インターネットに掲示するにあたって

 法律婚と事実婚が、法律婚は夫婦同氏、事実婚は夫婦別氏であると並列的に論じられることがある。さらに、事実婚を選択することを妨げているのは、非嫡出子差別であると論じられ、民法の相続分差別規定が批判の対象となる。この文脈では、日本法と同様に相続分差別規定をもっていたフランス法も、2001年12月3日法によって非嫡出子の相続分差別を撤廃した事実が補強的事実として主張されることになるのだろう。またたしかに1996年2月26日法制審議会決定の民法改正要綱は、ただ非嫡出子の相続分を嫡出子と同等にすることだけを提案したものであった。

 しかしフランス法は、生存配偶者については、夫婦財産制の清算によって日本法の配偶者相続分にあたる財産はすでに保障されており、配偶者相続権はそれ以上の財産を得る権利である。しかも今回の相続法改正によって、配偶者の相続権は一挙に拡大された。配偶者の死後はその財産は嫡出子に相続されることになるが、それは問題とされない。つまり婚姻家族の財産的保護は、改正後はむしろ手厚いものとなっている。生存配偶者の居住財産を確保する特別規定もあり、現在の日本法のように、残された配偶者が居住家屋を処分して子の相続分を手当てする必要などは決して生じない。

 要するに日本家族法の最大の問題点は、相続分差別規定ではなくて、法律婚の保護があまりにも弱すぎることである。法律婚の効果が夫婦同氏と同義にとられてしまうような貧弱なものであることが、上記のような法律婚と事実婚の対比を引き起こすのであろう。家制度に対抗する戦後法学界の思潮が、日本国憲法を根拠として主張してきた自由と平等のとらえ方が、あまりに機械的なものであったために、夫婦間を他人間と同様の取り扱いにするベクトルとしてしか機能しなかった。しかし夫婦間の実質的平等を確保するためには、むしろ法律婚の保護こそが必要である。

 フランス法は、1999年11月15日法で、法律婚と事実婚の他にもうひとつの選択肢、PACSを立法した。ここに掲示する本稿は、PACSの解説を含むマゾー=ルヴヌール教授の「個人主義と家族」と題された講演記録に、筆者がつけた解説である。法律婚が手厚く守られるフランス法において事実婚やPACSが論じられる状況と、日本法の状況との差違が、日本の婚姻法改正にあたって、考えられるべき問題であろう。

2003年1月14日
水野紀子




カップルの選択
・・・・サビーヌ・マゾー=ルブヌール教授講演「個人主義と家族法」コメント

水野紀子(東北大学法学部教授)

 サビーヌ・マゾー=ルブヌール教授の講演は、「個人主義と家族法」と題されている。教授の提示する、「家族」と「個人主義」という二つの概念の実質的な対立は、あまりにも根本的な問題である。人は、一人では生きられず、群れをつくって生存する動物であり、とりわけ生まれるときにはあまりにも未熟な状態で出生するために、人となるように育てられなければ、人になることもできない。どのような形であれ、社会とその内部規律は、人類の発祥とともにあったといえよう。しかし社会は、不当に一部の人間を有利な地位におき、他の人々を抑圧して搾取する構造を創り出すものでもあり、「個人主義」は、そうした社会の抑圧から人々を解放し、人間の平等を追求するための、近代の生み出した最大の武器ではある。家族は、人間の群れの、つまり社会の最小単位であり、かつ子を育てるもっとも基本的な単位でもあるから、この二つの概念が深刻に衝突するところといえる。もっとも「個人主義と家族法」と題された教授の講演の内容は、この大きすぎる概念をそのまま対比するものではなく、もっぱらカップルの結びつき方を対象とするものであり、婚姻と民事連帯契約と同棲という、三種類の結びつきの比較からなるものである。具体的内容については、明晰で簡明な講演の記録とそのわかりやすい名文の翻訳に譲ることにするが、その三種類の結びつきのうち、民事連帯契約についてだけ、いくらか説明を補足しておきたい。

 フランスでは、1999年11月15日法によって、民事連帯契約(Le Pacte civil de solidarite = Le Pacs、パックス)が創設された。異性カップルのみならず、同性カップルも締結することができる、この民事連帯契約については、日本でも紹介されてはいるが、その正確な全体像の紹介や位置づけは、まだなされていないように思われる。この立法を推進した主要な契機はふたつあり、一つは、もちろん同性愛者たちの婚姻要求であり、もう一つは、フランス社会でもはや少数派ではなくなった婚姻外同棲者たちへの対処であった。これらは、もともとは別の契機であったが、民事連帯契約という立法によって同じ解決を与えられたことになる。立法にあたっては、賛否両論が激しく、冷静な議論というよりは感情的な取り上げられ方をされることのほうが多かったようである。これに対して、立法者は、たとえば親子関係については一切触れないこととするなど、民事連帯契約の法的効果を最小限の内容に制限することで、立法のための社会的コンセンサスを獲得したといえるだろう。婚姻は家族(famille)を形成するものであるが、民事連帯契約は家族(famille)を形成するものではない、という立法時になされた確認は、同性愛者のカップルが子をもてるかという「パンドラの箱」の議論にとりあえず封印をするものであった(なお、本稿では、厳密にfamilleの意味で「家族」という言葉を用いるものではない)。立法前の激論は収まったようであるが、民事連帯契約の内容はきわめて曖昧なものであるため、議論は終わっていない。その曖昧さは、一方で婚姻に似ているからと批判されると同時に、逆に婚姻の基本的な特徴を持っていないからと批判されるという矛盾した反応の議論を招いている。パクセとよばれる民事連帯契約締結者たち自身も、まだ自分たちの契約の意味を認識していないといわれる。最大の激論の対象であった同性愛者の問題については、この立法が同性カップルの公認に大きな門戸を開いたという成果がたしかに認められるものの、異性カップルにとっての意味はまだ定かではない。

 講演内容から推測すると、サビーヌ・マゾー=ルブヌール教授は、民事連帯契約に批判的であるようであるが、民法学者たちの間では、教授に限らず、批判傾向が強い。カップルを「公認する」こと以上の意味内容をほとんどもたず、法的効果の内容があまりにも乏しく漠然としていることが、民法学者たちのいわば本能的な(?)反発を招くようにみえる。しかし本稿では、これ以上この議論に踏み込まず、日本法の状況との対比を論じることにしたい。

 「個人主義と家族法」と題された講演が、家族の対象をカップル形成に限定して論じるという枠組み自体が、日本法との差を思わせる。日本法で、日本人が同じ題の講演をしたときに、どのような内容になるかを想像すると、おそらくこうはならないのではないか。日本法との相違を列挙すると、次のようになるだろう。まず第一に、「家族」がカップルに限定されることが、日本では必ずしも自明ではない。また第二に、教授の講演では、問題が、あくまでもカップルの「選択」によるものという前提が疑われてはいない。したがって議論の対立点は、その選択肢をどのように構成するか、つまり法が社会にとって望ましい家族モデルを樹立して提示するべきか否か、という点に収斂する。しかし日本では、婚姻と同棲が、カップルにとって平等な「選択」の対象となる社会基盤は、まだ存在していない。そして第三に、選択肢の内容そのものの相違である。順に論じよう。

 まず、家族の範囲をどのように設定するかということが、日本ではまず問題になるだろう(水野紀子「団体としての家族」ジュリスト1126号72頁以下(1998年)参照)。フランスのfamille概念も、広義には血族の範囲に大きく広がる概念であって、核家族を意味するものとは限らないが、同居すべき家族としてはもっぱら核家族が念頭におかれる。しかし日本では、同居すべき家族と考えるのは、子世帯が親世帯と同居する拡大家族であるのか、夫婦と未成熟子の形成する核家族であるのか、という議論が、まだ意味をもつものとしてなされるだろう。戦後の民法改正以降、前者の家族(わが国では「家」制度としてとらえられる)よりも、後者の嫡出家族を団体と考えるべきであるとする説が主流となっていったものの、前者の発想もまだ消滅したわけではない。人が生きていくためには、財と労働力が必要であり、家族は相互の間でそれを提供しあってお互いの生存を支えるが、家族間で提供される家事・介護・育児の労働力は、市場価値を持たないシャドウワークといわれる労働力であるため、資本主義社会が浸透するにつれてシャドウワークの担い手には大きな負荷がかかる。財の欠如へのセーフティネットは、生活保護法をはじめとして社会的に支え合うシステムがある程度整備されたが、シャドウワークの欠如へのセーフティネットについては、日本社会の整備は非常に遅れている。高齢化社会にむけて介護労働力の不足が問題になると、それを社会で供給するのではなく、家族や血縁者に求める圧力は強い。日本でも子世帯と独立した高齢者世帯の比率は増えているが、高齢者世帯の自立が難しくなったときに、子世帯が家族として復帰してシャドウワークを提供すべきであるという期待はまだ強く、そのときに「家」や「氏」がそのシャドウワークを義務づける「家族」の枠としてよみがえるのである。

 第二に、日本では、まだ婚姻と同棲が、カップルにとって平等な「選択」の対象となっているとは思われない。つまりカップル形成をするのであれば婚姻すべきであるという社会的圧力が、非常に強い。民法学界においても、「家」制度に対抗して、嫡出家族を民法が守るべき正当な家族であるとする立場は、長らく疑問をもたれなかった。もっとも、近時はこの立場への批判も生じているが、それは婚姻のもたらす法的な拘束に向けられるよりも、非嫡出子差別をもたらすものとして、婚姻制度そのものへの批判や疑問視に向かうことが多い。当事者たちも、婚姻の拘束が負担であれば、フランスのように同棲を選択するという方向には進まず、むしろカップル形成そのものを自粛するので、その結果、晩婚化や少子化が進行する。当事者の自由意思による選択と、それゆえにその選択の結果がもたらす義務が当事者を拘束できるという民法の構成が、議論の前提にされる状況ではない。そして「家」意識を肯定する立場から婚姻制度否定論の立場まで、極端に相違する立場が並立して現存するだけではなく、制度と社会的圧力の区別がなされず、現行民法や戸籍制度の理解においても必ずしも現行制度の意味内容について前提を共有しない多様な主張がなされることによって、議論はますます錯綜する。あえていえば、日本における自覚的な同棲者=事実婚当事者たちの主張は、フランスでかつて非合法な存在であった同性愛者が「公認」を求めて運動した頃の動きに対応する段階と重なって見えるように思われる。

 第三に、婚姻という制度そのものの内容の相違である。教授が描き出すフランス法の婚姻は、いかに実効的にカップルの生活を支える法的効果をもたらすかという点で、日本民法の婚姻と大きな差がある。子への効果と相続権(民事連帯契約からは相続権は生じない。もっとも所得は共有とされるから清算分はある。)を別にすれば、日本の婚姻法の法的効果は、むしろ曖昧で無内容であるといわれる民事連帯契約のそれにずっと近い。日本の婚姻が、婚姻の効果としてフランス法より強力な点は、身分証明書を意味する身分登録簿である戸籍に公示され、氏も強制的に変更されるという公示機能と、合意が成立しない場合の裁判離婚成立の困難さの、ほぼ二点だけである。日本法における裁判離婚成立の困難さは、離婚法のごく例外的な場面であり、しかもその離婚そのものにおいても歪な結論をもたらすものであって、婚姻を守るものとは言い難い(水野紀子「日本の離婚における法規制のあり方」ケース研究262号2頁以下(2000年)参照)。フランスの婚姻法が、夫婦にこれだけの重い法的拘束をもたらすものであると、それを嫌う当事者が同棲を選択するのも、理解できるようであるが、それは同時に夫婦となる選択をすれば、法によって実効的に守られることも意味している。フランスのカップルにとっては、民事連帯契約という選択肢が増えたことで、つまり婚姻より拘束の弱い類型を得たことで、問題は解決したのだろうか。それでも同棲にとどまる者は、すべての拘束や規範を嫌って完全な自由を追求することで満足するのだろうか。あるいは、将来には、他の規範を求めていくようになるのだろうか。フランス社会の外部にいる筆者には、とても予言できない。

 いずれにせよ、日本社会の現状が、このような議論の前提となる状況を共有していないことはたしかである。婚姻が直ちに氏の強制的変更という拘束をもたらすだけで、実際には家族内の弱者保護のために強者を拘束する法的効果はあてにできず、シャドウワークを義務づける習俗と社会の圧力のみを強く感じるとしたら、自力で生きていける日本の若い女性たちが、しばらくは「個人主義」を頼りにして「家族」形成を回避するのもやむをえないことなのかもしれない。


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