インターネットに掲示するにあたって

 信託法は、現在立法作業が進行している。以下のパブリックコメントは、公表された信託法改正要綱試案に対するものとして、私が法務省に送付した文章である。まだ活字媒体では公表していないが、この改正要綱試案に対する大きな危機感をもつ民法学者の一人として、議論を喚起するために、インターネット上で公開することとした。

2005年9月1日
水野紀子




パブリックコメント

水野紀子

はじめに

 信託法改正要綱試案を拝見して、民法学者としての立場から危惧を感じたため、以下のパブリックコメントをお送りする。要綱試案の内容に個別に立ち入るものではないが、民法の原則と両立しない内容が多岐にわたるにもかかわらず、民法との調整作業が行われていない。日本民法の母法のひとつであるフランスにおいても、信託法草案が起草されたことはあるが、たとえばそこにみられる相続法との調整規定の多さとは比較にならない。しかもフランス信託法草案はそれほど多くの調整規定をおいているにもかかわらず、民法体系と両立しないとして実現されていない。信託は、物権法と相続法という国家法が重視すべき領域で大陸法体系と衝突する。このままこの信託法改正要綱試案が立法されると、民法と信託法との間に多数の矛盾が生じ、信託法が特別法として優先すると解釈されると民法典の意義は大幅に失われてしまいかねない。再考されることを期待する。以下に詳論する。

1、信託法立法と民法とが両立しうるだろうか

 民法をはじめ大陸法系の法体系をもつわが国において、信託とそれらの法体系との間の相克は、問題にならないのだろうか。大陸法型の民法典国であると同時に信託法をもっている我が国では、法体系的に言えばこの両者の両立は難しいはずであるが、信託の実際は信託銀行が業として行うものにほとんど限られていたので、これまで民法との衝突はあまり実際問題になってこなかった。しかしはたして「理論的」には、民法体系との対立が問題になってきたのだろうか。もちろん大陸法系の法体系と信託との間に相克が存在するという問題そのものは、あまりにも自明であり、新しい問題意識ではない。四宮和夫『信託法』はしがきにある「水に浮かぶ油」という有名な表現に代表されるように、指摘されてすでに久しい。しかしその相克を実際にどのように克服するのかという議論は、実は学説においても十分には論じられてこなかったのではないだろうか。

 外国法研究が得意で豊富なわが国の法学界では、信託法の研究には、一定の蓄積がある。信託法を、日本語文献で紹介する業績は、枚挙にいとまがない。アメリカ法の信託、イギリス法の信託それぞれについて、歴史的な紹介もなされてきた。それらの学説には、大陸法体系に信託法が立法された事実を、単純に信託法が特別法として民法などの体系と別個に成立すると理解し、英米信託法を紹介して日本法の信託の解釈論に導入して足りるとする単純な姿勢を示すものも少なくないが、さらに進んで、道垣内弘人『信託法理と私法体系』*1のように従来の民法の法的な仕組みと信託法の仕組みを対比する高度な研究も達成されている。しかしあくまでもそれは両者の機能的な「対比」研究であって、両者の存在がそもそも相互に「両立」可能なのか、矛盾や相克はないのか、矛盾があったときにそれをどのように解消するのか、という視点からの研究は、あまりみうけられないように思われる。たしかに『信託法理と私法体系』も物権的救済手段肯定の「副作用」*2について記述するが、そこでの分析は、大陸法体系の救済手段と信託法の救済手段との「類似性」の検討の周到さとは比較にならない付言にすぎない。また機能的な類似性があることと、信託法理と大陸法との相克・矛盾を乗り越えることとは、論理的には直結しない。

 そのような研究があまり行われなかった一つの理由は、これから信託法を立法するのならともかく、すでに日本の現行法として民法と同時に信託法が存在することであろう。「信託法がわが国の私法体系に組み入れられた以上は、それを『水の上に浮かぶ油のように異質的な存在である』ととらえるのは妥当でない」*3といわれるように、日本法は、そもそも全体が寄せ木細工のような存在である。私法領域だけにおいても、寄せ木細工であることはいなめない。信託法が存在して信託実務が行われているほかにも、商法の議論も英米法化している。公法であるとはいえ、民法との関係で論じられることの多くなった憲法も周知のように英米法の視点から議論されている。他方では、民法典は大陸法であり、民法の研究者はドイツ法やフランス法の議論を研究して、民法を私法の一般法として解釈する。また日本人の固有の法意識があちこちでもともとの母法を修正する*4。そのような寄せ木細工の法社会において、大陸法の体系の立場に立ってその相互間の相克について問題にするのは、ある種の硬直な大陸法原理主義(?)ともいうべき体系至上の考え方であると批判されるかもしれない。

 しかし少なくとも寄せ木細工であるとはいえ、一国の法制度であるのだから、どのように寄せ木を組み合わせて矛盾なく適用できるように解釈するのかは、説明できなければならないであろう。まして民法を私人間の諸利益調整の基本法として位置づけるのであれば、これまでの諸利益・諸価値の調和を達成している民法体系に整合的に、信託法の位置づけを考えなくてはならない。このような問題意識は『信託法理と私法体系』においてもすでにモチーフとして自覚されていたものであった。「わが国の私法体系上に、それが沿革的には異質の要素を含むものであっても、信託法は厳として存在している。そのような私法体系を前にしたとき、それを異質なものを含むモザイク的な体系としてとらえることも一つの道である。しかし、現存する法規範の体系化・論理化を法学の重要な目的の一つと考えるとき、われわれは信託を含む私法体系を矛盾のない整合的な規範体系・論理体系としてとらえる努力をすべきではないか」、と。しかし危惧されるのは、この両者を矛盾なく解釈しようとしたときに、両立し得ない概念を矛盾なく立論するために、どちらに譲歩させるかということである。もし信託が厳として存在することを理由に民法体系が無原則的に崩されることになったとしたら、その波及効果は想像の及ばない悪影響をもたらす危険がある。極端に言えば、信託が立法されたことによって、民法はその意義を失ったと解する解釈もありうるのである。とりわけ民法が存在することの意義と果実が十分には根付いていないわが国では、その危険はフランス社会の比ではないであろう。

 それぞれの社会は、さまざまな要素が複雑系に関連しあって動いている。ある国の制度を導入する際に、その制度が前提としている条件をすべて備えることはもちろんあり得ない。同時に明治時代に法制度を継受して日本が法治国家となったように、制度を導入することは必要な改革であることはいうまでもないから、われわれにできることは、制度の導入が副作用を起こさないように、その制度が前提としている条件をできるかぎり想像してそれが果たしている機能を補えるように準備することだけである。とはいえ、もちろん完全な準備もまた、とても不可能である。明治時代の法継受は、前提となる条件が異なりすぎ、いわば法体系のない社会に一から作り出すものであったから、かえってそれなりに新しい制度を移植することが可能であったのだろう。しかし日本の私法体系は、民法立法から100年あまりを経てそれなりに安定して運営されてきた。立法作業が進行している信託法改正が、このような私法体系の安定にどのような副作用をもたらすのか、大きな危惧を抱くものである。

 民法そのものにおいても、母法の社会に前提となっていることが日本には欠けているために、困難が生じている問題は、少なくない。たとえば民法176条と177条が母法とは異なる条件下にあること、つまり、不動産取引や相続に公証人がかかわらないために、日本では登記が母法のような安定した力を持たないことが、実際の不動産取引に大きな問題をもたらしている*5。しかし信託はより根本的に異なるものであり、物権法の領域でも、信託は、所有権の排他性・絶対性、一物一権性と信託との衝突に関連するものである。信託は、一物にそれぞれ独立したlegal rightとequitable rightが二重に成立する制度を前提とする。しかし大陸法の民法は、これらの権利が二重に成立するシステムと整合しない。ただ不動産については、一元的な登記システムがあるために、現行信託法は、第三条に「登記又ハ登録スヘキ財産権ニ付テハ信託ハ其ノ登記又ハ登録ヲ為スニ非サレハ之ヲ以テ第三者ニ対抗スルコトヲ得ス」という規定を設けて、登記を優先しているので、この衝突がかろうじて表面化していないだけである。登記システムも英米法は大陸法とまったく異なっている。「英米法の登記制度は大陸法系諸国のそれに比べて、制度としては遅れているし非合理的な側面を残しているといえよう。それでもなお近代資本主義社会における土地取引を保障し得たのは、伝統的な私的不動産譲渡方法の存在とそれを支える専門法曹の存在(アメリカでは、さらにtitle insurance companyやabstract comopanyなどのtitle産業にかかわる企業の存在)であると考えられる」*6。このような登記制度のもとで、所有権の排他性も相対化して、非常に柔軟な信託という制度があり得たのかもしれない。そしてその破綻を防ぐ対抗原理として、きわめて強力な信認法理が機能してきたのだろう。

 信託がその母法においては、「『信頼』とそれに応える『誠実』が信託の基本思想」であり、「信託の経営者が求められる第3の資質は、生まれながらに備わった正直さである。行為が正直であるだけでなく心が正直であり、正直さが顔を照らし、すべての点で輝いていることである。態度や行動、言葉や表情、その他何事にも正直であるとの印象を装っている人がいる。そうした人は、正直でなければいけないと思ったり、不正直であることをおそれたり、正直に見せることが最良の策であると考えて正直であるとの印象を作っている。このような人は、信託会社のトップになるべきではない」*7といわれるのは、それが担保されるなんらかの伝統の力があるのだろう。しかし大陸法体系は、必ずしも「正直」ではない人間が取引関係にはいることを前提として、しかもそれによって生じた紛争を裁く裁判官が必ずしも「正直」の見せかけと本物を見抜けるような全能者ではなく、ただ裁判官が法の条文を適用すれば、法益が適切に守られるという構造を民法を基礎にして形成してきた。日本法は、この大陸法を受け継いでいるのであって、信託制度を設定時の自由さと便利さだけで考えていては、「正直」ではない受託者が現れたときに対抗するだけの力を持たない。

 信託では、受託者の財産の中に独立した財産ができ、それには債権者たちはかかっていけず、受益者のみが受託者の債権者となるが、その受益者もその財産に物権を持たない。これでは、責任財産の統一性が失われることになり、法人格の延長としての責任財産という概念にも反する。信託は同一の財産に、さらに同一の責任財産の総体に、二つの権利が重複して存在することを意味し、これはlegal right とequitable rightの区別があるコモンローでは可能であるが、この区別のない大陸法体系では非常に困難となる。このような観点からは、日本私法学会シンポジウムを機会に公表された横山美夏「財産:人と財産との関係から見た信託」*8が、民法の責任財産制度と信託制度の内在的矛盾について指摘し考察する業績として、特筆される。この業績は、フランス法のpatrimoine概念の理解から、誰のものでもない財産を作り出す信託は、大陸法体系への位置づけが難しいことを分析する。

 フランスでは、物権法定主義、所有権の絶対性、追求効の遮断、相続法の規制などをもつ民法体系との整合性から、多数説は、フランス法と信託は両立不可能だと考える。両立不可能性が特に強調されるのは、次の2点、信託に出された財産の差し押さえ不可能性(法的に受託者に属しても個人的な債権者の責任財産とはならず、差し押さえられることができない)と、設定者が課しうる財産の不可譲渡性(きわめて厳格な条件下でなければ解除できない)である。これに対して、P.Lepaulleに代表される少数説は両立可能と解し、四宮理論が参照したのはこの少数説であった。近年、大村敦志「フランス信託学説史一班」*9によって新たに詳しく紹介されている。大村教授は、Lepaulleの少数説がMotulskyの「フランス法の下でのアングロ・サクソン的『信託』成立の法的不可能性について」*10という論文によって退けられて以来、退潮していった経緯も正確に紹介しつつ、「独立財産性」によって信託を説明しようというLepaulle説を、夫婦間に法人格を有する夫婦組合を概念したカルボニエの夫婦財産論と対比して評価し、フランスの最近の学説にもみられる「先駆的形態」と位置づける。しかしこのような大づかみの概念構成の類似性によって、信託と大陸法体系の相克は、説明可能なものだろうか。法人やカルボニエの夫婦財産が「独立財産性」をもつからといって、私人の意思のみで簡単に「独立財産性」を設定できる信託とは、根本的に異なるのではないのだろうか。

 上記の大村教授の論文も認めるように、フランス法の通説的見解は、フランス法と信託の異質性、両立不可能性を認めている。フランス法において信託がどのように評価されているのか、その一例として、2003年に出版された『法文化辞典』をみてみよう。この辞典の「信託」の項(Denis TALLONによる)は、フランス法と信託の関係について、次のように解説している*11。「責任財産の単一性の原則への違反と、責任財産が法人格の延長であるという概念への違反がある。『便利な金融手段』として考えられ、租税当局から不信の目で見られているので、信託はまだ我々の法では自立した制度として認められていない。まだなにか攪乱要因として見られている。信託(trust)は、同じ財産かあるいは同じ財産全体へのふたつの権利の重複を前提としている。コモンロー体系では、この異なる権利の重複が、legal rights とequitable rightsの区別という事実から可能となっている。このような区別がないところでそれを実現するのは遙かにずっと困難である。見つけられた代替物で、ローマ法から蘇生された信託的譲渡(fiducie)は、信託(trust)のすべての機能を満たすことはできないはずであり、大陸法体系の中にその位置を見つけることは困難である。一方で信託(trust)は、責任財産と法人格の伝統的な理論を混乱させることは確かである。その元々の文脈を離れてモデルを流通させようとしても、ここで技術的な障碍にぶつかってしまう。」「たしかにトラストはとても便利かもしれない。しかしフランスの法体系と矛盾なく両立するのは難しい。信託は、コモンロー体系の特徴と結びついたものであるからである。トラストを実現するために必要な技術の手段をもたないので、フランス法に従ってトラストを構成するのが不可能なことは明らかである。トラストは、一つの同じ物の上に独立した二つの権利を重ねて成立させることを前提とする。legal right とequitable right、この区別に当たるものはフランス法には全くない。この重複は、たしかに用益権者と(用益権の負担のある)所有権者との関係を思わせる。しかし受益権者は、物権を持たない。フランス法のように組織化された法においては、信託の多面性と同じものはあり得ない。そうであったからこそ、信託の準拠法とその承認に関する1985年7月1日のハーグ条約が、任意信託に限定した上で、委託者が選んだ法をトラストに適用し、それがないときには、信託ともっとも密接な関連を有する法を適用することとして、その手がかりとなる特徴のリストを提示する、という非常に複雑なシステムをとったのである。さらに、デプサージュも認められている。最後に、このようにして決められた法が、トラスト制度か、問題となったトラストのカテゴリーを知らない場合には、条約は適用されない。したがって、条約の適用範囲は、大変限られたものになるのである。さらにそもそもフランスはこの条約を批准していない。そこで、フランスはこの異質な制度に直面してなんとかやっていかなくてはならない。フランス法のカテゴリに同一視できるものをさがすことになる。しかしこの同一視できるものは、近似するものを探すしかない。そこで、委任、遺言執行、負担付き贈与、間接贈与、代理、信託的継伝処分などについて述べる判例がある。ぴったりのものがないので、いつでもいわば間に合わせ仕事である。しかし裁判官はそのトラストがフランスにおける公序則にふれるかどうかを検証しなくてはならない。とりわけ相続領域において公序則への抵触があり得る。無償譲与の受益者の決定ではないか、禁じられた継伝処分か、将来の相続に関する契約ではないか」。

 このような相続法の視点は、従来、あまり紹介されてこなかった。そしてフランス法は信託との両立可能性を認めない多数説も、認める少数説も、相続法の公序性による信託の制限については、一致して認めていた。責任財産の問題や物権法の問題も深刻な両立不可能性を抱えていると考えるが、民法との限界については、現在の筆者の手におえないので、以下は、主として相続法の問題について述べる。フランス法においては、国際私法の領域でしか生じない「異質な制度に直面して何とかやっていく」苦労であるが、日本法では同じ法体系の中に民法と信託法という異質な両者の調整を図らなくてはならないという一層の難問を抱え込んでいる。信託法の改正によって、民事信託の領域が拡張されるとすると、少なくとも相続における公序則との調整は、あらかじめ立法的に解決しておく必要があるであろう。

2.相続と信託との相克

(1)信託による相続法潜脱への学説の期待

 相続法は、大陸法と英米法で、周知のように根本的にシステムが異なっている。しかしどちらも家族財産の承継という問題に特有の規制を設けている。遺言自由の原則をとっている英米法も、その後、遺言自由の弊害が大きかったため、被相続人が家族的な義務を果たさない遺言については、裁判官が大幅に修正する裁量権を立法的に与えてきた。具体的に言えば、イギリスでは、1938年まで完全な遺言の自由が認められていたが、その弊害が無視できないとして、Inheritance Family Provision Act(1938)、次いでInheritance (Provisions for Family and Dependants)Act(1975)による制限が加えられるようになった。アメリカでは、直系卑属は保護しない州法がほとんどであるが、未亡人には遺言からの保護を与えるのが大勢である。遺留分を持つ大陸法は、それによって遺言自由へ制限を加えていることはいうまでもない。

 日本相続法の母法であるフランス相続法は、とりわけ強力な遺留分を設計している。フランス民法立法当時のフランスでは、被相続人は現在のように高齢者ではなく、多くが壮年期であったから、その意思が不安定であることを危惧したためではない。むしろ被相続人の処分の自由に対抗する法益は、法定相続人たちの間の公平が主たるものであった。そこで働いたのは、カルボニエの表現によれば「遺言の自由こそ無限の不平等」という判断であった。もちろんナポレオン法典の時代の相続法が現在までそのまま維持されているわけではなく、大幅な修正が行われてきた。しかしそれは遺言の自由の方向に拡大するものでは必ずしもなかった。もっとも顕著な変化は、配偶者相続権の拡大である。時代が移って産業構造が変わり人口が高齢化するにつれて、相続の果たす機能が、これから生きていく子供たちに生活の資を与えることよりも、残った生存配偶者の老後の生活を保障するものに変わっていったからである。とくに最近の非嫡出子の相続分差別を撤廃したことで有名な2001年12月3日法の相続法改正(Loi nº 2001-1135 du 3 décembre 2001 )は、配偶者相続権を一挙に強化した。とくにその強化を被相続人の意思に反しても強化したことが特筆される。これまでも自由分を利用して配偶者相続権を法定相続分よりも拡大する被相続人の処分は実際には多かったのであるが(したがって配偶者相続権の拡大が一定範囲にとどめられていても支障がなかったのであるが)、被相続人の自由処分に頼るのではなく、強制力を持って配偶者相続権を拡大したのであった。家族生活を送ってきた被相続人の財産処分は、被相続人個人の意思に完全に自由にゆだねていいものではないという判断は、日本でももちろん共通の立法政策がとられる合理性がある。

 しかし最近の信託への期待は、被相続人の財産処分を信託と性質決定することによって、遺留分を潜脱することにあるようである。遺留分に限らず、相続法の公序を信託によって潜脱することを目指して民事信託への展望を語る言説は、信託法の代表的な権威、能見善久著『現代信託法』において、次のように述べられている。「現代の社会は、複雑な利害関係に対応するために、財産の処分制限を含めたハイブリッドな財産処分形態を求めているのではないだろうか。たとえば高齢者や障害者の扶養に配慮しながら、適切な財産移転を図るために、承継的ないし連続的な財産処分も必要なことがあろう(財産の所有者が信託を設定し、配偶者の生存中は配偶者のみを受益者とし、配偶者の死亡後は子を受益者とするような財産処分)。あるいは、企業の経営権を適切な形で承継させる場合にも、信託の活用が考えられる)。このように、信託は、高度の洗練された形で財産を処分することを可能にし、複雑化した社会的ニーズに応えるものである。」*12、と。この能見善久教授による言明は、実務家にも信託の可能性を確証する根拠となっているようであり、たとえば次のような期待が述べられる。「能見教授が指摘されているように、遺言信託は後述の遺言代用の生前信託とともに、委託者の財産処分目的に利用されるが、贈与や遺贈のような単純な財産処分とは異なり、財産処分のプロセス、最終的配分方法等において財産処分者の細かな意思に従った処分を可能とするものであり、更には、高齢者・障害者の扶養、中小企業オーナーの事業承継といった現代社会のニーズに応えうるハイブリッド財産処分形態として有意義な利用が考えうる」*13(天野佳洋・住友信託銀行法務部長)。

 しかし信託法を民事信託に拡大することによって相続法を潜脱することができると理解することは、すなわち民法の存在を否定する理解であり立法である。民法学者の一人として、とうてい賛成することはできない。では、ぎりぎりで共存を図るのだろうか。それが可能だろうか。相続法の公序と信託法との関係については、いささか無責任に信託への期待が語られる以外、学説の蓄積はまだほとんどない。

 遺留分と信託に関して論じた業績としては、新井誠教授の「信託と強制相続分・遺留分を巡る問題」*14しか見つけることはできなかった。ほぼ唯一といえる貴重なこの論文は、ロンドン大学のヘイトン教授の指導を得てまとめたものとされ、全体としてイギリスで信託業を営む受託者の立場に立って、渉外的な要素を持つ信託が行われたときに遺留分権利者からの攻撃から受託者をいかに守るかという観点からさまざな検討がなされている。それでもその検討は、以下にみるように、信託によっては大陸法国の相続法公序を崩すことはできないという前提のもとに行われているのが興味深い。

 イギリスでも前述した1975年の家族財産継承法Inheritance (Provisions for Family and Dependants)Act(1975)によって、相続人が被相続人の処分を攻撃することができる対象として、死亡前6年以内などの条件を満たす信託も含まれている。イギリスにおいても大陸法の遺留分に類似した機能を持つ1975年法は、当然のこととはいえ、信託によってそう簡単には潜脱できないことがわかる。もっともこの法律では、受託者を守るために受託者は相続人から提訴された日現在における残存価額についてだけ責任を負えばいいという保護規定が設けられている。まして遺留分規定をもつ大陸法の相続法の適用を受けている者が死亡した場合には、その者が信託を設定していたら、信託を生前贈与分として評価して返還しなくてはならない。「被相続人から信託財産として財産の移転を受けていた信託の受託者にとっては、信託事務のために費やした諸費用・諸経費や、信託の受益者に既に分配してしまっている財産や、信託財産の運用過程において生じた投資上の損失などを考慮に入れると、現に信託財産として保有している財産の価額を上回る金額の返還義務を負わされる場合も出てくることになる」*15ので、受託者の立場は一層不安定なものになる。要するに、この論文が検討するのは、渉外的に、信託法国で設定された信託が、大陸法の相続法を準拠法とされたときに、どのように攻撃を受けるかということであり、そこで前提とされているのは、大陸法の相続法は公序なので、信託はそれを免れることはできないという理解である。たとえば遺言信託については、次のように印象的な比喩が用いられる。「信託を『ロケット』に喩え、遺言信託をこのロケットの『発射装置』に喩えれば、この発射装置はつねに相続の準拠法国の相続法の制約を受けることになり、この発射装置はこの制約上認められる範囲内においてしかロケットを打ち上げることはできない」、と。従って実践的なプランニングとしては、「実務面においては信託設定者にとっての相続の準拠法となりそうな国や法域の法律に詳しい専門の弁護士の協力を得ることが不可欠である」*16という結論になる。この論文に紹介されているイギリス法のヘイトン教授の見解にあるように、遺留分は相続法の公序であるから、遺留分と信託とが衝突すると、遺留分が優先するのが国際私法の常識である。この貴重な業績の成果が十分に学界に了解されていたら、信託法を民事信託に拡大することによって相続法を潜脱することができるという解釈は、これほど簡単に通用しなかったのではないだろうか*17

 なぜわが国でだけ、信託によって相続法の公序が潜脱できると解する学説があるのだろうか。もし信託によって遺留分を潜脱できるとすると、遺言の完全な自由を認めていたために弊害があまりにも多かった1938年以前、つまりInheritance Family Provision Act(1938)立法以前のイギリスと同じ状況を作り出すことになる。

(2)相続法の公序

 日本相続法の母法であるフランス法の議論を見ながら、相続法の公序を考えてみたい。ジャック・エロンはフランス相続法と英米法を対比して以下のように述べている。「英米法は、相続法領域において個人に非常に大きな自由を与えている。この点で、この権利はフランス法のそれと完全に対立する概念を保っている。フランスにおいては、相続法によって取り込まれることなく、死の時期を通過することができる財産を計画する法的メカニズムはほとんどない。(中略)言い換えれば、相続法は、これらすべての制度の上に強力な刻印を刻む強制的な通行場所となっている。これに対して英米法は、相続の規則に最小限の重要さしか認めていない。処分者の意思が実際には最強である」*18、と。フランス法は信託を認めていないから、国内法で信託と相続法が衝突することはない。しかしフランス相続法は、被相続人の自由に対して相続法の公序という観点から制限を加えている。具体的には、遺留分、将来の相続に関する契約の禁止、信託的継伝処分の禁止という制限である。これらの制限は、経済秩序と言うよりも社会秩序に関するものであって、たとえば子供間の平等や財産の自由な流通など、社会にとって基本的だと考えられる原則を防衛するためのものであり、経済的取引を制限しようとするものではないとされている*19

 フランス法には、民法791条、民法1130条という相続に関する契約の禁止を明示する条文がある*20。日本法には同様に明示的な定めをおく条文はないが、相続放棄を家裁への申述にかからしめた民法938条、遺留分の事前放棄を家庭裁判所の許可にかからしめた民法1043条から論理的には、同様の原則が相続法に認められると解する。なぜこのような禁止が必要とされるのだろうか。フランス法では次のように説明される*21。契約を許すと、誰かの死を望むことを奨励してしまいかねない(もっともそれをいうと、相続制度そのものにそういう要素があるけれども)。法が準備しているいくつかの制度や技術、たとえば用益権、生命保険、終身定期金などが反射的に否定されるおそれがある。また法の定めた相続権の移行規則を、とくに相続人間の平等を、危うくする(遺留分で担保されていると言うこともできるけれども)。そして根本的な理由がある。かつてとくに重視されたのは息子が高利貸しに家産を簡単に譲り渡してしまう危険であったが、今日でもまだ、個人の自由を守らなくてはならない、とくに遺言の自由を守らなくてはならないという理由が重視される。将来の相続に関する契約を許すと、遺言の自由、最終意思を実行する自由は失われる。遺言の自由は、近親者が身近にいて関与してくれるために、法が高齢者に与えた「控えめな武器」だともいわれる。そして将来の相続財産に関する契約の禁止はこれらの要請に応じた公序則であるために、絶対無効とされる。

 このように一見「自由」を制限することによって、「自由」を守るという構造は、民法典の中にさまざまに組み込まれている。成年後見法改正の議論においても同様の問題が論じられたが、民法の規制を解放して自由を認めることは、それだけ当事者には実際には自由を失う危険が増すことである。契約当事者には高利貸しも不正直者も強欲な人々がかかわる可能性があり、それを何らかの権威者に監視してもらうという構造は、実際的ではない。不正義への監視は、信頼できる信託会社だけが当事者になる等、なんらかの安全弁によって代替されていなければ、日本社会に組み込むことは至難である。当初「自由」に設定された契約や信託は、詐欺などの条文によって例外的に無効にする手段はのこされているとはいえ、原則的には、それに従って圧倒的多数の事態は進行していくのであり、またそういう制度の力がなければ社会は動かない。

さいごに

 最高裁判例について言えば、当事者間の関係に広く信託という性質決定を認める最高裁判例が最近、相次いでいる(最判平成14年1月17日民集56巻1号20頁、最判平成15年6月12日民集57巻6号563頁(補足意見)など)。最高裁も信託という性質決定が民法体系にもたらす危険を十分に認識せずに利用していると思われる。これらの事件においては、金銭所有権は占有に伴うという原則を信託以外の何らかの解釈論で、価値の上のヴィンディカチオとして救済することも可能であったろう。しかし一方では、最高裁は、遺留分減殺請求では民法に規定された公平の原則を非常に重視して、遺留分という問題を、相続人間の公平の最後の砦としている観がある。たとえば、遺留分減殺の対象としての要件を満たす贈与を受けた者が目的物の占有をもとに取得時効を援用しても減殺請求によって遺留分権利者に負けるとした最判平成11年6月24日民集53巻5号918頁のように。遺留分については立法論的には廃止意見もある制度であるが(ただし配偶者相続権については廃止すべきではないだろう)、さらに相続法の基本原則である同時存在の原則については、遺留分より否定できない民法体系を支える原理の一つであるから、最高裁が崩す可能性はまずないものと思われる。

 しかし信託制度は、これらの原理と相容れない。たとえばニューヨーク州法は、信託を設定した時点で生きていた設定者の遺族のうち最後の生存者が死亡した21年後まで信託が継続しうるとしている。つまり遺言信託の場合、被相続人の最後の孫かひ孫が死んだ後21年まで効果を持つということは、おそらく被相続人の死後100年は、設定者の財産上の権利の完全性は回復しないことになる*22。このようなことは、大陸法由来の現行民法体系といかに両立し得ないかは、たやすく想像できるところである。要綱試案の「いわゆる民事信託を主として念頭に置いた規律関係」第60以下は、このような問題を了解したうえであえて提示された提案とは、とても考えられない。全面的に再考されることを願う次第である。

 

*1道垣内弘人『信託法理と私法体系』有斐閣(1996年)。

*2前掲・道垣内弘人『信託法理と私法体系』219頁以下。

*3前掲・道垣内弘人『信託法理と私法体系』216頁。

*4家族法の領域にはとりわけ日本人の伝統的な法意識が働いて母法を変型したところが多い。水野紀子「比較法的にみた現在の日本民法ー家族法」広中俊雄・星野英一編『民法典の百年I』有斐閣651-690頁(1998年)参照。相続法においても、民法内部自体にも矛盾がある。たとえば、相続分指定、遺留分の放棄、寄与分などは、日本人起草者が現実的な必要性から思いついて創設した制度であるために、母法の体系からは説明できないので、解釈的に困難な諸問題をもたらしている。

*5そのために日本では、一方で登記を信頼した第三者の保護の問題が深刻となり、他方では簡単に書き換えられる登記によって所有権者の所有権が脅かされる問題も生じる。議論の基本が、一物一権主義のもとで第一の譲渡によって無権利となったはずの売主が、第二の譲渡で有効に所有権を譲渡できる構造の論理的な説明をどのようにするかにあったことはたしかであるが、その議論をどのようにつきつめても、日本法の抱える構造的な問題点がそれほど解決できるものでもなかった。すべての物権変動に登記を要求する制度は諸外国に例を見ないにもかかわらず、学説の多くがおそらくは無理を承知で対抗問題たるべきことを主張し、対抗問題の原理枠をはずれた学説は、様々な利益考量から自由な解釈を組み立てるようになり、この領域における奔放な解釈論の展開は、学説が技巧を繰り広げる運動場のような観を呈するに至った。その中でももっとも超絶技巧の解釈論といえるのは、民法94条2項の解釈論であったろう。民法94条2項の解釈論が定着するにつれ、民法176条と177条の議論においても、無権利の法理を前提として公信力で第三者を救済しようという傾向が次第に強くなったように思われる。ドイツ法の公信力は、物権契約とそれに対応した民法体系・登記システムを前提とするものであるから、日本法との異質度はさらに大きいので、もちろんただちに輸入できるものではないが、公信力的な考え方は、取引安全を図れるという利点から、支持者を増やしていった。たしかに民法94条2項を利用して取引安全を図る法理は、日本の状況の中で、非常に便利な理論であったことは否定できない。しかしひとつには民法176条や177条の存在によって物権変動を処理している民法典の体系と整合的な説明ができないこと、また一方では、この規定の適用がいわば信義則的に裁判官の広範な裁量を可能にする規定で、裁判官にとっては便利であるが故に適用規範としては危険で不安定な性質を持つことから、民法94条2項の拡大傾向は、無条件に肯定できるものではない。そしてこの二つの理由は、内在的には深く関連している。所有権は、善意無過失の第三者が現れたことによって、ただちに危うくなるほど弱い概念ではないはずであり、訴訟の場における善意無過失の立証過程における裁判の限界を考えれば、なおさらである。したがって民法94条2項の万能性にいましばらくは頼らざるを得ないとしても、その限界を自覚した上で、将来的にはより根本的な制度的解決を図らなくてはならないだろう。また、学説の民法94条2項への傾倒とは別に、判例におけるこの法理の活用には虚偽表示というもとの性質の拘束から限界が守られており、学説が期待するように活用されてはいない。とりわけ相続財産の承継において、相続人に虚偽表示類似の虚偽登記作成の荷担行為を擬制することができないために、相続財産の取引安全は、深刻に脅かされている。しかし信託法の立法は、民法体系を破壊し、かつ信託の自由さを担保する社会的安全装置を欠いているので、はるかに重大な危機をもたらすだろう。

*6新版注釈民法(6)96頁(吉村眸執筆)(有斐閣、1997年)。

*7能見善久『現代信託法』(有斐閣、2004年)4-5頁。

*8横山美夏「信託法と民商法の交錯:日本私法学会シンポジウム(資料)(1)財産:人と財産との関係から見た信託」NBL.791号(2004年)。

*9大村敦志「フランス信託学説史一班」信託研究奨励金論集22号(2001年)91頁以下

*10H.Motulsky, "De l'impossibilite juridique de creer un "trust" anglo-saxon sous l'empire de la loi francaise" , Revue 1948, p.451 et suiv.

*11Dictionnaire de la culture juridique sous la direction de Denis Alland et Stéphane Rials, PUF,2003.pp.1489-1490.

*12能見善久『現代信託法』有斐閣(2004年)11頁。

*13天野佳洋「遺言信託」ジュリスト1164号93頁(1999年)。引用されている能見教諭の論考は、『現代信託法』のもとになった論文、能見善久「現代信託法講義(1)」信託199号(1999年)8頁である。

*14新井誠「信託と強制相続分・遺留分を巡る問題」國學院法学31巻4号(1994年)

*15新井誠・前掲「信託と強制相続分・遺留分を巡る問題」5頁

*16新井誠・前掲「信託と強制相続分・遺留分を巡る問題」19頁。ただし英文の出典に依拠して書かれた部分は本文に紹介したように遺留分は動かせない相続法公序という視点で一貫しているが、新井誠教授自身の文章によると思われる「結論」の部分には、「遺留分制度それ自体を否定してしまう必要はないけれども」といいつつも、信託によってそれをより柔軟にしたいという期待が述べられている。同21頁。

*17著者である新井教授ご自身が、この論文に現れた法理解と必ずしも両立しない価値判断をもっていると想像される。新井誠「高齢社会における信託活用の意義」新井誠編著『高齢社会と信託』有斐閣269頁以降は、「信託を国礼者の財産管理のために用いる際の具体的なメリット」として、「信託の意思凍結機能」「受託者には信託法上厳しい義務が課される」「相続法との関係が明確」「信託目的を遵守しながら信託条項」とし、信託との機能として「意思凍結機能」「受益者連続機能」「受益者裁量機能」をあげ、とくに「受益者連続機能」によって相続法ではできない跡継ぎ遺贈機能が可能になると提言している。しかしこれらの明瞭に相続法と衝突する諸機能について、相続法を完全に無視して相続法を積極的に潜脱できることを正面から主張するわけではなく、同284頁は「しかし、だからといって信託が民法上の規定すべてに優先することにはならず、民法上の遺留分の規定に抵触することは許されないし、」遺贈の規定が類推適用されることになろう、として、解決のための必要な条件整備として291頁では「信託法理の深化」をあげる。信託法理をいくら「深化」させてもそもそもこの両者の両立は不可能なのではないだろうか。その「深化」が「相続法の否定」であるのならばもちろん話は別であるが。

*18Jacques Héron, Le morcellement des successions internationales, Economica,1986,pp.134-135.

*19Michel Grimaldi, Droit Civil Successions, Litec,p.257.

*20Article 791
 On ne peut, même par contrat de mariage, renoncer à la succession d'un homme vivant, ni aliéner les droits éventuels qu'on peut avoir à cette succession
 (夫婦財産契約によっても、生存者の相続を放棄することも、その相続財産によって得ることがある権利を譲渡することもできない)
 Article 1130
 Les choses futures peuvent être l'objet d'une obligation.
 On ne peut cependant renoncer à une succession non ouverte, ni faire aucune stipulation sur une pareille succession, même avec le consentement de celui de la succession duquel il s'agit.
 (将来発生するものも債務の対象となりうる。しかしまだ開始していない将来の相続を放棄することも、その相続について約定をすることもできない。たとえ相続が起こる者の同意を得ていたとしても、同様である。)

*21François Terré, Yves Lequette, Droit Civil Les successions Les libéralités, 3e éd.1997.Dallz.pp.,486-487.

*22このニューヨーク州法の例は、Jacques Héron,op.cit., p.135が挙げるものである。


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