リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (3)


 


   

 

 スイスに入ったRCKは以前から山荘を所有していたグスタード(Gstaad)に居所を構え、パン・ヨーロッパ運動の本部をベルンに置いた。この他にジュネーヴを「研究拠点」と位置づけていた。しかし、この時期の活動の本拠地はパリであり、かつての主家の正統継承者であるオットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg)と知り合ったのもパリであった。

 しかし、ナチスの攻勢が激しくなり、1939年にはナチス・ドイツがフランスを占領下に置くようになると、中立国スイスでの活動が次第に難しくなった。そこでRCKはリスボンに逃れ、亡命のための査証取得に奔走した。一時英国への渡航も検討したが査証の取得に手間取り、結局米国へ行くこととなった。

 米国亡命した当初のRCKは、講演旅行などを通してパン・ヨーロッパ運動の普及活動を試みたが、当初は財政的にも苦しく思うに任せなかったようである。1941年秋、カーネギー平和財団(Carnegie Endowment for International Peace)の理事長バトラー(Nicholas Murray Butler)のニューヨーク大学での寄付講座をRCKに申し出たことがこうした状況を一転させた。 このカーネギー平和財団による寄付講座「戦後ヨーロッパ連邦研究セミナー」は、RCKとザーヒャー教授(Arnold J. Zurcher)の共同セミナーとして1942年春学期に開設され、5、6名の大学院生が参加していたという。

 こうしてニューヨーク大学に活動の本拠を得たRCKは、アチソン(Dean Acheson)やダレス(John Foster Dulles)といった米国の要人に加えて、チャーチル英首相に対して積極的にアプローチをかけた。また、パン・ヨーロッパ運動ばかりではなく、オットー・フォン・ハプスブルクと協調しつつオーストリアの為の活動も行った、オーストリア亡命政府構想も存在した。

 RCKの米国での活動は、次第に賛同者を増やし、1943年3月にニューヨークで第五回パン・ヨーロッパ会議が開催された。この会議では、チャーチルがヨーロッパ統合に積極的姿勢を見せ始めた。さらにチャーチルは43年8月に、ローズヴェルトとのケベック会談において世界大の平和機構の下にヨーロッパ・アジア・アメリカの三つの下部機構を置いて各々を統合する、とこの統合構想を具体化した。

 しかし、こうした地域統合構想に対しては米国内にはむしろ警戒する声の方が強かった。米国が参加するとすれば議会の賛成を得られないであろうし、不参加であればヨーロッパからの米国締め出しが懸念されたのである。ウォルター・リップマン(Walter Lippmann)もそうした理由からパン・ヨーロッパ構想に反対した論者である。 また、「一つの世界」("One World")−具体的にはハル国務長官の国際連合の構想との関係が問題視された。

 しかしその後、1945年12月の『コリヤーズ』誌(Collier's) のRCKのヨーロッパ統合に関する記事にトルーマン大統領が感銘を受けたことから、これが『リーダーズ・ダイジェスト』誌Reader's digestに転載され、米国の「公式政策」とされるようになった。

 RCK

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