ミツコ・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (3)


 


   

 

 帰国後のハインリッヒは、父が死んでクーデンホーフ=カレルギー家の当主となったこともあり、外交官を辞して領地の経営に専心することとなった。クーデンホーフ=カレルギー伯爵領はオーストリアのボヘミア地方(現在のチェコ)とハンガリーにあったが、一家はボヘミアのロンスペルク城に居住した。このロンスペルク城での幸せな日々の間、二人はさらに5人の子供が生まれた。

 当時の伯爵家では、まだ言葉に慣れないミツコの為の語学教師・話相手役、子供たちそれぞれの家庭教師、料理人、子守、など十数人もの使用人を雇っていた。
愛しい夫と7人の子供に囲まれて幸せな日々を送っていたミツコだが、日露戦争が始まった頃、七人目の子供を産んだミツコはやせ細って、肺結核を発病した。一家は治療の為、南チロルのアルコに移り住んだ。この闘病生活が、ミツコが日本に帰る唯一のチャンスをつぶしたといえる。

 日本がロシアに勝つのとほぼ同時に、ミツコの病気もよくなっていたという。 一家はミツコの病気も治り、ロンスペルク城に戻った。

 しかし、1906年5月14日、夫ハインリッヒの突然の死がミツコを悲劇に陥れる。彼の愛情だけを頼りに、異国の地で頑張ってきたミツコにとって、その衝撃は計り知れない程大きいものだった。この夫の死を契機に、突如としてミツコは日本人形のような女性から、強い女性へと変身を遂げる。

 ハインリッヒは遺言書で全ての財産をミツコに相続させると書き残していた。これには親族一同が騒然とし、東洋人などに伯爵家を渡してなるものかとミツコに譲渡を迫る。しかしミツコは毅然として親族の起こした裁判に立ち向かい、これに勝った。夫の遺産を引き継ぎ、子供たちをウィーンの名門学校に入れ、伯爵夫人として社会的に活動を始める。

 また、この頃からミツコはウィーンの社交界にも顔を出すようになる。それまで、日本という国を知りもしなかったヨーロッパでは、日露戦争で大国ロシアを負かした国として注目の的だったこともあり、日本人であるミツコは、この社交界で花形的存在になる。ミツコは明治時代におけるヨーロッパへの民間大使のような働きをした。

 またこの頃、次男のリヒャルトがミツコに同行したサロンで、大女優イダ・ローランと知り合った。その後、リヒャルトはイダと駆け落ち同然に同棲を始めた。結婚を言い張るリヒャルトに対してミツコは激怒し、「名家クーデンホーフ家の御曹司ともあろう者が、相手に事を欠いで、河原乞食風情といっしょになるとは何事か。イダ・ローラン。−−ああ、あの魔女と相知った日に呪いあれ!」と言って、リヒャルトに勘当を申し渡した。

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