戦後の復興に刻まれたハングリー精神 実践と議論を通して学び続ける

菅野かんの 博之ひろゆき

現在、長島・大野・常松法律事務所顧問。
東北大学法学部1978年卒
1980年 裁判官任官。東京地方裁判所判事補(行政部)
1982~1983、1993~1994年 イギリスに留学。行政部での研修や民事訴訟改革の研究。
2002~2011年 東京地方裁判所部総括判事
2011~2012年 東京地裁民事所長代行
2014~2015年 東京高等裁判所部総括判事
2015~2016年 大阪高等裁判所長官
2016~2022年 最高裁判所判事
2022年~ 現職

北海道の大自然で過ごした、貧しくも幸せな子ども時代

 北海道の真ん中にある、大雪山という大きくて真っ白な雪山の山麓にある、東川町の出身です。東川町は、テレビ番組でも「写真の町」なんて紹介される美しい町です。それと、「3”ない”町」と言われることもあります。「鉄道がない、国道がない、上水道がない」という3つの”ない”がそろっているんですね。水がきれいで水道をひく必要がないんですよ。そこの天人峡っていう渓谷の近くで生まれました。

 そのあとは、店も一軒もない、現在は人も住んでいない、然別の奥(ウペペサンケ山の南、西ヌプカウシヌプリ山の北)で育ち、次に釧路の郊外、湿原の端っこに移りました。

 どこも田舎ですけど、すごく違ったのは、釧路では歩いて行けるところに商店が一軒あったんです。しかも、集落に1箇所だけ水道がある。水汲みをしなくていい。本当にすごいなと思いましたね(笑)。

 学校も、今度のところは歩いて50分ぐらいで行けそうだ、こんな近い学校なんか考えられないとか、そういうくらいでした(笑)。歩くと大体、キイチゴとかグースベリーとかがあるので、取って食べるんですよ。そうやって色んなものを食べたり、遊んだり。今考えてみれば、幸せな子供時代だったのかもしれませんね。

 ただ、北海道の中でも道東はさらに戦後色が濃かったですね。父親たちは大体作業員ですが、兵隊帰りで荒っぽい人が多かったです。よく激しい議論をしていました。どういう風に社会主義の世の中にするかという大激論をやったり、酒を飲んではけんかをしたり。そんなすごいところでもありましたし、やはり戦後の貧しさや厳しさが強く残っていました。

 今97歳の父親も、小学校卒で働き始め、15歳で軍隊に入ったようです。昭和19年秋に玉砕したソロモン諸島の島で戦死したと通知がきたものの、実は生きていて、戦後英国軍の捕虜になりオーストラリアの近くの島の捕虜収容所生活を生き抜いて、日本に帰ってきたんです。その後、船員や技術職をして、70歳過ぎても作業服を来てブルーカラーとして仕事をしていました。戦争を生き抜いた人はやっぱり強いなと思いましたね。体に何発も銃弾を受けた跡がありますし、大きな傷もありました。

 そんな父の影響か、私自身も学生時代のアルバイトは全部ブルーカラーでした。電気修理とか、土建とか、鉄筋工とか、体を動かすもの。逆に家庭教師とかをやったことはないんですよ。

SFマニアとして本を読み耽った少年時代

 当時私は、トラックの荷台の後ろに本を積んで周ってくる移動図書館で、次々本を借りては読んでを繰り返していました。小学校高学年の頃には子供向けは全部読み切って、大人向けも借りさせろって頼み込んで借りていたくらい。

 そして小中学校を通じて、私はかなりのSFマニアになっていました。SFのことをスペキュラティフファンタジーだとか、ソフィスティケイティッドファンタジーだとか言ったり、純文学はSFの一分野だと言い張ったり、とにかくかなり強度なSFマニアでした。ちなみに、30歳ぐらいまでには、私と弟(現知財高裁裁判長で、洋書の蒐集家でもあります。)を合わせれば、日本で翻訳されているSFはほとんど全部読んでいたような気がします。

 私は、中でもソ連文学が好きで、ソ連系や東欧系のSFが最も好みでしたね。というのも、非常に貧しいところで育ちましたから、国民が豊かになっていくためにはもう日本は科学技術しかない、科学立国しかないんだっていう強い確信があったんです。ここら辺が、ソ連系東欧系の堅いSFにつながったんですね。

 あとは単に、宇宙とか星とかが好きという好みでしょうね。中学時代には、友人と二人で結構大きな天体望遠鏡を自作して天体観測を試みていました。当時は小学生くらいの子供だと、火星探検隊とか宇宙飛行士とかになりたい子はたくさんいたと思いますけど、私は高校生になっても、真面目にそう考えていました。火星探検隊の隊長になるには何を勉強して、どういう学校に行くべきかって。かつ、自分が大人の頃なら、当然に実現していると思っていました。お月様に新婚旅行に行って、探検隊が火星に基地を作って、さらに太陽系外のところにどうやって行くかを研究しているような時代になって、原子力ロケットが飛ぶ未来がくると思っていました。

 それと、中学の後半くらいから、経済政策とか、社会政策とか、国際問題とか、そういうことにも非常に関心を持つようになりました。その理由も、やっぱりSFからも繋がってるような気がします。経済政策や社会政策に関するSFっていうのもたくさんあるんですよ。もう一つは、道東で、生きていくこと食べていくことの厳しさを目にしていたからだと思います。

 あとは、小学校2、3年にもなると家にとっては労働力でもありますから、キノコやワラビ等を探したり、薪割り、畑仕事の手伝い、馬糞拾いなどもしていましたね。当時の子供は、両親ともに働いている中で、 薪割りや山菜取りや石炭割、開墾、炊事や子守というように色々な仕事もしていました。

 そういう労働力としての生活と、色々なSFを読み漁る中で、頭の体操をしていたのだと思います。

ラーメンの60円を惜しんで新聞を買う高校時代

 通学に無理があったので中卒で家を出て、札幌の高校へ行きました。安アパートで一人暮らしをしながら、いつもおなかをすかせた高校生活を送りました。

 生活は厳しくて、学食の60円のラーメンは高すぎるから、絶対買えない。15円のあんドーナツが1番安くて腹持ちがよいからそれを買おうとかね。あとは、そうめんをふやかして食べるとか。そういうぐちゃぐちゃな食生活をしていたんですけれど、それでも高1からずっと新聞と当時あった経済企画庁が出していた機関紙だけは定期購入していました。

 それと、隣室に若い新聞記者さんがいましてね、その人といろんな議論をしたことが勉強になったと思います。当時は、特に学園紛争時代ですし、中国の文化大革命など色々な動きがあった時代で、非常に政治色の強い時代でしたから。政治的な議論もたくさんしました。文学等についてもいろいろ教えてもらいました。私を陶冶してくれた先輩ですが、その後も親友のような関係を続けさせてもらいました。

 進路については、父親からは理工学部を受けろと言われ、母親からは医学部を受けろと言われていました。しかし、その頃には私は、経済や社会を動かすには、まず法学・法律じゃないかという気になっていて。それで、親の顔も立てなきゃならないので、法学部も医学部も受けました(笑)。そうやって東北大の法学部に入ったんです。

“推し”の先生の刑法系講義を追いかける

そういう時代でしたし、自分の頭の整理もあんまりつきませんでしたし、食べるのが大事なので、もうバイト中心の生活でした。

 ただ、刑法が好きでした。当時、荘子先生っていう方がおられてね。その方の刑法総論の授業で私は初めて、「法学ってすごい学問なんだ、哲学なんだ」ということを思うようになって、私淑しちゃったんです。それ以降、刑法系のものはせっせと受けました。

 ドイツ刑法演習とかも受けていました。そのせいで裁判官になってから、ちょっとひどい目にあいましたが(笑)。というのも、最高裁に呼び出されて、「お前はドイツ刑法演習をやっていたんだろう。ドイツの大学に留学してこい」って言われたんです。それでも私は、「ドイツ語は難しいから無理だ」とか言っていました。ドイツ語が好きだから演習をとっていたわけではなくて、荘子先生がやってたからとっただけだって(笑)。

 しかし、刑法とか刑事政策とか以外は、ダメな学生だったという風に思います。昔は試験で成績の張り出しがあったのですが、トップに張り出されたのは、刑事訴訟法だけでしたね。法哲学の科目では、1人だけ0点のところに名前があって、よく見たら、僕だったってこともありました(笑)。「この問題の答えは何にもわかりませんが、単位は是非ほしいです。」と前置きした上、「自分が考える法哲学は」とかなんとか一生懸命書いたら0点だった。いくつかの科目で同じことをやったんですけれども、ちゃんと70点とか75点とか点をいただけたんですけどね(笑)。

司法試験に合格「給料をもらいながら勉強できるなんて幸せ」

 当時、いろんな進路を考えたんですけれど、結局、司法試験を受けて法曹になる道に行き着きました。高い授業料を払わなければならないイギリスの司法研修所と違って、試験一つに受かれば(ロースクール制度がない時代ですから)、2年間無料どころか、給料をもらって勉強できる。やはり、勉強ができるっていうのがすごく幸せなことだと思ったんです。勉強をするのにすごく苦労しましたから、とても魅力的に感じました。倍率も60倍とかで、非常に高かったですから、高いものがあるから登ってみたいというような気持ちもありましたが(笑)。

 ジャスコ(当時)の仙台第1号店ができた頃で、それを見に行っては、営業戦略としてまだまだダメだなんて考えつつ、小売市場にも興味があったんですけどね。外交官の試験を受けてみることにも興味がありました。しかし、当時、外交官はお金がかかりそうと聞いて、無理そうだと思いました。

 うちの父親は、小学校を出たあと一切勉強なんかできなくなるなかで、何をやったら勉強できるかと考えて、軍隊に入ったそうです。確かに、兵隊になったら学校に入れてくれる。そうやって勉強をできる環境を手に入れたんですね。結局本当に戦争が始まって、最前線に送られてしまいましたが。

 あと私、結構若くして結婚していたんですけれど、司法試験に受かった年なんかは、とっくに卒業していた奥さんの被扶養者だったんです。そうやって巻き込んでしまったなという感じがありましたから、本当に寸暇を惜しんで必死で勉強しました。そして、合格しました。これが最初の人生の転機でしょうね。考えてみれば、随分大きな博打をやったものです。

 実は合格した時には、大学に在籍してるけれども、最後の1年半ぐらいほとんど大学に行ってないし、単位も足りないという状況でした。そこで退学届を持って行ったら、当時法学部長だった荘子さんにすごく怒られまして。「合格通知を見せろ。この順位なら裁判官に誘われる。とにかく授業を受けて卒業しろ」と言われました。当時はお言葉の意味も余り分からないまま、普通、司法試験に受かったら、そのあと少しゆっくりできるはずだったのになどと思いながら、ひたすら授業を受けまくりました。結局終わってみたら、だいぶ単位がオーバーしていました。

 それで無事卒業できたんです。その意味でも、荘子さんは恩師なんですね。東北大卒として皆さんにお会いできるのは、完全に荘子先生のおかげです。(笑)

 その後も色々目をかけていただいていました。先生が論文を書かれると必ず送ってくださったり、本を出すと送ってくださったり。私も、何か書くと全部荘子先生に送ったり。そういうつながりがずっと続いていました。

裁判官の道へ 行政部配属が第二の岐路

 私の特徴は、ハングリー精神だと、よく言っています。子ども時代に道東の貧しいところを見ていたからでしょうね。あと、どちらかというと、何事にもポジティブでオプティミスト。楽観主義でないと、人生しんどいし、苦しいし。要するに、人間、食べていくのが最重要。福祉も安全も、医療も文化も全て強い経済があってこそ。とにかく前に進もうという、すごく泥臭い人生観・世界観を持っています。

 私はかなり尖った人間で、喧嘩早い人間だったんですね。司法修習時代に、修習先の弁護士事務所に雇ってもらおうと思ったら、「こんなに人に頭を下げられない尖っている人間、弁護士は絶対やれないですよ」って言われました。100歩譲っても、東京では絶対やれない。田舎に戻ればやれるかもしれないがってね。

 そんなこともあって、とりあえず裁判官なら束縛されない自由な仕事のようだなと。あとは刑法が好きだったということで、裁判官になりましたね。

 そうしたら、裁判官になっていきなり東京地裁の行政訴訟専門部(行政部)に入れられたんです。当然に刑事裁判官になると思っていたのですが。多分第2の人生の岐路というのはそこですね。その当時、行政訴訟や行政法が華やかだった頃で、何か判決すると本当に新聞記事になるんですね。行政部の裁判長は、東北大学の大先輩の佐藤繁さんという当時の行政訴訟の第一人者で、本当によく議論し、誠実に考え抜く方でした。そんなベテランの裁判長の緻密な意見に対して自分は違うと思うとか言ったり、一生懸命議論して、青臭い話をして、そしたら、その結果が本当に判決となって新聞の1面に載るんです。そういう経験もたくさんしました。

 その後もずっとその裁判長に私淑してたんですけれども、多分その時に行政部に入りその裁判長に出会わなかったら、またどこかで別の人生になったように思います。

故郷北海道を思わせるイギリスでの研究

 1982年に私はイギリスに留学するんですけど、すごく居心地がよかった。なぜかというと、風景も食べ物も、木々も庭の花も非常に道東に似ている。ロンドンの南の方、クロイドンっていう小さな町に家を借りて住んでいました。庭にはリスが走り回っていますし、目に付くラベンダーとかダリアとかルピナスとかは、道東の花でも1番ポピュラーなもの。イギリスにいるとその道東に戻れるわけですね。

 学問的には、行政訴訟や行政法の勉強をしました。ただ同時に、向こうの大学院では、「お前も1講座教えろ」って言われて、日本の行政訴訟法を少しだけ、集中講義かなんかで教えましたね。これが大変で、向こうの学生がやたら質問してくる(笑)。質問されても何を質問されてるのかさえもよくわかんなくて(笑)。すごく苦労しましたね。

 その後、ウルフさんという、当時ハイコート行政部の部長だった方 の下で、修習生のようなことをさせてもらいました。このウルフさんがその後、「ウルフ改革」とも言われるイギリスの司法改革の座長になったんですね。さらに裁判官をやめた後、ロンドン大学の学長になっていました。幸いなことに私は判事になってからも、1993年にもう1回イギリスに行かせていただきましたが、そこでも繋がりがありました。というのも、2度目に留学する時に、ロンドン大学高等法学研究所の外国人の客員の募集(枠は一人)に応募したら、なぜか最終選考に残り、結局採用されましたが、その時点ではまだウルフさんがトップだとは全然知りませんでした。ただ、向こうに着いたら、空港にウルフさんが出迎えてくれて、「ジャッジ菅野、久しぶりだな!」と言われて。ウルフさんには本当にお世話になりました。

 当時は、スウェーデンも司法改革をやっていました。日本は英米法や独仏ばかり色々研究するけれど、他の先進的な国の研究もやるべきだということになり、イギリスに行ってから、スウェーデンの調査研究もしばらくしました。

 スウェーデンの司法部にもしばらく行っていたんですけれども、一ヶ月で分かるスウェーデン語とかいうカセットテープのセットを買って勉強しても何もわからなかったし、資料をもらおうと思っても、ドイツ語とロシア語の資料はあっても、英語版がない。非常に不十分な調査研究しかできませんでしたけれど、スウェーデン法について色々と研究されていた某大学の先生にたくさん教えを請うて、なんとかできましたね。

仙台は、緑と川が本当に素晴らしい町

 私は、北海道以外は、東京地裁、東京高裁、最高裁を行ったり来たりしたけれど、住居は千葉県等が多く、東京に住んだことはほとんどないんですよ。最高裁判所調査官になった1995年以降は、神奈川県の茅ケ崎市というところに住んでいます。緑があるところに住まなくては嫌で。海と松林と富士山を見ながらというのは良いのですが、通勤が大変なんだけどね(笑)。

 それとよく人に言うんですけど、「裁判所でもし勤務するなら、仙台と松山が1番いい」と。どちらも文化と緑に恵まれていますから。松山は、裁判所が山のふもとにあって、緑がたくさん見える。仙台はご存知の通り、大都市なのに本当に緑と川が素晴らしい町ですね。私は裁判官になってからずっと、仙台って希望していたんですけど、結局仙台に赴任する夢は叶いませんでした。だから、誰かが仙台地裁の所長に行くとか、仙台高裁の長官に行くとかで僕のところに挨拶に来られると、「羨ましいな、僕が行きたかったのに、何だ。」なんて嫌みっぽく言って、からかっていました(笑)。

 大阪高等裁判所長官になったときは、初めて東京より西に行きましたけれども、大阪は非常に肌に合いましたね。人との距離感っていうのかな。東京はやっぱり田舎者の私には結構堅苦しいところがありまして。大阪の方がもうちょっとザックバランというかね。

 もっとも、各地域の裁判所の中の雰囲気が、地域によって違うというのはそんなにないですね。裁判官は全国転勤しますし、広い意味の官僚のなかで、唯一地方勤務の人の方が圧倒的に多い。全国にこんなにたくさんの裁判所にばらけているのは珍しいですね。他の国はもっと中央に集中しています。それと、一般の国家公務員とか弁護士に比べると、裁判官は、真面目というか、書生ぽいというか、出世とか金銭にはそんなに関心がない。もちろん全然関心がないわけではないでしょうが、強い関心があったら、絶対裁判官にならないです。皆そう言う意味での似たところがあるんです。

裁判官は、「勉強半分、仕事半分」

 私はみんなに、 「裁判官って仕事半分、勉強半分でした」と言っています。よく記者さんから、「菅野さんは社会経験が豊富だから、幅広い判断ができるんですよね。」とか言われますが、全然そんなことはない。

 私がちょこっと何かをやったって、少し社会経験したって言ってもたかが知れている。むしろ、裁判官になってから膨大な数の事件をやって、海外の裁判所でも色々見せてもらって、色んな人と会って、色んな人と議論をして。それで色んなことに興味を持って。

 「事実は小説より奇なり」というけど、本当にびっくりするような事件もあるんですよ。裁判官としてそうやってやっていく中で、色んなものを勉強した。人の憎しみとか、悲しみとか、あるいは、商取引、経済、労働組合、貧困、犯罪、技術、科学、医学、国際問題、歴史問題。数百億円の事件とか、数千億円が問題になる会社更生とかも何回もやったことがあります。文字どおりの勉強半分、仕事半分でした。

 その中で迅速な裁判とか、質の高い裁判とか、合議強化とかいう運動を非常にしたんです。ようやく今、「民事訴訟の半年審理」なんて話が少し出ていますね。私が言い出したのは20年以上も前ですけど(笑)。民事の裁判官だと、常時200件とか300件もの事件を担当することがあり、1年に何百件もの事件を終わらせます。経験を積めばどんどん仕事のスピードが速くなり、処理量は増える。だけど質の方は、一人で努力しても必ずしも上らない。質っていうのは、やっぱり、人と議論して、大勢でブレインストーミングして、ブラッシュアップしていかないとダメで、自分の頭だけでただ考えても限界がある。みんなで議論すべきだということをずっと言い続けています。

 そういう活動をして、東京地裁の 所長代行になったり、大阪高裁の長官になったりしました。そういうことで最高裁判事になったんだろうと、思っています。

最高裁判所正面玄関にて

裁判官としての自己実現

 私がイギリス留学や訴訟改革の研究後にあちこちで言い続けていたことは、要するに「民事裁判6か月の原則」というものです。

 「迅速な審理をして、原則は6か月以内。大きくて難しい事件でも1年、リミット2年ですよ」ということを言っていたんです。多分、単独訴訟6か月の方は、私は多くの事件で実現しました。

 ですが大きな事件を1年でというのは、これは必ずしも実現ができてないですね。でも実現できたものもあります。東京地方裁判所部総括判事で、行政部の部長をしていた時は、普通だったら10年かかるだろうなと思うものでも数年でやったり、あるいは半年でやったりしました。ハンセン病の訴訟(2005年の通称「台湾ハンセン病訴訟」)は、原告団や被告側ともよく話をして協力を得、密度の濃い計画的な審理をして、6か月で判決しました。

 それから、裁判官は違憲判決等をすると地方の家裁に飛ばされるとかよく言われているようですが(笑)、私は、法令について、「これおかしいよ」という判断をしたのが3回と、明確な「規定違憲 」の判決をしたことが1回あります。

 ちなみに、その4つの法令は全部、その後、判決に沿った形に変わっていきました。その意味では、まさに自己実現だと思ってますけれど、これは幸運ですよね。一種の巡り合わせなんです。そんなに日本の法令がたくさんおかしいわけではない。自分はたまたま行政訴訟の分野が長いですし、あるいは東京地裁が長いから、そういうある意味尖った事件にぶつかることが多かったのだと思います。

 「規定違憲」の判決をした1回というのは、一審・東京地裁での、国籍法違憲判決(2008年)のことで、かなり力を入れて判決を書きました。その数年前に、合憲という最高裁の判決がありましたけれど、ここでそのままに終わらせると芽が消えると思ったので、考え抜きました。二審・東京高裁で破られましたけど、最高裁の大法廷では、やはり違憲ということになり、高裁判決が取り消されて一審判決が復活し、その後国籍法が改正されました。

 実は私の最大の特徴は、事案にもよりますが、子供の権利を割合強く認めるということです。要するに、15歳くらいになったら独立した個人だという考えがあって。例えば、昔は国外退去強制について、親が違法入国で退去強制となったとき、子供も従物のように当然に退去強制ということになったけれど、子供は親の従物ではない。親は確かに密入国で、違法行為をしているとしても、子供は関係ない。子供は日本で生まれて、日本語しか喋れない。だから、まさにこの子供を日本に置くかどうかをハードルなしに考えて判決する。そういうスタンスでした。このような親子を分ける考え方は、当時、高裁やマスコミからも受け入れられず、批判されましたが、現在は、東京高裁でもそのような判断も出ており、入管行政も少し変わってきているようです。

 学生時代から、自分なりの意見を持っていましたが、それを裁判で実現したいという風に思っていたわけではありません。正直言って、司法試験を受けると選択した時は、人生として食べていくために、勉強するために、という感じで、本当に自己実現できそうだなとかを考えたのは司法修習時代ですね。

「事実」と「評価・意見」を切り分け、複数の視点を持ってほしい

 メッセージとして、若い方、特に法学部の方に一番考えてほしいのが、客観的な事実と評価的事実があるということなんですよ。例えば、客観的事実というのは、「この岩は高さ5メートルで重さは10トンで花崗岩だ」ということ。評価的事実というのは、「こんな岩がこの川の横にある。転がり落ちてくるかもしれない、危なっかしい岩がある。」ということ。世の中には意外と、この評価的事実、意見のような事実のようなものが、たくさんあるんですね。

 これを頭の中で分けて考えるというのが、実は法律論では非常に大切なこと。勝手に自分で決めつけた前提事実ないし評価を基にまっすぐな綺麗な理論を組み立てても、その前提が崩れれば全然ダメなわけです。そんなの当たり前じゃないかと言われるかもしれないけれど、新聞のコメントやテレビを見てても、大体みんなここら辺をごちゃまぜにして議論してるなと思う時がありますね。客観的事実、評価、それらに基づく判断、この三つをはっきり分けて考えるのが大事です。

 もう1つは、裁判官は良心に従って裁判をするわけですが、単純に「私はこう思う。こう信じる。」では法律論じゃないんですよ。それは個人的意見にすぎません。そうではなくて、1つずつ順を追っていく。法治というのは、憲法、法律、政令、省令、規則、通達、要綱等と段階的構造をとっているんですね。例えば、「この通達はこの規則に反してるから、この通達に従う必要はない。法律の趣旨にそって規則を解釈すれば・・・となる。」などというように。ちゃんと論理というツールを使って判断に落とし込めなければダメなんですよね。

 そして最後に、複数の視点、多面的観点を意識的に持つのが大事だということ。常に見方によってどうにだっていえるんですね。例えば、原告側の視点から見るのと、被告側の視点から見るのでは、全く違う風景が見えることが多いように、異なる視点に立って見たときは、全然違うストーリーになるかもしれない。多様なストーリーを理解した上での選択が重要なわけです。日頃から複数の視点を持つためには、新聞は役に立ちます。新聞には、自分が見たくないもの、自分が見て不愉快なものもたくさん出てくる。そこが効用です。ネットは何かをちょっと調べるのにはとっても便利だけど、自分が前に引いた、自分が好きなものばっかり出てくるわけですよね。新聞も色々ありますから、できれば複数の新聞を見ることも大切です。さらに、関心を持った分野については、雑誌や書籍もぜひ読んでいただきたい。

ヨーロッパ議会(EU)を表敬訪問 議長席に座る菅野さん


聞き手:藤田和郁見(3年)
村上結菜(3年)


(インタビューは2022年10月24日に行いました。)