一 行政改革と「自己責任」原則
1.現下の行政改革の背景
我が国における行政改革の必要性については、ここのところ、格段に国民の意識が強まっており、昨年暮れに、行政改革会議、及び行政改革委員会という、国の二つの重要な審議会が、それぞれ最終報告を出した(参照、行政改革会議最終報告…平成9.12.3、行政改革委員会最終意見…平成9.12.12)。また、同じく地方分権推進委員会は、第四次勧告まで出した後、現在、この夏に予定される第五次勧告を目指して、検討を続けている。私自身もここ二年ばかり、この三つの審議会の中、行政改革会議及び地方分権推進委員会の二つに関与しているので、そこでの経験を通じて現在考えていることの一部を、標記に掲げたような観点から、お話ししてみたいと思う。
行政改革に向けての動き自体は、我が国でも古くから存在しているのであるが、以上見たような、ここのところの動きの中で、特に注目されるのは、改革の必要性が、従来のそれのように、財政赤字の解消とか、スリムにして効率的な行政、といった、単に財政管理あるいは行政管理の分野に止まるものでなく、いわば、我が国の国家と社会の全般にわたる「体質」の改造という、大きな動きの中の一環として、位置付けられるものとなってきているということである。では、この意味での、「体質」の改造とは、一体、どのような意味での改造であるのであろうか?この点については、既に、各界の識者によって、様々の見地から、様々の言葉によって言い尽くされてきたところであるが、これを私の言葉で言うとすれば、集団主義的ないし団体主義的色彩の濃い国家・社会から、より自由主義・個人主義的な国家・社会への移行、という言葉で表すことが出来るように思われる。これはまた、見方を変えて言えば、いわゆる「自己責任」の社会への移行、ということでもある。このことについて、私は既に昨年、私が行政改革会議で発表した意見を、別に、「自治研究」誌上で公刊したところであるが、以下、本日の講演内容との関係で、再度簡単に触れておくこととしたい。
日本国憲法の制定により、我が国においては、西欧流の近代的な市民社会の成
立を前提とした、自由主義・個人主義的国家システムの構築が行われた筈であっ
たが、現実には、日本社会に残る様々の集団主義的要素(これは、しばしば、
「ムラ」的要素とも呼ばれる)により、必ずしも、その徹底は見られなかった。
このような集団主義的要素とは、例えば、日常生活においても見られる「出る
杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」式の生活様式から始まり、「談合体質」「行政指導」「根回し」、「和」の文化、更に、「制服・校則」「お受験」、「みんなで渡れば怖くない」から、果ては、「護送船団方式」、「世間をお騒がせした」ことへの責任、「顔を潰された」ことへの憤り、に至るまで、様々な形で表出しているものであって、要するに、「個」ないし「私」を殺し(あるいは少なくとも抑え)、自らの運命を、いわば無条件に集団(そしてそれを代表するオヤブン)に委ね(預け)、そして他面、この集団ないしオヤブンは、(これらの者が、この集団の掟ないし生活様式に忠実である限り)理屈抜きにどこまでも面倒を見なければならない、という社会のあり方である。このような社会においては、全員の「合意」ないし「和」が、ことを行うための前提となるところから、一部の指導者に一方的な権力行使が認められている社会よりも、一見、個人の意思がより尊重されているようであり、従ってより民主的であるように見える場面も登場する。また、一部の強者の突出を許さず、集団の構成員全体に利益を平等に配分することを重視することから、場合によっては、より社会(主義)的であるように見えることもある。そういった意味で、上手く行く限りにおいては、この社会は、個人的自由主義・民主主義を基盤とする西欧社会に比べて、その良いところはこれを備え、他方その弱点はこれを克服した、理想的なシステムを備えた社会として機能し得る面を持つ。これが、いわば、第二次大戦後急速な経済成長を遂げた「日本の奇跡」の秘密であった。
しかし、この一見した民主性は、実は他面で、大勢に対し個人が正面切って異論を述べる事態があり得ることを前提ないし想定しないものであり、その意味において西欧流の民主主義とは大いに異なり、また、一見した社会(主義)性は、そういった利益の配分が、専ら、特定の集団内部限りでの配分としてのみ考えられ、集団外の者に対しては、むしろ徹底的な差別を以てすら臨むことを許すものである点において、西欧流の博愛・平等の精神とは、これまた大いに異なるものであった。
今我が国社会が求められているのは、こういった意味での集団主義的・団体主義的色彩に染まった、あらゆる制度及び人の改革なのであって、行政改革というのも、こういった背景を持ったものであることに、特に留意をしておくことが必要である。こういった要請は、明治維新そして第二次大戦における敗北に際して、西欧諸国から最も鋭く突きつけられたところであり、我が国の近・現代史は、基本的にはまさに、国を挙げてそれに応えようとする過程そのものであった。しかしその成果が未だ不十分である、ということが、21世紀を目前として、再度、白日の下に晒されつつあるのだ、というべきであろう。現下の改革が、明治維新及び第二次大戦の敗戦に並ぶ、国家の浮沈を掛けた第三の大改革である、ということが、時にいわれるのは、まさにこういった意味において、象徴的である。
2.国家行政というものについての考え方の転換
行政改革の必要性を、以上見たような背景の下で理解するとき、そこではまず、次のような意味で、国家行政というものについての従来の考え方を変えなければならないのだ、ということが明らかとなる。
以上見たような我が国社会における集団主義的体質の改造という問題を、国家という集団についてみるならば、こういった意味での集団主義が、ある特定の「国家」観と根強く結びついたものとして展開されてきた、ということが注目される。すなわち、我が国のこれまでの官界・司法界等においては、意識すると否とに関わらず、あるタイプの「国家」観(ないしは、少なくとも、かつて存在したそのようなものの残滓)が根強く存在しているように思われるのであって、それはもともと、近代ドイツ国家学上の「国家と社会の分離」という観念に由来するものであり、「公(ないし官)と私(ないし民)の峻別」という考え方にも繋がるものである。この考え方自体には、様々な側面があり、その理論的射程も単純ではないが、ここで特に目を向けなければならないのは、「社会(Gesellschaft……市民社会と言ってもよかろう)は、それ自体本質的に、私利私欲(エゴイズム)によって支配された混沌(カオス)であり、その赴くままに放置するならば、必然的に弱肉強食すなわち強者による弱者の収奪をもたらすことになるので、こういった事態を避け、弱者を救済するためには、それ自体本来中立・公正にして理性(Vernunft)を代表する存在であるところの国家(Staat)の力によって、社会の無秩序が抑制されなければならない」という基本的な発想である。このような国家観は、もともと、君主並びにそれを取り巻く貴族集団が国権の担い手であるような社会構造を反映して成立してきたものであったが、国民主権が確立した後においても、エリート集団としての官僚を中核とする国家行政機構・司法機構が維持されることによって、上記のような観念としての「国家」、そして、その「社会」に対する役割についての、上記のような基本的な理解もまた、本質的に変わることなく維持されてきたものということができる。
因みに、このような国家観はまた、「国家」を巡る次のような様々の思考と結びつくことになる。
まず、「国家」は、「社会」の横暴から弱者を救い、福祉をもたらすところにこそ、その存在理由があるのであるから、国家行政に携わる者は、常に、社会の横暴に対し警戒を怠らず、全力を挙げてこれを排除しまた防御するようにしなければならない。その際、私人の行う活動には、その性質上常に、秩序と安全を乱すおそれが内在しているのであるから、何よりもまず、そもそもそのような活動をさせて大丈夫かどうかを事前にチェックする事前規制が、不可避の手段となる。また例えば、「国家」の存在意義は、上記のように「中立・公正」であるところにこそあるのであるから、国家機構を担う公務員は、厳にあらゆる社会からの影響を受けることのないよう、細心の注意を払わなければならない。従って、例えば公務員の政治的行為が厳に禁止されるのはあまりにも当然の理であるし(最高裁判例)、また、外国人が、国家機能の核心を成す公権力行使に携わる職務に就けないのも、「当然の法理」である(内閣法制局見解)。また、国家公権力はいわば「始源的(urspruenglich)かつ排他的(ausschliesslich)」なものであって、例えば、公用収用権の行使とか、法人格の供与といった行為を行うことは、「国家」以外の何者にも(たとえ普通地方公共団体であっても)許されない(建設省見解、etc.)。
こういった国家観とは全く対照的であるのが、次のような国家観であって、ごく大雑把に見るならば、例えばアメリカ社会におけるそれが、これに近いものということができるであろう。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同様、国家機構なるものもまた、いわば、社会(一般国民)が、自らの必要のために自ら作ったものであるのであって、従ってまた、国家と社会は本来対立する存在であるわけではなく、前者は、後者が必要とする限りにおいてその存在意義が認められる。従って、例えば、社会は本来横暴でありカオスであるとされ国家による規制のあり方もそこを出発点として構想されるのではなく、むしろ逆に、社会の有意義な生産性を信ずるところから出発する。また例えば、公務員の政治的中立性も、それが実際に必要な限りにおいて確保されればよいのであり、また、外国籍の者であろうとも、その者を公務に就ける実際上の必要があるならば、それを妨げる「当然の法理」などがあるわけではない。
先に見たように、今日、伝統的な集団主義的文化からの基本的離脱が要請されているとして、それはまた同時に、少なくとも国政レヴェルで見る限り、ここに見た意味での国家観の転換を要請するものでもある。それは、一言を以て表わすならば、「社会に超越し、その存在自体を自己目的とする[国家Staat]の抽象的な観念」から、「自由かつ自立的な社会のため、その必要に応じて形成される政府機構[government]の具体像」(Horst Ehmke)への転換の要請である。現下の行政改革の諸理念も、つまるところは、ここに行き着く。そして、この「自由かつ自律的な社会」を成り立たせ、支えるものこそが、「自己責任原則」なのであって、それはすなわち、自己のことについては、他人に頼り、他人をあてにするのでなく、何よりもまず自分が責任を負う、という原則であるに他ならない。
二 「自己責任」の社会と行政法
1.自己責任の原則と行政法
さて、以上を前提として、次に、このような我が国社会の体質改善の要請が、行政法に対して、どのような影響を及ぼすか、ということについて、考えてみたい。その際、まず問題となるのは、「自己責任」の原則に立った社会においては、そもそも、行政法というものの存在意義それ自体が問われるのではないか、ということである。何故ならば、歴史的に見て、行政法という法分野は、まさに、私人と私人の間での自主的な紛争解決に任せておいたのでは、適切な解決が得られない問題がある、ということを前提として登場したものであるからである。例えば、各種の安全規制、すなわち例えば、営業許可とか自動車の運転免許制度などを定める法令は、行政法規の代表例であるが、これらは、このような規制が無くても、法生活がおよそ成り立たないというものではない。つまり、例えば不衛生な調理施設を用いて営業したレストランで、その結果利用者に多くの食中毒が出たとしても、被害者が民法に基づく不法行為の賠償請求をし、また、国の立場からしても、業務上過失致死傷等の刑法規定を適用することによって、営業者はそれなりの法的制裁を受け、また、被害者の救済もなされ得るのであって、市民としては、まず以て自分で色々と情報を集める必要があり、その上で危険であると判断したら、そのようなレストランには近づかないようにすべきなのであり、また、被害を受けたら自ら裁判所でその補填を請求すればよいのであって、国の行政機関の世話にはならない、というのが、理論的には「自己責任」原則の帰結である、ということも出来ようからである。こういった「自己責任」システムの下では、例えば有毒物質その他身体に有害な物質を含む食品や薬剤の販売行為等についても、その例外ではないのであって、何故ならば、このような形で民事・刑事上の責任追及の法システムが実効的に働くならば、それらの行為はいずれ市場から淘汰されて行くことになるから、理論的には(少なくとも長い目で見る限り)事前の国家的規制は不要である、ということになる。
これに対して、行政法規そして行政による規制(営業許可、その取り消し・撤回、営業停止命令等々)は、この場合、まさに、私人が自らそのような苦労をしなくても、そもそも食中毒という事態が起きないように、行政が、前以てチェックをしてくれる、という意味を持っているのであって、上記に見たような考え方からすれば、これはいわば、行政の余計なお世話だ、ということにもなるであろう。
実際、「(専ら)社会の補完機能としての国家行政」又は、「自己責任社会へ
の移行」ということから導かれることとして一般に考えられているのは、「行政
による事前規制型の社会(システム)」から「事後救済型社会(システム)」へ
の移行、ということである。この考え方の背景にあるのは、次のような認識であ
る。すなわち、従来の我が国の行政は、根本的に社会(私人と言ってもよい)の
能力を信用しないことから、私人が何かを行うについては、まずもって行政庁に
よる審査・検査を受けさせ、その結果オーケーとなって初めてその行為に着手す
ることを認める、という規制のパターンを広範に採用することによって成り立っ
てきた(なお、もう一つのパターンは、行政が重要と考える活動に補助金を出す
ことによって、社会ないし私人の活動を、行政の思う方向へ誘導して行こうとす
るシステムであり、これまた、自己責任の原則とは相反する現象なのであるが、
この点については、ここでは深く立ち入らない)。例えば先にも触れた各種の営
業許可・事業許可等の産業規制から、輸出入の管理・為替管理等の経済規制、更
に、大学をはじめとする教育・研究施設の設置基準の設定・許可のような教育文
化規制、自動車運転免許・車検制度その他の安全規制、等々、こういったパターンの規制行政は、行政各分野に極めて広く存在している。こういった規制は、一方で、いわば私人が間違いを犯すことが少なく、そういった意味で安全な社会を維持するためには有効である、という側面を持っていることは間違いないが、しかし他面で、社会の活力・創造力を抑制し、ダイナミックな発展を阻害する、という難点をも持っている。これは例えば、いわゆる「教育ママ」の良い面・悪い面についていわれるのと同じことで、教育ママは、子供は放っておいたら間違った方向へ行くものと信じており、また、自分は絶対に正しいと思っているから、何事も子供の自由に任せず、一々その行動に介入し、事前規制をする。その結果子供は、無茶な冒険をして怪我をすることもなく、また、遊び呆けて学校の成績が悪くなるということもなく、いわゆる優等生として育つが、自分で自分の行動につき責任を持って決断するという訓練を受けていないから、常に誰かに頼らなければ生きて行けなくなる。これまでの日本の社会では、至る所基本的にこういったパターンの現象がはびこっていたのであって、例えば、現在白日の下に曝されている、証券会社と大蔵省との関係などは、まさにその典型例であると言ってよい。そして、今日その必要が強く叫ばれている規制緩和とかビッグバンとかいったことは、要するにこういった意味での事前規制を撤廃して、もっと、社会(私人)の能力と力を信頼し、その自由な判断でことを行える社会を生み出そう、ということなのである。その意味でそれは、教育ママだとか、学校による一律の生徒管理を廃止して、子供がそれぞれに持っている能力を自由に伸ばすことができるような教育システムに変えなければいけない、という教育改革論とも、根本的に同じフィロソフィーに立った考え方なのである。こういった意味での、「行政による行き過ぎた事前規制」の問題性は、ここでも、はっきりと指摘しておかなければならない。
2.「自己責任」の社会における行政法
では、我が国社会がこのような意味で自己責任社会へと変わって行かなければならないのだとするならば、そこでは、国家行政による私人の活動への介入は、そもそも不要となるのであろうか?それはもちろんそうではないのであって、それは、いわば、過保護な教育ママの問題があるからといって、子供に対して、親が全く自由放任であって良い、ということにはならない、というのと、同じことである。
例えばまず、国は、国民の身体・財産の安全を保障する、ということについて、重大な責任を負っており、この機能を全く否定するならば、それは、いわば、国家というものの存在をそもそも必要としない、というのと同義である。問題は、国が、このような責任を、どのような方法によって果たすべきか、であるが、先にも触れたように、(地方公共団体をも含めた意味での)国家が、この課題を、自ら全面的な責任を持って完全無欠に果たさなければならないものであるとするならば、それを実現する方法は、必然的に、(自己を含めた)人の生命・身体・財産に少しでも危険を及ぼすおそれのある行為の全面的な禁止と、事前の許可制度等を含む徹底した取り締まりでなければならないことになる。先に見たように、「自己責任」原則に立つ社会においてはこのような考え方はもはや採られないものであるとして、他方でしかし、国家機能の「補完」性を、いわば行政法を不要とする、先に見たようなシステムにまで、極端にまで徹底しなければならないか、と言えば、それは必ずしもそうであるとは言えないであろう。我が国での経験に照らしていう限り、製薬業だとか食品業のように、その生産物を摂取することが直接に健康被害に結びつき得るような産業活動については、なお、行政による事前の厳しい規制の必要が残されている、といわざるを得ない。それはそもそも、今日、市販されているある食品や薬品に有害な化学物質が含まれていないかどうかということは、一般の市民には判断できないのが通常であって、それは、科学技術の発達が然らしむるところであり、我が国のみならず、世界のいずれの国であっても、変わらない問題だからである。つまり、「自己責任」原則が妥当するためには、それを可能とするための、前提要件があるのであって、こういった前提が充足されないままに、いたずらに「自己責任」原則を振りかざすのは、許されない、ということである。
また、仮に、予め許可を必要とする、といったような形での事前規制が余計であるとしても、ひとたび問題が起きたとき、国として直ちに行動を起こし、その被害が更に拡がることを防ぐ、といった形での介入、つまり、監督行政庁による立入検査とか営業停止命令のような(その意味では事後的な)行政活動を行うシステムを備えておくことは、やはり必要であるといわなければならない。「事前型規制」から「事後型救済」へ、というとき、「行政による事前規制」の廃止が、直ちに「司法による事後型救済」へと直結するのではなく、その中間には、「行政による事後型規制」そして「行政による事後型救済」の道もまた存在し得ることを、忘れてはならないであろう。
しかし他面、傾向的な問題としていうならば、従来の我が国の、この種の安全
規制の中には、交通規制・建築規制(単体規制)・教育行政等を中心として、自
傷行為に対する事前規制、すなわちパターナリズムに基づく事前規制が余りにも
多過ぎるのではないか、という印象もまた、否定することが出来ない。すなわち、
子供が怪我をすることをあまりにも怖れ、あれも駄目、これも駄目、と一々親の
許しを得なければ行動することを許さない、過保護な親と同じような発想が、広
く存在するように思えるのである。そして、ここには、その反面で、私人の側に
も、自己の危険において行動することを避け、自己の安全すらをも全面的に集団
に預ける、といった、伝統的な集団主義の残滓が色濃く見られるように思われる。
今日我が国の国民に、果たしてまたどの程度、自律的精神と自己責任の自覚に基
づいた市民社会としての成熟度を認め得るか、という問題は、未だ大いに残され
ているにしても、今後21世紀における国家機能のあり方としては、まず以て、
行き過ぎたパターナリズムからの撤退を、その第一歩とするべきであると考える。
そしてこのことは同時に、国民の側でも、国家の保護を過大に期待せず、自らの
危険において(auf eigene Gefahr)行動することを原則とすることを意味する。
例えば、我が国と同じように、団体主義的傾向が強く、また国家行政に対する信
頼と期待が強いとされるドイツにおいても、この「自己の危険において」という
言葉は、極めて重要な機能を果たしていて、例えば、日本であったならば、「危
険につき立入禁止」と立て札が立てられるであろうようなところに、しばしば
「立ち入りは自己の危険において(Eintritt auf eigene Gefahr)」との表現を
見るところである。またこれは、市民の日常生活においても、しばしば、「それ
はあなたの(彼の)問題だ(Das ist Ihre (seine) Sache.)」として、他人のプライヴァシーや趣味に立ち入らないようにする(日本人からすると、時には甚だ冷たく見える)、ものの考え方に支えられてもいるのである。更にドイツの例を引くならば、ドイツでもむろん自動車運転免許という制度はあるが、運転免許は、一度取ったならば、一生有効で、免許の更新などという制度は無いということを、果たしてどのくらいの日本人が信じられるであろうか?そのかわりに、ドイツで自動車を運転し、人身事故を起こしたりしたら、その賠償額は、事故を起こした者の生涯の在り方に響くほどのものとなる。それ故に、彼の国では、自動車を運転する者は、否応なしに、高額の任意保険に加入して、そういった事態に備えることになる。これが、自己責任原則の上に立つ社会の、在り方の一例である。
三 「自己責任」の社会と行政法理論
以上は、「自己責任」の原則が、法律の規制の在り方そのものにどのような影響を及ぼすか、の話であったが、次に、こういった「自己責任」の原則は、行政法学上の「理論」にどのような影響を及ぼし得るかを検討してみることとしたい。但し、時間の関係もあり、ここでは便宜、1.国家賠償責任の例と、2.行政指導の例の二つを取って、簡単な概観をしてみるに止める。
1.国家賠償責任をめぐる法理論について
ご承知のように、我が国では、国家賠償法の定めるところにより、公務員による違法な公権力行使に基づく損害(国家賠償法1条)、及び公の営造物の設置管理の瑕疵に基づく損害(国家賠償法2条)の二つにつき、国等の行政主体が賠償責任を負うこととなっている。そして、国家賠償法成立後今日に至るまで、行政法学が行ってきたことは、いわば、如何にして、この法律によってカヴァーされる範囲を広げて行くことができるか、ということについての試みであった。そして、この国家賠償法適用範囲の拡大へ向けての動きを支えてきたのは、「被害者救済の拡大の必要」という理屈であった。こうして、今日、多くの学説においては、国家賠償法に基づく賠償責任が認められる範囲は、当初考えられていたものよりは、かなり拡大されたものとなっている、ということができる。
例えば、まず1条の責任については、そこでいう「公権力の行使」の概念につき、今日では、必ずしも本来の意味での「公権力の行使」でなくとも良く、非権力的な行政活動であっても、それが公の行政活動(公行政)として認められるものならば、この条文による賠償の対象となる、というのが、ほぼ、いわゆる通説・判例となっている。また、国家賠償法1条では、公権力の行使が違法であるだけでは駄目で、公務員に故意又は過失がなければ賠償責任は認められないことになっているのであるが、この「故意」又は「過失」の要件は、今日、その独立の意義がかなり曖昧となってきていて、「違法性」の要件との区別が必ずしも明確ではなくなっている。更に「違法性」の要件についても、必ずしも行政法学で従来前提とされてきた文字通りの違法、つまり「法令違反」ということではなく、「国に賠償責任を負わせるに値する行為の態様」とでもいった意味で、「国家賠償法独自の違法概念」なるものが主張されたりしている(いわゆる「違法性の二元論」)。とりわけ本日のテーマとの関係で注目されるのは、本来ならば、私人間の不法行為の問題であるような事案について、「行政の危険管理責任」という発想から、行政の介入義務が認められ、その義務を果たさなかったとして、行政活動の不作為の違法に基づく国の賠償責任が主張されるケースであろう。例えば、こういったケースで、最高裁まで争われた例として、悪徳不動産業者によって損害を被った私人が、「このようなことになったのは、宅地建物取引業法により、不動産業者に対して監督権限をもつ行政庁(知事)が、そのような権限(許可及びその取り消し等)を充分適正に行使しなかったことにも原因がある」として、地方公共団体に対し損害賠償責任を求めたものがある(最判平成元年11月24日、民集43巻10号1169ページ)。この請求は、(その理由が果たして適切であったかどうかは別として、いずれにせよ)高裁及び最高裁の認めるところとはならなかったが、第一審裁判所では認められ、地方公共団体に賠償が命じられていたのであった。
さてここで、国家賠償法理の詳細に立ち入ることは、時間の関係もあり、また、余りにも話が専門的になり過ぎるおそれもあるので、控えることとするが、ここで問題としたいのは、こういった国家賠償法理の展開を背後で支えている、先に見た、「被害者救済の拡大」という基本的な考え方である。「被害者はかわいそうであり、他方で国にはたくさんお金があるのだから、理屈はともかく、国が賠償してやれば良いではないか」という感覚は、一般の善良な日本人には受けの良い、従ってまた我が国には広く存在する感覚であるように思われるが、しかし、この素朴な感覚は、ともすると、国を、被害者をも含めた我々市民とは別個の存在で、従って、国に金を払わせても自分らの懐が痛むわけではない、という錯覚、(言葉を換えて言えば、国はいわば「金持ちの父親」であるという感覚)と結びついたものであることを否定することは出来ないように思われる。「自己責任」の社会においては、先に見たように、国は我々市民とは別個に存在する超越的存在なのではなくて、我々が我々のために設けている機構なのであり、従って、その在り方がどうであるかということにつき、我々は口を出す権利があり、また義務もある。この機構を維持するために、我々は税金を払っているのであり、従って、その税金つまり公金がどのように使われるかということは、いわば「他人事」ではないのである。このような感覚に立てば、「被害があればともかく国が救済する」というのではなく、それが、国の金を使って救済するべき正当な理由を持った被害であるかどうか、を、まずははっきりさせなければならない、という考え方になる筈である。
私は、こうして、「自己責任」の社会における国家賠償法理は、「被害者救済の拡大」を至上命題とするのではなく、まず以て、「何故に国が賠償しなければならないのか」についての理由を理論的に詳細に検討する方向に向かうものでなければならないと考える。被害者救済が拡大するかどうかは、その結果の話であって、何が何でも救済を拡大して国の賠償責任を広く認めようとし、実定法の解釈をも強引にそういった方向に引っ張っていこうとするのは、決して、「自己責任」の社会における国と我々市民との相互関係を的確に捉えた上での国家賠償法理であるとは言えない。その意味において、例えば、賠償責任成立要件としての、「故意」「過失」「違法性」といった概念につき、その意味と機能を曖昧にするようなこれまでの国家賠償法理が、今後も通用すべきものであるかどうかについては、かなりの疑問を抱くものである。
2.行政指導をめぐる法理論について
行政指導は、かつて、我が国社会に特有の現象であると考えられ、従ってまた、「義理と人情」とか「甘えの構造」といったこととの関係において、その特色についての説明がなされてきた。その限りにおいては、行政指導は、まさに、我が国社会の、上に見たような意味での集団主義的・団体主義的性格を代表するもの、としての位置付けがなされていたことになろう。しかし、注目しなければならないのは、我が国の行政指導類似の行政活動、すなわち、正規の法律による諸制度の外で、行政庁と私人との事実上の話し合いによって、事を運んで行く、という現象は、今日、必ずしも我が国だけではなく、アメリカ・ドイツ等の、法治主義・民主主義が高度に発展した西欧諸国においてもまた、その存在が認められ(いわゆる「非公式ないし不定形の行政活動」、informal administrative action, ないし informelle Verwaltungshandlungen) 、また、一定の程度において、その機能がむしろ積極的に評価されている、ということである。従って、行政指導のような「非公式な行政活動」一般が、すなわち「義理人情」や「甘えの構造」と不可分一体なものであるわけではないのであって、こういった現象を、広く世界的な現象の一環として捉えようとするならば、そこには別の観点が必要となるといわなければならない。私自身は、こういった見地から、試みに、「紛争文化(Streitkultur)の法原則」と「紛争回避文化(Streitvermeidungskultur)の法原則」という概念対を提言し、西欧型法治主義原則等、従来の行政法理は前者に属するのに対し、行政指導等の非公式な行政活動は、後者の領域に属するものである、との考え方をしてきた。私のいう「紛争文化」においては、人は権利を有する以上、権利のための闘争を行うべきものと考えられ、またそれが全ての法制度の前提となるが、これに対し、「紛争回避文化」においては、「紛争自体を回避する」ことに最大の価値が置かれ、権利行使の在り方も、この見地から、制約を受ける。私は、この限りにおいて、アメリカやドイツにおけるinformal administrative action と行政指導とは共通の性質を持っているのであって、これらの国においても、こういった「紛争回避」という考え方が必要であることが次第に認識されてきているのだ、というように理解している。
しかし他面、我が国の行政指導とこれらの国におけるこういった行政活動とが、全く同じものであるとも思えないのであって、その違いは、恐らく、「紛争回避」の態様にあるのではないか、と思われる。すなわち、我が国の行政指導に最も特徴的であるのは、行政庁が一定のことを要請するに当たり、「皆さんにそのようにして頂いています」とのみ繰り返して、何故それが必要か、ということについての実質的な説明を避けようとし、市民の側も、「皆がそうしているのならば、仕方がないか」という発想で、必ずしも本心から納得しているのではないにも関わらず、それに従う、というパターンである。これに対し、西欧諸国におけるそれは、行政庁側は、「何故それが必要か」また、それに従った場合の市民の側のメリットは何か、について、詳しく説明し、市民の側も、自分にとってのメリットデメリットを十分に考えた上で、それに対応する、という違いがある。つまり、西欧の場合は、相互の話し合いが「バーゲニング(交渉)」になっているのに対し、我が国の行政指導の場合には、しばしば、集団主義による圧力と屈服の関係でしかない、ということである。こうして、「自己責任」の社会において、追放されなければならないのは、こういった形での行政指導であって、行政指導それ自体が、「自己責任」と矛盾する、というわけでは、必ずしも無い。その意味において、「自己責任」社会において重要な行政指導のコントロールは、何よりも、そのような行政指導を行う「理由」を明らかにさせることであると考える。平成5年制定の行政手続法は、行政指導に対する法的な規制を初めて正面から行った法律として有名であるが、同法35条では、1項で、「行政指導に携わる者は、その相手方に対して、当該行政指導の趣旨及び内容並びに責任者を明確に示さなければならない」と定めると共に、同2項では、行政指導が口頭でなされた場合に、相手方が、こういった事項を記載した書面の交付を求める権利を、原則的に認めている。ここで言っている当該行政指導の「趣旨」の中には、当然「理由」が含まれると言うべきものであると同時に、もし万一この規定が死文に帰するようなことになったとすると …… そうなる要因は、行政側にも、また市民の側にもあるであろうが …… 行政指導に対して有効な法的制約を課そうとするこの法律の目的は、その、基本的な部分を達成できないことになるものといわなければならない。
また、裁判例において、行政指導の違法性を判断するに際しても、行政指導一般が違法とされるのではなく、その態様について、詳細な検討が必要であると共に、その際最も重要なポイントは、上に見たような、行政庁の説明責任が十分に果たされていたかどうかに置かれるべきことになる筈である。
四 結び
さて、以上、現在行われようとしている行政改革の背後にある、「自己責任」社会の実現という要請とはどのようなことであるか、を明らかにした上で、こういった要請が、行政法そして行政法理論にとって、どのような意味を持ち、どのような影響を与えるかについて、考察をしてきた。しかし以上に述べたことは、時間の関係もあるが、甚だ茫漠とした、方向示唆的なものに止まっており、その詳細については、別の機会に、著書・論文等の形で、明らかにすることを期する以外にはない。そのようなものであるにせよ、本日の話が、今後皆様がものを考えて行かれる際の、何らかの御参考となるならば、私にとっては望外の喜びである。
fujita@law.tohoku.ac.jp
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