ミツコ・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (2)


 


   

 

  東京都公文書館に残る史料によれば、ハインリッ・クーデンホーフ・カレルギーと青山みつは1892(明25)年3月16日に結婚したことになっている。ハインリッヒの来日が同年2月であったことを考えるとあまりに早く、ここには戸籍業務の便宜上の作為があったと思われる。但し、翌1893(明26)年9月16日に長男ハンス(光太郎)が出生しており、いずれにしろ、スピード結婚であったことに変わりはない。(このスピード結婚の事情から、紅葉館奉公中に身請けされたという「金で購われた現地妻」説が出てくるのだが、真相は筆者には不明である。)

 しかし、当時の日本では女性が外国人男性と結婚するという事はもはや常識なり想像の埒外であった。この結婚が、公式の国際結婚第1号であっただろうとも言われる。当然、ミツコの父・喜八も当然猛反対であり、「代々りっぱにつづいてきた青山家から、わしの時代になって娘を毛唐などにさらわれたとあっては祖先に申し訳ない。」と言ってミツコを青山家から勘当した、という青山家遺族の話も残っている。(誇張あり?)

 またハインリッヒ側も由緒正しい伯爵家であり、東洋の娘などと結婚するということに対して相当の抵抗があった。しかし、ミツコとの結婚に関してはハインリッヒの覚悟は相当のものがあった。

 ハインリッヒには「卑属結婚」を貫けなかった暗い過去があった。青年少尉としてウィーンに勤務していた二十歳の時に、ハインリッヒはフランス人留学生マリーと恋に落ち、マリーの懐胎を機に二人は結婚しようとした。しかし、旧弊で専制的な父フランツが平民出身のマリーとの結婚を頑として認めず、ハインリッヒはドナウ河畔のオッテンスハイム城に連れ戻された。前途を悲観したマリーは、無二の親友の女性と共に、ピストル自殺したのである。

 ハインリッヒはミツコとの結婚と、また東洋人との卑賤結婚に対する批判からミツコを庇護する姿勢を貫いた。一つの逸話を挙げれば、東京・横浜に居留する全ヨーロッパ人に「もしわが妻に対し、ヨーロッパ女性に対すると同等の取り扱い以外を示す者には、何人を問わずピストルによる決闘をいどむ」と宣言した、という。正式の結婚手続きの前に、既に二人の間には光太郎(ハンス)・ 栄次郎(リヒャルト)という二人の男の子も生まれていた。

 日本での幸せな生活も束の間、夫・ハインリッヒにオーストリア帰国命令が出る。日本を離れる事にミツコは悩んだが、やはり夫について行く事を決め、子供たちを連れて両親や兄弟に別れを告げ、1896(明29)年春、遠い異国へと旅立つ。この時、明治天皇の皇后(昭憲皇太后) は宮中にミツコを呼び「遠い異国に住もうとなれば、いろいろと楽しいこともあろうが又随分と悲しいことつらいこともあろう。しかしどんな場合にも日本人の誇りを忘れないように。」と令旨を賜った。

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