インターネットに掲示するにあたって

 以下の論文は、旧厚生省の「精子・卵子・胚の提供等による生殖補助医療のあり方についての報告書」が公表される前に執筆したものである。従って、この報告書を前提としていない。報告書が公表された現在では、この論文執筆当時に考えていた、現行法の解釈によって親子関係を保護しうるという予測は、甘かったと反省している。報告書の親子法への要求は、鑑定によって親子関係が明らかになることを前提として、人工生殖を受けたことをセンターに登録済みの人工生殖子のみを親子関係の否定から保護するように読めるからである。報告書の示唆する親子法では、子の出自を知らされない権利が守られないばかりか、実際には、人工生殖子を身分剥奪の危険から守ることもできないであろう。人工生殖を受ける親希望者は、センターへの登録を潜脱すべく努力するであろうし、その潜脱の結果、被害を受けるのは、生まれた人工生殖子である。報告書の方針がそのまま立法に結びつくことを危惧するものである。

2001年6月15日
水野紀子




不妊症治療に関連した親子関係の法律

水野紀子

法律上の親子関係は民法が決めるもので血縁が決めるものではないが、民法は鑑定技術や生殖医療の進展を予定していない。人工生殖で産まれた子の親子関係が民法ではどの親との間に成立するかを予測し、人工生殖子の保護をどのようにはかるかについて考える。

一、はじめに

 人工生殖で生まれた子の父と母は、誰になるのだろうか。法律上の実親子関係を定めるのは、民法という法律である。民法はもちろん人工生殖を予定していないけれども、人工生殖による親子関係について、新たな立法をするのでない限り、現行民法の規定を前提に考えることになる。そして医師が介在する生殖医療技術のうち、配偶者間の体外受精のように卵子や精子の提供者が当事者自身である場合、つまりドナーが関与しない人工生殖は、遺伝子上の親と育ての親が一致するから、ここでは問題にはならない。ドナーの精子や卵子を用いた人工生殖が問題になるだろう。

 ドナーの精子や卵子を用いた人工生殖においては、遺伝子上の親と育ての親が一致しない。遺伝子上の親を実親と考えると、育ての親は、実質的には養親と考えられるはずであるが、人工生殖によって子を得ることを望んだ当事者は、もちろん養親ではなく実親となるつもりであろう。民法によれば、人工生殖子を望んだ親は、希望通り実親となることができるだろうか。その親子関係は、DNA鑑定によって覆されることはないだろうか。子が自分の遺伝子上の親を知りたいと考えたとき、その望みは権利として認められるだろうか。

二、民法の定める親子関係

法律上の概念

 ここで前提としてまず理解しなければならないのは、民法という法律の考える親子関係の概念についてである。民法の規定する親子関係は、養子縁組による養親子関係と血のつながりのある実親子関係とに分かれている。そして、血のつながりのある実親子関係は、血縁上の親子関係そのものであるように思われるだろう。たしかにほとんどの場合は血縁上の親子関係が民法による実親子関係と一致するのであるが、実は、民法が定める実親子関係という法律上の親子関係は、血縁上の親子関係と完全に一致するものではない。そこにはいくらかの不一致がありうることを前提として立法されている。

 民法の定める親子法は、現代の医学の発達を前提とはしていない。母親は分娩によって特定できるけれど、父親がわかりにくい時代に立法されたものである。現在の鑑定技術を想定していないことはもちろん、体外受精などの生殖技術も予定されていない。したがって民法は、結婚している母親から産まれた嫡出子については、母の夫を父親と推定し(この推定を嫡出推定とよぶ)、未婚の母親から生まれた非嫡出子については、父親の認知によって父子関係が成立するものとしている。

 しかし民法の規定する親子関係法は、血縁上の親子がわかりにくいという理由でのみ、嫡出推定や認知という法的技術を設けたのではない。むしろ親子関係を規律するにあたって子の利益をはじめとするさまざまな法益を考慮して複雑な権利義務の枠組みを構築し、実親子関係であっても、血縁上の親子と法律上の親子とが異なりうることを前提として設計されている。民法の法的技術があえて血縁と完全には一致しない法律上の親子という概念を作ってきたことの意義は、現代の医学の発展を取り入れた立法や解釈をするにあたっても、まず十分に考慮されなければならないであろう。民法は私人間の権利義務を定める基本法であり、日本の民法は、明治時代にフランス法やドイツ法をモデルとして立法された。そしてフランス法やドイツ法は、相次ぐ改正によってモデルとした明治時代の条文とは異なってはいるものの、親子関係の鑑定が簡単にできるようになった現代においても、やはり血縁上の実親子と一定の場合に不一致があり得る法律上の実親子という制度を維持している。民法は一定の場合に血縁と異なる親子を実親子として扱うのである。

嫡出推定と認知

 日本民法では、たとえば嫡出推定制度は、推定という文言にもかかわらずきわめて強力な確定に近い推定制度である。この推定は、夫の子ではないという事実を証明することだけでは破れない。嫡出推定を破るためには、嫡出否認という特別な訴えが必要であり、この嫡出否認の訴えは、民法の条文上は生後1年間に限り夫からのみ提起できる。つまり生後一年以上を過ぎると、夫と妻の生んだ子との間の親子関係は確定されてしまう制度なのである。民法がこのような硬直的な制度を作った理由は、子の嫡出子身分の保護のために早期に親子関係を確定してやるほうがいいという判断があり、夫には妻の生んだ子について、万一その子が自分の子ではなくても、養育責任を持つ義務があるという考え方による。AID(非配偶者間人工授精)による人工授精子は実質的には夫による養子に近いが、後述するように、その子と母の夫との親子関係を嫡出推定制度によって守りうるのは、このような不一致の伝統構造に吸収できるからである。

 非嫡出子についても、成年になった子を認知する親はその子の同意がなければ認知できないとする規定があり、この規定は、その結果、法律上の親子関係と血縁上の親子関係の不一致が生じうることを認めている。認知者の実の子であっても、成人していれば、父の子となることを拒絶できる。

 それどころか民法の条文は、非嫡出父子関係のみならず、非嫡出母子関係についても、認知によって成立すると規定している。これは、明治時代に民法を立法するにあたって参照した母国法であるフランス法が、分娩という事実によって非嫡出母子関係が成立するのでは、母による子捨て・子殺しが起きかねないから、非嫡出子を生んだ母の匿名権という権利を伝統的に認めていたことに倣ったものである。しかし西欧諸国では身分証書制度によって出生登録がなされるために母親の名を空欄にして出生証書を作成することが可能であったが、日本では戸籍という独特の身分登録簿に出生届をするためにその段階で母親の戸籍に入籍せざるを得ず、民法の条文は事実上機能し得なかったため、最高裁判例は、解釈によってこの条文を空文化し、母子関係は原則として分娩によって生ずるとしている。

判例による血縁関係の重視

 ここで、民法の条文を解釈によっていかに変更するかという次の問題に移行する。裁判は、もとよりまず民法の条文を適用することによって行われるのであるが、裁判官がその条文をそのまま適用したのでは事案の解決にとって不都合であると判断すると、解釈によって条文の適用を制限することが許されている。とりわけ最高裁の判断は、その条文の解釈として、下級審を事実上拘束する判例として機能する。そして実親子法の領域では、最高裁は民法の条文の適用を解釈によって制限することに積極的であった。

民法の定める法律上の親子関係は、産まれた子にその子を育てる責任を持つ親を早く確実に確保すると同時に、その子のアイデンティティを安定させる法律上の制度である。それは圧倒的多数の場合に血縁上の親子関係と一致するが、必ずしもすべての場合に一致することを予定しているわけではない。しかしこの考え方は、実は日本人の常識とは乖離していた。夫の子ではないとわかっていながら育てる義務を夫に負わせるのはおかしいと考えられた。また、戸籍に真実の親子関係以外の親子関係を記載してはならないと考えがちであった。そこから民法に予定されていない親子関係存否確認訴訟という訴訟類型が判例によって生み出され、この訴訟類型が戸籍上に記載された親子関係が血縁上の親子関係と異なる場合にそれを否定する訴えとして認められて機能してきたために、民法がたとえ血縁と異なっていても法律上の親子関係として守ろうと判断していた親子関係を浸食した。その浸食の限界は今なお流動的であるが、判例の実務をみると、日本法は、いわゆる血縁主義という解釈傾向によって、母法であった諸外国よりも極端に血縁関係を重視する親子関係法となっている。このような判例の傾向に対して、学説は、血縁主義を肯定する学説と法律上の親子関係を守るべきであるとする学説とに分かれ、激しく対立している。

三、人工生殖子の親子関係(1)〜AIDの場合

父子関係

 以上のような民法の適用状況を前提にして、人工生殖で生まれた子の法的親子関係を、人工生殖子のタイプ別に具体的に検討することにしよう。まず実施の歴史のあるAIDについては、どうなるだろうか。生まれた子は、実母とその夫との嫡出子として出生届がなされる。その子の戸籍上の地位が否定されることはあるだろうか。母子関係は血縁と同一であるから、否定されることはない。父子関係については、民法の嫡出推定の規定が文字通りに適用されると、生後一年以内に夫からだけ父子関係を否定できるが、一年を越えると誰からも否定されなくなる。

 先に述べたように、民法の条文の適用は、最高裁判例によって制限されている。嫡出推定の規定も例外ではない。つまり民法772条は、婚姻成立から二〇〇日以上婚姻解消から三〇〇日以内に出生した子には嫡出推定が働くと規定している。しかし最高裁はかつて、この期間内に出生した子についても、嫡出推定が働かない場合があることを認めた。最高裁昭和44年5月29日判決民集23巻6号1064頁は、婚姻解消後三〇〇日以内に生まれた子が実の父を被告として強制認知の提訴をした事件で、被告が嫡出推定により母の夫との父子関係が成立しているから強制認知は認められないと抗弁したのに対し、離婚以前からすでに夫婦関係は破綻して久しかったことを理由にこの子には嫡出推定は及ばないと判断して、強制認知を認めたものである。この事件は、提訴したのが子であって嫡出推定による子の保護が問題にならないケースであったこと、母と夫との夫婦関係は、事実上の離婚状態であって、ただ離婚届出だけが遅れていたケースであったことから、解釈によってもっとも嫡出推定を崩しやすい事案ではあった。

 戸籍実務が嫡出推定の働く期間内に妻の生んだ子については夫の子としての出生届しか受け付けないために、出生時に血縁に従った届出は不可能となっているが、この事件の母はもし可能なら出生時点から夫の子としての出生届をしなかったのではないかと思われる。戸籍が出生時点で妻が産んだ子を非嫡出子として届け出る自由を許していれば、そして非嫡出子として届け出られた子については自動的に嫡出推定がはずされるとすれば(実は民法の母法の国ではそうなっている)、嫡出推定が実務で争われる多くの事件は裁判所には出るまでもなく解決するだろう。離婚手続きが遅れて後婚の夫の子を妊娠してしまうケースが実際には多いからである。このようなケースでは、母と前婚の夫と後婚の夫との三者間に親子関係を夫の子と改めることに異論がない場合ことも多く、そのときには家事審判法23条審判によって、家庭裁判所で三者間の合意を根拠に訂正する審判を取得することができる。

嫡出推定をめぐる判例の変遷

 これに対して、実は夫の子ではないが夫の子として育てたいと母が望んでいるようなケースでは、嫡出推定を解釈によってはずしてしまうことの弊害は大きい。しかしこの最高裁判決後の裁判実務は、この判例をより広い範囲で適用して嫡出推定を崩す方向に進んだ。出生後数年経ってから、夫が自分の子として育てる気を失って親子関係不存在確認訴訟を提起するようなケースでは、夫婦関係が壊れて家庭の平和が失われているケースが多い。そして懐胎時には実体的な夫婦関係が存在してもその後夫婦関係が壊れてしまっている場合に、嫡出推定制度の保護の対象外として親子関係不存在確認請求を認める下級審判例が多かった。嫡出推定制度の存在意義は、夫が自分の子として育てている家庭の平和があるときに、家庭外の男性が自分の子だと主張することを許すのはいけないが、家庭の平和が失われているときは、もはやこの制度によって守られる利益はないとする学説が存在し、その学説に従う下級審判決が続いたためである。

 この傾向のままでは、AIDによる子が成長した後で両親が離婚したりすると子の身分が覆される危険があったが、最高裁平成10年8月31日判決家裁月報51巻4号33頁は、子の生まれる9ヶ月余り前から別居し裁判中に離婚した夫からの親子関係不存在確認請求について、懐胎時に「婚姻の実態が存しないことが明らかであったとまでは言い難い」として認めない判決を下し、嫡出推定制度の空洞化傾向に歯止めをかけた。この事件では、妻側が鑑定を拒絶したために親子鑑定はできなかったが、心証的には夫の子ではない可能性が非常に高い事件であった。この判例によって生後一年経過後は人工授精子の身分が守られる蓋然性は一挙に高まったものと思われる。つまり懐胎した時点で夫婦の仲が崩壊していなければ、かつ夫が生後一年以内に嫡出否認の訴えを提起しなければ、その子は夫の子であることが確定されるからである。

生まれた子の福祉は?

 学説のうちには、AIDであることが立証されるとそもそも嫡出推定がはずれると解する血縁主義的な解釈をとる少数説も存在する。しかし、多数説は嫡出推定がかかると解釈しており、最高裁判例もおそらくAIDによる子であっても嫡出推定を排除しないものと予想される。最高裁は、夫の血縁上の子ではなくても、子の利益のためには夫との父子関係を確定する判断をとるものと考えられるからである。最高裁の判決はまだ出ていないが、東京高等裁判所の判決には、夫の同意を得たAIDによる子について、嫡出推定の及ぶ嫡出子であり、夫と子との間に親子関係が存在しない旨の主張をすることは許されないと判示したものがある(東京高裁平成10年9月16日決定家裁月報51巻3号165頁)。ただし夫の承認を得ていないAIDによる子について、夫の嫡出否認の訴えを認めた大阪地方裁判所の判決がある(平成10年12月18日判決家裁月報51巻9号71頁)。

 もし民法の条文に拠らず、立法による解決をするならば、AIDに夫が同意をしていた場合は、夫の子として確定する条文が適当であろう。現行の民法では、出生後一年以内は夫が嫡出否認を提訴できると解される可能性がある。夫がAIDに同意していなければこの提訴も当然認められる必要があるが、同意していた場合には問題である。しかし現在の民法の条文によっても、たとえば夫のAIDへの同意を夫の承認がある(民法776条)と解釈することによって、生後1年以内の嫡出否認を封じることも可能である。立法による解決を図らなくとも、最高裁判例は、従来、血縁主義的解釈によって民法典の親子関係の規定を大胆に骨抜きにしてきたのであり、その解釈の幅の大きさを血縁主義と逆の解釈に発揮すれば、現行法を利用して人工授精子の身分を守ることは十分可能であろうと思われる。

 では立法による解決を考えるならば、子の出自を知る権利を重視した立法、つまり提訴権者が子自身であったときには、嫡出推定を覆して、血縁上の父への強制認知請求を認める立法をすべきであろうか。少なくとも精子のドナーが父としての責任を問われることをまったく予想していない現在までの実務を前提とすると、これは妥当でない。父子関係は写真のネガとポジのような関係であり、母の夫に父として育てる義務を課していることの反面、子が母の夫を法律上の父として生きることが強制されてもやむをえまい。子の出自を知る権利という観点では、子のために遺伝病の有無などの真の父の情報が必要となったときには、真の父を匿名としたうえでその情報を与えることがせいぜいのところであろうか。それにしても十分な議論がないままAIDの実施が先行して数十年を経過したために、子にドナーの情報すら与えようがないケースも多く、ドナー一人あたりの精子採取の制限も不十分であったから、いわば腹違いの兄妹が知らずに近親婚となる危険すらある。AID実施に踏み切ったとき、いまから思えば、患者の希望をかなえることを優先して、生まれた子の福祉については必ずしも十分な考慮が与えられなかったのではないだろうか。

四、人工生殖子の親子関係(2)〜代理母の場合

 代理母という言葉は多義的に用いられる。ここでは、代理母がAIDによって妊娠・出産し、精子の提供者とその妻の夫婦に生まれた子を引き渡す契約をした場合を代理母として考えてみる。アメリカのベビーM事件(*後注)は、この種の代理母の事件であった(もっともアメリカ法は、日本法やヨーロッパ大陸法と、親子関係法の規制の仕方が全く異なっているので、アメリカの事件や法律上の議論をここで紹介する余裕はない)。

日本でかりに当事者の間でこのような契約が行われ、生まれた子が精子の提供者である夫婦の嫡出子として出生届が出されたとしよう。この場合は、法的にはほとんど議論の余地はない。法律上の親子関係は、分娩した代理母と子の間に非嫡出母子関係が、精子の提供者と子との間に非嫡出父子関係が存在する。母子関係は分娩によって成立し、精子の提供者が提出した嫡出子出生届は認知届の効力を有するからである。したがって戸籍上の母子関係は誤りであり、利害関係を持つ者ならば誰でも親子関係不存在確認訴訟を提起して、戸籍上の母子関係を訂正することができる。

 かりにこうして生まれた子が、父の妻である戸籍上の母を育ての母として長年生活したとする。そして戸籍上の母が年老いて亡くなった段階で、看取ったその子は実の子ではないから相続権がないという主張がなされるとしたら、それはいかにも正義に反するように思われるであろう。このような問題は、代理母に限らず、たとえば未婚の母が産んだ子を養親の嫡出子として虚偽の出生届を提出して育てた場合、いわゆる「わらの上からの養子」といわれる場合に、実際に多く生じている問題である。筆者はこのような場合には解釈論によってなんとか親子関係不存在確認訴訟を封じるべきであると考えるが、しかし現在の最高裁判例は、いかに長年の生活実態があっても、親子関係は否定されると判示している。代理母の事案においても、最高裁の判断はおそらく変わりないものと思われる。

 このような代理母の契約は、日本では公序良俗違反で法的には無効なものと評価されるだろう。それでももしこうして子が産まれたときには、正式な手続としては(依頼した夫婦の嫡出子として届けるという上記のような方法は正しくないので)、出生届は代理母の子として届け出られ、精子提供者が認知することになる。そして当事者が契約の内容を実際に実現したいと望めば、精子提供者の妻が養子縁組によって養母になるしかなかろう。養子縁組手続を踏んでおけば、養子縁組が離縁によって解消されない限り、将来、その子が育ての母の相続権を奪われることはなくなる。

五、人工生殖子の親子関係(3)〜ドナーの卵子による体外受精・余剰胚による体外受精の場合

分娩の母と遺伝の母

 現在の日本では体外受精であっても配偶者間だけで行われるのが原則であるから、女性は自分の卵子による受精卵を受胎する。しかし現在でもドナーの卵子による体外受精を行ったことを公表する医師がおり、また外国へ出かけて手術を受ける女性もいる。また日本でも、今後の議論の展開によっては、ドナーの卵子による人工生殖が公に行われるようになるかもしれない。

 そのとき、法的親子関係はどうなるだろうか。つまり分娩の母と遺伝の母とが分離した場合である。現行民法の解釈において、母子関係に法的な親子関係が成立するのは、分娩という事実によることになっている(最高裁昭和37年4月27日判決民集16巻7号1247頁)。したがって、生まれた子の出生届がだされると、その子は生んだ母親の戸籍に入籍する。しかしこの判例はもちろん分娩した母が遺伝上の母であることを前提としたものである。その前提が異なるとき、判例は維持されるであろうか。出産だけを請け負う母を認めると、母体の搾取につながる危険が大きいから、諸外国の立法例には、ドナーの卵子による出産でも分娩の母を法律上の母とする例のほうが多い。学説の予測は分かれているが、人工生殖の場合も分娩により母子関係が生じると解する判例を維持すべきであると思われる。法律によってドナーの卵子による人工生殖を公認するとすれば、その点をも明定するほうが望ましいだろう。ただし後述するように、このような人工生殖を許すかどうかが大いに問題である。

かりに出産機能だけに障害のある女性が、自らの卵子で代理母に出産してもらい、自己の子として出生届をした場合はどうなるだろうか。判例を維持するとすれば、この場合も代理母を母と訂正する親子関係不存在確認の訴えが可能になる。そのうえで、遺伝の母による養子縁組が行われることにするべきであろう。ただ法律的には虚偽となるその出生届を前提にして遺伝の母の子として成長した場合、母子関係を否定する親子関係不存在確認の訴は、権利の濫用にあたると解されて、認められない可能性が高くなるであろう。

 ちなみにこの場合の法律上の父子関係は、次のようになろう。すなわち、新たな立法がなされない限り、民法が適用されて、分娩した母が既婚者であった場合には、夫が嫡出推定により父となり、未婚者であった場合には、その子を認知した男が父となる。

匿名性を認めるべきか

 ドナーによる卵子によって出産した女性が法律上も母になるとすると、子が成長して自分の遺伝子上の母を知りたいと考えるかもしれない。法律上の母子関係は分娩によって決定されるから、出産した母との母子関係は、子が望んでも覆されない。しかし少なくとも誰が卵子提供者なのかを知ることは許されるだろうか。ドナーの卵子による人工生殖が将来認められたとき、卵子のドナーが、現在の精子のドナーのように匿名とされるのかどうかにもよるだろうが、子の出自を知る権利も、AIDによる場合と同様、遺伝子上の母を求める権利を子に与えるほど強いものとされるべきではなかろう。しかしそのことは匿名を望んだドナーの情報を把握しておくべきではないということを意味しない。将来、子の必要に応じて親の遺伝的な情報などを提供すべき事態に備えて、ドナーの記録は保持されるべきであり、このことは、現実にはそうなっていないにせよ、AIDのドナーについても本来は同様であるべきであった。

 いずれにせよ卵子提供を認める立法がなされたときには、母子関係についても、たとえば分娩の母を法律上の母と確定することが望ましいが、そのこと自体は現行法の解釈でも可能であり、法律上の親子関係の形成を論じる以前に、立法によって解決されるべき問題は、そもそも代理母や卵子提供や胚移植を許すかどうかである。

六、ドナーによる卵子提供や胚移植を許すべきか

当事者の自己決定

 本来であれば、ドナーの精子を用いた人工授精についても、医師および医師の団体の判断だけによるのではなく、脳死について行われたような国民的な議論を経た立法化を待つべきであったと思われるが、実際には実務が先行して数十年の歴史が作られてしまったので、その事実を前提にして考えざるを得ない。精子提供と卵子提供との間に差があるべきではないという立場から、卵子提供を規制している現行の日本産婦人科学会の規制に批判が寄せられている。しかし人工授精の先行実施という相違だけではなく、他人の精子によって受胎した子が夫婦の間で夫婦の子として育てられることは、いわば自然に生じうる事態である(民法の嫡出推定制度はこの事態を前提とした制度である)。しかし卵子提供は、医学の進展によって初めて可能になったことであり、精子提供と同列には考えられない。

不妊治療に通う患者は、ドナーによる卵子提供や胚提供を受けても子を得たいと強く望むであろう。その願いを叶えることが可能であるのならば、医師はそれを実現する方向にどうしても傾斜しがちであろう。しかし、その将来像と危険性は予測の難しいものがある。この問題に対する欧米の対応は、二極分解している。アメリカは基本的に当事者の自由を最大限に重視する法体系であるため、精子や卵子の市場が出来るほど、自由に行われている。ヨーロッパ大陸では、代理母を禁止しごく限定的に胚提供のみを認めるフランスやそれらをすべて禁止するドイツのように、立法により厳しく規制するのが主流である。アメリカの基準は、この問題ではグローバルスタンダードにはほど遠い。かりにアメリカのように当事者の自己決定を優先するとしても、日本ではアメリカと同様のものとして機能しうるだろうか。強制された自己決定となる危険がアメリカよりもはるかに大きいのではなかろうか。AIDの導入が「妻にとってはいわれのない離婚に追いやられることもないので、不妊夫婦にとっては一大朗報であったに違いない」(佐藤和夫ほか「ここまで進んでいる生殖技術の現状」法律のひろば1998年9月号5頁)と現在でも評価される日本の土壌である。不妊女性が不妊治療をしない自由も、周囲から不妊治療を受けるべきだとする圧力がかけられるために、なかなか保障されていない現実がある。

子どもを得るということ

子を望むことは、どこまで権利なのだろうか。その望みはときとして極めて切なる強い望みであることは、まちがいないが、それは権利たりうるだろうか。

民法の親子法の枠組に従って考えると、卵子提供による人工生殖子は養子と並んで、実親子に対比される場所に位置づけられるであろう。つまり男女の性関係によって出生する実親子と異なり、乳幼児の養子と人工生殖子は、カップルの外部の介入が必要になる。つまり養子の場合には裁判所の宣言(ただし日本法の場合は、成人間で行われる実質的な相続契約がほとんどである一般養子ではなく、特別養子を念頭に考える。規制のほとんどない日本法の一般養子は、むしろ世界的にみると特殊な養子制度である。)、人工生殖子の場合には医師の介入である。これらの介入を要する親子関係は、子の利益を最大限に考慮した慎重な制度となる必要がある。特別養子制度は、両親のそろった養親を要求し、実親が子を養育できないことを要件として、家庭裁判所の審判が必要である。しかも養子はすでに存在する子である。人工生殖子は養親のために産まれる子である。親に子を与えることと、子に親を与えることとは、同義ではない。どのような場合に許されるであろうか。

 夫婦間の不妊治療の際に生じた余剰の胚を、すでに存在する子に近いものと考えて、その生命を尊重するために、他の夫婦に受胎させることを許すか。鑑定によって血縁関係の不存在が将来明らかになる危険を除去できれば、匿名の余剰胚による受胎は、子が遺伝上の出自を知らされずに実子としての身分を安定して享受できる可能性は高いが、子の出自を知る権利とは衝突する。それとも血縁信仰の強い日本社会では、子がたとえば叔母が自分の遺伝上の母であることを知っても致命的ではなかろうと考えて、姉妹間の無償による卵子の提供だけを受け入れるか。その場合は卵子提供者の負担がきわめて大きいにもかかわらず、提供が周囲によって事実上強制される危険が大きい。また、子が遺伝子上の出自を知ってしまう可能性も、この場合は高いであろう。あるいは現在の日本産科婦人科学会の規制のような禁止を法制化するか。いずれにせよ国民的な議論によるコンセンサス形成が早急に必要である。

 筆者自身は、配偶者間の不妊治療を越えて、ドナーによる卵子や胚の提供を認めるべきではないと考えている。遺伝の力はきわめて大きい。そして自分が誰の子であるかという認識は、その人間の自己存在の根底を形成する認識である。生まれてきた子が、自分の遺伝上の親が代価を得て精子や卵子を提供した人間であることを知ったときに、どのような自己認識をもつだろうか。もっとも考えなければならないのは、不妊治療に通う患者の希望ではなく、生まれてくる子の福祉である。また、卵子提供を認めることは、たとえドナー本人が承知して望んだとしても、有形無形の圧力がドナーにかかった侵襲となる危険が高い。フランス法は、そのような危険のない余剰胚の提供は認めているが、それには、受胎の瞬間に生命が発生していると考える宗教感情が基盤にある。中絶を容認してきた日本は、このような基盤を持たない。体内に宿った胚が尊重すべき生命を持つのは、その胚を宿した母が、その子を生みたいと願ったときであると考えるのが、日本の風土にふさわしい考え方であろう。筆者は、卵子提供はもちろんのこと、胚提供にも積極的にはなれないと考える。

七、自己の出自を知る権利と知らされないでいる権利

私とは何か

 日本法で従来優勢であった血縁主義とよばれる解釈傾向は、血縁上の親子を限りなく法律上の親子に合致させる解釈である。この解釈は、DNA鑑定などにより親子関係の判断がつくようになれば、民法の規定がもたらす法律上の親子の虚構は否定されるべきであるとする考え方であり、民法の規定しない親子関係存否確認訴訟の範囲を拡大して民法の規制を空文化する。自己の出自を知る権利の保障がいわれるようになっても、血縁主義の立場とは矛盾しない。しかし血縁主義は、血縁上の親子と異なる法律上の親子関係という制度の存在意義を理解せず、その不一致を受容できない日本人的なナイーブな発想から生まれた解釈であったように思われる。血縁上の親子関係がたやすく判断できるようになったからこそ、法律上の親子という制度が子の利益などの法益を守る役割は、ますます重大になると思われ、西欧諸国においても、鑑定技術の発展にもかかわらず民法の親子関係は法が決定するものとされている。

 とくに人工生殖との関係では、民法の実親子法が、子の安定的な成長と子の身分の安定という制度趣旨を内包していたことの意味が、改めて検討されなければならない。この制度趣旨においては、子の人格・自我において親子関係のもつ意味の大きさが自覚されていた。「私とは何か」という自己認識の基礎には、親子関係がある。親子関係が人間の精神やアイデンティティにもたらす影響については、まだ未知の領域が大きいが、遺伝子が実際にどれほどその人間を規定するのかという問題はおくとしても、親子関係が自我の基礎になる認識であることは間違いない。それゆえに、子の出自を知る権利の保障がいわれるようにもなったのであろう。ドイツの親子法が1997年に改正されたのもこの権利の保障が契機となったものであったが、もちろんそのドイツにおいてもこの権利が絶対的なものとされているわけではない。親子法は、そのほかにもさまざまな法益が配慮されて組み立てられていて、単純な原理によるものではありえない。とりわけ強制認知のように法律上の親をもたない子が親を求める段階では、科学的鑑定は弊害をもたらさないが、すでに法律上の親をもつ子の親子関係を覆す場面では、慎重に考えなければならない。

知らされない権利

 出自を知る権利と同様に、子にとっては出自を知らされないでおく権利も守られるべききわめて重要な法益であることも、認識されなければならない。この観点からは、ただ法律上の親子関係を、それが血縁上の親子関係と不一致であっても、法的に覆せないものとして守る、というだけでは、当事者の保護には足りない。血縁上の親子関係を知らされることさえも、当事者にとっては取り返しのつかない侵害になりうる。血縁上の親子関係を燃える石炭のようなものとたとえ、扱いには細心の注意が必要であるといわれるフランスのように、そのことが周知されている社会では、生命倫理法によって、親子関係の鑑定は裁判所の命令による以外は原則として行いえないとされ、違反した医師らは刑事罰を受ける。親子関係の鑑定という場面ではなくもっと日常の治療のレベルでも、たとえば医師の実務における職業倫理として、血液型などの血縁上の親子関係を明らかにしかねない情報については、当事者にも明かさないように配慮される。日本社会では、そのような医師の職業倫理が確立しているとは到底いえない。

 なによりまず立法的な解決を迫られているのは、野放しに商業ベースで行われている親子鑑定を禁止して、鑑定を裁判所のコントロール下におく立法である。そして代理母や卵子提供の是非を定める立法と、それらの人工生殖を認める立法をする場合には、親子関係もより安定したものとする手当が必要であろう。従来、日本で行われてきた人工生殖は、婚姻した夫婦間で行われることになっていたので、民法の条文を適用することによって子の身分を守りやすい。なぜなら日本の民法は、非嫡出子と嫡出子の差別が肯定されていた古い時代のフランス法やドイツ法を参照して作られているので、嫡出子の保護には配慮が行き届いているからである。しかし非嫡出子については、認知無効の訴えに提訴権者や提訴期間の制限がないことにみられるように、嫡出子身分の保護との差別があり、親子関係を守りにくい。この差別は、フランス法やドイツ法の近時の立法のように、認知無効を制限する立法的な解決を待つしかないと思われる。


1985年にアメリカで起こった事件。代理母を募集する新聞広告に応募したメアリー・ベス・ホワイトヘッドは、不妊夫婦のために、人工授精で健康な子どもを出産した場合、1万ドルを報酬として受け取るという契約書にサインした。しかし、実際に妊娠・出産し、いったん子どもを引き渡した後に、子どもを連れ戻す。その子どもをめぐって不妊夫婦とホワイトヘッドとの間で裁判が行われた。


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