インターネットに掲示するにあたって

 以下の記録は、2001年3月16日に行われた、NIRA(総合研究開発機構)国際連合大学高等研究所の共催による国際シンポジウム「21世紀の日本のあり方」のなかの特別セッション「生命科学の発展と法−生命倫理法試案−」における私の発言記録である。この特別セッションの内容は、ディスカッションペーパーとしてNIRAによってまとめられており、市販はされていないが、公開されている。このセッションにおいて、私は、川井健教授を代表とするNIRAのプロジェクト「クローン技術等の生命科学の発展と法」がまとめた「生命倫理法試案」を対象として、コメンテーターをつとめた。インターネットへの掲示をご許可くださったNIRAに感謝する。

2001年6月15日
水野紀子




NIRA国際シンポジウム「21世紀日本のあり方」
特別セッション「生命科学の発展と法−生命倫理法試案」コメンテーター発言

水野紀子

ご紹介いただきました水野でございます。ではコメントを始めさせていただきます。

 たくさんの内容を盛り込んだ試案でございますが、私は専門が民法、特に家族法でございますので、コメントの対象を限定させていただきます。胚の扱いとか、あるいはクローニングなどの問題につきましては、光石先生のほうに譲りまして、私は専らドナーの配偶子を用いた生殖補助医療についてお話をさせていただきます。

 ドナーの配偶子を用いた生殖補助医療の可否、まずそのものについてはやり一言お話をさせていただこうと思います。この規制方針につきましては、世界的に非常に対立した規制方針が行われております。アメリカが一方の極でございまして、本当に自由にいろんなことがされております。それに対しまして、一番厳しく規制したのは恐らくドイツだと思います。また、フランスが認めつつも非常に限定して規制しております。

 アメリカ法の自由化、商業化というのは、ちょっと信じられないような状態になっております。アメリカ法を専門に勉強しております友人と、どうしてこういうことになっているのかという話をすることがありますが、やはりアメリカは、基本的には他人に損害を及ぼさない限り、何をしてもその人間の自由であるという原則が先行することになるようです。それで、いわば法の大規模な実験が行われるという傾向にあります。ほかの領域でもこの傾向はあるわけですが、その実験の結果を、アメリカ法は巨視的に見るとどう調整していくのかと聞きましたら、アメリカ法の調整の仕方は、1回やってみて揺れ戻しによって均衡を図るというのが伝統的な、巨視的に見た時のやり方だろうという意見でした。

 例として禁酒法で一旦全部禁酒してしまったらどうなるか。そうすると、その後、シカゴのアル・カポネのようなギャングが活躍するので、じゃあ緩めてみるというふうな形で、揺れ戻しによる均衡の図り方をするのだそうです。しかし、この問題につきましては、生まれてしまった子供は揺れ戻しで何とかなるという問題ではありませんので、一体どうするのかと私は思っております。

 つまり、口調でお分かりになると思いますが、私はアメリカの状態をとても危惧しておりまして、規制をすべきだというドイツ、フランス式のほうに共感を持っております。

 特に我が国の状況を考えてみますと、そもそもアメリカの前提になっております自由ですけれども、本当に不妊治療を受けない自由すら確立しているのだろうかという認識を持っております。子供を持たないということについて、不妊夫婦についての周囲の圧力は非常に重いものがあるようですし、また、本人が希望していたとしても、それは周囲の希望を内在化した意思であるかもしれません。

 不妊症の患者は子供を持つために不妊治療の大きな負荷がかかるわけです。子供を持つという利益、子供が欲しいという利益のための負担と比較すると、そうではなくて自分自身の体の病気、例えばがんのような場合、それを治してもらうために、どこまで負担をするのかという問題とは違う意味があります。自分は非常に健康なのだけれども、子供を持つためにどこまで負担を覚悟するのか。その意思決定というのは実は微妙なものがあると思います。子供を持ちたいという形で産婦人科の不妊治療の外来をくぐると、その負担がどこまでなのかということについての意思決定の機会保障を、いわば失う形で不妊治療に巻き込まれている実態があるのではないかと認識しております。

 つい先年、あるお医者さんが人工生殖について書いておられた論文の中で、AIDの評価について、妻にとってはいわれのない離婚に追いやられることもないので、不妊夫婦にとっては一大朗報であったに違いない、という表現を活字にしておられているのを読んで、驚いたのですが、このような感覚のお医者様がまだいらっしゃるということは、やはり現在の不妊治療、体外受精の現場についても、かなり危惧を持ってしまいます。

 お医者様によっては、この不妊治療の方針についても、随分バラバラの方針を取っておられるようで、さっさと体外受精をすべきだという方も、そうではなくてもうちょっと治療をゆっくりやってからという先生方もいらっしゃるので、それぞれ方針もいろいろ分かれているようです。

 ドナーの配偶子を用いた生殖補助医療に当たって、カウンセリングをかませることで、そのようなことをできるだけ防ぎ、ここでは恐らく当人の意思の確立にカウンセリングで援助しようというご提案だと理解しましたが、一体このカウンセリングがどのようなものになるのかということについては、やはり見えないだけに非常に危惧をしております。これだけ価値観がさまざまに分かれていて、医療現場のお医者様たちの評価も随分分かれている時に、一体カウンセリングをやるカウンセラーは何をするのか。カウンセラーの価値観の押しつけになるのではないかという危惧を私は持ちます。

 だれの立場に立ってこの問題を考えるかということですが、石井先生はリプロダクティブ・ライツというふうに言われましたけれども、フランスの本を読みますと、子供を産むというのは非常に強い望みではあるけれども、どんなに強い望みであったとしても、これは権利の名には値しないのだと書いている学者、例えばカルボニエですけれども、私はそちらのほうに共感いたします。

 ついつい子供が欲しいという患者の願いは強い願いですから、そしてそれにこたえることができる技術を持っているお医者様は、できればこたえたいと思われるのが臨床の立場としては自然だと思いますけれども、それが先行しているのではないかと危惧をしております。私はできるだけその子の立場に立って考えたいと思います。

 その子にとりましては、ドナーの配偶子を用いた生殖補助医療によって生まれた子というのは、自分の遺伝的な親が自分が生まれる前に自分を捨てたという存在です。そういう子供を医師が関与して人工的につくり出してしまうということの是非をもう一度じっくり考えるべきではないか。これは、既に生まれてしまった子とはまるで違う問題だと考えます。

 レジュメに、「自己のアイデンティティーの基礎を構成する親の認識」というふうに書きましたけれども、「私とは何か」「自分は一体何者であるのか」という自己認識の基礎には、親子関係というものが存在します。「自分は誰の子供である」ということは非常に大きな自己認識の基礎になります。

 親子関係が、人間の精神や自分のアイデンティティーにもたらす影響につきましては、まだまだ未知の領域が多うございますので、断定的なことは申し上げられませんが、フランスのコロックの記録を読んでおりました時に──それは人工生殖に関するものではなくて、従来の親子法についての議論でしたが──そこで紹介されていたエピソードを印象深く読みました。

 それは、パリとアメリカの大学でポストを持っている有名な経済学者についてのエピソードでした。彼はフランスでユダヤ人の両親に育てられましたけれども、幼いころから英語に特異な才能を見せました。自分の英語能力について、彼は、「英語はいわば僕の母語(マザータング)のようなものですから」と説明していたのだそうです。彼はユダヤ人の両親から、自分たちは養親である、あなたはアメリカ人の兵士を父としてフランスの女学生が生んだ子供だ、と説明されていたからです。しかし、彼は本当はフランス人兵士とスペイン女性との間の子供であったわけです。

 遺伝子が実際にどれほどその人間を規定するのかという問題は置くとしましても、ことほどさように、親子関係というのは自我の基礎になる認識であると思います。だからこそ、子供のルーツを知る権利の保障が言われるようになったのでしょう。

 自己の出自を知る権利は、条約にも書かれましたし、有名な権利ですけれども、ドイツやフランスの文献を読んでおりますと、フランス人などは、アングロサクソン流の権利だということで、いささか悪口を言っている。あくまでも従来のフランスの親子法の中に、この権利をどう組み込むのかということを考えなくてはならない、という形で議論をしております。

 ドイツ人は、自己の出自を知らされない権利も大事だという言い方をするようです。

 アメリカ法は権利と権利を闘わせるという形で議論をするようですが、アメリカにおいて自己の出自を知る権利が強く言われるようになったのは、日本と違って、自分が養子であることは認識していても、自分の出自がさっぱり分からなくなってしまうという状況に置かれている養子たちがたくさんいるからです。出自を公開する戸籍制度の、日本の常識とは異なる身分証書の世界で形づくられてきた権利ですので、慎重に考えなければならないだろうと思います。

 ドイツの親子法は1997年に改正されましたけれども、これも、この権利の保障が契機となったものでした。もちろん、ドイツにおいてもこの権利が絶対的なものとされているわけではありません。親子法は、そのほかにもさまざまな法益が配慮されて組み立てられておりますので、単純な原理によるものではあり得ません。そして、ルーツを知る権利と同様に、子供にとっては「ルーツを知らされないでおく権利」も、守られるべき極めて重要な法益であることを認識しなければならないだろうと思います。

 このことが周知されている社会では、私はフランス法が一番詳しいので紹介させて頂きますが、例えば医師の実務における職業倫理として、血液型などの血縁上の親子関係を明らかにしかねない情報については、当事者にも明かさないという習慣になっているようです。

 日本社会では、そのような医師の職業倫理が確立しているとはとても言えません。知人の裁判官から教えてもらった日本の事件ですが、ある女子高生が盲腸の手術を受けた機会に、医師が、血液型からその父親の子ではあり得ないということをその両親と本人に伝えてしまいました。父親はそれまで自分の子だと信じて育てていたのですが、ショックを受けまして、その後、親子関係の不存在を主張しまして、妻に離婚を要求する事態に至りました。

 妻はその要求を受け入れたようでございますが、それまで夢にもそのようなことを思っていなかった高校生のお嬢さんはあまりにも気の毒だった、目も当てられないような状況だったと、その裁判官は教えてくれました。あまりにも無防備でナイーブな血縁信仰が、その危険性を自覚することなくこの日本社会には共有されているような気がいたします。

 今度のNIRAの報告書案の前に、厚生省の報告書案が有力なものとして決定されておりますけれども、厚生省の報告書案を、私は随分危惧を持って読みました。これには最初に幾つか「基本的考え方」として列挙されていたのですが、この基本的考え方にも内部矛盾はあるわけです。

 「書かれざる『基本的考え方』」というレジュメに書いた表現は、実は東大の民法学者の友人の表現です。彼は、厚生省案には「書かれていない基本的考え方があるよね」と言っておりました。つまり「生殖医療を円滑に実施する」という、書かれざる基本的考え方があると彼は評価していましたけれども、私もそのように思いながら読みました。

 今度ご提示になりましたNIRAの案は、厚生省の報告書案よりははるかに共感を持って拝読しました。例えば、胚を創設しないという点とか、二親等内の禁止ということで、周囲の圧力による卵子提供がかなり限定されるだろうと思います。しかし、私見によれば、これでも広すぎる。私は、もっと限定的な、ドイツ法ぐらいの水準でいいのではないかと考えております。

 時間をとってしまいましたが、実はここまでは前座でございます。結局は意見の違いということになってしまうのかもしれませんので、意見の違いを言い立てるのではなくて、どのような立場をとっても問題になる、親子関係の規制についてコメントさせていただきたいと思います。

 レジュメのUに入りますが、ドナーの配偶子を用いた生殖補助医療による出生子の法律上の地位です。厚生省の報告書案にしましても、今回のNIRAの案を拝読しても──石井先生のご報告を伺いますと、いろいろ慎重に考えられた上であることは分かるのですが、私の読んだ感じではこのように見えます。

 つまり、これまでの自然生殖による実親子関係はすべて血縁によって決定されるのである。分からなければ遺伝子鑑定をすればよい。ただ人工生殖の場合に限って、遺伝子鑑定によって分かる血縁では親子関係は決まらないので、人工生殖の子供の親子関係は別に定めると考えているような印象を受けます。もともと民法の実親子関係法はそのようなものでは全くありません。血縁関係で決まるものではないのです。

 それから、親子関係の決定についての紛争の視野です。親子関係の決定について、胚の段階で誰にするのか、あるいは、せいぜい出生後間もなくの子供の奪い合いの紛争しか視野に入っていないような印象を受けます。法律上の親子関係というのは、それよりもはるかに長く長く続くもので、出生後何十年もたってから相続争いの場面で争われるということは裁判の現場では頻繁にございます。

 法律上の親子関係というのは、血縁の存在という事実のほかに、その子の親であろうというその親の意思であるとか、あるいは、親子としての生活をし続けたことの年月の重みなどを考慮して決定する、非常に複雑な法益調整の体系です。例えば、嫡出推定というのは、現在の民法典の条文だけを前提にしますと、嫡出推定ではなくて、嫡出確定に近い厳しい制度です。夫だけが生後1年間だけしか異議を申し立てられないことになっております。

 どうしてこのような厳しい制度であったのかというと、これは、夫の子ではない子が夫の子にされることを前提にしているからです。それは、夫は結婚によって妻の産む子を育てる義務を負うからである、結婚というものには夫のそういう意思が含まれていると考えられている制度だからです。嫡出推定という制度は、父子関係が分からない時代だったからそうなっているのではありません。現在でも西欧諸国でこの制度が維持されているのは、血縁関係が分からなかったから推定規定を置いた、というものではないからです。

 ただ、血縁上の実親子関係と異なる法律上の実親子関係を定めるものが民法なのだという考え方は、日本人にはなかなか分からないところでございました。日本の民法典は西欧法をもらって立法されておりますので、親子関係につきましては、父子関係は嫡出推定によって生じ、それを否定するのは嫡出否認による。非嫡出父子関係のみならず、非嫡出母子関係もですが、認知によって生じ、それを否定するには認知無効による、という手続きになっております。

 民法は、成立した親子関係について、それを覆す時の手段として認知無効と嫡出否認を設けております。このころは、モデルにした民法典が嫡出子と非嫡出子の差別の厳しい時代でしたので、厳し過ぎる嫡出否認と緩やか過ぎる認知無効という時代の条文ですので、現在の民法典もそうなっております。

 改正ドイツ法、できたてのドイツ法などは、嫡出否認と認知無効のどちらも同じ要件に改正しております。

 このような民法典でございますが、実親子関係は血縁で決まるのだ、また、戸籍に嘘を書いてはいけないという日本人の感覚が通説化いたしまして、先ほど石井先生がご紹介なさいましたように、下級審や学説は血縁主義のほうに傾きまして、民法典の規定を骨抜きにして空洞化してまいりました。判例も大きく影響を受けております。

 それから、自由な出生届を受けつけないという戸籍実務も影響しております。私はこれに批判的なのですけれども、離婚が遅れてしまった時には、本人たちは出生届の段階で夫の子として届け出たくないにもかかわらず、夫の子として届け出なければならないという戸籍実務も影響いたしまして、家事審判法の23条審判によって、大幅にこの民法典の規定と異なる親子関係の成立が自由になされることになっております。

 ただ、最近の最高裁の判決がこの法律上の実親子関係の空洞化傾向に歯止めをかけました。最高裁の平成10年8月31日と12年3月14日の判決をレジュメに書きました。先ほど、石井先生は並列的に紹介されましたけれども、最高裁は、下級審が血縁主義の方向に傾いていたのに対して、明らかにその傾向を変更する判決を下しております。これは、従来の日本人の感覚に基づいた空洞化傾向に反対するという学説が最近強くなってきて、それを受ける形であろうと私は考えておりますので、下級審の傾向は、最近の最高裁の判決によって大きく影響を受けて覆っていくのではないでしょうか。

 2つのケースはどちらも、離婚後の夫からの親子関係存在確認請求の事件でしたけれども、鑑定をしましたら、間違いなく夫の子ではないと思われるケースでございました。AIDによって生まれた子供について、この判例がかぶるといたしますと、ほとんど身分は守られることになるのではないかと思います。

 出生子は、夫婦の嫡出子としてまず出生届出されますので、争いの状況を考えてみますと、子供自身が自分が人工生殖によって生まれたことを知らされずに育つと思われます。今までのAIDの子供についても、圧倒的多数がそうであろうと思います。

 この争いが、一体、いつ、どういう形で生じるかということを考えてみますと、相続争いの段階で申し立てられる親子関係不存在確認訴訟というのは数多くございます。例えば、AIDの子供、あるいは人工生殖によって生まれた子供のいとこが、その親子関係を否定すると、自分が相続できることになります。いとこが自分の親から、あの子は本当はあの両親の子供ではないのだという事実だけを聞かされていたとして、それを根拠に相続権を奪おうとするとどうなるでしょうか。もし遺伝子鑑定をすると、確かに他人ということになるわけです。人工生殖を受けた結果だということは、その子には分からないことになります。その子は一体どう自衛すればいいのでしょうか。

 今は行われておりませんが、卵子提供を受けた年老いた産みの母が、自分が産んだ事実はあるわけですけれども、夫の不倫の子を育てただけで、自分の子ではないのだといって、その子と年取ってから不仲になって、自分の血縁者に相続させたいという時に、そのような主張をして鑑定を主張することも考えられるわけです。

 出産したという事実の立証よりも、遺伝子鑑定のほうが、立証という意味でははるかに楽になってしまいます。そのような場合を考えてまいりますと、一体誰が、何を立証して、どういう形で誰に親子関係を争わせるのかということを考えていくと、遺伝子鑑定そのものの危険性に思い至るわけでございます。

 フランスの刑法は遺伝子鑑定を厳しく禁止しております。血液型鑑定よりも親子関係のより精密な特定が可能である遺伝子鑑定は、非常に規制が必要で、フランスの生命倫理法は、ここに挙げました刑法で厳しく禁じております。レジュメには書きませんでしたが、民法にも鑑定を禁止する条文があります。遺伝子情報はその個人のプライバシー中のプライバシーで、親といえども自由に接近することは許さない立場に立っております。この伝統は、嫡出推定制度によって守られている嫡出子のうちに夫の子ではない子供が含まれていることを、当然であると考えてきた伝統が、その子の地位を守るために、このような規制を直ちに可能にしたのだろうと思います。

 しかし、日本には商業ベースで遺伝子鑑定を行うアメリカの営利会社が上陸しています。非常にニーズがあるようでございまして、営業成績を伸ばして儲けているようです。

 私は実はアメリカ法はあまり詳しくないのですが、アメリカ法は、親子関係確定の法的意義について、日本法や大陸法とは大きく異なっております。日本法やヨーロッパ大陸法は、親子関係の存否によって一元的に相続権も扶養義務も決定される構成になっておりますけれども、アメリカ法はこういうふうにはなっておりません。血縁関係のないことが明瞭な妻の連れ子に、離婚後も夫の扶養義務を認める判例をアメリカ法で読んだことがあります。そういうふうに、誰が子供の扶養をするのかということだけが重要とされるために、こういう営利会社の存在もそれなりに社会の中で均衡がとれるのかもしれませんけれども、グローバルスタンダードたり得るものとは到底評価できないだろうと思います。

 わが国で何より早急に立法する必要があるのは、民法の親子関係規定の整備よりも、こういう私的な鑑定を禁止する法律だと私は考えておりまして、一刻の猶予を争う事態になっていると思います。

 民法の親子関係法は、訴訟要件──誰が、何年まで、どのような状況で訴えることができるのかということが主な内容でございまして、それ自身がまさに法律上の親子関係の内容を構成しております。

 「燃える石炭の火」と書きましたのは、フランス人が実親子関係法の議論をする時に、「血縁は燃える石炭の火である」という言い方をよくしますので、それを利用した表現です。石炭の火のようにとても危険な存在なので、安易に触れてはいけないという意味です。法律上の親子関係は血縁で決まるのだという考え方は、血縁上の親子と異なる法律上の親子関係という制度の存在意義を理解せず、その不一致を受容できない、日本人的なナイーブな発想から生まれてきた解釈であったように思います。

 血縁上の親子関係がたやすく判断できるようになったからこそ、法律上の親子関係という制度で、子供の法益を守る役割がますます重要になると思われますし、西欧諸国においても、鑑定技術の発展にもかかわらず、民法の親子関係は法が決定するものだということにされております。

 特に人工生殖との関係では、民法の実親子関係が、安定的な子の成長と子の身分の安定という制度趣旨を内包していたことの意味が、改めて検討される必要がありますし、フランスの関係法の整備などを見ておりましても、もともと血縁と異なる子を守りうる実親子関係法になっていますので、母子関係などは、従来の実親子関係法の母子関係の規定のほうに全部委ねることで大丈夫だという仕組みになっております。

 ついついフランス法を引用して申し訳ございませんが、実親子関係法の判例まで多く読んでおりますのは、フランス法なものですから……。親のいない子に、親になる意思を持たない親を見つけてやる場合だけ、言い換えますと、逃げている父親に強制認知する時だけ裁判所は鑑定に依存しますけれども、既に成立している親子関係を争う場合には、たとえ結論は親子関係を否定するという場合でも、フランスの裁判所は鑑定しようといたしません。それはやってはいけないという非常に謙抑的な傾向でございます。裁判所だけは刑法に触れずに鑑定できるのですが、それでもなかなかやろうとはしません。

 ともかく鑑定して親子関係を決めてしまう、逆に、これは人工生殖だったということを反証として挙げさせて親子関係を守るという枠組みでは(そんな乱暴なことでは)、子供の精神の事実上の安全、身分の安全を守ることはできないだろうと思います。

 そこで、法律上の親子関係と異なる「出自を知る権利」というのが、今度のNIRAの案にも入っておりますけれども、出自を知る権利の扱いは私自身も結論は出ておりません。ドイツの親子法が1997年に改正されたのも、出自を知る権利の保障が契機となったものです。石井先生がご紹介されましたように、連邦憲法裁判所がこれを認めて、それまで非常に限定的だった嫡出否認の要件を緩めるべきだという判決をしたことが契機になっております。

 その時に、憲法裁判所は、親子関係に影響しない情報収集権をその子に認めてやれないか、ということを判決の中で示唆しておりました。結局、ドイツの立法府はこれを受けて親子法を改正しましたけれども、親子法外でこのような権利を認めることは無理だという結論に達しました。そして、嫡出否認の要件を緩めることで──全面的に緩めたわけではございませんが、ある程度緩めることで、この判決に対応することにしたわけです。

 ルーツを知らされない権利を守ることが大事で、法律上の親子関係を守ることがまさに肝要ですので、そちらのほうをまず考える必要があるだろうと思います。出自を知る権利の主張というのは、一体親子法をどのようにしろという主張なのか、その辺はよく分からないのですが、ドイツの議論などを見ておりますと、親子法の体系の中で、出自を知る権利をある程度入れて整合化していくのが限界なのではないかと思います。

 ただ、今回のご提案の中で、そういう権利が及ばない、そういう立法が及ぶ前にとりあえずドナーの情報を確実に確保して、その子本人の福祉のためにその情報を与えざるを得ない、将来の状況に備える必要は、私も共感するところでございます。現在はそういうことをしておくしかないのかなという気がいたします。

 AIDの開始は、国民的な議論もなくてなし崩しに始まってしまいましたし、なし崩しに始まってこれだけ子供が生まれてしまいますと、もはや生まれてしまった子の人権問題になりますので、議論の仕方が制約されてまいります。なし崩しに始まってしまったAIDは近親婚の危険も当初顧みられず、一人のドナーから多くの子供を誕生させてしまいましたり、あるいは、子供の知る権利も配慮されずに行われてしまいました。

 今さら過去を悔やんでもしようがないわけですけれども、精子のドナーが許されてどうして卵子のドナーが許されないのかという議論の仕方がございます。先ほど我妻先生がおっしゃいましたように、そもそもドナーにかかる負荷が大きく違うことのほかに、妻が夫以外の男の子を産むことは自然状態でも生じ得るわけです。つまり子の立場から見たときに、無責任に精子を産み捨てる男は自然状態でいるけれども、卵子を産み捨てる女はいなかったわけで、それを人工的に女も産み捨てができるようにすることが、平等とは思われません。

 でも、卵子のドナーによる人工生殖はそれとは全く違います。お医者様が関与して人工的につくるわけです。生まれてくる子供の自我、その人の福祉というものを最大に考慮しなければならない問題だと思います。そういう意味ではもっと慎重な国民的な議論が必要で、AIDの場合のようなことにはならないように、議論の末の立法が必要であろうと考えております。

 ありがとうございました。長くなって申し訳ございませんでした。


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