リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (2)


 


   

 

 ブリアン構想が挫折して、ドイツにおいてはヴェルサイユ体制に対する修正主義(リヴィジョニズム)の流れが強くなり、かつオーストリアでもドルフス首相(その暗殺後はシュシュニック首相)の下で、オーストリア独特の権威主義体制が成立した。(これをオーストリア・ファシズムと規定する論者もいる。)このドルフス政権に接近して、かつムッソリーニにも接近し、議会制民主主義に代わるコーポラティズム的な国内体制を確立し、イタリアを引き込む形でオーストリアの独立を守り、これによってナチス・ドイツに対抗しようとしたのが1930年代のRCKの活動である。

 このRCKの方針は、ドナウ連合(Donau-Union)構想という形を取った。これは農業国であるドナウ川流域諸国を大国である独伊と結びつける形で経済共同体を形成し、そこに将来的にはフランスや他の欧州諸国をも引き入れてパン・ヨーロッパを実現しようという構想である。 これは、「生存可能性」(Lebensfaehigkeit)が危惧され、ドイツとの合邦(アンシュルス)が最有力となっていたオーストリア外交に、別のオプションを提示するものであった。

 また、政治体制構想の観点から興味深いのは植民地の扱いである。RCKはイタリアのエチオピア侵攻を支持している。これはヨーロッパ全体にとってプラスになるという志向であり、この点は後述するように1950年代にまで基本的には続く考え方となっている。

 イタリア・ファシズムに対する接近と、ナチス・ドイツとの関係は好対照を為している。 この相違がどこに由来するかは従来の「ファシズム論」とも関連する論点であるが、RCKの場合にはユダヤ人に対する態度が決定的な差異をもたらしたものと思われる。RCKの夫人であるイダ・ローランは当時「ヨーロッパの三大美人」とも評された有名な女優で、ユダヤ人であった。また、反ユダヤ主義に関する著作で世上知られた父ハインリッヒと同様、RCK自身も終生ユダヤ問題に対する関心を持ち続けた。

 ナチズムと対立する中、これとムッソリーニを峻別して接近するというRCKの戦略は、目立った成功を見せないまま、1937年の三国同盟の締結によって最終的に失敗に終わった。これが明らかとなった1938年初頭に出版された小著に、RCKはこう記している。

「独裁体制はパン・ヨーロッパとは両立しない。なぜなら、一人の可死(mortal)かつ信頼できない独裁者の署名は連邦協約を維持するのに十分な保障を与えないからである。ここにヨーロッパ統一の難しさがある。パン・ヨーロッパは、被治者による統治者のコントロール無しには成立せず、つまりは欧州の多くの地域が独裁体制にある限り、不可能である。
 これは[パン・ヨーロッパ実現のためには]ヨーロッパ諸国の憲法が全て同質化されなければならないということを意味するわけではない。その反対である。パン・ヨーロッパの下では、君主制が共和制と共存し、中央集権国家が連邦国家と共存し、コーポラティズムが議会制民主主義と共存することができる。しかし、パン・ヨーロッパは人権を認めない国家を受け入れることはできない。」

 この直後の1938年3月13日、ナチス・ドイツによってオーストリアは併合されパン・ヨーロッパ事務局は占拠され、RCKはチェコスロヴァキア、ハンガリー、イタリアを経由する苦難の逃避行の末スイスに逃れた。

 RCK

  前頁 RCK通信のトップへ 次頁 

  最初に戻る