ミツコ・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (4)


 


   

 

  第一次世界大戦が勃発すると、オーストリアと日本は敵国同士となった。両国の間で直接の戦火こそ交えぬものの、ウィーンに残った日本人はミツコだけとなり、「黄色の猿人種!」という罵声すら市井の往来では浴びせられことがあり、ミツコはボヘミアのストッカウ城に引きこもった。だが、大戦中期になると、ミツコも赤十字活動に奉仕し、馬鈴薯を詰めた袋を詰め込んで、自らも男装してガリシア国境の戦線を慰問したという。

 第一次大戦には、ミツコの長男のハンスと三男のゲロルフが参戦した。リヒャルトは胸に若干の疾患があって徴兵を免れた。長男ハンスは戦線の中でユダヤ人女性リリーと結婚して帰って来た。ミツコの心中は、ハンスには伯爵夫人として相応の身分のある女性と結婚させたかったようだ。ハンス夫妻はロンスベルク城に住み、二人の間にはピクシーという女の子が生まれた。

 第一次大戦が終わり、ミツコはウィーン郊外のメードリングに、不自由になった足をひきずりながら暮らすようになった。

 次男リヒャルトの著書『パン・ヨーロッパ』により一躍欧州文壇の寵児となり、パン・ヨーロッパ運動を起こした次男リヒャルトの活躍がミツコの耳に入ったのは、かなり後のことで、ひどく驚き、また喜んだという。リヒャルトの活躍により、新聞紙上ではミツコに対して「欧州連盟の母」(The Mother of European League)という表現が枕詞のように見られるようになった。

 晩年のミツコは、日本との関係もあって(特に大嶋浩駐独大使の働きかけが大きかったという)、ナチスの迫害に遭うこともなく、静かな余生を送った。故郷日本を思うことしきりであったという。

 1941年8月27日、ミツコは死去(享年67)。その時、ミツコを看取ったのはミツコの次女・オルガだけだった。

 ウィーン郊外のヒーツィン墓地にあるミツコの墓を訪れる吉永小百合

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