リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (5


 


   

 

  欧州評議会(CE)の創設の後、新たな統合の動きが起こった。ジャン・モネ(Jean Monnet)が中心となって推進した「小欧州」である。このモネ流の「統合」は1950年5月のシューマン・プランに始まり、これが欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)を生み、1958年の欧州経済共同体(EEC)/欧州原子力共同体(EURATOM)の発足へ、というフランス主導の「欧州建設」(Construction de l'Europe)として展開した。

 こうしたモネ流の統合はフランスの「国益」によく資するものであった、という指摘が為されている。 その点こそが、RCKの構想と緊張関係を孕むものともなった。地理的な点に関して言えば、「小欧州」がオーストリア(さらには中欧諸国)を含まない形であったことである。また、その政策領域別の手法は、政治主導の統合観を持つRCKには違和感があるものでもあった。

 その後のRCKは、反共姿勢を強め、1952年にはシャルルマーニュ賞を受賞すると共に、シャルルマーニュ(カール大帝)のヨーロッパ復活を公言するようになり、懐古的な保守と見なされるようになった。

 1950年代のRCKは、ヨーロッパ統合運動を推進する傍ら、冷戦等の時事問題にも提言を行った。パン・ヨーロッパ会議も11回を重ね 、保守層に一定の支持者を得ていた。

 特に1958年のフランスでの第五共和制の成立以降は、RCKはドゴール大統領に深く傾斜するようになった。この点を、30年代のムッソリーニへの接近と併せて、権力者に半ば盲目的に接近するRCKの性向と批判的に捉える見解も存在する。 しかし、自己の構想を実現するためには、国家の後ろ盾を持たないRCKの場合、強力政治的指導者への接近は不可欠でもあった。

 もっともドゴールのヨーロッパ像とRCKのパン・ヨーロッパがどれほど共鳴していたのかは評価の難しいところである。RCK自身も「ドゴールのような個性の強い政治家との関係は難しい」旨を幾度となく漏らしている。

 RCKはその後も、精力的な活動を続けた。しかし、統合の「傍流」へと追いやられたRCKに、戦間期のような華々しい活躍は戻ることがなかった。この間、幾度となくノーベル平和賞候補にも推され、パン・ヨーロッパ創設五〇周年とされた1972年には、ジャン・モネとの共同受賞が強く働きかけられた。しかし、結局受賞することなく(この年はノーベル平和賞の受賞者なし)、同年7月にスイスのシュルンス(Schruns)で死去した。

 

coppet2.jpg

coppet3.jpg

 RCKの個人文書を保管している
ジュネーヴ大学欧州研究所史料館
 
(Coppet, Switzerland)
 
 

 前頁 RCK通信のトップへ 

  最初に戻る