クーデンホーフ・カレルギーと鹿島守之助(3)


 

 

 鹿島卯女と結婚して鹿島姓となった守之助は、クーデンホーフ・カレルギーをほとんど崇拝するに至り、イタリア在勤後に外務省を辞めて、1930年の衆議院選挙に兵庫4区から立候補した。守之助の回顧によれば、選挙戦では「パン・アジア」「パン・アジア」と訴えたものの、兵庫の田舎では誰も理解してくれず3000票しか取れずに惨敗してしまったそうである。

 落選後の守之助は、鹿島組の経営者としての「帝王学」の修行もしつつ、外交評論家としてラジオ放送や経済倶楽部での講演活動を盛んに行っていた。近衛内閣では大政翼賛会の調査局長に就任して外交問題の調査にあたることとなった。

 次第に鹿島守之助自身の思想はパン・アジアからアジア主義、大東亜共栄圏というように、その内容を変化させていった。1941年2月の講演から引用すれば、「最近は寧ろゲーリングあたりの現実的な案が取り上げられて居ります(中略)最近大東亜共栄圏と云うことが、日本の国策として非常に大きな問題になって居りますので、独逸にもさう云う議論があるのに比較して、支那、仏印、蘭印から日本に必要な食料、例へば鉄、石炭、護謨、錫を得る云ふこと以外に、東亜全体に段階を付して経済的、政治的、軍事的にどうするか、と云ふことに就いて、細かく御考へを願って置かなければならぬ問題でないかと思ふのであります。」とある。

 また、1941年4月の朝鮮経済倶楽部での講演では、「然らば東亜新秩序は如何にして建設するか。これに就て「広域経済論」とか「大東亜建設」とかいったやうな本が沢山出てゐる。然し、私はそれらの本を読んで感心するやうなことは滅多になかった。又我が学者がたとへ正確なプログラムを予め作ってゐても、それは移り行く国際情勢の変化に依って変わって行くと思ひます。クーデンホーフはヨーロッパ連盟の案を作った。彼だけでなく其の他の多くの人もヨーロッパ連盟の案を作った。然しそれは今日では反古になってしまった。それは生きた歴史の変遷がさうならしめたのである」と言う。

 守之助の変容を批判するのは些か公平を欠くかもしれない。例えば、木村毅の回想によれば、日中戦争の激化した後の時期、日本側からは「不思議な反応」があったという。「頭山満の使者という人が、飛行機で漢口に飛んできていうのであった。この際クーデンホーフ・カレルギーを呼んできて、彼にアジア共同体の案を、重慶に申し込ませたらどうだろうと。」

 クーデンホーフ・カレルギー自身の思想も、戦間期から亡命時代、第二次大戦後と変容していった。それを受容した日本側でも「読み方」に変化が生じたということなのだろう。


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