ミツコ・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (1)


 


   

 

  青山みつ、後のクーデンホーフ・ミツコは、青山喜八とその妻津禰(つね)の三女として東京市牛込区納戸町で1874年7月16日に生まれた。

 青山家はもともと油屋であったが、同時に骨董商を営み、こちらの方が繁盛していた。同時に青山という姓が地名になったとも言われるほどの大地主であった。青山喜八は非常に保守的な奇人で、二十世紀になっても頭にちょんまげを残していたという。(青山家の墓は、三軒茶屋の正蓮寺である。)

 みつは尋常小学校を卒業したかどうかも怪しいと伝えられるが、これは町家の娘としては普通のことだったようである。稽古事には熱心だったようで、渡欧後の絵画や、琴や三味線を身につけていたということからも、青山家の教育熱心さが察せられる。

 その後、ミツコは和風高級割烹「紅葉館」の座敷女中として奉公に上がる。こう書くと、現代の視点からは「カラ行きさん」とダブってとらえられるかもしれないが、女子の学校が完備していない当時、娘を奉公に上げるというのは教育的、訓練的意味を持った点には留意が必要である。実際、紅葉館の女中は「一三、四から一八までの少女を集めてある」ということで、それより年の多い女性は師匠や指導者にとどまるための例外だったそうである。

 1892(明25)年2月、オーストリア=ハンガリー二重帝国代理公使としてハインリッヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵が赴任した。一説には、毎日のように馬を乗りまわして街の風物を見あるいていたハインリッヒが、青山家の店先で落馬した際にミツコが救護したことが二人の馴れ初めともいわれている。その甲斐甲斐しい働きぶりに心を打たれたハインリッヒに請われ、ミツコはオーストリア公使館に女中頭として奉公に上がることになったという。

 『国境のない伝記−クーデンホーフ家の人びと−』(吉永小百合・主演)
 
※左の役はRCKの父であるハインリッヒ・クーデンホーフ・カレルギー

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