悩み進んで楽しい道へ

小西こにし 晴子はるこ

1983年に東北大学法学部を卒業。
ドキュメンタリー制作者として国境を越えて活躍している。
『イラク チグリスに浮かぶ平和』(2014年公開)や『赤浜ロックンロール』(2015年公開)などを手がけ、市民が見ている世界を人々に伝える。
ドキュメンタリーアイズ代表。
東北大学学生チャレンジクラウドファンディング「ともに・プログラム(ともプロ!)」特別選考委員も務める。

ちょっとでも世の中を変えたい

 ドキュメンタリー制作に関わりたいと明確に思ったのは30歳のときで、幼いころからの夢だったわけではありません。それでも、小さい頃、『兼高かおる世界の旅』という紀行番組が憧れでした。私のアイドルとなった兼高さんが、世界のあちこちへ行って、未知の世界を訪ねていくんです。私もいつかこういう人になりたいと、思っていました。

 高校生になって、進路をどうしようかと思っている時、新聞の一面に「台湾元日本兵の恩給請求却下」という記事が出ていました。同じ軍隊に行っていても、日本兵は恩給をもらえて台湾国籍の人はもらえない。それはどう考えてもおかしいと思いました。

 私の父は学徒出陣した日本兵だったんです。父は復員してきた時、決まっていた会社に就職できなかった。当時は本当に日本中が貧しかったから、親兄弟を養うために疎開先に行ったそうです。戦争によって人生が変わってしまった。そういう環境で育ったので、私も元台湾兵や元日本兵に敏感になっていました。

 「国籍が台湾だからダメ」というのなら、国籍条項を変えればいいじゃないかと思いました。どうしたら自分が現状を変えられるか考えたときに、弁護士として法律に関わるか、新聞記者になるかどちらかがいいかなと。法律か政治のどちらかを学んだら自分の目的に近いだろうと考え、法学部への進学を決めました。

中途半端な学生だった

 大学では、テニスサークルにも所属しましたが、無料法律相談所に所属して、訪れた人のお話を伺っていました。よくおばあちゃんが話をしに来たことが印象に残っています。「屋根裏から物音がして、私は狙われているんだよ」とか。それでもどんな話にも親身になって対応している先輩方の姿が印象的でした。法律に関係ない話もして、今でもお付き合いが続いている先輩が多いです。最高裁判事になられた渡邉恵理子さんのところにもインタビューに行かれるのですか?とても優しい先輩でした。よろしくお伝えください。(注: 「最高裁の現職の間はインタビューに応じることは控えたい」ということでインタビューは実現しませんでした。)

川内テニスクラブ(通称「川テ」)での1コマ

 当時の大学では、先生は学問の人。偉い人で、雲の上の存在でした。学部長室に入るときなんて、とても緊張するんです。それでも、学問に関しては学生と同じ目線で、対等に議論してくれました。学生一人一人にどういう意見で、なぜそう考えるのかを常に問われたので、自分の頭で考える訓練をして頂いたように思います。大学の勉強はあまり熱心に取り組んでいなかったのですが、「市民の権利」というものを植え付けられた時間だったように思います。当時の大学にはそういう空気が漂っていました。

 世の中を知りたいと思って大学に入りましたが、勉強も遊びも中途半端で、自分探しに悶々とした四年間だったように思います。法律や社会を変えたいという入学当時の志は、だんだん消えていった感じです(笑)。そして、弁護士試験も新聞社も両方落ちました。

1983年 法律相談所追い出しコンパ

働きながら続けた自分探し

 就職しないと食べていけないので、公務員試験を受けて都庁に入りました。ところが3年で辞めてしまいました。人間関係はとてもよかったけれど、どうにも役所の文化が肌に合わなかったです。

 次に民間のCIコンサルティングの会社に入りました。尖っている人が多かったです。企業イメージを変えるプロジェクトに携わって、すごく勉強になったんですけど、同時につらかった。皆マーケティングやPR、デザインのプロだけど、私にはなんのスキルもないから、出来の悪い社員でした。

30歳でアメリカ留学へ

 仕事もできないし、この先どうしていこうかなと思いながら・・・疲れちゃったんですね。それでアメリカに行って。1ドル150円ぐらいのときに一日10ドルで暮らしてたんですけど、アルバイトしながら大学院で映像の勉強をすることにして、とにかく楽しかったです。外から日本を見るのって、何ていいんだろうって。貧乏でしたが、大学院も卒業でき、自分自身を立て直すことができた1年半でした。

大槌町の漁師を追った映画『赤浜ロックンロール』

 東日本大震災が起きたとき、個人ボランティアとして岩手県の遠野の団体に登録して、大槌町と出会いました。作品を撮ろうという思いはありませんでしたが、それでもカメラは持って行きました。でも、最初の年は全く撮影することができなかった。プロとしては失格だけど、傷ついた心の人たちに、カメラを向ける気にはなれませんでした。

 出会った人は、焦りや悩み、悲しみを抱えながらも一歩でも前に進もうとしていて、尊敬の念を抱きました。主役の阿部さんはみんなを引っ張ろうと、いち早く漁を再開していた漁師です。その姿を撮りたいと申し入れたんですが、最初はすごく冷たくて、けんもほろろでした。「映像制作をしている人は撮りたいものが決まっていて、そこにはめこもうとするだけだ。俺たちは“道具”になるだけなんだよな」と言われました。。それでも漁師の皆さんは基本的にやさしいから、船に乗せてくれたりするんですよ。気温マイナス6度の中、朝3時出航のワカメ漁の船に乗せてもらったり、しつこく追いかけました。そうして阿部さんを追い続けて1年、2年経った頃に、色々と本音を見せてくれるようになりました。

 東北の方々は、自然と共に生きてきて、自然の脅威を受けてきたから、自然をナメていない。だから助け合うし、自然を生かしながら自分たちも生きていくという姿勢でいる。ご先祖さまに対する敬意の気持ちも強いし、子孫のためを考える。

 「今だけ、金だけ、自分たちだけ」という経済効率優勢の思想とは違った精神がある。だから、国が提案した高さ14.5メートル巨大防潮堤建設計画に、阿部さんも赤浜の地域の住民も反対でした。赤浜地区の住民は、「巨大な防潮堤を作ったって、自然の力にはかなわない、だから、最初から津波が来ない高台に地域を再建して、孫子の代まで安心して暮らせる部落をつくる」と決議し、国と県が提示した14.5mの防潮堤建設案を拒否しました。

 経済効率優先ではなく、もっと先の次世代のことを考えて、今の自分があるという生き方。彼らにそれを教えてもらい、私自身も変わりました。今の日本がなくそうとしている、日本の原点のようなものが東北には残っていると思います。

 東北地方沿岸は、東日本大震災の復興計画により、390キロに及ぶ防潮堤が、1.4兆余の予算を投じて作られました。でも、2020年に内閣府の「日本海溝・千島海溝沿いの巨大地震モデル検討会」から出された津波想定は、防潮堤は壊れる前提で予測がたてられています。

 私の視点は、市民の目線でものを作りたい。1人の市民が、どういう思いをして、人生を生きているのかを描く映像を作りたいです。そのためには、長い時間がかかります。だから彼らが前に進む姿を、10年間追おうと考えていました。映画『赤浜ロックンロール』が2015年に公開されたとき、阿部さんは「俺そのままじゃん!」と言ってくれました。それは私にとって最高の誉め言葉でした。そして、10年目の2021年に、ディレクターとして制作した『赤浜に生きるーロックンロール漁師再起の10年』は、NHK総合で放送されました。

無駄に見えることは役に立つ

 私は自分探しの時間が30歳ぐらいまで続いていましたが、その中で色々考えることは、けっして無駄ではありませんでした。「世の中の役に立つ」というのは、「今の世の中の目標に役に立つ」ということで、目標自体が間違っていた時に正す術がない。大学が、社会ですぐに役立つことを学んで就職するための機関になってしまうのは、日本にとって損だと思います。学問は、後で役に立つように思います。「日本はどうしたらよいか」とか、「世界はどうしたら良いのか」とか、自分の目で見て、自分で考えて、無駄なことをやらないと、見えてこないものがあると思います。

「好き」を大事にしてほしい

 人生は、トライアル・アンド・エラーの連続です。だからとにかくやってみて、ダメだったら次の方向に行けば良いと私は思っています。自分の好きなにおいのする方向に行けば、好きな人に出会えて、幸せになれると思います。だからまわりの基準ではなく、試行錯誤を繰り返しながらでもいいので、自分で選ぶことが大事だと思います。後輩の皆さんにも好きを大事にしていってほしいと思っています。頑張ってください。


聞き手:杉下さら(3年)
中村未来(4年)

※最近のドキュメンタリーとして

本学名誉教授の樋口陽一先生が、お孫さんの葉野(ふさの)さんを相手に、戦争体験を踏まえて個人の権利を尊重するために憲法が如何に重要かを語っているものです。
DocumentaryEyes(Youtube Channel
「流されないこと~憲法学者が孫と語る個人の尊重と戦争」(17分)
https://www.youtube.com/watch?v=P6SJncs4v_g

東北大学学生チャレンジクラウドファンディング「ともに・プログラム(ともプロ!)」