしました。年が明けると、周りはインターンに行ったとか、エントリーシートを出し始めたとかの話題でもちきりでした。それで、初めて就活と正面から対峙しました。受けていた公務員講座をこのまま続けるのか、民間企業に就職するのか、きちんと決めなければならない。アナウンサーについて調べてみると、エントリーの時期がすごく早くて、慌ててスクールに通って対策を始めました。

 私は、仙台で4年間過ごして親善大使も務めるうちに、宮城県の魅力にたくさん触れました。人柄が本当にあたたかいところだなって。なので、どんな方法であっても、宮城の良さを分かりやすく伝えられる仕事がしたいなと思いました。そのようなこともあり、アナウンサーの就職活動は全国行脚するのが一般的なのですが、私は宮城県の放送局だけを受けることにしました。

 宮城県にはいくつかの放送局があるのですが、東北放送にはラジオがあったんです。ラジオとテレビで、アナウンサーとして倍の仕事ができる。また、東北放送の「ぼんやり〜ぬTV」は、宮城県だけでなく、東北各県やその他の地域にも放送されていました。だから、「この放送局に入れば、宮城県の魅力を県外にも発信できるかもしれない!」と思い、東北放送の面接を受けました。4月には、晴れて就職が決まりました。

ポジティブでいればなんだって楽しい

 入社してから半年はずっと研修でした。朝から晩まで発声練習をして、先輩アナウンサーから指導を受けて。同期の2人はもともとスクールに通っていた上手な子で、私は「こんなに下手な子はじめて」なんて言われました(笑)。 

 それでも大変だとは思いませんでしたね。思えば高校デビューのときだって、いつも劣等感から始まる人生でした。同期と比べられて発破をかけられて、追いつき追い越したいと向上心を持てたことは、すごくありがたいことでした。私は人から教わるのが好きなタイプだから、同期に「どうすればそうやって発声できるの」と率直に質問したりして。同期も優しく答えてくれて、明るい劣等感を持ちながら、楽しくやっていました。

 アナウンサーは、早いときには朝の4時に出社し、夕方から翌朝まで宿直することもあります。土日休みでもないし、放送局に身を捧げる生活です。それでも、毎日ちがう仕事ができますし、魅力的な人と出会えますし、こんなに楽しい仕事は他にないだろうなと思って働いています。

 「ぼんやり〜ぬTV」ではサンドウィッチマンさんと共演していますが、日本一のお笑い芸人である彼らに自分を組み込んでいくのは、本当に難しいことです。でも、そこで萎縮してしまうと、自分の役割がなくなってしまうんですね。どこかに絶対、打破できるブレイクスルーがあるはずだと思って、反省点を書き留めたり、他のバラエティー番組から切り返しのパターンを学んだり、そういう積み重ねを地道にやってきて、今の私があります。アナウンサーというのは、番組に指名される側だけに、多分いくつになっても切磋琢磨が求められる職業です。ポジティブに捉えれば、向上心を保ち続けられたり、自分の力を上げるチャンスにあふれているわけですよね。落ち込むことがあっても腐らないで、「一緒に頑張っていこう!」という気持ちを持てていれば、すごく楽しいです。

面白い話をしたくなるおばちゃんになりたい

 20代、30代、40代と年を重ねていって、共感できる人の幅を増やしたいというのが、大きな目標です。私はラジオの放送もしていますが、ラジオ番組はテレビ以上に、生活感が問われると感じます。今の私は20代女性という立場ですが、リスナーの方の中には、子育てや親との死別など、人生経験を踏んでいる方がたくさんいらっしゃいます。例えば、「親の介護が大変なんです」というお便りが寄せられても、私は想像を働かせることでしか寄り添えなくて、もどかしい気持ちになります。だから、人生経験を積んで、みんなが相談したくなるようなおばちゃんになりたいと強く思います。「ねえ、ちょっと聞いてよ」って声をかけられるような、聞き手としても話し手としてもおもしろいおばちゃんになりたいです。

ノリよく色々なことにチャレンジしてほしい

 東北大学に来たことによって、大切にしたい友人もできたし、仙台も好きになったし、それが今の仕事にも繋がっているので、本当によかったと思っています。東北大学は日本中から魅力的な人が集まっていて、在学中に色々な考え方を吸収して視野を広げることができました。卒業して改めて実感しますが、東北大学は数多くのすごい研究をしているんですよね。昨年、工学部の材料科学ウェビナーの司会をさせていただきましたが、先生方からお話を伺って、皆さんなんて面白い研究をされているんだろうと思いました。もっと取材したいと考えて、自分の持っているラジオ番組で、東北大学工学部の研究を発信するコーナーを作りました。東北大でのお仕事は、本当に嬉しいですね。

東北大学111周年ホームカミングデー記念祭で
司会を務める熊谷アナウンサー

「はやぶさ2」プロジェクトについて
中村智樹教授・吉田和哉教授とトークセッション

 学生の皆さんには、ノリよく色々なことにチャレンジ、行動してみてほしいです。そうすれば、なにか道が開けてくると思います。私自身、あれこれと目移りが多いここまでの人生でした。成功しても失敗しても、経験値というものは必ず得られるのだから、尻込みしないでまずやってみよう。きっかけは何でもよくて、ちょっとでも面白そうと思ったなら、何かご縁があるということだから、トライしてみる。私自身、そうやって動いてみた経験値から今の夢が見えてきました。そうやって色んな景色を見て楽しんでほしいなと思います。何でもアリの人生ですので!

(インタビューは2022年12月3日に行いました。追記:ご結婚おめでとうございます!)

聞き手:中村未来(4年)
鈴木刀磨(4年)
村上結菜(3年)
写真: 野崎達行(3年)

東北大学オフィシャルグッズのスカーフがお似合い

東北放送を案内してくださる熊谷アナウンサー

みんなでウォッチン!