リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (4)


 


   

 

 第二次大戦後に帰欧したRCKは、トルーマン政権の支持も得ながら、パン・ヨーロッパ運動の立て直しに取りかかった。

 この間、レジスタンス運動に起源を持つヨーロッパ統合推進団体が数多く出現していた。既に二度の大戦により国民国家の限界を露呈していた大陸欧州では、何らかの「統合」は不可避の情勢とも思われた。

 1946年3月のフルトン演説、同年9月のチューリッヒ演説・・・と、共産主義の脅威とヨーロッパ統合の必要性を訴えていたチャーチルは、こうした「統合」への趨勢を敏感に捉え、義息ダンカン・サンズ(Duncan Sandys)に統合推進団体の結成を委任した。チャーチルおよびサンズは、RCKとも親密な関係を保ちつつ、同時に自らがイニシアティブを取る形で47年5月に保守・中道リベラルのメンバーを集めて「統一欧州運動」(United Europe Movement: UEM)を結成した。

 UEMに主導権を取られる形となったRCKは、他のレジスタンス系の統合推進団体に対しても大衆運動としての盛り上がりという点で遅れを取った。そこで運動自体を、いわばニッチを狙ったものとする必要があった。そこでRCKが目を付けたのは、各国の国会議員層で、1947年9月にグスタードに十カ国から114名の議員を集め、ヨーロッパ議員同盟(European Parliamentary Union: EPU)を創設した。

 この反共主義者として知られたRCKが主宰するEPUは、西側統合を暗黙の前提としていることは明白であり、運動に広がりを欠いた。左翼的風潮の当時のヨーロッパでは、公然とソ連の脅威と西側ブロックの形成を説くRCKのような西側統合プランに対しては、それが戦争の防止や自主的ヨーロッパの建設という観点からむしろマイナスであると捉える反応が強かった。

 しかし、冷戦が激化する中で、RCKの運動も1948年5月7日から10日にかけてのハーグ会議という形で結実した。ハーグ会議はフランス代表のポール・レイノーが提案した「ヨーロッパ制憲議会」構想を退け、政府間主義に基づいて各国の議会代表から成る「欧州会議」の設立を決議した。

 ハーグ会議の結果を受けてビドー仏外相が欧州統合へのイニシアティヴをとり、その後の英仏の折衝を経て、結局1949年5月5日に英仏、ベネルクス、イタリア、スカンディナヴィア三国を含めて欧州評議会(Council of Europe: CE)規約が調印され、ストラスブールに本部を置いた。
 
 RCKの第二次大戦直後の運動は、ハーグ会議の実現に大きく寄与し、それが結果として欧州評議会(CE)の実現をもたらした。その後のCEの展開は、欧州連邦主義者の当初の期待には添わないものであったかもしれないが、それでもなお、特に1950年代には欧州諸国の政治家が集う一大フォーラムとして、欧州統合の新たなイニシアティヴが打ち出され、また議論を深める場としてかなりの役割を果たした。また、この欧州評議会の諮問議会は、欧州議会の源流となり、さらにRCKも関与してヨーロッパの歌やヨーロッパ旗の制定を行っている。

 RCK

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