インターネットに掲示するにあたって

  本稿は、日本法の相続財産の法的現状が危険なものになっている状況をなんとかしたいという問題意識によるものである。フランスの公証人慣行を欠いたまま、民法176条と177条の物権変動の法理を継受した日本では、制度的信頼性を欠く登記制度のおかげで不動産の取引安全が構造的におびやかされている。民法94条2項を利用する超絶技巧の解釈論は、その危険を一定の範囲で救済してきたものの、相続登記をしないことを本権者の責められるべき事情と評価できないため、相続財産の取引には用いることができない。相続手続きが私的に柔軟に行われること、家庭裁判所と地方裁判所に相続紛争手続きが分離していること、法定相続人が戸籍によって簡単にわかることに依拠して取引安全を図ってきた相続と登記の判例理論が遺言の隆盛によって崩壊したことなど、多くの要素が重なって、日本法における相続不動産をめぐる紛争は、いわば複雑骨折をしたかのような混迷を呈している。このままでは、予定されている信託法の改正などもあいまって、アメリカのようにtitle insurance companyなどのtitle産業が必要な事態になってしまいかねない。

 発表媒体が市販されない報告書であるため、内容をインターネットに掲示することとした。研究の支援をいただいたトラスト60に感謝する。

水野紀子




相続財産の取引安全における「相続と登記」判例と表見理論

水野紀子

一、はじめに

 信託を民事領域に導入すると、大陸法を受け継いだ民法体系と衝突を起こすという問題がある。本稿ではその大問題を扱う余裕はとてもないが*1、その一つの論点、すなわち所有権の排他性・絶対性、一物一権性と信託との衝突に関連するものである。信託は、一物にそれぞれ独立したlegal rightとequitable rightが二重に成立する制度を前提とする。しかし大陸法の民法は、これらの権利が二重に成立するシステムと整合しない。ただ不動産については、一元的な登記システムがあるために、現行信託法は、第三条に「登記又ハ登録スヘキ財産権ニ付テハ信託ハ其ノ登記又ハ登録ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス」という規定を設けて、登記を優先しているので、この衝突がかろうじて表面化していないだけである。
 登記システムも英米法は大陸法とまったく異なっている。「英米法の登記制度は大陸法系諸国のそれに比べて、制度としては遅れているし非合理的な側面を残しているといえよう。それでもなお近代資本主義社会における土地取引を保障し得たのは、伝統的な私的不動産譲渡方法の存在とそれを支える専門法曹の存在(アメリカでは、さらにtitle insurance companyやabstract companyなどのtitle産業にかかわる企業の存在)であると考えられる」*2。このような登記制度のもとで、所有権の排他性も相対化して、非常に柔軟な信託という制度があり得たのかもしれない。そしてその破綻を防ぐ対抗原理として、きわめて強力な信認法理が機能してきたのだろう。
 それぞれの社会は、さまざまな要素が複雑系に関連しあって動いている。ある国の制度を導入する際に、その制度が前提としている条件をすべて備えることはもちろんあり得ない。同時に、明治時代に法制度を継受して日本が法治国家となったように、制度を導入することは必要な改革であることはいうまでもないから、われわれにできることは、制度の導入が副作用を起こさないように、その制度が前提としている条件をできるかぎり想像してそれが果たしている機能を補えるように準備することだけである。とはいえ、もちろん完全な準備もまた、とても不可能である。明治時代の法継受は、前提となる条件が異なりすぎ、いわば法体系のない社会に一から作り出すものであったから、かえってそれなりに新しい制度を移植することが可能であったのだろう。しかし日本の私法体系は、民法立法から100年あまりを経てそれなりに安定して運営されてきた。筆者は、現在立法作業が進行している信託法改正が、このような私法体系の安定にどのような副作用をもたらすのか、大きな危惧を抱くものであるが、本稿はまたその問題を対象とするものでもない。
 むしろ継受法である民法体系が前提としている母法に存在していた条件を、日本が欠いていたために生じた問題のひとつを対象とする。100年あまり経過しても、まだ継受法である民法と日本社会との矛盾は完全に解消されたわけではない*3。本稿で扱う問題は、相続不動産の取引安全であるが、この問題は、物権変動に登記を対抗要件とするフランス法を継受しながら、フランスに存在した証書謄写型登記制度や公証人慣行を欠き、表見相続人の法理を継受しなかった日本法が抱える問題である。

二、 相続と登記

  (1)物権変動の法理

 民法176条と177条の関係について、学説は多岐に分かれて議論してきた。明治41年12月14日の二つの有名な大審院判決が、民法177条の登記を必要とする物権変動の範囲を限定しないこと*4と登記なくては対抗し得ない第三者について制限説を採用したこと*5を、どのように評価するか、またそれを前提にどのような論理を構築するかについて、多くの蓄積がある。問題の根本にあるのは、民法176条と177条が母法とは異なる条件下にあることであり、つまり、不動産取引や相続に公証人がかかわらないために、日本では登記が母法のような安定した力を持たないことである。そのために日本では、一方で登記を信頼した第三者の保護の問題が深刻となり、他方では簡単に書き換えられる登記によって所有権者の所有権が脅かされる問題も生じる。
議論の基本が、一物一権主義のもとで第一の譲渡によって無権利となったはずの売り主が、第二の譲渡で有効に所有権を譲渡できる構造の論理的な説明をどのようにするかにあったことはたしかであるが、その議論をどのようにつきつめても、日本法の抱える構造的な問題点がそれほど解決できるものでもなかった。すべての物権変動に登記を要求する制度は諸外国に例を見ないにもかかわらず、学説の多くがおそらくは無理を承知で対抗問題たるべきことを主張し、対抗問題の原理枠をはずれた学説は、様々な利益考量から自由な解釈を組み立てるようになり、この領域における奔放な解釈論の展開は、学説が技巧を繰り広げる運動場のような観を呈するに至った。その中でももっとも超絶技巧の解釈論といえるのは、民法94条2項の解釈論であったろう。民法94条2項の解釈論が定着するにつれ、民法176条と177条の議論においても、無権利の法理を前提として公信力で第三者を救済しようという傾向が次第に強くなったように思われる。ドイツ法の公信力は、物権契約とそれに対応した民法体系・登記システムを前提とするものであるから、日本法との異質度はさらに大きいので、もちろんただちに輸入できるものではないが、公信力的な考え方は、取引安全を図れるという利点から、支持者を増やしていった。
 たしかに民法94条2項を利用して取引安全を図る法理は、日本の状況の中で、非常に便利な理論であったことは否定できない。しかしひとつには民法176条や177条の存在によって物権変動を処理している民法典の体系と整合的な説明ができないこと、また一方では、この規定の適用がいわば信義則的に裁判官の広範な裁量を可能にする規定で、裁判官にとっては便利であるが故に適用規範としては危険で不安定な性質を持つことから、民法94条2項の拡大傾向は、無条件に肯定できるものではない。そしてこの二つの理由は、内在的には深く関連している。所有権は、善意無過失の第三者が現れたことによって、ただちに危うくなるほど弱い概念ではないはずであり、訴訟の場における善意無過失の立証過程における裁判の限界を考えれば、なおさらである。したがって民法94条2項の万能性にいましばらくは頼らざるを得ないとしても、その限界を自覚した上で、将来的にはより根本的な制度的解決を図らなくてはならないだろう。また後述するように、学説の民法94条2項への傾倒とは別に、判例におけるこの法理の活用には虚偽表示というもとの性質の拘束から限界が守られており、学説が期待するように活用されてはいない。
 民法176条と177条の解釈論については、対抗関係とはなにかという問題と第三者の範囲の問題を区別して論じ、対抗問題と公信力の問題を区別して位置づける議論が本筋であろうと思うので、筆者自身は、規範構造説に惹かれるものを感じる*6が、十分に論じる準備がない。ここでは、相続と登記の問題に限定して論じることにする。

  (2)相続と登記

1)日本法の特色
 相続と登記の問題では、母法と日本法の相違は、さらに複雑で多様な要素が加わってくる。すなわちフランスの場合は、法定相続人の探索はそう簡単なものではないが、相続に関する手続きは、公証人が関与して遺留分にも配慮して確実に行われ、その過程で均分相続の原則は、日本より遙かに厳格に内容が確保される。しかし日本では、法定相続人は戸籍によってごく簡単にわかるものの、相続に関する手続きは、逆に私的にきわめて柔軟に行われる。遺産分割協議書や相続分皆無証明書の提出による合意により実質的な家督相続を行うことも可能であれば、その合意が真実のものであるのか、登記名義人の偽造によるものであるのかも、必ずしも確かではない。さらに私的な水面下の手続きのみではなく、裁判所に紛争が継続することになっても、家庭裁判所に帰属する遺産分割手続きと地方裁判所に帰属する遺留分減殺請求手続きが分離している。これらの要素がすべて重なって、相続不動産を巡る紛争は、いわば複雑骨折したかのような混迷を呈している*7

 2)法定相続人の探索可能性を基礎とした判例理論
かつて筆者は別稿(1992年に公表した「相続回復請求権に関する一考察」*8。以降、前稿として引用する)で、法定相続人の探索が日本は戸籍制度の存在のおかげで、母法のドイツ法やフランス法と異なっていることについて、検討したことがある。前稿の記述とかなり重複するが、再びこの観点から、問題を分析してみたい。
 戸籍と異なる身分証書制度の下では、相続人が公示されない。相続人は相続財産の取引をはじめとするさまざまな場面で自分が相続人であることを証明しなければならないが、その方法は戸籍制度下のように簡単ではない。ドイツ法では、この証拠を遺産裁判所が作成する相続証書によらせている。フランス法では、このような証拠が要求される場面に応じて証明方法が異なる。たとえば残高のあまり多くない銀行預金は市長の作成する相続証明書により、土地の公示に服する不動産物権は公証人による証明により、証明される。また公証人の実務は、公知証書と財産目録の表題部による簡便な立証方法を慣行としている。
 相続人と自称する者が、これらの証明を得ていても、相続人でないことはありうる。表見相続人と取引した相手方の保護は、身分証書制度下では、戸籍制度下よりも必要となる頻度がはるかに高いであろう。したがってドイツ法もフランス法も表見相続人を信頼した相手方に対する保護制度を設けている。ドイツ法では、相続証書の作成とその公信力によって相手方は保護される。フランス法では、表見相続人の理論が相手方を保護する。
 しかし日本法においては、これらに対応した保護の制度がない。このために、相続財産の取引の相手方は、表見相続人の相続権がさかのぼって否定されたときには無権利者から買ったこととなり、まったく保護されないことになる。相続財産の取引をきわめて危険に満ちたものにしかねないこの保護の欠落が、明治民法立法時に問題にされなかったのは、フランス法の表見相続人の理論が判例法であって民法上に条文をもたない制度であったことが影響していると思われるものの、基本的にはやはり戸籍制度が存在したためではなかったであろうか。明治民法の立法者たちは、戸籍制度のもとで相続人が高い信頼度をもって公示されるという日本相続法の特殊性を、たとえそれと明示はしなかったにせよ、自ずから認識していたものと思われる。
 たとえば、指定家督相続人制度である。この制度は、戦前の日本法においては、法定相続に対する自由相続を代表するものとして、遺贈よりむしろ重要な地位を占めていたと筆者は考えている。機能的にはフランス法の包括受遺者やドイツ法の相続人指定に近いものであったと評価できよう。明治民法の立法者は、この指定家督相続を戸籍に記載されるまでは効力を生じないこととした。信頼性の高い戸籍と相続登記を連動させて、相続財産の取引をできるかぎり安心できるものとしたのである。
 相続回復請求権の短期消滅時効の立法の際にも、戸籍に明示された相続人を早期に確定して相続財産の取引の安定化を考える要素が、おそらくある程度はあったのではないか。法典調査会の議論では、「家督相続等ノ事ハ可成早ク極マリマセヌト其家ノ組織上延テ第三者ノ利害ニモ余程関係ヲ及ホスコト」であるとして家督相続争いの早期決着の必要性が指摘されているにすぎない。しかしこの短期消滅時効が遺産相続にも準用されていることから考えても、家督相続争いの早期決着の内容としては身分権的な戸主権の早期確定の必要性のみには解消されない、このような取引の安定化の意識があった可能性がある。比較法的な相続回復請求権の当事者構成に反しても、学説が第三者の短期消滅時効の援用権を主張したのは、立法者があるいはもっていたであろうこのような意識、つまり戸籍上の相続人の早期確定によって取引を安定化しようとする意識を反映したものであったと評価できるかもしれない。しかし判例は相続権を争う表見相続人と真正相続人間という相続回復請求の当事者構成を崩さなかった。相続回復請求のなかに短期消滅時効を利用した第三者保護を取り入れることには、無理があったためと思われる。
 相続人を公示する戸籍制度の存在は、相続の外観と実体が一致する確度が高いことによって第三者の信頼が保護される確率が事実上高いということに所詮はすぎないから、戸籍上の法定相続人が無権利者となったときに第三者が保護されないという問題は、わが国の相続法の基本的な問題点となった。表見相続人と取引した第三者の保護の問題を根本的に解決しようとする学説は、加藤一郎教授の示唆するドイツ法の立法にならう立法論か、もしくは、フランス法の表見相続人の理論の導入を図る解釈論、つまり具体的には、古くは近藤英吉教授によって提唱され、広中俊雄教授や伊藤昌司教授によって近時再評価されている民法32条1項但書の類推適用説を提唱することになる。しかしこれらの学説は、立法論はもちろん実現しておらず、解釈論も判例の採用するところとはなっていない。
 戦後になって、家督相続が廃止されたため、隠居した前家督相続人が生前相続が生じたにもかかわらず第三者に譲渡するという大審院連合部明治41年12月14日判決民録14輯1301頁のような事件は起こらないことになった。また家督相続の場合には、家督相続の届出によって戸籍が新戸主の名の下に再編製されるという戸籍慣行の意味も大きく、この戸籍編製が行われた段階で相続が正式に生じるという意識を持つ国民は少なくなかった。死亡と同時に当然相続が生じているという法的効果は、必ずしも国民意識に合致したものではなかったのであり、それは法律家はともあれ、現在でも国民の常識とは必ずしもなっていないであろう。おそらくかなり多くの国民は、遺産分割の結果、相続が生じると認識しており、相続紛争が生じる可能性が高い場合には、兄弟間での争いを避けようと遺産分割を先送りするケースも少なくないと思われる。
 家督相続においては相続人が一人であるために生じない問題であったが、戦後の共同相続においては真実の相続分と異なる相続分の相続登記が深刻な問題となった。真実の相続分と異なる相続登記の問題は、共同相続人間においては遺産分割請求によって解決されるべき問題であって、相続回復請求権が対象とする共同相続人間における表見相続の問題ではない。したがって本来は、表見相続人の法理で解決されるべき問題、つまり表見相続人と取引した第三者保護の問題とも異なる。しかし先述したように、日本では、法定相続人こそ簡単にわかるものの、私的にきわめて柔軟におこなわれる相続手続きによって(かつ根本的には日本の登記に公証人慣行を欠くことによって)、相続の結果として行われた登記が、遺産分割等の結果による単独相続登記であれ、共同相続人間の均分相続登記であれ、その登記が真実のものであるのか、登記名義人の遺産分割協議書や相続分皆無証明書(あるいは近時の判例によって認められた相続させる旨の遺言)の偽造によるものであるのかも、必ずしも確かではない。
 この問題に直面した最高裁は、大審院連合部明治41年12月14日判決民録14輯1301頁の結論を翻して、相続による取得は登記がなくても第三者に対抗できると判示した。遺産分割協議書などを偽造して法定相続分と異なる登記をした相続人と取引をした第三者に対しては他の共同相続人は法定相続分の限りで登記なくとも対抗できるとする最高裁昭和38年2月23日判決民集17巻1号235頁である。これは大きな決断であった。取引安全の優位になりがちな民法解釈学の傾向に反する判断ではあったが、均分相続を実効化する意義は大きく、また相続法の民法原理に立ち戻れば、ある意味では当然の結論でもあった。この原則をたてた上で、最高裁は、「相続と登記」といわれる一連の判例を構築していくことになる。「相続と登記」の問題は「共同相続と登記」「遺産分割と登記」「相続放棄と登記」「遺贈と登記」等の諸問題に分けて論じられ、判例もこれらの場合ごとに、さまざまな結論を採用している。この状態に、「通説・判例は、あるいは対抗問題として、あるいは絶対的な遡及効の問題として、あるいは当然の無権利の問題として、個々別々に処理してきたけれども、それらの区別の根拠も、必然性も明白ではなかった」(伊藤昌司教授)*9と批判される側面があることは、否定できない。
 筆者はこの判例の方針について、かつて前稿で以下のように位置づけた*10。判例通説の採用してきた結論は、戸籍制度をもち法定相続がほとんどであった日本法のもとでは、実際の必要に応じるものとしてそれなりの合理性があったと評価できるように思われる。すなわち、判例は、実際の相続分と異なる相続登記があったときにその登記を信頼した第三者を救済するにあたって、第三者が信頼した登記が法定相続分に合致したものであるときにはその第三者を保護することとしたといえよう。前掲・最高裁昭和38年2月23日判決をはじめとして、遺産分割により法定相続分と異なる権利を取得した相続人はその旨の登記を経なければ分割後に権利を取得した第三者に対し対抗できないとした最高裁昭和46年1月26日判決民集25巻1号90頁などはこの観点から評価できるであろう。これらの「相続と登記」に関する判例理論によれば、被相続人の所有であった不動産の売買にあたって、売主となる相続人の法定相続分にあたる持分を買う相手方はほぼ保護され、相続分以上の持分についても戸籍によって簡単にわかる相続人に確認してみるという注意を払えば、たいていの場合は保護されることになる。とくに、法定相続に優先させると深刻な例外となる遺贈について、法定相続を信頼した第三者を保護するために、最高裁昭和39年3月6日判決民集18巻3号437頁は、論理的にはかなり無理な構成であるにもかかわらず、法定相続分に相当する相続持分を差し押さえた債権者と受遺者の間に対抗問題が生ずるとした。この判例に対しては、遺贈の効果は相続開始と同時に発生するのであるから遺贈後の二重譲渡はありえないとする学説の批判があるが、判例に賛成する有力な学説の論拠のひとつが、戸籍という公示制度がある相続の場合と遺贈の場合とでは「これを同日に論じることは妥当でない」(幾代通教授)*11という点であったのは、注目に値する。この論点は、わが国の戸籍が相続人の公示制度として信頼のおける制度であることを反映して、それを信頼した第三者を救済することに、正当性があることを指摘するものであろう。このように「相続と登記」に関する従来の判例による解決が前提としていたのは、相続のほとんどが法定相続にしたがって行われること、法定相続人の範囲が狭く限定されておりかつ戸籍によって容易に確認されること、相続登記が戸籍と連動して行われること等の日本特有の事実であった。すなわちこれらの事実を前提に、判例はできるだけ戸籍上の相続人を信頼した第三者を保護することによって、相続財産の取引を安定化しようとしたのではなかったか。
 本来は非常に不安定なわが国の不動産取引が、それにしては一定の安定性を保って行われ得てきたといえるとすれば、少なくともそのひとつの原因は、信頼性の高い戸籍とそれに依拠した登記制度の機能であったのではなかったであろうか。すなわち戸籍から判明する法定相続分の範囲でだけ登記を信頼した第三者が保護されることにより、戸籍制度が登記と結び付いて一種の公信力を持つ存在として機能してきたのである。
 以上の前稿における筆者の分析は、「我が民法における表見相続人の法理を、戸籍上の法定相続人を真の相続人と信頼した第三者を保護する理論と解しており、遺言の増加によって法定相続が必ずしも実態と一致しない事態のもとでの紛争を、この意味での表見相続人の法理によっては処理できないとする」*12と紹介されているが、たしかに前稿での重点は遺言の増加によってこの判例によるある種の均衡が破られていることに重点を置く既述となっていた。具体的には次の通りである。「不動産価格の高騰にともなって遺言が従来よりはるかに増加し、また遺言執行者の定めを伴う公正証書遺言のケースが増えたことによって、判例が相続財産の取引の安定化の前提としていた前述した日本特有の事実が失われる傾向にある。いいかえれば、相続人を戸籍に公示することに依拠してきたわが国の相続法は、法定相続を変更する自由相続に対して、相続財産の取引安定という側面では基本的に非常に無防備な構造となっている。唯一、この弱点を持たない自由相続の類型であった指定家督相続人制度は、戦後廃止された。家督相続が主要な相続であったために、遺言相続が相続財産の取引にもたらす危険性を、明治民法の立法者たちは十分には認識していなかったのではないであろうか。受遺者と差押え債権者間を対抗関係とした前掲最高裁昭和39年3月6日判決にもかかわらず、この無防備な構造は解決されていない。たとえば、遺言執行者が存在すると民法1013条の規定によって法定相続人が処分権を失うが、最高裁昭和62年4月23日判決民集41巻3号474頁は、この場合に相続人の処分行為の相手方に受遺者が登記なくして対抗できると判示した。法定相続人とその法定相続分の相続財産を取引しても安心できない場合が、遺言執行者のある遺言の増加によって一挙に拡大すると思われる。わが国の相続法のかかえる構造的な難問である」*13、と。
 前稿執筆後10年あまりを経て、遺言によって最高裁が築いてきた「法定相続人とその法定相続分の相続財産を取引する」限りで保障された取引安全が崩される傾向は、相続させる旨の遺言による相続分の変更を登記がなくても第三者に対抗できるとした最高裁平成14年6月10日判決判例時報1791号59頁*14等によって一層、深刻さを加えている。
 たしかに遺言によって取引安全は脅かされてはいるが、しかし前稿執筆の段階では、遺言のない法定相続による場合であっても、取引安全にとっては基本的に致命的な弱点を抱える日本法の問題を十分には強調できていなかったかもしれない。最高裁の「相続と登記」に関する判例理論が取引安全を図ってきた成果についても、売主の共同相続人が戸籍で判明するとしても、買主はいちいち売主の共同相続人にまで遺産分割の事情を確認することはないという実際の取引慣行を視野に入れると、やや甘すぎる評価をしていたように思われる。
 学説は、最高裁昭和38年2月23日判決民集17巻1号235頁以降、登記を利用して対抗問題として取引安全をはかろうとする我妻説などを乗り越え、民法94条2項を類推適用する表見法理で解決しようとする学説が通説化しつつある。この学説傾向は、1983年のジュリスト増刊号に収録された高木多喜男教授の報告とその後の討論を契機に決定的になったように思われる*15。最近の有力な教科書・解説書にもこの民法94条2項による解決方法がそれほどの説明なく採用されている*16。かつては学説においても、真正相続人の意思的関与がなく、単に単独占有を放置していただけでは真正相続人の帰責性がないから、94条2項を類推適用することは疑問であるという反対論が強かったし、ごく最近の米倉明教授の論文も事実認識として民法94条2項は所期の目的をほとんど達成し得ないから立法を待つしかないとするが*17、学界全体としては、近時はやや傾向が変化しているようである。
 筆者は前稿でも「共同相続と登記の問題についてのまた不動産取引の表見法理として民法94条2項を類推適用する解釈論が拡大活用される傾向にあるが、真正相続人と表見相続人の虚偽表示類似のものとして民法94条2項を類推適用することには難点が多いであろうから、この方法によっては表見相続人との取引相手方の保護をカバーすることは難しいのではないか」*18と述べたが、その趣旨を詳述しなかった。また前稿では、民法32条1項但書を類推適用する表見相続人の法理の適用領域と、民法94条2項にでもよらなければ救済されない領域の区別を明示的に詳しく述べた上で論じることをしなかった。相続と登記の判例理論を発展させると、法定相続分通りの相続分はそれぞれの相続人の権利として守ることを基準として、表見法理を用いる方針になるが、その表見法理について迷いがあった。民法94条2項は、相続では用いにくく、またあまりに基準のない危険な万能薬であるため、民法94条2項ではなく、むしろ法定相続分通りの相続を正当な相続として、民法32条1項但書を用いる可能性を考えないではなかったからである。しかし法定相続分通りの相続は日本ではむしろ例外であり、最高裁が指定相続分についても登記なくして対抗できる立場を採用したからには、法定相続分通りの相続を基準とするなんらかの表見法理の工夫は難しくなったと思われる。民法32条1項但書の適用領域を、本来のこの法理の領域に限定して論じてみたい。
 まず第一に、相続回復請求権が適用になるような真正相続人と表見相続人の争いとなる領域がある。この第一領域の理解についても学説は必ずしも一致していないが、筆者は、この領域は遺産分割請求の紛争領域とは明らかに異なる領域であり、表見相続人が真正相続人の相続人としての地位そのものを否定している場合、具体的には身分関係の訴訟と重なる紛争領域であると考える。真正相続人が表見相続人よりも先順位で相続人となるべき地位にあり、本来は表見相続人はまったく相続権を持たないという場合もあるが、真正相続人と表見相続人が同順位の共同相続人、たとえば兄弟で、表見相続人が真正相続人が兄弟であることを否定しているという場合もある。身分証書制度下にあり血族相続人の範囲の広いヨーロッパ法においてはこのような紛争領域が少なからず生じるが、戸籍制度下にある日本では、わらの上からの養子のような例外的場合のみであり、ほとんど生じない。最高裁大法廷昭和53年12月20日判決民集32巻9号1674頁は、最高裁がこのような相続回復請求権の適用領域にまさにふさわしい結論を下したものと理解できる。日本の相続回復請求権制度は、母法と異なり、短い期間の消滅時効を定めているから、その表見相続人がその消滅時効を主張することによって、結果的に取引相手が救済されるということはありうる。多くの学説は、この短期消滅時効を表見相続人から相続財産の権利を取得した者が援用できると解して取引安全に利用しようと提言してきたが、判例は大審院以来、一貫して援用を否定し、援用権者を表見相続人に限定してきた(大審院昭和4年4月2日判決民集8巻237頁)。もっとも後に詳しく検討する最高裁平成7年12月5日判決判時1562号54頁は、「甲が単独相続をしたと信ずるにつき合理的な事由がないために、他の共同相続人に対して相続回復請求権の消滅時効を援用することができない場合には、甲から右不動産を譲り受けた第三者も右時効を援用することはできないというべきである」と判示しているから、表見相続人が消滅時効を援用することができる場合には、第三者も援用することができるとも読め、そのように理解すると大審院判例を変更したことになる*19。しかしいずれにせよ相続回復請求権の適用領域は、最高裁判例ではきわめて限定されているから、消滅時効を用いての取引安全ははかれない。本来失踪宣告の取消の場合に適用される民法32条1項但書を類推適用して、表見相続人と取引した相手方の保護をはかる表見相続人の法理が適用になるのにもっともふさわしいのは、この領域であるといえるだろう。戸籍に依存して法定相続人決定が行われる日本で、真正相続人が戸籍上に現れていなかったけれども人事訴訟の結果として戸籍が訂正されたような場合に、表見相続人の法理が制度的に適用されるのは、自然であるからである*20
 以上の第一の紛争領域に準じて考えられる第二領域は、法技術的に戸籍上の相続人に相続権がなかったとされる場合である。相続欠格や遺言による廃除の場合、また相続放棄(最高裁昭和42年1月20日判決民集21巻1号16頁)の場合などである。これらの場合はあくまでも法技術的な結果として相続権が奪われるので、最初からまったく相続権がない第一領域の場合とは問題の性質によっては区別して考えなければならないが*21、ここでは、人事訴訟の結果として戸籍訂正がされた結果そもそも売主の相続権がなかったことになる等の第一領域に準じて考えることができるだろう。「相続と登記」による最高裁判例によれば、第一領域もこの第二領域も第三者は救済されないが、人事訴訟や相続欠格は稀なことであり、相続放棄は期間が限られていることによって、不動産取引の安全を大幅に害するほどの例外とはならないと、最高裁は考えたのかもしれない。しかしこの領域も取引安全を図る必要があり、そのためには、民法32条1項但書を類推して、表見相続人と取引した相手方の保護をはかる表見相続人の法理を適用するのがふさわしいであろう*22
 問題は、それ以外の紛争領域である。法定共同相続人が戸籍上に記載され、相続権も失わなかったが、共同相続人の一部による相続登記の無断の書き換え等のなんらかの事情によって特定不動産の登記がその相続の結果と異なる表示がなされていたために、登記を信頼した第三者が出現したという場合であり、(2)1)で既述した日本法の特徴的な構造的弱点が現れる問題である。ここが量的にも質的にも最大の問題領域であり、解決のめどは立っていない。「相続と登記」の判例理論は、さまざまな利益考量をしてこの領域の取引安全を図ろうと試みた集大成であったといえるであろう。しかしこの判例理論は、日本人が遺言をのこさない習慣を持つことと法定相続人が戸籍で簡単にわかる構造にあることに依拠したものであり、遺言が増えると安定性を欠くばかりか、本当は法定相続の場合においても、必ずしも取引安全を保障するものとはいえなかった。不動産の買主は、売主が登記名義人である場合に、売主の所有権存在を前提として行動するものであり、売主の共同相続人すべてにあらかじめ遺産分割の経緯などを尋ねて確認してから購入しなければならないという判例法理による要請は、実際の土地取引の実情からは遠いものだったからである。
 前述したように、学説の多くは、民法94条2項の適用によって第三者を救済し、取引安全を図ることを主張する。また共同相続人間の相続実態と合わない登記名義については、取得時効を利用して解決することを提言する学説が有力である。しかしこれらは判例の容れるところとはなっていない。
 民法94条2項を用いたときの適用上の難点は、権利者の帰責事由を構成しにくいという点である。この難点については、高木教授も前述した1983年のジュリストで次のように指摘していた。「最初に、甲の側の事情から考えます。乙が不実の登記をしたのにそれを放置していたという事情だとか、あるいは、共同相続登記を怠っていたとかいうような事情が考えられます。まず、不実の登記を放置していたという事情が甲の帰責事由となりうるかということですが、こういうケースでは、乙が不実の登記をしますとすぐに第三者に処分してしまうことが、多いだろうと思いますので、放置が帰責原因として問題となることは、あまりないと思います。次に、甲が、単独で申請できる共同相続登記を怠っていたということが帰責事由となりうるかという点です。共同相続登記をしておけば乙の不実の単独登記を防げるのであれば、共同相続登記の懈怠も帰責事由となりうると考えられますが、必ずしもそうはいえないのです。共同相続登記をしていても、遺産分割協議書を偽造して、単独名義の登記をしてしまうということも可能です。ただ、阻止できないけれども、長期間それをしないで放置していたということが、乙の不実登記の誘因となったという程度のことはいえると思います。問題は、このような事情が九四条二項の類推適用をする場合の甲の帰責事由になりうるかにあります。少なくとも現在の判例理論は、不実の登記の黙認までは、帰責事由となりうるとしていますが、そういう考え方に立つと以上の事情はどうも帰責事由とならないように思えます。ただ、先程申しました善意者保護のためにはこの点は、拡大解釈をして、この程度でも甲の側に帰責事由があるといってもいいのではないかと思います」*23。しかしこの拡大解釈は、そう簡単になし得るものではない。
 次に、相続人間で正式の遺産分割手続きがなされないまま(あるいは正式な遺産分割手続きがなされたことの立証に成功できずに)、事実上、共同相続人の一人が遺産を占有管理している場合に、これを法的に確定させる手段として、取得時効を法定証拠として活用しようとする学説の試みがある*24。しかしこの点についても、最高裁判例(最高裁昭和47年9月8日判決民集26巻7号1348頁)は厳格であり、単独占有が自主占有であることが必要であり、占有者が他に相続分を有する共同相続人のいることを知らないため単独で相続権を取得したと信じて不動産の占有を始めた場合など、その者に単独の所有権があると信じるべき合理的な事由があることという時効成立要件をかけている。したがってその占有者が登記を取得していたとしても、占有者から譲渡を受けた善意の第三者は、自分自身の取得時効を独立に主張するのならともかく、譲渡人である占有者の占有期間をあわせて主張することはできない。
 近時の最高裁判例に、まるで教室事例のようにこの問題が典型化して現れて、善意の買主である第三者を守ることができなかった事件がある。この種の事案は、判例として活字になることこそは少ないかもしれないが、事例としてはさほど特徴的ではなく、いわばどこにでも誰にでも生じうる可能性のあるケースである。次にその判例のケースを検討して、現在の法状況を確認してみたい。

 3)最高裁平成7年12月5日判決の事案に典型化してみられる問題*25
 最高裁平成7年12月5日判決判時1562号54頁の事案は、以下の通りである。係争対象となった230坪の土地は、被相続人Aの所有であったが、昭和26年4月にAが死亡し、相続が開始している。相続人は、Aの息子B(相続分3分の1)、Aの養子C(相続分3分の1)、Aの長女でCの妻D(昭和19年死亡)の代襲相続人として、X・E・F(それぞれ相続分9分の1ずつ)であった。昭和32年11月にBが遺産分割協議書によって自己の単独名義に相続登記をしている。土地を占有していたのは、相続以来Bであった。Yは昭和56年6月にBからこれを購入し、売買を原因として所有権移転登記を得ている。約23年間以上にもわたって、譲渡人Bが単独の所有者として他の共同相続人を排して平穏公然に占有し、固定資産税なども納め、譲渡人や譲渡人の会社の債務のため多くの根抵当権等の設定登記がなされていた。譲受人であるYは、このような譲渡人から土地を購入したことになる。譲渡人の所有権存在を信用して購入するのもまったく無理はなかったといえるだろう。しかしXは、自己の相続分がBの遺産分割協議書の偽造によって侵害されたと主張して、本件訴訟前に別件訴訟で、自分の相続分に基づいて更正登記手続を請求し、昭和56年12月に控訴審で和解を成立させて解決金を取得した。つぎに平成2年6月にXは再び、Eから相続持ち分を譲り受けて、Yに対してYの所有権登記にXの持ち分を反映した更正登記手続きをするように請求する訴えを提起した。
 本件で最高裁の主な判示事項となっているのは、以下のように相続回復請求権の消滅時効の援用についてである。「共同相続人のうちの一人である甲が、他に共同相続人がいること、ひいては相続財産のうち甲の本来の持分を超える部分が他の共同相続人の持分に属するものであることを知りながら、又はその部分についても甲に相続による持分があるものと信ずべき合理的な事由がないにもかかわらず、その部分もまた自己の持分に属するものと称し、これを占有管理している場合は、もともと相続回復請求制度の適用が予定されている場合には当たらず、甲は、相続権を侵害されている他の共同相続人からの侵害の排除の請求に対し、民法八八四条の規定する相続回復請求権の消滅時効の援用を認められるべき者に当たらない(最高裁昭和四八年(オ)第八五四号同五三年一二月二〇日大法廷判決・民集三二巻九号一六七四頁参照)。そして、共同相続の場合において相続回復請求制度の問題として扱うかどうかを決する右のような悪意又は合理的事由の存否は、甲から相続財産を譲り受けた第三者がいるときであっても、甲について判断すべきであるから、相続財産である不動産について単独相続の登記を経由した甲が、甲の本来の相続持分を超える部分が他の共同相続人に属することを知っていたか、又は右部分を含めて甲が単独相続をしたと信ずるにつき合理的な事由がないために、他の共同相続人に対して相続回復請求権の消滅時効を援用することができない場合には、甲から右不動産を譲り受けた第三者も右時効を援用することはできないというべきである」。相続回復請求権の消滅時効は、前述したように、そのまま取引安全に用いるのは、難しい。そしてこの判決の意味は、本判決のいくつかの評釈がYの保護を図る他の手段の無力さに言及しているのを除けば、主としてこの相続回復請求権の消滅時効の援用という判旨において理解されている。
 しかしYは、本件において、相続回復請求権の消滅時効のみを主張したのではなく、民法94条2項の表見法理も、取得時効も主張していたのであるが、これらの主張は、すべて裁判所の容れるところとはならなかった。取得時効については、Bの長年の占有を合算できなかったら、Yの占有は10年に少し足りないからである。
 これらの主張が容れられなかったのは、Xの叔父である譲渡人Bが昭和32年に虚偽の遺産分割協議書で登記することにより共同相続人Xの相続分を奪ったという事実、そしてその事実をXは長年知らなかったという事実認定を基礎としている。しかしYが上告理由で主張しているように、当該不動産を担保にしていた債務者であるBの会社にはXの父親が監査役として加わっており、これらの事実認定が果たして真実であったかについては疑問の余地がある。Yの購入後に不動産価格が高騰した時代でもあり、上告理由が「もし、原判決の如き解釈をとれば、真正な相続証明書による相続登記であっても、その遺産が第三者に移転した段階で、『身内』的関係にある相続人間の通謀により、偽造の相続証明書による相続登記であったとする、虚偽の訴が容易に提起されることにもなる」というのも無理はない。しかし逆に、買主であるYにとっては、Xが知っていたという事実を立証することは非常に難しく、また遺産分割協議書で登記名義を得たB自身が偽造を認めるのであれば、その遺産分割協議が真実になされたものであったとYが立証することは不可能である。上告理由は、「相続不動産の転得者にとって、戸籍簿による共同相続関係の調査は極めて困難である。そして、いわゆる『身内』的、仲間的関係にある無償取得の共同相続人(しかも遺産の管理において過失があるというべきである)よりも、有償の『他人』である善意無過失の第三取得者を保護すべきとするのが社会の常識である」と主張するが、たしかに本件のこの結論は、社会の常識に合致するとは言えないであろう。本件では民法884条の消滅時効を第三者が援用できるか、という争点が最高裁での焦点になったが、第三者保護のために相続回復請求権の消滅時効を持ち出さなければならないほど、本来のしかるべき第三者保護法理が欠落しているのである。
 遺言相続の場合のみならず、法定相続の場合でも、客観的には当然に持ってしかるべき信用で相続登記を信頼した第三者が、救済されない事態になっていることを、議論の前提として共通認識にする必要がある。本件のように後になって売主の共同相続人から遺産分割協議書等によってなされた相続登記が協議書等の偽造ゆえに無効であると主張されたような場合である。このとき無効を主張する共同相続人には虚偽表示作成荷担行為はないから、民法94条2項の表見法理は用いにくい。しかし遺産分割協議等の無効の主張が、かりに売主と共同相続人の、つまり兄弟等の身内同士の虚構による主張であっても、買主である第三者が虚構であることを立証することはまずできないだろう。

三、おわりに・・解釈論的試み

 本稿の主たる目的は、近時の学説が民法94条2項の類推適用という表見法理を主張することによって解決されるとしている結論が、最高裁判例を前提とした現実の不動産取引においては機能しない深刻な実情を、民法学界の共通認識にしたいということにある。「相続と登記」に関する最高裁の判例理論によっては、相続不動産の取引安全を図ることはできない。他の領域ではそれなりに効力を発揮する民法94条2項も、相続領域ではその力を持たない。相続人には、相続が開始してから一定の期間内に確実に遺産分割をしなければならないという義務はなく、相続したとたんに相続不動産の登記を注意して確認していなければならないという義務もないからである。実際には遺産分割まで長い期間がかかることもまれではなく、死亡した被相続人名義のままの不動産登記簿も少なくない。そのような実情を前提として、相続による取得を登記なくして第三者に対抗できるとする前掲・最高裁昭和38年2月23日判決を原則とすれば、民法94条2項によって救済することはきわめて困難である。そしてこの問題の根底には、公証人慣行をもたない日本の特殊性がある。物権法の本筋からは、民法94条2項の類推適用で所有権を奪うのはおかしいのにもかかわらず、当事者救済のために超絶技巧の解釈論をたてざるを得なかった日本法の問題である。
 筆者は前稿の最後を次のように結んだ。「最終的には立法的な解決によらざるを得ないのかもしれない。相続登記をする際に、遺産分割協議や遺言の有無を確認する、現在よりずっと確実ななんらかの手だてを講じて、それらの有無を反映した相続登記のみを許すこととした上で、相続登記を信頼した第三者を救済することとするのである。フランスのような公証人制度のないわが国では、そのなんらかの手だてが困難であるかもしれないけれども。それまでは、理論的な難点には目をつぶって、民法94条2項の類推適用の拡大によって、せめて第三者をできる限り救済することになるのであろうか。今後の課題としたい」*26、と。しかし民法94条2項の類推適用の拡大への壁は厚く、第三者は救済されてこなかった。
 しかも相続させる旨の遺言の隆盛によって、相続財産取引の混迷は一層広がっている。相続させる旨の遺言による相続分の変更を登記がなくても第三者に対抗できるとした前掲・最高裁平成14年6月10日判決は、従来の「相続と登記」に関する判例法理によって形成されてきた「法定相続分通りの相続財産を法定相続人と取引する限りでは守られる」取引安全という枠組みを大きく崩した。もともと遺言執行者を指定する遺言があると取引安全が崩されるという民法1031条の立法的問題もあり、遺言相続に対しては、取引安全という観点からはきわめて脆弱な日本民法ではあるが、最高裁は、遺贈に関する最高裁昭和39年3月6日判決民集18巻3号437頁のように登記を必要とする判断もできたはずであるが、それよりも最高裁昭和38年2月23日判決民集17巻1号235頁の共同相続と登記の法理を優先した。この最高裁の判断は、相続させる旨の遺言について遺産分割方法の指定とした性質決定と、共同相続と登記の法理の、二つの判例法理の単純な合体によるものだったろうか。それとも取引安全を一層崩しても、共同相続人間での遺産配分に関する限りでは、被相続人の最終意思を実現する必要があると最高裁が判断したのだろうか。いずれにせよ現在の日本では、相続財産取引は著しく危ういものとなっている。
 立法的な手当が当分は望めないとすれば、早急に民法94条2項に代わる何らかの解釈論を提示しなくてはならない。しかし問題は、日本の登記制度の根本的な欠陥をどのように解釈論的に救済するのかという難問である。快刀乱麻の名案はおそらく誰にも提示できないだろう。
 ひとつの方法としては、「相続と登記」の判例法理にみられるように、場面ごとの多様な利益考量から、いわば場当たり的に線を引いていくことが考えられる。ただしこの方法では、論理的な一貫性や体系的な整合性に欠ける。それゆえに新たな問題場面が生じるたびに、白紙から利益考量の議論を始めなくてはならないことになってしまう。またそもそも双方ともそれなりに保護の必要な相続人と第三者の利害対立にあえて一定の線を引く解釈論なのであるから、利益考量といっても、矛盾する利害対立のそれぞれに説得的な要素はあるのであって、もっともな要素をばらばらに集めても、論者の力点の置き方によって、結論は変わってきてしまうだろう*27
 もちろん、もし可能なことであれば、できるだけ場当たり的ではない、体系的な解決をはかる解釈方向が望ましい。民法典の存在も民法解釈学も、論理的な一貫性や体系的な整合性をもちそれを目指してきたからこそ、新たに生じた問題に過去の結論と矛盾のない解決を容易に与えることができることを、その存在意義の最重要な一つとしてきたのであるから。実際の事件に適切な解決をもたらさなくてはならない法解釈学であるからには、異質な制度であっても類推して利用できるものはせいぜい利用することによって適切な解決を図る必要があるが、その際には民法の体系性を害さないように類推適用の限界を見極めなくてはならない。
 筆者が前稿執筆の段階で解釈論的に提示できると考えていたのは、フランス法の表見相続人の法理を、一定の場合に限って、条文的には民法32条1項但書の類推を手がかりに導入する解釈論であった。表見相続人の法理は母法で判例法であったがゆえに日本民法には立法されなかったが、本来は必要な法理であり、体系的な整合性を害するものではなかったからである。一定の場合とは、前述したような、真正相続人が戸籍上に現れていなかったけれども人事訴訟の結果として戸籍が訂正されたような場合の第一領域と、それに準じて考えられる、相続欠格や遺言による廃除、相続放棄などの法技術的に戸籍上の相続人に相続権がなかったとされる第二領域である。
 しかしそれ以外の領域、法定共同相続人が戸籍上に記載され、相続権も失わなかったが、共同相続人の一部による相続登記の無断の書き換え等のなんらかの事情によって特定不動産の登記がその相続の結果と異なる表示がなされていたために、登記を信頼した第三者が出現したという場合については、前稿の段階では、まだ決心がついていなかった。相続と登記に関する判例法理を発展させて、法定相続人の法定相続分通りの範囲内で相続される限りで表見相続人の法理を拡大していくのがよいのか、それとも民法94条2項の表見法理を無理に適用していく方向で解決するほうがよいのか、どちらがよいかまだいくらか迷いがあったため、民法94条2項の適用を選択した場合の困難の解決方法についても論じるに至らなかった*28。前稿においても、「遺言の増加によって法定相続がかならずしも実体と一致しない事態が増加していることを考慮すると、このような表見相続人の法理が貫徹できるとは思われない。また戸籍の公示制度に対する疑問もある。戸籍に対する第三者のアクセスをより難しくする改革が将来的には望ましいので、第三者が戸籍によって法定相続人を知ることを前提とする解釈はとれないであろう」*29とは述べたが、その後、相続させる旨の遺言の隆盛やこの遺言に関する判例の発展によって、もはや法定相続分の信頼をもとに取引安全を図る構成は適切ではなくなったと考える。解釈論的には、危険な万能薬である民法94条2項を用いざるを得ないだろう。
 民法94条2項を用いるためには、相続人に帰責事由がなくてはならない。そのためには相続人に相続において行動する一定の義務を負わせる必要があり、現在のように相続開始後、遺産分割をしないでいつまでも放置しておくことは許されないということが前提として必要になる。それがなければ、民法94条2項を用いることはできない。所有権者に何らかの帰責事由なくして不動産所有権を奪うわけにはいかないからである。
 相続人にどのような義務を課すことができるだろうか。もちろんたえず自らの不動産の登記を見張っているようにという義務を課すことはできない。しかし少なくとも相続開始から一定の期間内に遺産分割をしたり遺言を実行したりして相続関係を確定して、それを登記にも表示しなくてはならないという義務を課すことは許されると思われる。
 前稿で分析したように、相続回復請求権は、民法体系の中で位置づけると取引安全のための請求権ではなく、その消滅時効を取引安全のために用いることは、解釈論としてもそのまま類推適用するのは体系的にふさわしくない。確定した最高裁判例のように、日本法の下ではきわめて限定的に用いられる相続権存否確認の争いにおいて用いられるものである。しかし明治民法の立法者が、戸籍という存在を前提に発想して、相続争いが解決されて相続人が公示されるのは5年以内でなくてはいけないと考え、相続回復請求権の母法の30年の消滅時効を5年の消滅時効に短縮したことは、解釈論的にも参考にできるであろう。相続登記を公証人の関与しない自由に私的なものにしたために生じた日本法の混迷を解決するためには、公証人の関与こそ不要ではあるが、少なくとも自由な相続処理は5年以内の猶予をもって行わなければならず、それ以降はもしその相続処理を怠っていたが故に登記を信頼した善意無過失の第三者が現れた場合には、第三者の所有権取得は確定し、相続人間でその後始末をはからなくてはならないと解釈しても、許される解釈論の範囲内ではないだろうか。そうすれば、買主としては、相続開始から5年以上経過しており、遺言によるにせよ、遺産分割によるにせよ、占有者の相続登記があれば安心して購入すればよい。もし被相続人の登記名義のままであれば、現況調査をして占有者に確認し、遺産分割がまだであるのなら、法定相続分の範囲で購入することができることになる。家庭裁判所に係属するような紛争性の強い遺産分割では、また遺留分減殺請求が地裁に係属するような相続事案では、5年を超えて争うことも少なくはないが、その場合には処分禁止の仮処分を必要とすることになるだろう。
 以上の解釈論は、もちろん十分なものではないだろう。粗雑な解釈論の提言にすぎない。たとえば、場合分けをしたり表見代理を用いたりして、よりよい解釈論を立てる余地は、当然大きいものと思われる*30。しかし事態は切迫している。私説への批判はもちろんのこと、より緻密な解釈論の提示によって、現在の混迷をなんとか解釈論的に手当てしなくてはならない。もちろん本来は立法的な解決が望ましい問題であるけれども、信託法改正は急がれても、国内の法秩序という観点から必要性の高いこの種の制度改正は、手がつけられないまま、日々は流れていくようだから。


*1 誰のものでもない財産が成立してしまうことによって、責任財産制度が崩壊すること、同時存在の原則や遺留分制度などによって成立している相続法秩序と相容れないことなど、信託法を導入することによって生じる矛盾はほかにもある。フランスの法文化辞典は次のように述べる。
 「責任財産の単一性の原則への違反と、責任財産が法人格の延長であるという概念への違反がある。『便利な金融手段』として考えられ、租税当局から不信の目で見られているので、信託はまだ我々の法では自立した制度として認められていない。まだなにか攪乱要因として見られている。
 信託(trust)は、同じ財産かあるいは同じ財産全体へのふたつの権利の重複を前提としている。コモンロー体系では、この異なる権利の重複が、legal rights と equitable rightsの区別という事実から可能となっている。このような区別がないところでそれを実現するのは遙かにずっと困難である。見つけられた代替物で、ローマ法から蘇生された信託的譲渡(fiducie)は、信託(trust)のすべての機能を満たすことはできないはずであり、大陸法体系の中にその位置を見つけることは困難である。一方で信託(trust)は、責任財産と法人格の伝統的な理論を混乱させることは確かである。その元々の文脈を離れてモデルを流通させようとしても、ここで技術的な障碍にぶつかってしまう。」Dictionnaire de la culture juridique sous la direction de Denis Alland et Stéphane Rials, PUF,2003,p.1490.(Trust, par Denis TALLON).

*2 新版注釈民法(6)96頁(吉村眸執筆)(有斐閣、1997年)。

*3 とりわけ親族法・相続法にそれらの問題が残っているように思われる。たとえば親族法領域で検察官が活躍することを予定されているが、日本の検察官は刑事でしか活動しないために、児童虐待をする親から社会が子を守る制度であるはずの親権喪失制度を、社会を代表して活用すべき検察官が動かないために機能しないなどの問題である。

*4 大審院連合部明治41年12月14日判決民録14輯1301頁。

*5 大審院連合部明治41年12月14日判決民録14輯1276頁。

*6 原島重義=児玉寛「177条、Ⅲ対抗の意義、Ⅳ登記がなければ対抗し得ない物権変動」『新注釈民法』(1997年、有斐閣)。横山美夏「『対抗スルコトヲ得ス』の意義」鎌田薫ほか編『新・不動産登記講座 ②』(1998年)の整理も参照。

*7 さながら離婚すべてを裁判離婚で処理するために離婚無効が問題にならない母法と、協議離婚が原則であるために絶えず虚偽の離婚届の処理として離婚無効が問題になる日本法との構造に類似している。しかし離婚無効の場合には、離婚後再婚していると第三者である後婚配偶者の保護が問題になるとはいえ、後婚配偶者が善意である場合はごく例外的であり、離婚無効によって重婚者となった配偶者は後婚配偶者の側に立つ存在であるから、第三者保護については考えなくてもよい。しかし相続不動産の問題においては、第三者保護の必要性は、離婚無効の問題とは、そもそも比較にならない規模と性質を有する。

*8 水野紀子「相続回復請求権に関する一考察」加藤一郎先生古稀記念論文集『現代社会と民法学の動向・下』有斐閣(1992年)。

*9 伊藤昌司「相続と登記」有地享編『現代家族法の諸問題』(1990年)421頁。

*10 水野紀子・前掲「相続回復請求権に関する一考察」423頁以下。

*11 幾代通「遺贈と登記」『現代家族法大系5』(1979年)135頁。

*12 原島重義=児玉寛・前掲530頁。

*13 水野紀子・前掲「相続回復請求権に関する一考察」425頁。

*14 原告は、夫である被相続人Aがした、不動産の権利一切を原告に相続させる旨の遺言によって、上記不動産ないしその共有持分権を取得したところ、法定相続人の1人であるBの債権者である被告らが、Bの持分に対する仮差押え及び強制競売を申し立て、これに対する仮差押え及び差押えがされたところ、原告は、この仮差押えの執行及び強制執行の排除を求めて第三者異議訴訟を提起した事案で、法定相続分又は指定相続分の相続による不動産の権利の取得については、登記なくしてその権利を第三者に対抗することができるとした事例である。

*15 高木多喜男「相続と登記」ジュリ増刊『不動産物権変動の法理』(1983年)

*16 潮見佳男『相続法(第2版)』(弘文堂、2005年)162頁など。

*17 石田喜久夫・法律時報51・18,星野英一・法協98巻11号36頁など。ごく最近の論文としては、米倉明「遺贈と登記(1)(2・完)」早法79巻2号3号(2004年)が、遺贈と登記という問題の処理に限定してではあるが、無権利法理ではなく対抗問題法理を採用すべきであるとして、民法32条1項但書類推適用説や民法94条2項類推適用説に詳細に利益考量を述べて反対する。

*18 水野紀子・前掲「相続回復請求権に関する一考察」422頁

*19 本件についての評釈、副田隆重・私法判例リマークス14号(1997年)79頁は、判例変更という理解をとる。

*20 米倉明・前掲「遺贈と登記(1)」47頁以下は、民法32条1項但書が失踪宣告という制度的公的外観の作成に基づくものであることから、その制度と異なる私的外観への類推適用を批判する。たしかに失踪宣告制度とは異なる状況への類推適用であるが、類推適用とは所詮はもとの制度のある部分を崩して利用する判断であるから、失踪宣告制度を表見相続人の法理として類推適用するのは、虚偽表示の類推適用よりも、この利益状況に適用するにあたって、まだ質的な差は少ないように思われる。

*21 たとえば、夫の死後に生殖補助医療で受胎した子の代襲相続について、同時存在の原則を考えるような場合には、相続放棄で相続人の地位を失った場合とは区別して考えなくてはならない。水野紀子「死者の凍結精子を用いた生殖補助医療により誕生した子からの死後認知請求を認めた事例」高松高裁平成16年7月16日判決評釈・判例タイムズ1169号98頁(2005年)参照。

*22 最高裁平成15年7月11日判決民集57巻7号787頁は、相続人の被相続人殺害による相続欠格という事案である。殺害によって欠格者となった相続人は、殺害の動機となった借金の債権者にあらかじめ言われていた書類を使って相続登記をし、代物弁済として持ち分を移転した。この判例は、相続欠格者の相手方は無権利者と取引した者として無権利の法理として扱う判例に従っているが、表見相続人と取引した第三者を保護する表見相続人の法理をとる私見によっても、このような事案では、当然、登記を得た債権者は、保護さるべき善意無過失の相手方とならないものと思われる。

*23 高木多喜男・前掲「相続と登記」106頁。

*24 門広乃里子「占有権の相続と取得時効」帝京法学19巻1号(1994年)、同「共同相続と取得時効」帝京法学19巻2号(1996年)は、フランス法研究をもとにして取得時効の適用によって問題を解決する示唆を得ようとする研究であるが、公証人慣行のもとで均分相続の実が保たれるフランス法と、当事者間のごく私的な合意により均分相続が崩される場合のほうが圧倒的に多い日本法では、前提が異なりすぎる。

*25 この判決については、水野紀子「『相続させる』旨の遺言の功罪」久貴忠彦編集代表『遺言と遺留分・第1巻遺言』日本評論社(2001年)180頁注(32)において、客観的には当然に持ってしかるべき信用で相続登記を信頼した第三者が、救済されない問題の具体例として挙げた。なおこの最高裁判決については、坂本慶一・判例タイムズ945号196頁(1997年)、松本克美・判例評論457(判例時報1588)号219頁(1997年)、西尾信一・銀行法務21・523号56頁(1996年)、田中淳子・法律時報69巻7号95頁(1997年)、副田隆重・私法判例リマークス14号(1997年)、柳澤秀吉・民商法雑誌115巻4・5号(1997年)、伊藤昌司・判例タイムズ918号71頁(1996年)などの評釈がある。

*26 水野紀子・前掲「相続回復請求権に関する一考察」430頁。

*27 米倉明・前掲「遺贈と登記」は、非常に詳細に利益考量を行うが、その立論は、米倉教授の価値判断と異なる判断をとる論者とは、必ずしも共有できないだろう。たとえば遺言執行者を指定しておけば相続人の処分を制限できたのに指定しなかった遺言者の処分が覆ってもしかたないという判断は、民法1031条の存在そのものへの立法的批判が強かった過去の学説には直ちに賛同できないであろうし、相続させる旨の遺言を民法908条を根拠に、相続人以外の者への遺贈と扱いを異にする判断は、民法908条という性質決定そのものに批判的な学説には、やはり違和感が強いだろう。その背景には、何を民法の体系にかかわる重要な原則と考えるかについて(たとえば民法908条によって相続分を変動させることは、体系に反すると考えるか否か)の差が、おそらく横たわっている。

*28 水野紀子・前掲「『相続させる』旨の遺言の功罪」を執筆した段階でもまだこの迷いは残っていた。松尾弘「相続と登記-法定相続対抗要件不要の原則の検証」法律時報75巻12号(2003年)は、「相続と登記」といわれる領域に統一的に適用される表見法理が必要だが「民法94条2項の(類推)適用とは別個に模索されるべき」保護法理が必要であるとする立場をとる論考であるが、その注(27)で32条1項但書類推適用説を示唆する意見として上述の拙稿173頁を引用されている。

*29 水野紀子・前掲「相続回復請求権に関する一考察」430頁。

*30 小粥太郎教授は、筆者とのやりとりにおいて、民法110条の利用によって取引相手方の特殊な事情をクローズアップする可能性(登記名義人を財産管理人として考える)を示唆された。


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