インターネットに掲示するにあたって

 本稿は、判例評釈であるが、立法課題である生殖補助医療に関する内容であるため、インターネットに掲示することとした。刊行間もない時点で掲示を許可してくださった判例タイムズ社に感謝する。

 「人工生殖における民法と子どもの権利」等で述べた、生殖補助医療に消極的な私の見解に対しては、問題を親になろうとする人々の自己決定を制約するべきではないというアメリカ法的論理からの反論がある(ジュリスト増刊「ケース・スタディ生命倫理と法」2004年56頁等)。これに対しては、大村敦志教授の次の文章を引用して再反論に代えたい。「強い自己決定権は、本人の自己決定を尊重することにつながるか。答は必ずしもイエスではない。個人の決定をその決定がなされる文脈から切り離し、それのみを尊重することによって、その背後に働く諸力が捨象されてしまうからである。(中略)では、弱い自己決定権はどうか。そこでは『他者』や『普遍的な価値』の存在が考慮に入れられる。その限度では自己決定は貫徹しない。しかし、ここでは『法』はより広い射程を持っており、個人の決定に影響を及ぼす諸力を広く考慮に入れることが可能になる。」大村敦志「民法等における生命・身体−「子どもへの権利」を考えるために−」(法社会学56号(2002年)190-191頁)。

 ドナーの生殖子や死者の細胞を用いても子をもちたいと望む人々の観点からは、私のように人工生殖の規制を主張することは、個人的な世界観を法学の世界に法学専門家を名乗る傲慢さでもちこんだものだと非難されるかもしれない。たしかに従来、価値観や世界観の相違に対して、法学が謙抑的な姿勢を維持してきたことは、法学のまさに法学らしい魅力であった。とりわけ保守的な価値観・道徳観が大勢であったとしても、法の謙抑性は、多数派の価値観を法で強制することなく、少数者の自由を担保する機能を持っている。また群れとしての人間を平和裡に共存させる手段が、法によらなくても、慣習や文化や倫理や哲学で維持されていた時代もかつてあったし、領域によっては現にまだあるだろう。しかし法の謙抑性のもとに自由にゆだねて自然に秩序ができるのに任せるにはあまりに危険なこともある。科学技術の進展速度が速くなりすぎてしまった領域はそのひとつであり、特に生殖医療はその種の問題であると考える。

 なお、本稿の対象となった事件については、規制の問題とは切り離して、原告の訴えを認めるべきであるという意見も多いと思われる。しかしこの二つの判断は密接に関連しており、許されざる生殖補助医療の結果を認めるべきではないし、また本稿で述べたように必ずしも請求を認めることが原告である子本人の利益となるともいえない。唯一、厳密にいえば夫の死後の生殖補助医療であっても夫との実親子関係が認められる場合があるとすれば、夫の死と施術の時間的先後関係が接近していて、夫の死から300日以内という嫡出推定がかかる期間内に子が出生した場合であろう。しかし本件はそれに当たらない事例のようである。

 また人工生殖に否定的な意見を述べると、非嫡出子差別と同列に評価する反応を受けることがある。しかしドナーや死者の生殖子による生殖補助医療の可否やそこから生まれた子の親子関係成立の可否という問題と、自然生殖によって生まれた非嫡出子差別の問題は、本文に述べたように、まったく別物であることを理解されたい。

 本稿執筆段階で本件について論じた評釈文献は網羅したつもりであったが、本山敦「冷凍保存精子による出生−再論」司法書士2004年9号60頁を私の不注意で看過したことを付言する。

2005年5月16日
水野紀子



判例評釈

水野紀子

認知請求控訴事件・高松高裁平成16年7月16日判決・判例タイムズ1160号86頁・判例時報1868号69頁
死者の凍結精子を用いた生殖補助医療により誕生した子からの死後認知請求を認めた事例

 〔事実〕本件は、A女が,同人と生前婚姻関係にあった亡夫B男が生前に採取して冷凍保存していた精子を使って人工生殖を行い,Xを出産したところ,Xにおいて,Bの自分に対する認知を求め,検察官を相手方として,認知請求をした事案である。

 Bは白血病の治療に際して、無精子症になる可能性を考慮して、平成10年に精子を保存凍結していた。精子を保存する病院に対してA・Bは「依頼書」と題する書面に署名押印して提出しており、同書面には,骨髄移植前に精子を凍結する精子凍結保存法について,以下の説明を受けて十分納得したこと、及び、家族間において協議の上,この治療を受けることに意見が一致したので,ここに依頼することが記載され,以下の説明の中に,「5.死亡した場合は必ず連絡すること。精子は個人に帰する考えより,死亡とともに精子を破棄すること。」「6.死亡後の精子を用いた生殖補助操作はしないこと。」との条項があった。Bは生前、Aに、Bが死亡してもAが再婚しないのであれば、自分の子を産んで両親の面倒をみてほしいと話し、Bの両親には、自分に何かあった場合、Aに保存精子を用いて子どもを授かり、家を継いでもらうようにと伝えた。平成11年にBは死亡したが、AはBの両親と相談の上、夫が死亡したことを告げずに精子を保存していた病院から体外受精実施病院へ精子を搬送し、体外受精を受けて平成13年にXを出産した。Aは,A・B間の嫡出子として出生を届け出たが,死亡による婚姻解消後に出生した子であることを理由として受理されなかったため、検察官を相手方として死後認知請求を提訴した。

 松山地裁は以下のように判示して、Xの請求を棄却した。「法律上の父子関係が認められるか否かは、子の福祉を確保し、親族・相続法秩序との調和を図る観点のみならず、用いられた生殖補助医療と自然的な生殖との類似性や、その生殖補助医療が社会一般的に受容されているか否かなどを、いわば総合的に検討し、判断していくほかはない」「死者について性的交渉による受精はありえないから、このような人工受精の方法は、自然的な受精・懐胎という過程からの乖離が著しい。そして、そのことが原因かどうかはともかくとして、社会的な通念という点からみても、このような人工受精の方法により生まれた子の父を、当然に、精子提供者(死者)とするといった社会的な認識は、なお、乏しいものと認められる。その意味で、精子提供者が死亡した後、保存精子を用いて人工受精がされて、懐胎し、子の出生があったという場合において、精子提供者(死者)をもって、当然に、法律上の父と認めることには、なお、躊躇を感じざるを得ない。」「監護、養育、扶養を受けることが考えられない者との間で、法律上の父子関係を認めることが、当然に、子の福祉にかなうことであるとも言い切れない。被告が指摘するとおり、法律上の父子関係が認められたことで、かえって、子に負担をかけることも、場合によっては考えられないわけではない。」「また、いったん、精子提供者が死亡した後の精子使用を認めてしまうと、精子提供者の死後、精子をいつまで使うことができるのか、どのような条件の下に認めていくのかなどの困難な問題も派生することになる」。

 X控訴。被控訴人検察官は「父の死後,人工受精によって懐胎された子からの認知請求については,別途,要件事実を考える必要がある。そして,その場合,生物学的な親子関係が存在することのほか,子が父の生存中に懐胎されたことを要件事実とすべき」である等と反論したが、控訴審判決は原判決を取消し、認知請求を認容した。

 〔判旨〕「認知請求が認められるための要件は,自然懐胎による場合には,子と事実上の父との間に自然血縁的な親子関係が存することのみで足りると解される。

 しかしながら,人工受精の方法による懐胎の場合において,認知請求が認められるためには,認知を認めることを不相当とする特段の事情が存しない限り,子と事実上の父との間に自然血縁的な親子関係が存在することに加えて,事実上の父の当該懐胎についての同意が存することという要件を充足することが必要であり,かつ,それで十分であると解するのが相当である。」

 「確かに,認知の訴えが制定された当時は,自然懐胎のみが問題とされており,同規定は,人工受精による懐胎を考慮して制定されたものではない。しかしながら,上記のとおり,認知の訴えは,婚姻外の男女による受精及び懐胎から出生した子について,事実上の父との自然血縁的な親子関係を客観的に認定することにより,法的親子関係を設定するために認められた制度であって,その観点からすれば,認知請求を認めるにつき,懐胎時の父の生存を要件とする理由はないというべきである。

 この点,被控訴人は,認知の訴えは,父が自発的に子の認知をしない場合のことを慮って,訴訟という手段で,法的な父子関係の形成を行うためのものであるから,その請求権者は,父が自発的に認知をする余地がある子に限ると主張するが,法律上,死後認知が認められていることとの対比(父が自然懐胎直後に死亡したような場合には,実際上,父が自発的に認知をする余地はないといわざるを得ない。)からして,上記は,懐胎時に,事実上の父が生存していることを要件とする理由とはなり得ない。」

 「被控訴人は,父の死後に懐胎された子に認知請求権を認めても実益がないと主張する。しかしながら,認知請求が認められれば,父の親族との間に親族関係が生じ,また,父の直系血族との関係で代襲相続権が発生する。被控訴人は,代襲相続制度は,死後に懐胎した子を想定していないので,死後に懐胎された子には代襲相続権が発生しないとするが,認知請求が認められた場合,代襲相続権の発生につき,死後の懐胎の場合とそうでない場合とで差を設ける理由は全くない。

 確かに,認知請求が認められたとして,既に死亡している父の関係で父の監護,教育及び扶養を受ける余地のないことは当然であるが,それは,父が自然懐胎直後に死亡したような場合に比しても何ら変わりはない。」

 〔評釈〕判旨の論理と結論に反対する。
本判決について論ずべき点は、たとえば生殖子の法的な位置づけ(所有権・処分権・相続の規制をどのように行うか等)、生殖補助医療の立法的・解釈的是非、実親子関係の法的な設計など、多岐にわたるが、本稿においては、亡夫の精子を用いた死後の人工生殖によって出生した子からの死後認知の可否という論点のみを対象として論じるものとする。

一、本件の位置づけ・原判決と本判決の論理の相違

 本件は、生殖補助医療によって出生した子の親子関係が争われた事案である。生殖補助医療については、本件の他にすでに公表された下級審裁判例が2件あるが、それらは本件のように死後認知が争われたケースではない。それらは、夫の承諾を得たAID(非配偶者間人工授精)が行われたケースで、夫婦の離婚に際して子の親権者が争われた事案(東京高決平成10年9月16日家月51巻3号165頁、判タ1014号245頁)、及び、夫婦間生殖子による人工生殖を試みていた夫婦がドナーによる精子によって出産したが、夫はドナーによる人工生殖については同意していなかったケースで、嫡出否認が認められた事案(大阪地判平成10年12月18日家月51巻9号71頁、判タ1017号213頁)である。

 親子関係が争われるときは、出生当初にあった愛情の関係が失われて法的な関係と不一致を来した場合であり、法が子の身分を守らなくてはならないのは、まさにその不一致が生じた段階である。これらの2件の裁判例では、たまたま人工生殖子であったことが認定されているが、鑑定によって血縁関係がないことを立証する容易さと人工生殖の事実を立証することの至難とは、比較にならない。実親子法は、血縁関係に極力触れることなく、子の身分を設計するものでなくてはならず、他のすべての子が守れる枠組みと共通の枠組みで、はじめて、人工生殖子の身分を本当に守ることができるのである。その意味では、日本民法の嫡出推定制度は、解釈によってかなり空洞化されてきたとはいえ、最高裁判例は推定の及ばない子について外観説を維持しており、血縁関係に触れることなく子の身分を守る枠組みをかろうじて保っているから、嫡出子身分をもつ人工生殖子の父子関係については、嫡出推定制度を用いて守ることができる。これら2件の事案は、そのような嫡出推定制度の枠を用いて判断できるケースであった点で、本件とはかなり法的状況が異なるため、ここでは詳論しない。

 本件のような強制認知のケースは、本来は、実親子法のうち最も血縁関係の存否に依存する親子関係である。強制認知は、嫡出推定や認知によって法的な父子関係が与えられている子と異なり、父のいない子に父を与える場面であって、しかも親になるという親の意思がない場合に、血縁関係の存在を理由として親子関係を成立させる法的な制度だからである。従って自然生殖における強制認知においては、血縁関係の有無だけで判断してもほとんど問題はない。しかし本件は自然生殖によって生まれた子ではない点が決定的に異なっている。

 民法の想定する親子関係は、自然生殖によるものである。もっとも自然生殖ではなく生殖補助医療によって出生した場合でも、たとえば生存している両親がその意思に基づき両者の生殖子を用いた体外受精によってもうけた子のような場合は、民法の枠内に入ると解釈することが自然な解釈であろう。しかし本件のように死者の生殖子を用いた人工生殖によって出生した子の場合には、民法が想定する親子関係法の枠内に入れるのは到底無理であるから、本件の死後認知の可否という解釈は、いわば法律の規定のない場合の解釈問題にあたる。法律の規定のない場合の解釈においては、解釈者の自由度は高まるが、完全に自由な解釈が許されるわけではなく、法の一般的原理という学問的規範の総体に拘束される*1。ここでは実親子法とは何かという法原理、法規範の総体の拘束のもとにおいて、解釈を行うべきであるといえよう。

 本件では、原判決である松山地裁判決と本判決の高松高裁判決とで結論が異なっているが、その結論の相違をもたらしたものは、主にこの「実親子法とは何かという法原理」の理解の相違にある。原判決は、「法律上の父子関係が認められるか否かは、子の福祉を確保し、親族・相続法秩序との調和を図る観点のみならず、用いられた生殖補助医療と自然的な生殖との類似性や、その生殖補助医療が社会一般的に受容されているか否かなどを、いわば総合的に検討し、判断していくほかはない」と述べて、法的実親子関係の原理を正面から多面的かつ総合的に考察する枠組みを採用している。しかし本判決は、「認知の訴えは,婚姻外の男女による受精及び懐胎から出生した子について,事実上の父との自然血縁的な親子関係を客観的に認定することにより,法的親子関係を設定するために認められた制度であって,その観点からすれば,認知請求を認めるにつき,懐胎時の父の生存を要件とする理由はない」として、法的親子関係のうち最も血縁関係に依存する強制認知の場合の設計方法を、ここで考察すべき法的実親子関係の原理そのものへと拡大している。たしかに本判決は同時に「子と事実上の父との間に自然血縁的な親子関係が存在することに加えて,事実上の父の当該懐胎についての同意が存することという要件を充足することが必要であり,かつ,それで十分である」として同意要件を加えてはいるけれども、自然懐胎の場合と異なり凍結精子はどこで誰に用いられるかについて本人の手を離れた存在であるから、同意要件は、本件のような人工生殖を自然懐胎の強制認知に近づけるいわば最低限の要素であって、本判決が、強制認知の設計枠組みを、さらにいえば遺伝的な血縁関係の存在だけを、法的親子関係の原理として理解していることにはかわりはない。

 法律上の親子関係をどのように設計するかという問題については、血縁の有無をどこまで重視するかによって、たしかに学説上の対立がある。しかし本判決は、その議論における極端な血縁主義をとる学説ですらためらうのではないかと思われるほど、過度に血縁関係に単純化した法的親子関係の原理を採用している。本判決が下される前に、筆者は、かりに高裁判決が強制認知を認める結論をとるとしても、子の利益を理由としたぎりぎりの判断であろうと予測していたため(もっとも後述するように子の利益の考慮はこの結論を導かないと考えるけれども)、本判決のこれほど乱暴な議論に、正直なところ驚きを禁じ得なかった。民法における法律上の親子関係の設計の議論においてどのような立場に立つとしても、本件は民法が予定している通常の生者間で懐胎された子ではなく、それとは次元の異なる問題がまず前提として存在するのであり、法的親子関係の問題としてそれをどう考えるかということが、ここでの最大の問題である。裁判官の下した本判決ですらこのように遺伝子次元に単純化した議論をするのであるから、マスコミ報道が本件の問題をきちんと位置づけられないのも、いたしかたないことなのかもしれない*2

二、学説

 死者の精子を用いた人工生殖子の死後認知の可否について、学説においては、まだ十分な議論がなされていない。人工生殖一般については、とりわけ立法論を中心にある程度の議論が蓄積されてきており*3、死者の精子を用いた人工生殖の是非についてはそこでも論じられてきたが、実行されてしまった後の死後認知の可否については、本件を契機として論じるものがほとんどである。立法論としては、最初から父のいない子をつくるこのような人工生殖を許すべきではないとする立場が圧倒的に有力であるが、本件のように生まれてしまった子の死後認知の可否については、学説は分かれる。

 本件についての解説・評釈のうち筆者の気がついたものとしては、本件の原告代理人である村重慶一弁護士の解説*4、床谷文雄教授の地裁判決解説*5のほか、本山敦助教授の地裁判決評釈*6、松川正毅教授の地裁判決評釈*7がある。この他、本件の解釈について立場を明らかにするコンメンタールないし教科書においては、利谷信義教授が賛成説*8であり、二宮周平教授は政策的判断による反対説*9である。上記の村重解説がもっとも多くの学説を挙げて紹介しているが、主に新聞などに掲載された短いものであり、賛成説は、主として子の福祉を根拠としており、反対説は、現行民法が死後の人工授精を前提としていないことを挙げる。子の福祉については、本件原告の子の立場を考える視点からは、子自身が死後認知の成立を求めている本件で、ある程度自明の論点であり、詳論するまでもないであろうが、問題は、反対説の論拠である。

 将来的な立法論としてこのような生殖補助医療の是非についてはともかく、本件原告はすでに現在出生している。その「子の利益」は表面的には明らかなものと見えるのに、それでもその「子の利益」を否定する必要があるほどの、現行民法の前提とは、いったい何だろうか。現行法が想定していないから棄却という検察側の主張は、戸籍の父欄を空欄にしなくて済む原告側の訴えの利益と比較すると、一見したところ内容空疎な形式論理に見えかねない。反対説は、「自然の生殖を前提とした親子関係発生のルールを人工生殖にそのまま用いることは、社会の合意形成なしにはしてはならないことであること」(二宮教授)「社会全体の秩序(公序)」(本山助教授)などの表現を用いるが、これらの表現の意味する含みは、より多くの言葉を用いて解説されなくては、賛成説とかみ合って説得力を持つ議論にならないであろう。

 今のところこの含みを最も詳しく論じた文献といえるのは、前掲・松川評釈である。松川評釈は、「子は、父と母がいて生まれてくる」という自然の摂理を人工的な生殖技術によって歪めてはならないというフランス法の考え方を紹介しながら、子の福祉という論点についても、以下のように否定説の論拠を述べる。「本来、子には生まれながらにして父と母がいるという前提を、子の福祉とするならば、その前提を、母親が意図的に崩していることになる。そもそも父なき子である以上、それ以上のものを与える法的な必要性は見出し得ないし、このことが、果たして子の利益、子の福祉になるのかどうか疑わしい。このようにして生まれてしまった子に父子関係がないとしても、特別に子の福祉に反することになるとは考えられない」。筆者も同様の判断に立つ者であり、本稿も基本的に松川評釈と異なることを述べるものではないが、筆者の言葉で否定説の論拠を敷衍してみたいと思う。おそらく松川教授の穏やかな表現よりはあからさまなものになるかと危惧されるが、本件のような人工生殖が再び行われることへの強い危機感のなせることとしてお許しいただきたい。

三、死者の凍結精子を用いた生殖の是非

 生殖補助医療の規制立法は、立法準備作業が進められたものの、いまだ成立していない*10。立法準備作業の過程でとくに議論が重ねられたのがドナーの生殖子を用いた生殖のケースについてであって、主に生まれた子が自らのルーツを求めて苦しむことが危惧された。本件のようにルーツそのものは明らかであるけれども、死者の生殖子を用いた生殖のケースについては、比較すると議論の量は不十分であったかもしれない。しかし問題の深刻さは、ドナーの生殖子利用に劣るものではない。立法論としては、刑事罰をもって禁圧すべきほどの生殖補助医療であると筆者は考えるが、規制立法が成立していない段階で実現してしまった本件について、当然のことながら刑事的な違法と考えることはできない。しかしここで求められているのは民事的な判断であり、立法を待つことなく、公序則を含めた全民法体系から判断して親子関係を認めない結論を下すことは、当然可能である。

 まず死者の生殖子細胞を用いた人工生殖についての評価から論ずるべきだろう。本件の死後認知を認めるかどうかという判断は、このような人工生殖の是非とは論理的には別のものであるが、しかしこの種の生殖についてどれほどの禁忌感をもつかということが死後認知の判断についても基礎となって反映するからである。

 出生は、子にとってこの世への強引な拉致である。人生の重さは、いうまでもない。その重荷をあえて背負わせる新しい命の創造は、生きている両親の意思によって、はじめて正当化できることである。たとえ親が意識においては出生を望んでいなくても、性行為には潜在的にすべてこの意思があるといえる。本件を、未亡人が夫の忘れ形見を産んだケースと考えてはならない。性行為によって懐胎した子を親の死後に出産するケースとは根本的に異なり、母胎内における生命の誕生の瞬間に夫が生きていたかどうかは、決定的な相違である。死者の生殖子を用いたこの人工生殖は、けっして行ってはいけないことであったと筆者は考える。

 本件の訴訟においては、亡夫が凍結精子を保存する病院に提出した書類に表明された文言と、妻や両親に言いのこした発言の認定をめぐって争われたが、本件は、死者の生前に表明された意思が争点になるべき事件とは思われない。死者の意思が死後に一定の効力を及ぼすことは、遺言制度にあるように認められないではないが、それは所詮一種の擬制であって、法制度が遺言にそのような効力を認めることにしたからにすぎない。死者の意思は本来は存在し得ないものであって、生者の意思とは比較にならない。生命の創造のような根源的な場面では、本判決のように意思という言葉を表層や慣用で用いるのではなく、根本に立ち戻って考える必要がある。

 死者の凍結精子を使ってつくられた子は、死体の細胞を使ってつくられた子で、その意味では、むしろクローンに近い要素がある。アメリカでは、クローン技術の進展に備えて、早死にした子の親がその子の体細胞を保存していると伝えられる。このような親の願いと自己決定が、たとえどれほど強いものであったとしても、死んだ子の細胞を使ってクローンをつくってもいいものだろうか?同様に、死後、自分の精子を残しておいて、子をつくってくれと言いのこした男性がいたら、その意思を尊重すべきであるといえようか?

 生殖子を含む人体に関する問題においては、「自由」と「権利」という法学の基本的な概念を用いることが危うくなる。本来、伝統的には、肉体に関する決定は、たとえば人身の自由に代表されるように、もっとも強力に固有の「権利」に属する領域であり、その権利行使は「自由」の領域そのものであった。現在でもなお医事法では、インフォームド・コンセントの保障などのように「権利」化してあらたに擁護される領域が拡大しつつある。しかし堕胎の「権利」については深刻な議論が行われてきたし*11、死ぬ「権利」となると、安楽死の条件は厳しく、そう簡単には認められないであろう。では、子を持つ「権利」は、権利と呼べるだろうか?自然懐胎によって出産する権利は、もちろん権利として保護されるべきであるが、医師という第三者が関与して人工的に生命をつくる人工生殖においては、子を持ちたいという「願望」は「権利」の名に値しないと筆者は考える。かりに百歩譲って権利と呼ぶとしても、少なくとも子が両親をもつ権利は、親が子をもつ権利よりも、重視されなくてはならない。もちろん自然懐胎で生まれる子には、出生の時点では両親をもたない片親の子もいるが、受胎時には必ず両親がいるのであり、本件の子とは異なる。また死者の凍結精子によって子をつくるべきではないという主張は、非嫡出子や片親しかもたない子を差別してはいけないという議論と異なる次元のものであって、その次元を混同してはならない。結婚した夫婦間で自然生殖によって子をもうけるべきであるという議論をしているのではなく、あくまでも死者の生殖子によって子をもうけてはならないという議論をしているのである。本件のような問題では、人間を手段化・目的化してはならないというカントの古典的なテーゼを、より根源的な意味で再考してみる必要があるだろう。

四、法的親子関係の成立の可否

 本件の死後認知を認めるかどうかという判断は、はじめに述べたように法的親子関係の原理から判断されることであって、筆者はこのような法的親子関係を認めない結論が社会の正義秩序を体現する法規範の命ずるところであると考える。しかし、この結論に対しては、おそらく子の利益に反するという反論がなされるであろう。

 もしこの問題を「子の利益」という概念によって論じるとすれば、以上に述べた死者の凍結精子を用いた生殖に対する否定的な評価は、将来的にそのような手段によって生まれてくるかもしれない「子の福祉」を考えた判断だともいえるだろう。このようなつくられ方をしてこれから生まれてくる子の存在が、そもそも子の福祉に反するといえるからである。もっともすでに生まれてしまった本件の子だけを考えれば、死後認知を認めて戸籍の父の欄を埋めたほうが、本件においては、子の福祉になるといわれるかもしれない。しかし本件の原告にとっても、死後認知を認めることが必ずしも福祉になるとは思われない。長期的に考えたときに、子にとって、死者との親子関係を作ったことが、スティグマ(精神的な負担・傷)になる可能性もあるからである。本件において松山地裁判決が「監護、養育、扶養を受けることが考えられない者との間で、法律上の父子関係を認めることが、当然に、子の福祉にかなうことであるとも言い切れない。被告が指摘するとおり、法律上の父子関係が認められたことで、かえって、子に負担をかけることも、場合によっては考えられないわけではない」と述べたのは、その意味だったとも考えられる。

 死者の生殖子によって子をつくることを禁止して社会が禁忌感をもつようになれば、そのような親子関係をもつことが、本人にとってスティグマとなる可能性が高い。たとえば、フランス法は近親相姦から出生した子について法的親子関係を作ることを一方の親としか許していないが、それは、近親相姦を明示する法的親子関係をもつことの重さをその子に強いるわけにはいかないという判断からである。社会の価値観は流動的であるとはいえ、インセスト・タブーという観念は人類社会にとってかなり根源的なものであり、そのタブーは優生学的な見地からもまた家庭生活を平和に営むためにも必要な観念であるから、人類社会から失われることはないであろう。死者の子をつくり出すことは技術進化によって可能になったばかりであるから、社会のなかにタブー意識はまだ成立していないけれども、将来社会がこの禁止規範を観念として確立したときには、インセスト・タブーと同様に、生まれた子にとってスティグマとなりうる親子関係である。そして3で述べたように、社会はこの禁止規範を共有するべきであると思う。

 なお、本判決は、死後認知の認容が本件の原告の利益になる点として、代襲相続権を挙げるが、その点についても疑問がある。

 死後認知を認めた場合の子(本件原告)の相続権については、そもそも精子提供者である亡夫からの相続も認める解釈が存在する*12が、通説的見解は、同時存在の原則から亡夫の相続権を認めないものと思われ、本判決の解釈もその前提をとる。大陸法系の相続制度における同時存在の原則は、相続開始の時点に相続人に財産を帰属させる相続制度システムの根幹をなす原則であって、本件のような死後認知をかりに認容したとしても、排除されるものと解すべきではない。胎児についての相続権を認める規定は、胎児にすらなっていなかった子は相続人にならない同時存在の原則に基づいた特則であると考えられる。

 しかし亡夫の両親の相続において代襲相続権を認めるかどうかについては、より見解が分かれる可能性があり、現に本判決は代襲相続権を承認する解釈を採用した。本判決のこの判断は、昭和37年相続法改正時に、相続権喪失時での同時存在の原則について議論が分かれていた点を、立法的に同時存在の原則をとらない方針を採用して解決したことから、短絡的に導かれた結論であるように思われる。相続権喪失時の同時存在の原則については、親の相続について相続失格した子が代襲相続を目指してあらたに養子をする場合のように弊害が大きいことを理由に立法の結論に反対する有力少数説があるが、本件での判断は、この対立から結論が分かれる問題ではなく、代襲相続制度のより根本的な制度趣旨による解釈問題である。代襲相続制度は、たまたま子が早死にしたために孫が相続できず、子の兄弟(傍系)が相続してしまう事態を救うための制度であるのだから、「代襲原因がなかったら、孫が相続できたのに」ということが前提の要件となる。しかし本件では、子(亡夫)と孫(本件原告)との関係がそもそも相続人たり得ない関係である。孫に子の相続権がないときには、当然、孫に親の代襲相続権もない。代襲原因発生時の同時存在の原則が不要とされた昭和37年改正の問題は、孫には子の相続権があることを前提として、代襲相続権があるかどうかという判断についての解決であった。本件では、かりに死後認知を認めた場合であっても、代襲相続は認められないと解される。しかしそもそも死後認知を認めるべきではないのは、上述した通りである。

五、母の「自己決定」への危惧

 筆者は、かつて別稿で次のように述べた。「医療の進展によって生じた未知の領域の問題だからといって、これまで人間社会の調和をはかってきた法的な思考の蓄積が役に立たないことはないはずであるのに、従来の法体系に知恵を求めることはあまりなされない。自己決定という概念を絶対視することには限界がある。人間は自分を取り巻く社会に考えさせられるように考えるのだから、厳密な意味での自己決定とははなはだ危ういものであり、自己決定をどこまでも追い求めていくことは、ときとしてタマネギの皮むきのような虚しい努力になりはしまいか。また、自由の伝統をもつアメリカ社会と異なり、女性の地位が低く共同体の抑圧も大きい日本社会においては、自由と自己決定の尊重は、もちろん今後とも強調されるべき価値ではあるが、その反面、自己決定が万能の口実となることの危険性も大きいように思われる。たとえば経済的にも肉体的にも負担の大きい不妊治療を受け続け、ドナーとの生殖医療によっても子を持つことを求める日本人女性の自己決定は、はたして産まない自由を真に保障された上での自己決定だろうか」*13。ここで危惧した事態が、本件では、まさに最悪のパターンとして生じてしまったように思われる。

 自己決定と自由の論理が信仰のように強烈に主張されるアメリカ社会の人工生殖事情では、自立した強い女性が精子バンクから望ましい遺伝形質の精子を購入して子を作るような事態が生じている。本件の母親の意思は、果たしてそのようなアメリカ女性の自己決定に匹敵する自己決定といえるだろうか。本件の人工生殖は、決してなされてはいけないことであった。日本社会の最も弱い輪のところにこのような逸脱が生じてしまったようで、痛ましい限りである。本判決のようにこのような逸脱を追認することになっては、亡夫の家族から、「家」の跡取りを産んで夫の両親の老後をみるようにという、同様の圧力が未亡人にかかりかねない。日本の状況は、いまだに、医師が「子どもを産めないと離婚される妻を救済する福音」としてドナーによる人工授精を自画自賛し、跡取りを産めという要請は妻に強い抑圧・精神的負担としてのしかかり、障害児を産んだ妻は離婚されるという風土なのである。このような状況を思うとき、上野千鶴子氏の次の願いに共鳴せざるをえない。「産みたいときに産みたいだけ産む権利と能力を。産みたくないときに子どもを産まない権利と能力を。産めないとわかったときに、その事態を受け入れる権利と能力を。そして、どんな子どもでも生命として受け入れる権利と能力を。」*14

 自己決定は、たとえば医師のパターナリズムから患者の身体に関する決定権を守る場合のように、かなり限定的な問題について、かつよほど条件を整備して、用いられるべき概念である。人間は周囲から思わされるように思うものであるのだから、一般的な自己決定をすべての正当化根拠にするのは、非常に危険である。とりわけ生命の誕生においては、子の尊厳と人生の重さを十分に考えて、法秩序を構築しなければならない。法学は観念の学問であり、人間は、観念で思考して意識をもつ、言葉の奴隷なのだから、実親子法は、社会の中に生きる人間の尊厳を守るにたる慎重な法理でなくてはならないだろう。


*1「法律の規定がない場合。解釈者の独立性は高まるが、彼は絶対的に自由ではなく、諸法律の一般的精神、法の一般原理といわれる学問的規範の総体に拘束される」。このプラニオルによる言明は、小粥太郎「マルセル・プラニオルの横顔」日仏法学23号122頁(2005年)より引用。

*2本件が報道されるにあたって筆者も新聞記者から接触を受けたが、その際の新聞記者からの最初の質問は、もしかすると別の男性関係があったかもしれないのになぜDNA鑑定が行われなかったか、というものであった。本件で鑑定が行われるべきではないことは、民法学者には自明であっても、ひょっとすると一般には理解しにくいことであるのかもしれない。もっとも鑑定で調べればよいというのは日本人の素朴な発想であるのかもしれず、従来あまりに平気で鑑定をする傾向にあった日本の実務もその発想の影響によるもので、結局のところ、民法の継受が不十分であったということなのだろうか。  この質問に対して、筆者は以下のように説明した。遺伝的に誰の子であるかという情報は、子の人生の最も中核にあるプライバシーであり、実親子法は、それに極力触れることなく、子の身分を設計しなくてはならず、法律上の親子関係は、血縁上の親子関係とは別物である。法律上の親子関係に一定の割合で血縁とは異なる親子関係が入っていても、法は子に最もふさわしい親を与えて、子の身分を安定するために、あえてそれを覆さない。鑑定によってわかるものが親子関係なら、裁判官ではなく鑑定技師が判定すればいいことになるが、そうではないからこそ、裁判で行われる。鑑定で血縁関係があれば父を与えるという前提ではじめて鑑定の意味が出てくるが、本件で父を与えないことを主張している検察側が鑑定を請求しないのはいわば当たり前であり、かりに父を与えるべきであるという原告側の立場に立つとしても、鑑定には百害あって一利もない。万一、子が他の男性の子であったとしても母はその事実を隠したいと思っており、その男は父になる可能性のない存在なのだから、鑑定せずに亡夫を父とするほうがまだましだからである。

*3水野紀子「人工生殖における民法と子どもの権利」湯沢雍彦・宇津木伸編『人の法と医の倫理』(信山社、2004年)201−231頁とそこに引用した諸文献を参照されたい。

*4村重慶一「夫の死後夫の精子で出生した子の認知請求(松山地判解説)」戸籍時報566号27頁(2004年)、「父の死後凍結精子で生まれた子の認知請求(高松高判解説)」同573号14頁(2004年)。

*5床谷文雄「今期の裁判例(家族)」判タ1150号81頁(2004年)。

*6本山敦「凍結保存精子による出生」司法書士2004年2号50頁。

*7松川正毅「本件地裁判決評釈」判時1861号190頁、判評547号28頁(2004年)。

*8利谷信義『新版注釈民法(23)』(有斐閣、2004年)416頁は、「この事案の具体的解決としてこの判決を支持する」と述べる。

*9二宮周平『家族法』(新世社、第2版、2005年)185−186頁は「男女の交わりという自然の生殖を前提とした親子関係発生のルールを人工生殖にそのまま用いることは、社会の合意形成なしにはしてはならないことであること、いかなる手段を用いてでも夫の子を出産すべきという意識をつちかうおそれがあること、婚外子に対する差別感情が根底にあることなど政策的判断になるが、私見は、第1審を支持する」とする。

*10命をつくり出すことの重さを考えると、不妊治療の当事者が子を持ちたいという願いを叶えることが、ただちに当事者を救済することとは思われない。野田聖子『私は、産みたい』(新潮社、2004年)は、現職国会議員の不妊治療経験を語るものであり、この著書に見られるように、挙児への希望は、当事者が視野狭窄になるほど、往々にして激しい情熱的な願いである。しかしこの著書に読みとれる当事者ゆえの視野狭窄が、国会議員という著者の立場上、生殖補助医療規制立法への障害となり、親の自由と短絡的に結びついた立法への道筋となりかねないことが危惧される。

*11最近の文献として、山根純佳『産む産まないは女の権利か−フェミニズムとリベラリズム』(勁草書房、2004年)など。

*12前注(6)本山43頁。ただし「死後認知を認め、父子関係を発生させると、その影響は親子法のみならず、相続法、財産法にも大きく波及する。法秩序、社会生活に与える影響は甚大である」として死後認知を認めない結論へ導く前提としての解釈であるけれども。

*13前注(3)水野204頁。

*14上野千鶴子「リプロダクティブ・ライツ/ヘルス」と日本のフェミニズム」『差異の政治学』(2002年、岩波書店)より(初出は、『リプロダクティブ・ヘルスと環境』工作舎、1996年)205頁。ただし、筆者は、既成概念を用いて平和裡に社会を規律する法律学を専門とする立場にある者として、既存の概念を相対化して崩すことによって議論をする上野・社会学の全体について共感するわけではない。


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