ヨーロッパ統合の歴史(全6回)
−−『友愛』より転載 (現在連載中)

 


   

    

第3回 クーデンホーフ=カレルギーの活躍

 弱冠29歳のリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵(以下ク伯)は、1923年に出版された『パン・ヨーロッパ』によって、華々しくヨーロッパ文壇にデビューした。その後、自ら政治活動に乗り出し、そのパン・ヨーロッパ運動の盛り上がりによって、ヨーロッパ統合運動は現実政治の場に上ることとなった。

 ク伯の1920年代の成功には三つの要因があった。

 第一に、ヨーロッパ文明の没落という危機感に対する処方箋を、大英帝国とロシア(ソ連)を排除した独特のヨーロッパ統一の実現という構想に見出していた画期性である。第一次大戦後のヨーロッパに満ちた「古き良き時代」への郷愁と新しい秩序への渇望が、貴族階級出身の若い文人の構想を一層魅力的なものに見せたのかもしれない。

 第二に、ヴェルサイユ体制の下、ハプスブルク帝国下の諸民族が独立し、その「生存可能性」が問われていたオーストリア政府によるパン・ヨーロッパ運動への援助である。

 第三に、メディア政治の先駆という要因である。クーデンホーフ=カレルギー自身も文壇の寵児として持てはやされたが、それに加えて当時三大女優の一人と謳われた年上の妻イダ=ローランとの協同が大きかった。両者の活動は視覚化され、欧州メディアに大きく取り上げられた。

 こうしてク伯の運動は盛り上がりを見せ、1926年には第一回パン・ヨーロッパ会議が盛大に開かれた。1929年9月にはパン・ヨーロッパ運動の名誉総裁となっていた仏首相ブリアンが、国際連盟総会の場で「欧州連邦秩序構想」の演説を行い、ク伯の夢の実現も遠からぬ日のこととすら思われた。

 しかし、ブリアンの良き理解者であった独外相シュトレーゼマンが折り悪しく死去し、ニューヨーク株式恐慌に端を発する世界大恐慌の影響から各国の保護主義が強まったこともあり、ブリアン構想は頓挫した。

 その後、1930年代のク伯は悪戦苦闘を続けることとなった。全ヨーロッパ大の統合運動をひとまず棚上げし、ドイツとの合邦(アンシュルス)に代替するオーストリアの外交オプションとして「ドナウ連合」を構想したク伯は、オーストリア独特の権威主義体制を樹立したドルフス首相に接近した。さらに、ナチズムと対立する中、オーストリアの独立を守るためにムッソリーニに接近したク伯の戦略は、目立った成功を見せないまま、1937年の日独伊三国同盟の締結によって最終的に灰燼に帰した。

 1938年3月13日、ナチス・ドイツによってオーストリアは併合され、ウィーンのパン・ヨーロッパ事務局は占拠された。ク伯は、苦難の逃避行の末スイスに逃れた。さらにナチス・ドイツの攻勢の強まった1940年には米国への亡命を余儀なくされ、彼の地でヨーロッパ統合運動を続けることとなる。

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