インターネットに掲示するにあたって

 インターネットに内容を掲示する論文を選択するにあたっては、なるべく立法の動きがあるものを選ぶようにしているが、以下の論文は、すでに立法された成年後見法に関するものであり、いわば解決済みの問題に関するものである。しかし介護労働問題を成年後見制度と結びつけて解決しようという動きは、立法後も解釈論として根強く主張されており、危惧されるので、あえて掲載することとした。

 論文に書いたように、成年後見制度は、意思決定の代行制度であり、法定成年後見においては、介護労働のような事実行為は成年後見人の職務ではないことが立法者意思としてはっきり明示されている。けれども、任意後見においては、契約自由の原則から、介護労働を含む任意後見契約が可能であるという学説がある。しかし任意後見であっても意思決定の代行制度であることは変わりないから、成年後見人が介護労働を引き受けることは、利益相反行為になるからできないはずである(論文注(25)参照)。では任意後見契約の締結と同時に介護労働契約を締結することによって、利益相反行為にならない介護労働契約を締結することは可能だろうか。介護労働契約は高齢者の体調によって絶えず改訂が必要になるであろうから、かりに当初の契約は可能であるとしても、改訂は利益相反行為になる。では改訂が不要であるような、広範で柔軟な、「死ぬまで身の回りの世話をする」という介護労働契約が可能だろうか。労働契約は、労働時間や労働条件がはっきり決まった内容でなければ、契約として有効に成立し得ないのではないか。少なくとも包括的な介護労働契約を任意後見契約と同時に締結することの実際的な危険性が大きいことは、明瞭であろう。介護労働者と後見人が同一人物であった場合、介護労働の適切な監督はとてもできない。逆に、介護労働者が立場の弱い者であった場合には、介護労働者の奴隷労働の危険がある。自由意思により介護労働契約を締結したのであるから拘束されてもよいとはいえないことは、労働法の歴史的展開をみれば一目瞭然である。私は、任意後見契約によって、後見人に介護労働義務を負わせることは許されないと解する。後見人が被後見人の財産を管理して、介護労働サービスを購入することはもちろん可能である。

 高齢者の介護労働をいかに確保するかという課題は、現在の日本社会が抱える最大の問題の一つである。国民の意識のなかには、誰かに全面的に介護責任を負わせることで解決しようとする心性が、抜きがたく存在する。かつての村共同体や親族共同体のなかで培われたシャドウワークの負担形態や意識を引きずって、介護労働の解決を考えることからは、間違いが生じる。高齢者がすべてを誰かに委ねてまかせる発想は、その誰かが共同体規範に従い共同体に生存を依存している者であるときには、有効に機能した。高齢者が親切にしてくれるセールスマンを信頼して財産をまかせてしまうという消費者被害も、この生活習慣と発想からもたらされたものといえよう。この発想を維持したままで解決を考えると、失われた共同体の監督と制裁に代替する存在として、国家や地方公共団体に対する過大な期待をもつことになる。私は、成年後見制度における家庭裁判所の監督機能への期待は、この種の幻想であろうと考える。緊密な関係を日常的にもつ共同体であったからこそ、監督機能が果たせたのであり、それだけの人的資源をもつ公共セクターの想定は夢想にすぎず、公権力に一罰百戒的な制裁機能をもたせることは非常に危険でもある。

 なお、上述の内容については、拙稿「『相続させる』旨の遺言の功罪」久貴忠彦編集代表『遺言と遺留分・第1巻遺言』日本評論社(2001年)も参照されたい。

2001年11月5日
水野紀子



5,後見人の身上監護義務*1

水野紀子

一、身上監護への期待

 後見人の身上監護は、成年後見法改正にあたってもっともよく議論されたテーマのひとつであった。「身上監護」という言葉は、内容がきわめて曖昧である。曖昧ではあっても、その響きは、同時にきわめて魅力的である。これからの成年後見制度は、財産管理ではなく身上監護こそが重要だという主張は、老人問題に不安を感じている人々の耳には、あたかも解決策を与えられたように快く響く。そして成年後見人の身上監護義務がにわかにクローズアップされた。

 日本社会が超高齢化社会に向かっている現在、老人問題は、日本人の誰にとっても切実な課題となっている。高齢者の増加は、判断力が衰弱したり失われたりする痴呆性高齢者の増加をも意味するため、判断力の衰弱や喪失を補完する成年後見制度は、老人問題への対処の一環として必要なものであることに異論はなかった。もとより成年後見制度の対象は痴呆性老人に限られるものではなく、判断力に障害のある成人を広く対象とする制度であるから、知的障害者や精神障害者も視野に入れて立法を考えねばならず、痴呆性老人だけを配慮するものではないが、成年後見制度がこれだけ多くの関心を引いたのは、障害を持たない者も身近に障害者がいない者もすべて、痴呆性老人の危険は自分の将来の危険として身近に感じられたからであろう。

 いわゆる老人問題とは、自分一人では自立して生きていくことができなくなった老人をいかに支えるかという問題である。日本社会では、老人は家庭の中で家族の世話を受けながら老後を過ごす場合が多かったが、かつて、農業などの家業を営む家族のなかに老人が吸収されていて、弱った老人は疾病により比較的短期間で亡くなることが前提であった時代には、それが老人問題として問題視されることはなかった。産業構造の変化に伴い家族構成が変わって老人だけの世帯が増加し、栄養・疾病・治療水準の変化によって重度の身体障害・精神障害をかかえながら延命する老人が増加した。重度の障害をもつ老人をかかえた家族がどれほどの重荷を背負うことになるのかは、それを生き生きと描写した有吉佐和子著『恍惚の人』がベストセラーになったことなどにより、次第に社会に認識されるようになった。しかし危機感は共有されてきたとはいえ、そして家族介護に委ねるだけではなく社会的な介護が必要だという意見が多数を占めるようになったとはいえ、この問題の解決方法について、いまだコンセンサスを得たその将来像は見えていない。この危機感が、成年後見法の改正を短期間に推し進めた要因の、少なくとも一つではあったと思われる。

 実は、障害者や老人がもっとも必要とする支援は、家事労働・介護労働である。これらは従来、主に家族によって無償で担われてきたアンペイドワークないしシャドウワークといわれる種類の労働であった*2。家族は家族内で、とりわけ多くは女性の手によるこの種の労働を相互に提供しあうことによって生存を支えてきたし、家族の中からこの種の労働による支え合いが完全になくなることは将来もないであろう。しかし現代の家族は、女性の労働力化や核家族化などによって、介護労働などのあまりに負担の重いこの種の労働を担いきれなくなっている。先進諸国においては資本主義化の進展によってこのような事態は共通してみられたが、諸外国と比べると、日本がこれらの労働を社会保障によって代替する政策を採用してこなかったことが、日本の事態を深刻にしている*3。この長年の政策選択によって日本人には家族以外の手による介護労働への想像力が働きにくいが、今後は、かつての家族や地域社会に代わって、政府が、無償労働を有償労働に転換して労働力を投入し、社会保障としてこの種の労働を提供して支え合いを保障することが必要である。

 とはいえ、その政策転換は容易なことではない。国家財政は周知のようにきわめて厳しい状況にあり、他の既得権益と争いながら、限られたパイを分け合わなくてはならないからである。社会的介護整備の一環として、介護保険法が本年四月から施行され、社会保険方式により介護サービスが提供されることになった。公的費用のみで必要な介護サービスを全面的にまかなうことは、現在の財政事情から不可能であるため、介護保険法は、従来の行政庁が介在する措置制度ではなく利用者と事業者が直接契約を結ぶ仕組みにして利用者負担を一定限度で導入した。この契約構成の採用も、成年後見法の改正が急がれた一つの理由であった。しかしそれでも介護保険で提供される介護サービスは、必要な量にはほど遠い。利用可能な介護労働力も、そもそも不足している。

 「身上監護」という言葉は、一人で生活できない高齢者や障害者に対して、誰かが身近で献身的にその「お世話」、つまり家事労働や介護労働をしてくれるというイメージを与える。無償の家族労働力が豊富に無尽蔵にあれば、このような「お世話」をすることもかつては可能であったかもしれない。そのイメージは、たとえそれがノスタルジアや幻影であっても、本来の理想として我々の脳裏に去来しがちである。もしこのような解決が、一片の法律で実現可能であるのならば、誰もがそれを望むだろう。しかし冷静に考えれば、それは幻想に過ぎない。

 介護サービスを提供する社会福祉が不十分な現在、そしてかりにそれが早急に改善されたとしても国家財政や介護労働力の諸条件からそのような「お世話」が実現できるほどの福祉水準を確保するのは不可能だという条件の下で、後見人はどうすれば「お世話」を行えるであろうか。後見人が、被後見人のためにそのような「お世話」をする労働力を市場価格で購入するとすれば、それを賄えるのは資産家の被後見人だけであろう。それを購入できない多数の被後見人のためには、後見人が最終的にその責任を負う、つまり自ら介護労働をするとすれば、それはきわめて過大な労働の負担を法律上の義務として後見人個人に負わせることになる。もちろんこのような義務を強制執行することはできないし、これほど重い負担を負うことになると後見人のなり手がないということも考えられるが、そもそもこのような労働を義務として課すことは、近代法の採用できる選択肢ではなかろう。仮にこのような重い負担を自ら進んで負う者が現れたとしても、たとえば肉親の情で介護労働をする決心をした後見人候補者が存在したとしても、介護労働の事実上の提供を越えてそれを法律上の義務とすることは妥当ではなく、またその者の意思決定において周囲から労働提供への事実上の強制がなかったという保障もない。

 星野英一教授は、立法過程を振り返って、「改正後の成年後見制度は、身上監護を強化するものだ、という誤解があり、…〔中略〕…幻想を与えてはならない」と述べ、「身上監護制度への期待は幻想にしても大きいので、それにどう対処するかが非常に議論になりました」*4と回顧する。成年後見制度における身上監護に対する期待について、「幻想」という表現でよぶ例は、他の論者にもみられる。たとえば大村敦志教授は、「民法の規定を変えればこれが実現するというのは、あまりに楽観的な議論であるといわなければならない。もし、本当に、国や自治体による後見(社会福祉制度の一環となる)を構想するならば、予算措置を含めて慎重な検討が必要となるはずである。いずれにしても、成年後見制度が成立すれば、高齢者の未来はバラ色であるというかのごとき幻想を振りまくことは避ける必要がある。」とする*5。筆者もまた、立法過程で見られた身上監護への期待を幻想であると考える。そしてその幻想が、改正法の解釈に影響を持つことを危惧する。

 直系血族及び同居の親族の扶け合い義務を定めた民法七三〇条は、かつて戦後の改正の際に、「家」制度廃止と憲法二四条の立法に反対して敗北した保守派が、民法で代替措置として立法を主張した条文であり、ある種の政治的妥協で立法された。戦後の民法改正作業にあたった我妻栄博士や中川善之助教授などの主流の民法学者は、このような立法の経緯からそもそもこの条文の立法に批判的であったため、その機能をごく限定的に解釈してこの条文が具体的な扶養義務を意味するものではないとし、立法論的には廃止されるべき意味のない条文とほぼ死文化する解釈をした。そして、民法七三〇条は、民法学の議論の舞台からは葬り去られたかにみえた。しかし実際にはこの条文は、とりわけ家庭裁判所の調停実務では、当事者に家庭内のアンペイドワークを義務づける条文として頻繁に用いられ、活用されていたのである。そして老人問題が意識されるようになると、老人を介護する義務の根拠条文としてこの条文を活用すべきだとする解釈論が少数説ではあっても学説においても主張されるようになった*6

 民法七三〇条の歴史を見てもわかるように、曖昧な条文は危うい。とりわけ家族関係の規律においては、アンペイドワークの義務づけがイメージされる言葉を用いた条文は、危険である。「身上監護は『嫁』、財産管理は『長男』と権限を分けて選任されるケースが一般的に考えられる」という学説*7まで出現していることは、この心配が杞憂ではないことを推測させる。義務者が家庭内でアンペイドワークを担う立場の者であったときには経済的自立力がないために事実上その義務から逃れるすべがなく、不当な隷属を生じやすい。「家」制度の戦前の歴史を思い出せば*8、たとえ義務者の同意があったとしても、そしてその対価としてしかるべき金額が義務者にかりに支払われたとしても、その義務化の危険性はたやすく想像できる。家族法学の通説的見解は、このようなアンペイドワークの法的義務づけや強制に対して敏感に批判的にならざるをえなかったから、この種のアンペイドワークを法的義務とすることができるのは親が未成熟子を育てる場合だけであって、西欧諸外国の民法解釈におけるように、成人した親子間の扶養義務さえ介護労働を含まない経済的な給付に限られると解してきた。しかしわが国の家族法学もまた日本人の学者が形成するのであるから、ある種のノスタルジアと素朴な発想から、家族間の無償労働を義務づけることによる解決を志向する学説は、少数説とはいえ、絶えず存在する。まして民法学者でなければ、曖昧な文言に日常の感覚から過当な内容を読み込む危険は大きいといえよう。

 成年後見制度は、介護労働などのアンペイドワークの義務づけとは異なる制度であり、判断能力の衰弱を補充する意思決定の代行制度であることが、十分に理解される必要がある。

二、意思決定の代行制度としての後見制度

 成年後見制度は、自分一人では十分な判断力を持てない本人の意思決定の代行・支援制度である。この点は、法律家の間では自明な点であるが、一般には必ずしもそうではない。もっと幅広く、老後の世話をしてもらえる制度、面倒をみてもらえる制度と受け取られがちである。

 また民法学説のうちにも、身上監護という概念を利用して成年後見制度によって介護労働を保障しようという学説*9があった。もっとも、身上監護義務が介護労働義務を意味する、と正面から言う説はさすがに少なく、成年後見が意思決定の代行手段であるという前提は共有されているが、成年後見人は、財産管理や法律行為において意思決定を代行するばかりではなく事実行為についても代行するということから、具体的には「タンスの中にある服のどれを着るのか、どこに散歩で出かけるのかという決定」まで後見人の権限・義務とする学説*10があった。夕食の献立の決定が家事労働に含まれる事実上の判断・決定であるように、介護労働も、ロボットの行うような機械的な単純な作業ではないから、当然にさまざまな事実上の判断・決定を含む。この例におけるような決定は、決して身上監護に含まれるものではなく、内容的には介護労働そのものである。

 身上監護を成年後見に取り込んでいるドイツやアメリカなどの国々では、内容的には介護労働であるこのような決定代行が身上監護として扱われることはない。具体的には、医療行為の同意、居所の決定、自由の剥奪または制限を伴う措置についての決定などが、これらの国の身上監護の内容である*11。したがって身上監護の代行が認められるためには、財産行為の代行の場合よりも、本人の能力減退等について厳しい要件が課せられている*12。なぜなら財産について判断する能力がない人でも、自分の身上、つまり身体に関する決定や自由に関する決定は、最後まで本人に残らなければならない最後の砦であるからである。

 意思決定の代行制度であるという本質を見失うと、身体機能の衰えた老人にとってもっとも必要な介護労働・家事労働つまり日本語の日常会話での「お世話」と、成年後見の身上監護を混同する危険がある。その混同を生じた場合、一方では過大に、他方では過小に、成年後見の必要性を誤解しがちである。

 過大に誤解するとは、たとえば身体機能の衰えた老人が、家族が同居して介護労働・家事労働などを提供する環境にない独居状態にあるときに、その意思能力・判断能力は十分にあるにもかかわらず、身上監護のために成年後見が必要であると考えることである。このような老人の置かれた状況は、たしかに援助の必要な状況ではあるが、それは介護労働・家事労働の援助が必要なのであって、成年後見の援助が必要なのではない。彼は、自分の意思によって介護サービス契約などを締結するか、代理人を選べば足りるから、成年後見の対象とはならない。

 過小に誤解するとは、たとえば老人が、身体機能ばかりでなく精神機能まで衰えても、良心的な家族と同居して介護労働・家事労働などを提供される環境にあるときには、成年後見は不要であると考えることである。つまり家族によるアンペイドワークの提供がその老人の生活を支えている場合は、成年後見の問題にならないという理解である。ドイツ世話法の必要性・補充性の原則の理解も、このような場合に成年後見が不要であるという趣旨で引用されることがあるが、間違いである。老人が十分に意思能力を持っているうちにあらかじめ有効な代理権を家族にはっきりと書面で授与しているならばともかく、そうでなければ、家族が老人の財産を管理したり老人の身上の世話のために老人の財産を使用したりするために代理権限が必要となり、従って成年後見が必要となる。金融機関等の取引の相手方が、本人の判断能力や委任の有効性について疑念を抱くと、取引は成立しないからである*13。ドイツやオーストリアにおいても、成年後見の申立ては、本人の面倒を見ている者が自分が無権代理の責任を問われることなく有効に契約を締結できるように、法律行為における法定代理の必要から自衛的に申し立てる場合がもっとも多く、補充性の原則が働くことは少ないとされている*14。実際には、痴呆性高齢者等のかなりの部分が有効な委任・代理権授与をすることができず、何らかの成年後見制度の対象者となる必要が生じるであろう。

 要するに、成年後見は、判断能力の衰弱を理由とした決定の代行制度であって、家事などの生活に必要な身の回りの事実行為ができなくなったという衰弱の救済制度ではない。それらの事実行為の援助は、サービスを購入するか、社会福祉がカバーするしかない。また決定の代行そのものも、本人が自分で行うよりは、誰か信頼できる者に代行してもらうほうが当然に本人は楽である。しかし楽をしたいという理由では成年後見は許されない。自分で任意代理人を選ぶしかない*15

 このように決定権限の代行である成年後見が発動される事態は、本人が自己決定できないほど能力の劣化がおこっている状態である。またよほど深刻な劣化があって身上に関する決定すらできない状況でなければ、身上監護の成年後見が発動されてはならない*16。決定権限の代行を発動させることは、本人の自由や自己決定と対立するからである。

 フランス法は、一九六八年一月三日法の成年後見法改正において、身上監護(la protection de la personnne)と財産管理(la protection du patrimoine)とを分離し、身上監護は公衆衛生法典Code de la Santé Publiqueに、財産管理は民法典に集中することにした。公衆衛生法典が一九六八年法が期待した内容を持つように改正されるには、一九九〇年六月二七日法まで待たなければならなかった。もっとも公衆衛生法典が対象とする身上監護は、入院に関する保護が主要なものである。それ以外の身上監護は、解釈に委ねられることになった。

 Juris-Classeursは、その解釈を次のように解説している*17。身上監護に関しては、その内容は拡散するため、はっきりした行為を列挙して直接示唆することはできないが、その限界については、論じられている。まず、後見人は、被後見人の身上に関して強制的な措置をとる権限はないという点では、異論がない。ただ一般的な代理権をもつことから、後見人は、被後見人がその身上に関して行った決定について、家族会のコントロールのもとで、ある種の拒否権をもつと解されている。また婚姻や認知などの被後見人の一身に専属する行為やフランス民法501条により被後見人の行為能力が認められた行為を除き、後見人は被後見人の同意を得て代理権も行使できる。後見人は、看護方法の認可や外科手術の際に介入できる。また後見人はその職務を果たすために必要ならば被後見人宛の郵便物を受け取ったり送り出したりできる。日常生活の撮影やそのフィルムの放映を許可することもできる。例外的に、後見人が被後見人の身上について本当に権限をもつ場合がある。それは、被後見人が自分の意思をもてない状態になっているときである。このときには当事者は自分の人生について何らの決定もできない状況にあるのだから、第三者が代わりに決定することになる。この決定は原則として家族会が行い、後見人が執行する。

 以上のような解釈において、身上監護は、被後見人本人の自己決定と衝突するものとして慎重に解釈されていることがわかる。例外的に後見人が権限をもつ場合について、身上監護として用いられている用語は、統治・制御などを表すgouvernement de la personneという表現である。つまるところ後見人の身上監護権限は、被後見人のgouvernementなのであって、日本語の「お世話」ではない。成年後見が決定権限の代行制度であることからは、これも当然の帰結であろう。

 身上監護という概念を利用して成年後見制度によって介護労働を保障しようという学説は、後見人を介護についての最終責任を負う者、つまり介護サービスを購入して供給できなければ自ら提供する義務を負う者と位置づける。西欧諸国の成年後見制度は、ドイツ世話法をも含めて、このような構造ではない。この学説は、介護労働を必要とする高齢者を念頭において、それらの高齢者が望む介護サービスを保障する制度という観点から、成年後見制度をわが国独自に設計しなおすものといえるだろう。西欧諸国の成年後見制度と異なる内容であっても、この観点から独自の成年後見制度を設計するのであれば、介護労働と決定権限代行との境界にも神経質になる必要はないことになるし、成年後見の要件も弾力化してよいことになる。論理的にはあり得る位置づけかもしれないが、民法の体系とは整合しない異質の設計である。

 身上監護に対して慎重な学説*18は、まず、このような解釈で設計された身上監護では、本来の身上監護、すなわち医療行為の同意のように最後まで本人の決定権が尊重されなければならない領域の身上監護にも当然代行が及んでしまうことの弊害を危惧する。また前述したように、介護について最終責任を後見人に負わせることは、後見人に介護労働義務を強制することになる結果になり、筆者は是認できない。

 身上監護を重視すべきであると主張する学説は、ドイツ法の新しい成年後見制度を紹介してそこから引き出した概念を根拠とすることが多かった。しかしドイツ法を紹介してその制度を正確に再現しようとするのではなく、どちらかといえばそこで用いられた用語を自説に合わせて紹介する傾向があったように思われる*19。そしてその傾向のベクトルは、後見人の職務を、被後見人の意思決定の代行というより、介護労働に内容的に近づける方向に向けられていた。

 ドイツ法のこのような利用として、具体的には、次の三点が挙げられる。第一は、ドイツ法の「persönliche Betreuung」概念を「親身な世話」と訳して、その訳語の日本語の語感からイメージされる介護労働によるお世話は「persönliche Betreuung」概念とは異なるものであるのに、むしろそれが同じであるという誤解を導くような紹介をしたこと、第二は、ドイツ法の身上監護の正確な紹介をするよりも、ドイツ法が身上監護を重視しているとだけ強調したこと、第三は、ドイツ法が成年後見の発動要件のうちに身体障害を含んでいることを強調し、意思決定の代行制度というより身の回りの世話をする制度であると示唆したこと、である。以下、それぞれ詳論する*20

三、「persönliche Betreuung」概念と「親身な世話」ないし「個人的世話」概念

 まず、ドイツの新成年後見法の訳語そのものが誤解を招きやすかった。この法は、「世話法」と翻訳され、成年後見が机上のペーパーワークとして処理されていた事態を改善するために導入された「persönliche Betreuung」という概念が「親身な世話」*21と訳されて紹介された。この概念は、後見人が被後見人を個人的に知ることなく、ときには数百人にも及ぶ被後見人をかかえて書類上の匿名の存在として機械的に処理していたかつての事態を否定し、後見人が被後見人の状況を実際に知りながら、被後見人のニーズにあった事務を行うことを目指した概念である。

 日本語の「世話」という言葉は、意思決定の代行というより、介護労働・家事労働を意味する方が自然である。翻訳する場合に、あるドイツ語に完全に対応する日本語がないのはいわば訳語の宿命であるから、ある日本語を訳語として選択したときに、もとのドイツ語と異なる意味が入り込むのはやむを得ない。従って筆者はこの訳語自体を「論難」*22しているわけではない。しかしそのときには、そのギャップを確認して誤解のないように留保しながら紹介する必要があろう。

 けれども実際には、その誤解を助長する紹介がなされたといわざるを得ない。新井誠教授は財産行為不関与型身上監護事項という概念を提唱する。そして財産行為不関与型身上監護事項の例として挙げられるのは、「タンスの中にある服のどれを着るのか、どこに散歩に出かけるのか」という決定である。その上で、次のように「個人的世話」概念を引用する。「既存の財産行為、身分行為のいずれでもないドイツ成年者世話法にいわゆる『個人的世話』すなわち被保護者と緊密な接触を保ちつつ、被保護者と十分に話し合いながら、その福祉の維持・向上のために日常生活における身上に関する種々の手当をほどこすことが身上監護の核心であり、このような新しい概念が定立されなければならないが、筆者はこれを財産行為不関与型身上監護事項といっているのである。」*23この表現では、「個人的世話」概念は、財産行為ではないものであって、「日常生活における身上に関する種々の手当」を意味するような「新しい概念」であると読める。そしてそれが「タンスの中にある服のどれを着るのか、どこに散歩に出かけるのか」という決定である「財産行為不関与型身上監護事項」とイコールであると導かれる。

 前述したように、「タンスの中にある服のどれを着るのか、どこに散歩に出かけるのか」という決定は、介護労働に内在される決定であって、介護労働そのものであり、ドイツ法の「世話」概念には含まれない。また「個人的世話」概念は、「世話」の事務の圧倒的多くの内容である財産行為にも、当然に働くものである。したがって、「財産行為不関与型身上監護事項」とドイツ法の「個人的世話」概念はまったく異なったものである。

 ここで行われている論述は、ドイツ法のpersönliche Betreuungという概念そのものを紹介しそれを日本法に導入しようという主張ではなく、日本語訳の「親身な世話」ないし「個人的世話」という用語が日本語で意味するイメージを利用して、介護労働を成年後見の中に取り込もうという独自の主張なのである。

四、身上監護の職務内容

 第二は、ドイツ法が、財産管理とは異なる身上監護の職務内容を後見人に認めていることの評価である。ドイツの世話法は、「身上監護」を重視したものと説明され、財産管理にとどまらない行き届いた「身上監護」を保障したものと紹介されてきた。たしかにドイツ世話法は日本法にはない医療措置や収容などの個別規定をおいており、それらは日本法と比較したときには、行き届いた条文構成であって裁判所の許可をかけて実効的に被後見人の人権を守る制度であるということはできるだろう。しかしそれらの規定は、医療措置や収容などの際に裁判所の関与を定める規定の整備であって、いわゆる身の回りの世話を意味する規定ではない。これらの規定のある身上監護を「狭義の身上監護」とよび、より周辺部分の「広義の身上監護」と区別して論じる学説もあるが、では「広義の身上監護」が、つまり周辺部分の身上監護が、ドイツ法ではどのように具体的に手厚く行き届いているのか、またそれが日本法とどう違うのかという紹介はなされなかった。

 さらにまた、日本法とではなく諸外国法と比較したときに、とくにドイツ法の「身上監護」が、たとえばアメリカ法の身上監護と、またそれらを公衆衛生法典に委ねたフランス法の身上監護と、実際にどのように異なっていて「身上監護」を重視しているといえるのか、具体的に指摘されることもなかったように思われる。とはいえ筆者も現在、諸外国法の身上監護を具体的に比較できる準備はないが、しかし少なくともここでは、「身上監護」の重視と抽象的に述べてイメージをふくらませるに任せるのではなく、ドイツにおける身上監護の内容を、より詳しく紹介したい。

 すでに二で記述したように、ドイツ法の身上監護の代表的な事項は医療処置手続・不妊手術・収用類似処置手続などであって、ドイツ法の身上監護の外延に着る服や散歩道の選択まで含まれるとは考えられない。それらは介護労働の事実行為であるからである。しかし身上監護の外延にどこまで細かな事務が含まれうるのか、ドイツの実務書から検討してみる。

 裁判官・法務省の担当官・弁護士の共著によるJuergens/Koeger Marschener/Winterstein, Das neueBetreuungsrecht,4 Aufl.(1999) S.54(Rn.157)は、Persönliche Betreuungについて次のように説明している。「BGB第1897条第1項の誤解を招きやすい表現にも関わらず、Persönliche Betreuungというのは、世話人が、被世話人の日常生活全体にわたって手伝いをしたり看護(Pflege)を引き受けたりすることを意味しない。このことは、第1986条2項でも明らかなように、『他の補助(Hilfe)』を優先すべきことがはっきり定められており、これには、社会福祉団体の補助活動や、出張サービス、社会施設でのサービス、家族・友人・知人の手助けといったものが含まれる。世話法は、この伝来の身分的変化の基礎にある社会的補助活動のシステムを、個人的世話(persönliche Betreuung)へと世話人を義務づけることによって、取り去ることを企図しているわけではなくて、世話人の側にたった相談相手(Beistand)となって、そのようなシステムをうまく見つけられるようにしたり、被世話人にとって最良の補助(Hilfe)を選ぶように配慮すべきものなのである。従って、世話人は被世話人のために料理をつくったりはしないが、場合によっては、配食サービスEssen auf Raedernの注文の際に彼を助けることはある。また、世話人が自ら掃除をしたりはしないが、清掃の補助(Hilfe)をオーガナイズすることはある。世話人は、看護を引き受けるべきものではないが(LG Limburg,BtPrax1997,116)、被世話人と一緒に適当な出張サービスや社会ステーション、ホームを探してやり、必要な法律行為の締結に際して被世話人を助けたり、社会的サービスの場合に申し込みをしたりするわけである。事実上の補助(Hilfe)や世話(Betreuung)は、部分的には社会立法の対象であるが、原則として、これを世話人が引き受けるものではない。フェンスの修理をするといった手作業も、原則として世話人の職務範囲に含まれていない(OLG Zweibruecken,BtPrax 1997,116)。」

 また、一般人向けの解説書Von Walter Zimmermann,Betreuungsrecht,4Aufl.(1999)は、「身上監護Personensorge」として、次のように記述している。「身上監護に関する世話人の職務範囲には、財産若しくは治療行為に関わる領域での代理行為(Verteretung)が含まれるばかりでなく、例えば、食事(Ernaehrung)、身体的看護(Koerperpflege)、健康への配慮、住居の清掃、衣服の洗濯、衣料品の購入、居所の選定、日常的な少額の金銭事務の管理なども含まれうる。これらの世話人の職務範囲の限界は、個別的には明確ではない。しかし、世話人はかかる身上の看護活動(persönlichen Pflegleistungen)を自ら行うべきものではない(27頁参照)。」*24。そして、ここで引用されている27頁には、「身上の看護活動(persönlichen Pflegeleistung)」として、次のような記述がある。「身上の看護活動(買い物、調理、洗濯、介護など)は、世話人が自ら為すことを義務づけられていない。世話人は、被世話人の代理人として、第三者(社会サービス、老人ホームなど)と、相応の介護契約を締結することができる。もし、世話人が対価を得て自ら介護に従事しようとする場合には、後見裁判所は、『介護契約の締結』をその職務範囲とする補充世話人(Ergaenzungsbetreuer)を選任しなければならない。こうして、被世話人を代理する補充世話人が、世話人と介護契約を締結することになる」。

 これらの解説書から、ドイツ法の世話人においては、介護労働をすることが予定されていないことが読みとれる。世話人が、自分で勝手に事実上の世話をして対価を得たりすると、利益相反行為になるから、許されない。世話人が行うのは、被世話人の意思決定の代行行為であるということが理解されていれば、世話人自身が介護労働をすることを前提とする解釈は簡単に主張できるものではなかったはずである*25。もっとも細かな日常の契約になればなるほどその代行行為は介護労働・家事労働に近接してくることは確かなので、ドイツにおいても、1998年法改正が第4編第3章第2節の表題や1897条1項などにおける世話や事務処理に「法的な」という形容詞を付け加えたのは、この区別の趣旨をよりはっきりさせるためであったろうと思われる。

 さらに留意しなければならないのは、重要な資産の取引契約ではなく、細かな日常の契約であれば、かなり判断能力の低下した者でも、自力でできると考えられることである。細かな日常の契約まで自分では決定できないため成年後見が必要な場合には、必要性の原則・補充性の原則から、よほど重度の精神障害に至る能力の低下が生じていなければならない。前述したように、後見人の任務を介護労働に近づけて解釈する学説は、この要件の判断においても弾力化する傾向があった。たとえば、次に述べる身体障害の解釈である。

五、成年後見の発生要件としての身体障害

 第三は、ドイツ法の成年後見の発生要件のうちに、被後見人の精神的判断能力の低下だけではなく、身体障害も含まれていることの理解が問題である。ドイツ民法1896条1項は、「身体障害によりその事務の全部または一部を処理できない成年者」についても後見を発生させる。これに対して、オーストリア法は、身体障害を除いている。そこで、たとえば田山輝明教授は、「要するに、ドイツ法とオーストリア法における本質的相違は、身上監護と財産管理を含む『世話』のシステムとして新しい成年後見制度を構築するか、精神的判断能力を補充するシステムとして構築するかという点にある」*26と対比される。

 このまとめ方では、ドイツ法は、判断能力を補充するシステムではないようにも読める。自分で状況を判断できる精神的能力はあるが、身の回りの自立ができない者について、身上監護の「世話」をする制度と理解されかねない。しかしドイツ法の要件も、「その事務の全部または一部を処理できない」ことが要件の後半に含まれており、その点が決定的に重要な要件なのであって、表現能力を含む広義の判断能力を補充するシステムであることにはかわりはない*27。たとえば半身不随の身体的障害をもっているために一人暮らしが難しく家事援助や介護援助が必要だが判断能力は健康である者は、自分で援助を依頼するか援助の依頼のために代理人を選べば足りるから、「世話」の対象になる必要はない。例えばパラントのコメンタールでDiederichsenは、「難聴、極端な近視や盲目、中風等といった純粋な身体障害は、法律上は、自己の事務についての本人の自由な処理を損なうものではない。そのような人が、自分の判断や決定を転換するために助けを必要とする場合、通常は、疾病看護人(Krankenpfleger)、社会サービス、委任による代理人(Bevollmaechtigung)などで間に合い、そちらが、優先している」と述べている*28

 この身体障害の規定は、ドイツ民法旧1910条「後見に服さない成年者が身体障害により、とりわけ聴覚、言語、視力に障害を有し、かつその障害のために自己の事務を処理することが出来ない場合には、身上及び財産につき監護人を付することができる」という障害監護の規定を引き継いだものである。法律行為をするために必要な判断は、まず判断の基礎となる情報を獲得してそれに基づいて行われる。従って精神的判断能力はあっても、聴覚・言語・視力などの身体障害により判断の基礎となる情報の獲得が難しい場合は、総合的に判断能力が劣る場合があろうし、また自らの判断を十分表現できない場合があろう。つまり田山輝明教授が対比するドイツ法とオーストリア法との相違の問題は、むしろ、準禁治産者の要件に聾唖者などを加えていた日本民法第一一条が昭和五四年改正によって改正された問題に対応するといえる。

 この問題の歴史的背景は古い。既にローマ法大全のユスチニアヌス法学提要(Inst.1.23.4)に「精神障害者ならびに聾唖者(surdis et mutis)および継続的に重大な障害を有している者については、自己の事務について自ら配慮できないため、看護人がつけられるべきである」という文章がある*29。このことは、かなり長いヨーロッパ法の法的伝統の中で、聾唖者などの身体障害者が一般人と異なって看護人の助力のもとで行為すべきことが認められてきたことを意味する。ドイツのかつての障害監護制度はこの系譜の中で生成されてきたのであり、日本民法の旧11条の立法も、おそらくこの系譜の中にあったと思われる。

 パターナリスティックな保護は、一定の場合に必要なものではあるが、それはとかく差別と表裏一体になりがちである。ローマ時代と現代の差は大きく、もとより現代では差別は廃止されなければいけないが、民法は私人間の関係を規律する法であるから、私人が定型的に民法上の保護や特別扱いを必要とする資質をもっているためにその民法上の制度があるのであれば、その制度趣旨を見極めて改正しなければならない*30。ローマでは「婦女後見」が原則であったが、その系譜を継いだ明治民法の妻の無能力制度は、男女平等の現代では、採用されるものではない。日本民法11条の改正も、障害者教育が発展している現代では、身体障害のみを準禁治産の要件とする立法を維持できないのは当然のことであったといえるだろう。しかし一方では、身体障害のゆえに意思形成基盤の不完全さがもたらされて、判断能力の劣化が起こり、法的な保護が必要となる事態がありうることは否定できない。

 このような必要に応えるために、法的な仕組みをどのように準備するかという問題は、各国でそれぞれに議論されてきた。アメリカでは、かなりの州法が高齢および身体障害を後見の原因事由として掲げているが、この点については、精神能力があるにもかかわらず後見人が任命される可能性があるとの批判が多く、身体障害を原因事由として掲げる州法を違憲とする判決さえ出されている*31

 フランス法でも、今世紀の当初、当時の条文は身体障害を含めない表現(旧489条)になっていたために、当時のドイツ民法1910条、スイス民法372条、392条にならって、身体障害を含むべきであるという議論が行われた。その頃の議論では、聴覚・言語・視力の障害が対象であり、たまに寝たきりの老人が対象に付け加わることもあった。20世紀の中頃になると、長期入院している患者が医療側の支配に対し事実上の抵抗ができないことが問題視され、病人の実質的自由を守るために病人の法的地位一般を論じる学説が現れた。1968年法の成年後見法改正は、これらの議論をふまえて、ドイツ法にならった結論を採用したが、病人の法的地位というアプローチは採用しなかった*32。具体的には、次の通りである。フランス民法490条1項は、疾病・病弱・加齢による精神的能力の減退を原因事由としており、そこでの疾病は精神的疾病とは限らずに肉体的疾病も含むと解されるが、あくまでもそれが精神的能力の減退をもたらすものでなければならない。同条2項は肉体的能力の減退が意思の表現を妨げる場合をも原因事由とする条文で、病人一般というよりは、書くことができない聾唖者や両手が麻痺した失語症患者を念頭においている*33

 ドイツ法の身体障害ゆえの世話も、さきにパラントの解説を引用したように、広義の判断能力の補充という制度趣旨では、他の国と変わりはない。アメリカやフランスにおける議論にみられるように、身体障害ゆえの成年後見を認めるかどうかは、かなり微妙な違いであって、結論的に身体障害を排除したオーストリア法とも、ドイツ法は、それほど異質な制度ではない。

 前にも引用した実務書Juergens/Koeger Marschener/Winterstein, Das neue Betreuungsrecht,4 Aufl.(1999) から、「世話人の申請要件」を紹介する。ここでは、精神的・心理的な病気や障害に関して、身体的原因によらない心理的病気、身体的原因による心理的病気、薬物などの依存症の説明の後で、「身体障害」の項目が立てられて、次のように述べられている*34。「オーストリア法におけるSachwalterrechtとは異なって、かつての障害監護においてそうであったように、身体障害の場合にも世話人の就任を求めることが認められている。本人による申立の必要という明示的な例外措置をともなってはいるものの、法は、その障害が、身体的なものなのか、精神的なものなのかを区別していない。専ら身体障害の場合については、本人自ら申立をした場合にのみ世話人が任命される(一九八六条第一項三文)。ここで例外とされるのは、おそらく理論的に、身体障害者が自分の意思を表明できないがゆえに世話人を必要としているような場合である。学問上、唯一知られているケースとして、第3頸椎の麻痺者がある。この場合には、本人はおそらく完全な精神的見当識Orientierungがあるにも拘わらず、それを表明することができない。とにかく、身体障害の場合には特に注意深く、ほかの措置では不充分なのか、例えば任意代理人の選任や、社会的サービスを求めることで充分ではないのかという点が吟味されねばならない」。また、法定代理における身体障害による場合について、以下のように説明される。「とりわけ、世話人の任命が身体障害に基づくものであるときは、まず、法定代理という法的効果を伴い、その職務範囲で世話人の包括的代理権を対外的に表明する『世話人の任命』という国家の行為が、本当に、必要な措置であるのか、そして、委任による代理や事務処理契約などによって適切な問題解決をもたらさないのか、といった点が慎重に吟味されねばならない。ここでは、しばしば、1896条3項に基づいて監督世話人(Kontrollbetreuer)を任命することでも充分であり得る。この監督世話人は被世話人に任命された代理人の活動をコントロールすることを、その任務とするわけである。とりわけ老人の場合、身体障害によって、本人による代理人の監督能力が損なわれたような場合には、この領域でのみ世話が必要だということになる」*35

 以上のような叙述を見てもわかるとおり、「身体障害によりその事務の全部または一部を処理できない成年者」という要件を判断するための手順としては、精神障害や判断力の衰退などとはいったん無関係に、身体障害による場合も世話人がつけられうることを前提にしておいて、これに必要性の原則から厳格なスクリーニングがかけられるという仕組みになっている。また、「本人の意思に基づく世話」という点も強調されている。この「本人の意思に基づく世話」という点を、行動能力に不自由を来した本人が望めば提供される援助サービスと誤解してはならないのであって、あくまでも必要性の原則が適用されるのであるから本人が楽ができるという理由では認められない。この「本人の意思に基づく」という要素は、自己決定できる身体障害者が自由を侵害されるおそれのないようにする安全弁と理解される。後見とは、被後見人の保護であると同時に支配でもあるのが、その制度的宿命だからである。

六、改正法の身上監護義務

 成年後見制度の改正にあたっては、財産管理より身上監護を重視するものに改正するべきであると主張する声が強かった。その主張は、具体的にはどのような改正を望んだのだろうか。社会保障として介護サービスを提供できるようにする改革であれば、それが望ましいことはもちろんであるが、後見制度の改革としては、何を望んだのか。社会保障として介護サービスを受けることがまったく不十分な現在の段階で、後見人に身上監護義務を負わせることで解決すると考えるのであれば、それは弊害の多い幻想にすぎない。

 立法過程では、星野教授の主催した成年後見問題研究会が、身上監護に関する事項として想定される六〇項目あまりの問題について具体的に列挙する検討を行うことにより、この幻想に応接した。身上監護に関する抽象論では、身上監護を要求する議論を説得することはできなかったかもしれず、立法のためには賢明な手段であったといえよう。しかし今後、介護労働義務を読み込む解釈論が主張されるのを封じるためには、成年後見は意思決定の代行制度であるという原則の理解を強調しておく必要があるだろう。

 こういう成年後見制度は、ある程度の資産家にしか意味のない財産管理の支援制度であるという印象を与えるかもしれず、要介護老人や障害者の問題の解決を成年後見制度に期待した多くの人の幻滅を誘うかもしれない。一人では生きられない障害者や老人も安心して生きられるような支え合いを可能にする社会に変革する必要があることはもちろんであるが、成年後見制度は、もともとこのような支援のごく一部をしか担い得ない制度であり、本来の制度機能以上のものを盛り込むと、後見人という個人に与えるべきではない大きな権限と負担とが同時に付与されて、むしろ少なからざる危険が生じるものと思われる。

 解釈問題になる具体的な条文としては、民法八五八条であろう。改正前の法では、身上監護に関しては、禁治産類型の後見人のみが本人に対する療養監護義務を負うものとされていた。改正法は、禁治産者の後見人の療養看護義務を定めたこの民法八五八条を次のように改めた。「成年後見人は、成年被後見人の生活、療養看護及び財産の管理に関する事務を行うに当たっては、成年被後見人の意思を尊重し、かつ、その心身の状態及び生活の状況に配慮しなければならない」。改正前の第八五八条は後見人のみに関する規定であったが、新法は、この配慮義務と同様の内容を、保佐人の義務として第八七六条の五に規定し、補助人の義務として第八七六条の一〇がその条文を準用している。さらに被後見人の居住用不動産の処分をする場合には家庭裁判所の許可を要するとした第八五九条の三が関連条文として挙げられる。

 旧八五八条の条文については、後見人が被後見人の財産管理をするにあたっての善管注意義務と理解する解釈と、それ以上の具体的な身上監護義務を規定したものとする解釈が対立した。この条文の起草過程や沿革からは、前者と理解するしかないが、そのような起草過程や沿革が議論の前提としてきちんと紹介されたのも、立法をめぐる議論の終盤であった*36

 新しい成年後見制度の法務省担当者による解説書は、「この身上配慮義務は、成年後見人の後見事務である生活、療養看護または財産の管理に関する法律行為の遂行にあたっての注意義務として定められているものですから、介護労働などの事実行為を含むものではありません。」*37と説明している。要綱試案は、これは「成年後見人の法律行為に関する権限の行使にあたっての善管注意義務の具体化という規定の性質上、契約などの法律行為に限られるものであり、現実の介護行為のような事実行為は含まれない。」*38と説明していたから、この慎重な態度が立法されたものである。かつての民法七三〇条の解釈におけるように拡大解釈して介護労働義務・家事労働義務を読み込む危険のないようにしなければならない。

 身体に対する強制を伴う事項や、一身専属的な事項については、法務省担当者による解説書は、次のように説明している。「成年後見人の権限は、意思表示に基づく契約等の法律行為に関するものに限られるので、身体に対する強制を伴う事項(たとえば、手術・入院または健康診断の受診の強制、施設への入所の強制等)は含まれません。なお、意思表示に基づく法律行為であっても、一身専属的な事項(たとえば、臓器移植の同意等)は、成年後見人の権限に含まれないものと解されます」*39。治療行為その他の医的侵襲に関する決定・同意権限の立法も必要であり重要な課題ではあるものの、今回の立法提案においては慎重な態度をとって見送られた*40

 このような民法の立法姿勢を概観すると、民法が規定するのは、基本的に財産上の契約などについてであり、強制を伴う入院などについては精神保健および精神障害者福祉に関する法律(以下、精神保健法と略する)に委ねることとし、それ以外の身上監護については、民法は本人の意思決定に任せる原則を極力崩さずに、ぎりぎりのところは解釈に委ねる、という態度をとっており、これは、フランス法の立法方針に合致する。この方針を採用することが、それだけで、ドイツ法と比較して、身上監護を重視していないとはいえない。民法典がどこまで身上監護の規定を取り込んでいるかということによってその重視のいかんが決まるのではなく、精神保健法などの特別法が被後見人を保護できるだけの十分な内容をもつかどうか、身上監護の権限が解釈によってどのように行使されているか、にかかるからである。たとえばフランス法は、解釈に委ねられた部分で後見人が身上監護の権限を行使する際には、家族会の許可(家族会は判事が主宰するのでドイツ法の裁判所の許可と同様に重い手続きである)を要するとされている。日本法でも、先に解説書を引用したように、身上監護について強制を伴うような場合には、後見人だけではできないと解するのが必要な態度であろう。そして医的侵襲行為や入院については、新しい特別法の立法や精神保健法の改正が急がれる。

 改正前の民法八五八条二項は、後見人が入院を決定するときに裁判所の許可を要求していたが、保護者の同意だけで入院を可能にしている精神保健法と均衡を失していたため、削除された。しかし比較法的な水準でいえば、改正前の民法の慎重な手続きが相当する手続きであろう*41。なにより精神保健法の保護者というわが国に特徴的な存在、つまり病者についてあまりに全面的な責任を負うと同時に、病者の意思に反しても入院させる強大な権限をもつ責任者である保護者という概念が、現代では問題にされるべきであろう。この保護者概念の特徴と、被後見人の「身上監護」という枠組みで後見人に介護労働などの過大な負担と決定権限とを同時に与えることを主張する解釈傾向には、発想の根底に共通するものがあるように筆者には思われる。つまり家族の中に個人を埋没させる発想である。この埋没によって社会の負担は軽減されるかもしれないが、家族によって個人の人権が侵害される危険と、家族が到底にないきれない負担をかぶる危険とが生じる。

 自由を制限する場合には司法判断を経るという正統的な手続きがふまれるのが、制度設計としては理想的である。しかし、わが国では裁判官の数があまりに少ないといういわばインフラの不備によって、それが現実的ではないとすれば、行政的な判断のシステムの中にチェック機構を介入させること(一次的な判断だけではなく、その判断のチェック体制も付け加える必要があろう)によって、立法するのもやむを得ないかもしれない。たとえば具体的には、措置入院の手続きを手直しして、保護者の同意がある場合にも基本的に共通する手続きにする等の改正である。いずれにせよ、保護者にすべてを委ねてしまう現行の体制は改革されなければならないだろう。

 以上、民法八五八条の立法には、この義務に過大な事実行為の義務までを読み込むような解釈をされるようでは危惧を抱かざるをえない。しかし立法者の解説通り、意思決定の代行としての成年後見制度の解釈が崩されるのでなければ、この条文はもちろん意義ある指針となりうる。たとえば将来の相続のために被後見人の財産をただ維持することが、後見人の職務であるのではなく、被後見人の生活の向上のために積極的に消費するべきであるという指針を示したのであると考えれば、十分その意義はあるであろう。


*1成年後見制度に対する筆者の見解については、水野紀子「成年後見制度−その意義と機能と限界について」法学教室二一八号(一九九八年)参照。なお、本稿はこの論文と一部叙述が重複する。

*2アンペイド・ワークないしシャドウ・ワークという概念については、たとえば川崎賢子・中村陽一編『アンペイド・ワークとは何か』(藤原書店、二〇〇〇年)など参照。労働統計に現れ労働者として労働法によって保護される「フォーマル・セクター」の労働に対して、生命の維持や生存のための活動の多くは「インフォーマル・セクター」の無償労働によって担われる。経済成長ないし資本蓄積は、自然のコストやインフォーマル・セクターの労働コストを無視することによって継続できた。介護労働は、その労働の負担の大きさにもかかわらず、従来インフォーマル・セクターの労働であったために女性賃金レイトの低賃金職として社会化される傾向にある。

*3神野直彦『システム改革の政治経済学』(岩波書店、一九九八年)参照。「子どもの教育、病人の看護、幼児の育児、老人の養老などのように、これまで家族内の無償労働で生産されていた財・サービス、つまり準私的財」(同・一五八頁)は、ヨーロッパでは政治システムによる公共サービスとして供給されたため、一九八◯年代に公務雇用者における女性雇用者のシェア増加が生じたが、日本でのそれはむしろ減少して「日本における女性雇用者の増加は、製造業のパートタイマーへの進出として現象した」のは、「政治システムが家族内の無償労働で生産されていた準私的財を、公共サービスとして供給しようとしなかったからである。」(同・一八三頁)。

*4「成年後見制度と立法過程−星野英一先生に聞く」ジュリスト一一七二号六頁(二〇〇〇年)。

*5大村敦志『家族法』(有斐閣、一九九九年)250頁。

*6民法七三〇条の調停における活用や介護義務と解する学説などについては、浦本寛雄「民法七三〇条と家事調停」熊本法学二七号(一九七八年)、同・「戦後における扶養法展開の一側面」熊本法学二八号(一九七九年)を参照。

*7佐藤隆夫『現代家族法T―親族法』(勁草書房、一九九二年)二六◯−二六一頁。

*8「家」制度が廃止されて半世紀を経た現在でも、家庭内の介護者たるべき者と周囲から考えられる当事者(たとえばいわゆる「長男の嫁」など)に事実上加えられる圧力は大きい。要介護者と介護者との関係は、その依存性から要介護者のほうが劣位になるとは限らない。経済力のない女性介護者が、従来の家庭内における従属的な地位をそのまま維持して、隷従的立場におかれたまま介護労働に従事する例は、少なくない。

*9新井誠「高齢社会の成年後見法」(有斐閣、一九九四年)一四八頁−一四九頁、小賀野晶一「成年身上監護制度論(一)−(四・完)」ジュリ一◯九◯−一◯九四号(一九九六年)など。その後改訂された新井誠「高齢社会の成年後見法・改訂版」(一九九九年)一六七頁も、後見人に事実行為の義務も含ませる解釈を維持している。なお、この改訂版一七五頁は、道垣内弘人「成年後見制度私案(二)」ジュリ一◯七五号九三頁以下(一九九五年)や筆者の前注(1)の論文を挙げて、「拙稿に対する批判は正鵠を得たものではない」とする。しかし、後見人に事実行為の義務を課すことは、諸外国の成年後見制度にはみられない独特の見解であり、また成人した親子間の扶養義務の解釈においてすら認められないほどの過大な労働義務を後見人に課すものであって近代法にはなじまない解釈であり、とりわけ日本社会ではそれが家庭内における過酷なシャドウワークの法的義務づけを意味するため危険であるという筆者の批判が、なぜ正鵠を得たものでないのかという理由は述べられていない。

*10新井誠・前注(9)『高齢社会の成年後見法』一四八頁。改訂版一六六頁もこの記述を維持している。

*11ドイツの身上監護については、神野礼斉「第三者による意思決定代行の限界」広島法学21巻2号(1997年)、同「ドイツ世話法における居所指定権行使の限界」広島法学22巻4号・23巻1号(1999年)などの論文に判例を含めた詳しい紹介がある。また宮下節子「カリフォルニア州の成年後見制度」ケース研究258号(一九九九年)には、カリフォルニアにおける療養看護後見人(身上後見人)の職務について、わかりやすい具体的な紹介がなされている。

*12小林秀文「アメリカにおける成年後見制度とその代替的システム(二)」中京法学三一巻三号(一九九五年)に紹介されるアメリカ統一遺産管理法典における後見制度は、身上監護と財産管理を分離しており、身上監護後見の要件のほうが厳しい。「身上監護後見が居所選択の自由や医療行為を受けあるいは拒絶する自由といったような個人の基本的な自由を侵害する可能性が高いことから見て、その後見人の任命は明白に必要な場合に限定されるべき」(同・四九頁)であるからである。

*13従来、意思無能力者の契約が事実上の後見人によってなされることが多く、相手方も禁治産宣告を要求することなく、無権代理人と取り引きすることが、わが国では広く見られた。最高裁平成6年9月13日民集48巻6号1263頁の事案では、裁判の原告である賃借人が、意思無能力者の所有する不動産について無権代理人であるその姉と交わした契約が争われたが、その契約作成には弁護士も関与していた。その事案では、原告ばかりではなく、大手マンション業者もその不動産について無権代理人と契約している。しかし民法の原則に従えば、無権代理人のした契約は無効であり、後見人は、無効な契約を追認するかどうかの裁量権をもつから、追認拒絶ができるはずである。最高裁も「後見人は、禁治産者を代理してある法律行為をするか否かを決するに際しては、その時点における禁治産者の置かれた諸般の状況を考慮した上、禁治産者の利益に合致するよう適切な裁量を行使してすることが要請される。」としてその原則を維持した。もっとも「当該法律行為を代理してすることが取引関係に立つ当事者間の信頼を裏切り、正義の観念に反するような例外的場合には、そのような代理権の行使は許されない」として裁判官に有効と認める裁量の余地は残したが。この裁量の余地を認めた部分は、無権代理人と契約する相手方はそれだけの危険を負担したものとみなすドイツ法などではおそらく理解されない法理であろう。わが国でも、従来の禁治産宣告の不都合さを改正した成年後見法の施行にともない、民法の原則に従った解釈が一層正当性をもって適用されるようになると予想される。まともな取引相手方は、民法の原則に従って、無権代理人との取引に慎重になるであろう。

*14阿部潤「オーストリア・ドイツの成年後見制度――その裁判実務を中心にして――」家月四九巻一一号(一九九七年)五頁、一一八頁。

*15ドイツ法について、楽をしたいという理由からの申請が拒絶されることを紹介する田山輝明『成年後見法制の研究(上・下)』(成文堂、二〇〇〇年)二九八頁参照。

*16たとえば、オンタリオ州「代行決定法」第45条は、身上ケア能力の欠缺について、次のように定める。「自己のヘルスケア、栄養摂取、宿所、衣服、衛生もしくは安全に関する決定をするに当たり、その決定に関連する情報を理解することができず、又はその決定をすること若しくはしないことから生じる合理的に予見可能な結果を認識することが出来ない者は、身上ケア能力を持たない者である。」法務資料四五八号・一六二頁。

*17Juris-Classeurs,Majeurs proteges, Civil,Art.488à514,Fasc.23,p.9,n48-49,1992(par Bruno Boval).

*18道垣内弘人・前注(9)「成年後見制度私案(二)」が代表的見解。

*19もちろんドイツ世話法を紹介する業績にこのような傾向がまんべんなくあったわけではない。たとえば神谷遊「成年後見制度をめぐる立法上の課題−いわゆる身上監護を中心として−」中川淳古稀『新世紀へ向かう家族法』(日本加除出版、1998年)は、端的に要領よく、ドイツ法が、必要性の原則ゆえに行為能力を補う制度であることを正確に紹介する。

*20本稿のドイツ法紹介においては、同僚の河上正二教授のご助力を受けた。記して感謝する。本稿のドイツ法紹介に意義があるとすればそれはすべて河上教授のおかげであるが、但し、もし本稿のドイツ法紹介に間違いや不十分なところがあれば、もとよりそれは河上教授のご教示をいかしきれなかった筆者自身の責任である。

*21新井誠・前注(9)『高齢社会の成年後見法』九一頁。

*22新井誠・前注(9)『高齢社会の成年後見法(改訂版)』一三八頁は、筆者の前稿が「拙訳を論難している。persönliche Betreuungの水野訳はどのようなものなのかを明確に示すべきである。」とする。persönliche Betreuungに正確に対応する日本語は存在しない。現在では、Betreuungの訳語として「世話」が定着しているので、新たな訳語を提示するまでの意味はなかろう。本文に記したように、訳語の問題ではなく、その概念の正確な紹介かどうかということが問題なのである。もっとも新井教授の用いる二種類の訳語のうちでは、「親身な世話」よりは「個人的世話」のほうが誤解を招く余地がより少ない点で望ましいものであろう。

*23新井誠・前注(9)『高齢社会の成年後見法(改訂版)』一六六頁。

*24Von Walter Zimmermann,Betreuungsrecht,4Aufl.(1999) S.156.

*25加藤雅信「任意後見制度と成年後見制度」自由と正義49巻10号103号(一九九八年)は、法定後見では事実行為をなすべき義務を負わせない制度設計は支持するけれども、任意後見では、両当事者の意思に基づく任意後見契約の締結が先行するために介護労働義務を含んでもよいとする立場である。たとえ任意後見であっても、介護労働契約を含むものであれば、本文に述べたように利益相反行為になる点では変わりないから、このような解釈はとれない。後見制度は、意思決定の代行制度である。

*26田山輝明・前注(15)『成年後見法制の研究(上・下)』31頁。

*27同旨、神谷遊・前注(19)「成年後見制度をめぐる立法上の課題−いわゆる身上監護を中心として−」341頁。

*28Palandt,BGB<59ufl. 2000>S.1855 Rn6.

*29ローマ法についても、河上正二教授にご教示を受けた。

*30成年後見法の改正と同時に遺言法が改正された。聾唖者が公正証書遺言を利用できるようにする改正であった。筆者は、この改正が拙速のおそれのあるものではなかったかと危惧している。読み聞かせが不可能なために聾唖者が公正証書遺言を利用できないことは、聾唖者に対する差別であると考えられたゆえの改正である。しかし公正証書遺言を利用できないという不便を遺言をする時点でのみ判断してはならない。遺言制度の面倒な要式性の要求は、遺言者を守るためのものでもあるからである。遺言は、それがたしかに遺言者の意思によるものであることを死者の証言によって確かめることはできないから、厳格な要式性をもたせることによって遺言者の意思であることを確保する制度である。
 公正証書遺言の条文の母法であるフランス法では、耳も口も不自由な者は、書面によらなければ自分の意思を表明できないので、公正証書遺言を利用できない。ただし耳が不自由な結果として口が不自由な者は、教育を受けて発音できるようになっていれば、利用できると解されている。自分の話すことは理解できるのであり、それを自分では聞こえなくても、聞かせることはできるからである。公証人が読み上げたときに遺言者が聞こえなければならないが、判例は昔から、公証人の読みきかせとは関係なく、遺言者自身が遺言を読みあげることができればこの条件は満たされるとしている(Cass.civ.14 fev.1872:D.P.72,1,457;S.72,1,5等)。したがって、耳が不自由でかつ読めない者だけが公正証書遺言ができないことになる。遺言者が自分の意思が遺言に実現されていることがわかることが肝要だからである。従ってもちろん外国人がその外国語を解さない公証人に通訳を通じて遺言することは認められない。外国人が自分の意思がその遺言に実現されていることを直接確認することができないからである。
 しかるにわが国では、この問題を論じる学説がほとんどなかったためであろうか、外国人が通訳によって公正証書遺言をすることができるという解釈がなぜか行われていた。外国人ができるのであれば、聾唖者が手話通訳で遺言できてしかるべきであるという議論になってしまい、それが立法された。公正証書遺言の場合は、聾唖者の遺言者は文字で確認できるから、外国人の場合の実務よりもむしろ問題はないであろう。しかし改正法は、死亡危急者の遺言や船舶遭難者の遺言にまで、通訳人の通訳によってできると規定した。その結果、かりに聾唖者が遭難したときに、手話通訳者が聾唖者がある内容を(たとえばその手話通訳者に全財産を遺すという内容を)遺言したと通訳したとき、遺言者はその内容を確かめることができないまま、それが有効な遺言となってしまう。このような改正はかえって聾唖者の権利を害するものと思われる。
 民法の規定が差別という観点からのみとらえられたことと、遺言法についての学説の蓄積が少なかったことがあいまって、このような立法になったのであろう。旧法の条文のままで、フランス法の解釈のように、公正証書遺言はそれを読める聾唖者であれば作成できると解釈していれば、それで足りたのであり、そのほうがむしろ聾唖者の権利は守られたであろう。成年後見法の改正が、成年後見制度研究会による検討の充実した報告書をもとに行われたのと対照的に、遺言法の改正は、あまりにも準備不足の改正であった。

*31小林秀文・「アメリカにおける成年後見制度とその代替的システム(一)」中京法学三〇巻三号九三頁(一九九五年)。同・九四頁には、精神能力を有する場合は代理や信託などの代替的システムによるべきであるとして、身体障害を削除する主張や、精神能力のある場合には本人の同意を条件とすべきであるという提案が紹介されている。この後者の提案は、ドイツ民法1896条が、身体障害の場合に成年者の申し立てに基づいてのみ世話人を選任することとしていることに対応する提案といえようか。

*32以上のフランス法の経緯については、Jean Carbonnier,Droit civil,1/Les personnes,PUF,2000,pp.300-301.

*33「もちろん寝たきりの病人の状態は、とりわけ入院していると、意思の表現を妨害する(厳密な意味で、不可能にするわけではないが)ことはありうる。しかし条文は、妨げの原因となるのが病気である場合と定めており、それが医療である場合とは全くいっていない。」Jean Carbonnier,op.cit.,p.301.

*34Juergens/Koeger Marschener/Winterstein, Das neue Betreuungsrecht,4 Aufl.(1999) [S.13 Rz.51].

*35Juergens/Koeger Marschener/Winterstein, Das neue Betreuungsrecht,4 Aufl.(1999)[S.18 Rz.65].ちなみに、身体障害者については、「同意の留保」が問題とならないことも明らかであり、このことについては、[S.32 Rz.102]で、次のように述べる。「本人が身体障害の場合には、同意の留保の諸規定は問題とならない。身体障害の場合には、世話が本人の申立によって認められるわけであるから、世話自体が本人の意思にかかっているといえる。身体障害者の行為が世話人の意思如何によるとすれば、それは不合理なことであるし、必要性の原則にも明らかに矛盾している」。

*36両者の理解は異なるが、道垣内弘人「『身上監護』、『本人の意思の尊重』について」ジュリスト一一四一号(一九九八年)、大村敦志・前注(5)前掲書248−249頁参照。

*37小林昭彦・大鷹一郎・大門匡「一問一答・新しい成年後見制度」(商事法務研究会、2000年)122頁。

*38法務省民事局参事官室「成年後見制度の改正に関する要綱試案及び補足説明」四一−四二頁。

*39小林昭彦他編著「新成年後見制度の解説」(金融財政事情研究会、2000年)144頁。

*40この慎重な態度は、医的侵襲についての医事法学の議論が未だ煮詰まっていない現段階では妥当なものであったと思われる。一九九八年七月一◯日に東大で行われた研究会において唄孝一教授の「重度痴呆老人の治験と成年後見」と題した報告をうかがう機会を得たが、医的侵襲についての判断も一律に単純にいかないものとの感を深くした。単純なけがや病気のように本人が意思表示できたら問題なく承知すると思われる判断から、ガンの手術、障害と延命の可能性との選択のような判断、植物状態を維持するかどうかという判断、さらに人工生殖に関する判断まで、実に幅があり、それぞれの場合について本人の意思・家族の意思・後見人の意思がどう左右するのか、この問題も緊急に議論を収束させて解決しなければならない課題ではあるものの、一応の合意を形成するまでの道はまだ険しい。

*41民事手続き法的観点から、保護者選任審判などの特徴と問題性を指摘する、佐上善和「保護者選任審判手続きの問題点」立命館法学258号(1998年)参照。


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