クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助(1)


    


   

 

 永富守之助、後の鹿島守之助は、1896年に兵庫県揖保郡半田村(現揖保川町)で永富敏夫(撫松山人)の四男として生まれた。永富家は、名字帯刀(在郷家臣という特別待遇)を許された大地主であり、守之助も恵まれた環境で育ち、兵庫県立龍野中学校、第三高等学校から、東京帝国大学法学部を卒業し、1920年に外務省に入省した。

 1922年に外交官補としてベルリンに赴任した永富守之助は、現地の新聞を読み、政治・経済上の重要な動きがあればそれを要約して報告するという(現在の外務省で言えば「研修上がり」的な)業務を主としていた。

 ある日、守之助は、ベルリンの新聞紙上に載ったクーデンホーフ・カレルギーの論評を見て非常に感銘を受けた。この論評を本多熊太郎大使に報告したところ、本多大使はクーデンホーフ・カレルギーのパン・ヨーロッパ論にはあまり興味を示さなかったが、「クーデンホーフならよく知っているよ。近いうちに紹介してあげよう」と言って守之助を驚かせた。実は本多大使はウィーンの領事館に在勤していた折り、クーデンホーフ・カレルギー家と懇意にしていたのであった。

 ほどなく本多大使は実際にクーデンホーフ・カレルギーを守之助に紹介し、守之助はクーデンホーフ・カレルギーに非常に感銘を受けた。

      

永富守之助
(ベルリン領事館時代)
 
 

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