リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの生涯 (1)


 


   

 

 RCKが『パン・ヨーロッパ』で華々しくヨーロッパ文壇にデビューし、その後、パン・ヨーロッパ運動を組織し、国際連盟総会でのブリアン演説(『欧州連邦秩序構想』)に結実した1920年代が結果的にパン・ヨーロッパ運動とRCKの最盛期であった。

 RCKは、1922年に独墺の新聞紙上でパン・ヨーロッパ構想を発表し、翌23年に『パン・ヨーロッパ』という単行本を出版した。その後、パン・ヨーロッパ運動を組織し、オーストリア政府の支援をも受けて、1926年にはパン・ヨーロッパ会議の開催にこぎ着けた。
 このパン・ヨーロッパ運動は1927年には仏外相であったブリアン(Aristid Briand)を名誉総裁に推戴し、ヨーロッパ各地の支部に於ける活動も盛んになった。
 ブリアンの支持を受けたパン・ヨーロッパ構想は現実の外交の場に上った。1929年9月に仏首相となっていたブリアンは国際連盟総会の場で、「ヨーロッパ諸国を経済的に近接させるならば、次に我々は諸民族を政治的にも結合させ、階級も相互に歩み寄るであろう」と、「ヨーロッパ合衆国」の提案を行った。独外相シュトレーゼマンもこの提案に支持を与えた。仏外務省はヨーロッパの二十六カ国の代表から委託を受け、30年5月にブリアン提案を具体化した覚書を出した。

 しかしこの覚書は、ヴェルサイユ体制を固定化しようという、いわばロカルノ条約の全ヨーロッパ版に過ぎない内容であった。既に29年10月には独外相シュトレーゼマンが死去しドイツ外交において修正主義が台頭し、またニューヨーク株式恐慌に端を発する大恐慌の影響がじわじわと出るにつれて、各国の保護主義が強まった。結局、このブリアン提案は「小協商」というフランスの同盟国以外には支持を得られず、棚上げとなり灰燼に帰することとなった。

 RCK

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