インターネットに掲示するにあたって

 本稿を執筆したのは、半年前のことであるが、人工生殖立法の進行は、現在も当時と同様のペンディング状態にある。アメリカに渡って人工生殖施術を受けた有名人の例や夫の死後の人工授精の裁判がマスコミにとりあげられ、マスコミの論調は、生まれた子の福祉を前面に出して、規制緩和を求めるものが圧倒的である。あらゆる技術を使って子を求める「親」希望者の「権利」と自己決定は、わかりやすい論理であり、さらにすでに出生した子の存在とその福祉を求める要請は、あまりにも圧倒的で誰も否定できない迫力をもつ。それに比して、これから人工生殖で創り出される子の福祉や将来の人生の重さは、考えるのに想像力を必要とするため、マスコミの議論にはのりにくいようである。

 人工生殖立法はどうなるのだろうか。自由が抑圧された日本社会に対する、本来はアンチテーゼの議論であるはずの自己決定と自由の論理が、産まない自由が本当には確立していない日本社会で、女性の産む権利の主張として現れるパラドックスがある。その産む権利の主張は、女性の性的自己決定すら認めないような、少子化を憂える保守的で頑迷な勢力の論理と、人工生殖に対する規制反対において、くしくも一致してしまう。少子化対策の一助となるというような乱暴で短絡的な政治的判断と、自己決定と自由の論理が競合脱線して、人工生殖を幅広く認める立法がなされることを強く危惧するものである。

 人工生殖立法が立法過程にあることを考慮して、刊行日と同時に本稿をインターネットに掲示することをご了解下さった信山社に感謝する。

2004年3月18日
水野紀子




人工生殖における民法と子どもの権利

水野紀子

一、生命倫理における法の論じられ方

 医療水準の急速な発展に伴って、臓器移植・脳死・遺伝子治療・人工生殖等の是非と限界について、生命倫理領域の難問は多岐にわたり、また続々と発生する。これらの問題を扱う論文は、法学の立場からのみならず、哲学・倫理学・社会学・フェミニズムなどの立場まで、百花繚乱の議論状況である。外国の議論状況はもちろんのこと、日本語文献ですら、その全体像を視野に入れることは、たやすくない。

 このような議論の状況については、当然のことながら日本だけに限られない。フランスの生命倫理法をめぐる議論は、1994年の生命倫理法の立法以前から質量ともに大部の紹介業績がすでにある*1が、生命倫理法立法後も、議論の量は減じていない。たとえば、季刊民法雑誌(Revue trimestrielle de droit civil)は、フランス民法学の代表的な定期刊行物であるが、生命倫理領域の論文が占める量が多くなっている。2002年の春号に掲載されたGerard Memeteauの「季刊民法雑誌における医事法の展開La presentation du droit medical dans la RTD civ.」と題された論文は、最初の書き出しを「季刊民法雑誌は医事法の、そして副次的に生命倫理の雑誌であるのか?La Revue trimestrielle de droit civil est-elle une revue de droit medical et, par accessoire, de bioethique ? 」という疑問文で始めている*2。あまりにも急速に進む医療技術は、従来の規範が前提としていた諸事実を覆すものであり、しかも人間存在の根底にかかわる問題であるため、早急な規制が必要なことはいうまでもないから、これに関する論文が多く書かれるのは当然のことなのであろう。1994年に、比較的短期間に立案されたにもかかわらず包括的で内容豊かな生命倫理法によって、すばやく立法的な対応をしたフランス法であっても、それで問題が解決したわけではなく、法学界をあげての議論が続いている。

 ひるがえって日本の議論状況を眺めると、とりわけ法学における議論の蓄積が足りないように思われる。そして生命倫理という領域は、アメリカの議論の影響が強い。そもそも生命倫理という言葉そのものもアメリカで作り出された概念であり、日本にもアメリカの生命倫理をめぐる議論は早くから詳しく紹介されてきた。前述したようにフランス法の紹介も行われていたとはいえ、相対的に多量なアメリカ文献の翻訳業績は、この領域における議論を主導してきた観がある*3。そして私がわずかに管見したフランス法の議論と比較すると、紹介されるアメリカ法の議論は、一貫して自由と自己決定が至上の地位を保障される前提のもとで、それを制約する倫理が論じられるときも、法的な体系化の努力と無縁のまま、種々の倫理や政策的配慮が相互矛盾をむきだしにして論じられるように見える*4。医療の進展によって生じた未知の領域の問題だからといって、これまで人間社会の調和をはかってきた法的な思考の蓄積が役に立たないことはないはずであるのに、従来の法体系に知恵を求めることはあまりなされない。自己決定という概念を絶対視することには限界がある。人間は自分を取り巻く社会に考えさせられるように考えるのだから、厳密な意味での自己決定とははなはだ危ういものであり、自己決定をどこまでも追い求めていくことは、ときとしてタマネギの皮むきのような虚しい努力になりはしまいか。また、自由の伝統をもつアメリカ社会と異なり、女性の地位が低く共同体の抑圧も大きい日本社会においては、自由と自己決定の尊重は、もちろん今後とも強調されるべき価値ではあるが、その反面、自己決定が万能の口実となることの危険性も大きいように思われる*5。たとえば経済的にも肉体的にも負担の大きい不妊治療を受け続け、ドナーとの生殖医療によっても子を持つことを求める日本人女性の自己決定は、はたして産まない自由を真に保障された上での自己決定だろうか。

 前記の季刊民法雑誌の同じ号には、民法学の大家、Francois Terreの「法律家も気の毒に!Pitie pour les juristes !」と題した論文が収録されている*6。この論文は、Monique Canto-Sperberの近著『道徳的不安と人間の生命L'inquietude morale et la vie humaine,』PUF2001を批判したもので、とりわけこの本が倫理と社会学と法を分断して分析した点を論難するものである。法は多様で豊かな内容をもつ存在であって、「法から法の内容である価値を奪って、法を損なってはならない。これらの価値のかかえる還元できないアンビバレンスを考えれば、これらの価値こそ、法に調和を保つように強いているものである。その調和とは、知の要求するもので満たされた豊かなあらゆる内容と、自由との共存という調和である」*7のだから、とTerreは言う。フランス法における議論の仕方の主流は、このTerreの表現に象徴されるもののように私には思われる。すなわち自由や自己決定を尊重してそれと調和をはかる規制を作り上げることは当然のことではあるが、それを絶対視するものではなく、また法が従来成し遂げてきた諸利益・諸価値の調和を前提として、これまでの法を参照し、法体系に整合的に、新たな規制を考える姿勢である。そして人間の諸利益調整の基本法として、民法は、絶えず参照され、議論と規制の基礎となる。1994年法の基本的理念は、民法の改正として、法体系に組み込まれた。人体の尊厳と不可侵性を格調高くうたいあげたフランス民法16条以下の原則的な規定が民法の位置づけを象徴する。

 このような民法のとらえ方は、日本においても、民法学者の間では、おそらくある程度の合意が得られるように思う。判例に現れた新しい課題を、従来の法体系のなかにいかに組み込むかという、民法学者が日々行っている解釈の仕事は、まさにそういうもの、つまりこれまでの諸利益・諸価値の調和を達成している法を参照し、法体系に整合的に、新たな規制を考える作業であるからである。総論としても、たとえば、近時刊行された原島重義著『法的判断とは何か』*8は、このような存在としての民法の貴重さを描き出した名著のように、私には思われる*9。この意味において、従来、わが国の民法学においては、概念法学の積極的な意味が十分には共有されてこなかったように思われてならない。悪口としての概念法学は了解されていても、概念法学が意味する貴重な内容が、十分には消化されていなかったのではあるまいか。概念法学と対立して主張された自由法論がわが国に受容されたときに、「逆説が逆説として作用せず、アンチテーゼがテーゼとして受け取られ愛玩される」*10(丸山真男)、おきまりのパターンをたどったのかもしれない。ましてこの場合には、広範な裁量権を有する裁判官が上位の第三者として大岡裁きをするという土着の裁判意識にも合致するものだった。

 しかしかつてリストが「法学が体系的であるためには実用的であらねばならず、真に実用的たらんとするためには体系的たるように努めねばならない」といったように、「社会の中に生起する多様な事実からさまざまな法概念が抽象される。概念は彫琢され、相互に法命題の形で結び付けられ、複数の法命題は上下関係をつけられ、整序され、やがて網羅的で完結した体系へと組み立てられていく。そして、こうしたまぎれもなく『概念法学』的な装置が完成度を高めれば高めるほどに、社会の中に生じてくる数限りない事実に対して適切な対応ができるようになる」(海老原明夫「リストの刑法学方法論」*11)。法は、事実とのフィードバックを通じて不断に変容するが、同時に総体としての同一性も一貫して保つ、いわば複雑系の存在である。あたかも人間存在そのものがそうであるように。

 Philippe Jestazが「美しき法Le beau droit」という論文で描いた法の美学も、このような法学の姿の考察であるように思われる*12。構成の芸・技術として、伝達の芸・技術として、法の美しさが必要とされる。法の科学と法技術とが合流するときに、構成の美しさがもたらされ、知を伝える独特の調和のとれた様式が生まれる。もちろんあまりに耽美的になりすぎると弊害も生じるけれど、たとえば概念法学が硬直化しすぎて現実と整合しなくなることも起こりうるけれども、良き法は、やはり同時に美しい。

 家族法の領域では、このような民法のとらえ方から議論がなされることは、財産法におけるよりも少なかった。ひとつの理由としては、従来の家族法学が、「家」制度との対決に追われたため、諸価値の調整をはかる法体系としてよりも、直接的な世界観や哲学の対決の場面として機能しがちであったことがあげられるだろう。現在でも、たとえば内縁準婚理論をめぐる議論は、民法の解釈論としてよりも、事実婚に対する価値評価やリベラリズムに対する態度として論じられるために、議論がかみ合わないきらいがある*13。しかし本来、家族法も、アンビバレントな諸価値を内包しつつ、自由との両立を図る、調和の体系であったはずである。親子法の体系もそのようなものであったのなら、新たな医療技術の進展によって生じた人工生殖による親子関係法の立法にあたっても、従来の民法の枠組みが議論の前提として活用されるのが自然であろう。フランスの立法は、そのように行われたが、日本における議論では、民法の枠組みにそった発想はあまりみられないように思われる。それどころかむしろ、民法典の制度趣旨を理解しないまま立法される特別法が、その弊害の意味を自覚せずに、民法典の意義を変更して損ねてしまうことが危惧されている*14

二、人工生殖の規制

 人工生殖については、本稿執筆現在、立法の最終段階に入っている。厚生労働省の管轄する厚生科学審議会生殖補助医療部会が行為規制法の立案を報告書にまとめ、親子関係法を立法する任に当たる法務省が法制審議会生殖補助医療関連親子法制部会において立案作業中である*15。この間の議論において、私は、生存配偶者間の不妊治療を越えて、ドナーによる卵子や胚の提供を認めるべきではないとする立場をとってきた*16。またドナーを介さない夫の死後の人工生殖にも反対である。人間は肉体的にも精神的にも壊れやすい存在であり、とりわけ子を育てる環境は、子の心理的・物質的安定をできるだけ確保しなくてはいけない。人工生殖は、すでに生まれた子の処遇を考える問題ではなく、親のために医療という第三者が関与して子を創作する問題なのであるから、もっとも考えなければならないのは、不妊治療に通う患者の希望ではなく、生まれてくる子の福祉であると考えるからである。しかしこのように子の福祉だけを根拠に論じると、議論の争点はあまりに単純化された不毛なものになってしまう危険がある。

 たとえば、人工生殖の規制問題について、最新の論考、渕史彦「生殖補助医療と『子の福祉』」*17は、次のようなはぎれのいい文章で、人工生殖に消極的な立場に対して批判的な検討をしている*18。その所論は、明晰ではあるが、アメリカ法の発想の影響を受けた、ある種の典型的な議論であるように思われる。しかし十分に説得力のある検討として反対説と議論がかみ合っているかというと疑問である。その論旨を追ってみよう。

 「そもそも生殖補助医療の施術対象を限定する理由として『子の福祉』を持ち出すこと自体が不当ないし少なくとも不用意ではないだろうか。・・・不妊症に悩む事実婚カップルの中には、簡単には法律婚に移行できない事情をかかえたカップルも少なくない。そうしたカップルに対して『子の福祉の観点から』生殖補助医療を受けてはならないと宣告するのは、当該カップルが生殖補助医療を受けたならば生まれてくるであろう子について『むしろ生まれてこない方がその子のためである』と評価していることにほかならないのである。そのような考え方は個人の尊重の原理(憲法13条)に反し、容認しがたい」、と。ここには、自然に出生した子の命が、どのような境遇にあれ−非嫡出子として生まれようと、あるいは障害をもって生まれようと−、あらゆる差別を受けずに等しく尊重されるべきであるという誰にも否定できないテーゼと、医師が関与して親の希望で子の命を創る人工生殖の是非の問題をあえて混同した議論がある。子にとって出生とはいつでもいわばこの世への強引な拉致であるけれども、生きている両親が自分たちの生殖子によって新しい命を創りだすことが、その拉致を正当化するのに必要な条件ではないのだろうか。人工生殖は、病気の治療を越えた医師の関与による生命の創造であり、それは親の意思や希望だけでは、正当化されえない。

 また「『子の福祉』は本来、ちょうど不動産所有権の二重譲渡における『登記の先後』と同じように、法的地位の優先劣後を決定するための基準・ものさしにすぎず、それ自体は法的権利ではない。また『子の福祉』を優先するということが当然に他者の権利の否定を意味するわけでもない」という叙述は、人工生殖を受ける親の「権利」を所与の前提としているように読めるが、そもそもそれがはたして「権利」といえるかが、ここで問われている問題なのである。

 最後に、「生殖補助医療の行為規制を考える上で『子の福祉』を最優先するということは、子をめぐる既存の法律関係や、関係者の有する法的諸利益を分析しなくてよいということでは決してない。今後は生殖補助医療をめぐる法律関係の分析をさらに進め、それに基づいて個々の行為規制の趣旨・原理・射程を考えていく必要がある」という結語は、そのとおりだとしても、どのように法的諸利益を分析するかが問題である。既存の法律関係の制度趣旨は簡単に判明するものとは限らず(時効制度の制度趣旨をめぐって、どれほどの研究と議論がなされたことか)、かといっていきなり諸利益をぶつけてよいとは思われない。たとえば事実婚のカップルに認めない理由を父子関係の不安定性だけによるものとし、「要するに、法律婚の場合も事実婚の場合も、父子関係を安定させるための立法的手当が必要かつ可能であるという点において条件は同じなのであり、法律上の夫婦に対しては第三者の精子提供による生殖補助医療をを受けることを認めながら、事実婚カップルに対して父子関係の不安定性を理由にそれを認めないというのは、筋が通らない」とする論旨は、父子関係の安定性以外の要素が理由である可能性が考慮されていない。実際に事実婚カップルに認めているフランス法も、その事実婚カップルの2年以上の安定性を要求する点で、子を育てる両親の環境の安定性が考慮されている一要素であることがわかる。子の心理的・物質的安定のために、安定的な家族が必要であることが、おそらく最大の理由なのではないだろうか。したがって日本より事実婚カップルが社会的に安定した存在となっているフランス社会での事実婚カップルと、安定的な関係を期しているカップルがほとんど圧倒的に法律婚カップルである日本での事実婚カップルを同列に考えられるかという判断も入ってくるだろう。

 人工生殖の規制は、優生主義や商業主義をコントロールをするだけではなく、将来の予測不可能な不幸に備えなければいけない。アメリカ法の規制は、極端な方針を実験的に採用して失敗すると揺れ戻しをすることによってバランスをとることが多いが、この問題には不適切である。禁酒法の実験はありえても、新しい命が生まれ出る人工生殖には、実験は許されない。多くの利害や法益の調整をとった民法の枠組みを利用して、その知恵を前提に新しい事態に対応することが、まだ間違いの比較的少ない方法であると思われる。

 実際にフランス法における議論では、既存の民法の親子法が絶えず参照される*19。とくに人工生殖を認める場合の設計は、完全養子縁組と類似して議論される。たとえば子は両親を持つ資格を有し、そのことの要請は、親が子を持つ要求よりも優位にある、というように。胚の受け入れは一種の養子縁組(preadoption)と位置づけられ、裁判官は受け入れの条件を審査して認める決定をする。親希望者は、永続的に親となる確固とした意思をもち、継続的で安定的なカップルでなければならないとされる。人工生殖を受けることへの同意についても、民法の親子関係についての意思と対比して、議論される。同意については、同様に要式行為である認知と対比され、同意の撤回については、養子縁組の同意の撤回についての民法348条の3と対比される。そして生殖子提供者との関係については、子の受胎前にあらかじめなされる遺棄として、民法341条の1の匿名出産や完全養子縁組の前提となる遺棄と対比して論じられる*20。匿名出産は、もともとは子殺しを防ぐ目的で伝統となっていた制度であるが、1993年に民法に立法化されるにあたっては、養親希望者たちの「ロビー活動」の成果と説明されるほどであり*21、生まれた子に家族を与える養子縁組と親になる要求に応える人工生殖とは本来の目的がまったく異なるとはいえ、両者の位置はそれほど離れてはいない。

 このように既存の法制度と対比することで、そこで生じていた問題や論じられてきた難点を、人工生殖においてもパラレルに考えることができる。完全養子縁組において基礎とされてきた、子が両親をもつ法益は親が子を持つ要求より優位にあるという従来の考え方*22は、単身者の人工生殖や夫の死後の人工授精を禁じる根拠となる。民法の体系は、子の福祉を重視しつつも、親のプライバシー権や親の意思などの諸利益を同時に配慮して、それらの諸法益の調整をつけてきた体系であるから、それらの対立する諸法益の調整を白紙から論じるよりも、民法に依拠した議論をしたほうが、はるかに安定性をもった議論ができると思われる。

 実親子関係ですら思春期には親子の人間関係の困難をかかえるものであり、養子縁組には養親のよほどの覚悟とそれを乗り越えられる資質が要求される。しかも通常の養子縁組はすでに出生し存在する子のための制度であるが、人工生殖はこれから生まれる子のための制度設計である。フランス法は胚の受け入れを許容したが、日本も認めるべきだろうか。胚の受け入れには、キリスト教文化のもとで、受精の瞬間に生命が誕生するという観念の支配が感じられる。宗教やイデオロギーの面で、ニュートラルな日本社会や日本文化には、このような観念の呪縛はない。生命倫理に関する社会的な合意形成にあたっては、より柔軟な判断が可能である。私は日本においては、両親と血のつながらない胚の受け入れは、許容すべきではないと考える。いずれにせよ、その合意形成が速やかに行われないと、自由の名の下に、親の希望を叶えるために長期的な視野を欠いた人工生殖が行われることが危惧される。不妊患者の診療に当たる医師は、患者の強い希望に左右されがちであろうが、いわば超長期的予後の問題を考えなくてはならない。日本だけで規制しても、人工生殖の可能な外国で目的を達するであろうから、規制の意味がないという主張があるが、世界のどこか他国で違法にならなければ自国で規制する意味がないという主張は、理由にならないだろう*23

 行為規制の問題ばかりではなく、親子関係の法的規制についても、難題がある。人工生殖によって親となった者たちは、もちろん実の親子とすることを望むから、最初にその身分を与えるのは簡単である。むしろ人工生殖によって生まれた子であることを記録することの方がはるかに難しい。両親はおそらくできる限りその事実を隠蔽しようとするはずであるから、仮に医療機関が両親と子の特定を正確に把握してその記録を残すことができたとしても(両親は可能であれば医療機関すら欺罔して、偽名で施術を受けようとするだろう)、身分登録機関を含む第三者が人工生殖の事実を把握することは至難である。そして人工生殖によって生まれた子であることは秘匿されているから、それが争われたときには、どのように子の身分を守るかが問題になる。両親が人工生殖の事実を明らかにしない限り、裁判官にはそれはわからないから、両親が一致して子の身分を覆そうとしたら、鑑定は親子関係がないことを示すために、子の身分は危うくなってしまう。両親が離婚したとたんに、母と夫とが一致して偽造された父子関係を覆したいと望む「理由はそれこそ何千もある」(Francoise Dekeuwer-Defossez)のであり、血縁関係を封印できて子の身分が揺るがないのは、法律上の関係が現実の愛情関係と一致しているあいだだけなので、フランスの立法者はこの不安定さを避けようとできるだけ努力してきた*24

 しかし、フランス法は実親子法自体に血縁と異なる親子関係が一定の割合で含まれることを前提としながら、身分占有などの技術を駆使して、血縁と異なってもその親子関係を守ることができる条文構造になっている。生命倫理法は、人工生殖の場合の親子関係について、ドナーと子との間にはいかなる親子関係を認めることも許されないとする民法311条の19と人工生殖に同意した者が親子関係を争うことを禁じる311条の20を立法したが、これらの条文が働く場合はごく限定されている。それでも立法論的には、批判もある*25。この条文を根拠にフランス法も日本のような血縁主義をとると理解してはならない*26。フランス法は従来の親子法で人工生殖の親子関係を守ることができるのであり、人工生殖子の法的な身分を守ることができるのは、本来それに依るしかないのである。親子関係が争われるときは、出生当初にあった愛情の関係が失われて法的な関係と不一致を来した場合であり、法が子の身分を守らなくてはならないのは、まさにその不一致が生じた段階である。しかし鑑定によって血縁関係がないことを立証する容易さと人工生殖の事実を立証することの至難とは、比較にならない。人工生殖の事実を裁判所が知ることは難しいし、かりに問い合わせればわかるような完全な記録を作り上げようとしても、完全を期した戸籍制度がそれ故に虚偽出生届によるわらの上からの養子の慣行を形成して、成人してから身分を奪われる子の悲劇を生んだように、同様の脱法行為が繰り返されるだろう。さらに子は自分の法律上の身分を守るためには、人工生殖子であることを明らかにして戦わざるをえないが、人工生殖によって生まれた子であるという事実を知らされてしまう子の被害も無視できない。

 制度設計に当たっては、そもそも身分の登録・開示システムにおいて、西欧諸外国と日本には非常に大きな差があることを、考慮に入れなくてはならない。戸籍制度は、身分の公開について、身分証書とは、基本的に大きな差がある。非嫡出子の相続分差別や続柄記載について、わが国でこれほどに当事者の被差別感が強いのは、戸籍制度の存在に大きな理由があるだろう。まず制度的なアクセスの容易さの違いである。個人の出生地と出生場所の情報を入手してその場所に保管された出生証書にアクセスしなくてはならない身分証書の国と、住所さえ判明すれば住民票は戸籍と職権で連絡記載がされているから、ただちに戸籍情報にアクセスできる日本では、アクセスの困難さの違いが大きい。次に実子や養子の身分記載についても、記載方法がまったく異なっている。非嫡出子の出生について、日本では実母の戸籍に必ず記載することを要求するが、フランスでは、子の出生証書に自然子の父母の名を記載しなくてもよい。子の出生状況は、両親の私生活に属するものとされ、プライバシーが尊重されるからである。

 養子法においても、彼我の差は大きい。日本法の養子縁組は、特別養子縁組でさえ、実親との関係を戸籍上に明示するものであって、西欧諸外国法の完全養子縁組とは大きく異なる。フランスの完全養子縁組では、もとの出生証書は無効とされ、判決謄本にも実親の記載はされない。つまり完全養子縁組では、養親は、その子の出生の事実を本人に告げるかどうかの自由を有する。自分が完全養子であることを知った子が児童社会援助局に問い合わせして、実親が秘密厳守を要求していなかったら、情報を入手できる。日本の特別養子縁組では、その子が特別養子であることは、戸籍上から一目瞭然であるから、法律上の両親にそのような自由はなく、子に限らず、除籍情報にアクセスできる者であれば、誰でも実親を知ることができる。日本の特別養子制度は、子のプライバシー権について配慮を欠いた、問題の多い立法であった*27

 従来の日本の親子法は、血縁に基づく親子と養子縁組による親子とに二分類し、その間を峻別し、実親子関係を争うことを極力可能にするとともに、もしその結果、衡平上、親子関係を認める必要がある場合には、それを養子縁組に擬制して、親子関係の効力を認めようとする単純で画一的な発想が強固であった。人工生殖の議論においても、その発想は依然として多くの議論に見られる*28。そのほうが単純でわかりやすい議論であるということもあるのだろう。しかしその議論の基礎にあるのは、親子の対立する法益を調整して必要な場合に子の身分を守る民法の知恵を継受しきれなかった限界と、すべての血縁関係を戸籍上に掲示させて国家管理しようとする明治政府以来の強力な管理の発想である。

 結局、この戸籍制度が体現してきた管理の発想とその制度的意味を悟れず抵抗しきれないまま血縁主義に流れてきた民法学が、日本の実親子関係法をいびつにしてきたのだろう。戸籍では母の戸籍に付属する形でしか出生届が受けつけられず、母が婚姻していると(婚姻解消後300日間を含む)、夫の子としての出生届しか受けつけられず(婚姻初期200日間を除く)、夫ではない真の父の認知届も受けつけられない。すなわち出生の段階で当事者の希望する真実を表す出生届ができない。フランス法は、嫡出推定を崩す際に、これらの自由な出生届や認知届によって嫡出推定の効力を奪うことを可能にしてきたが、わが国では事実上の離婚が先行した「死んだ婚姻」から生まれた子すら、一律に夫の子としてしか受けつけられない。戸籍の届出の段階では当事者の意思を排除した硬直なシステムを構築しながら、いざそれが争われると、生物学的真実と異なる記載を誰でもいつでも覆せるものとして民法は空洞化され、そこでも極端な実務が行われてきた。私は民法の実親子法は存在しないかのような従来の血縁主義的解釈を批判する立場に立つが、立法論としてはともかく、このような戸籍実務を前提とした民法の解釈論には限界があることはたしかである。当面は、当事者の合意による家事審判法23条審判を活用して崩すべきところは崩すとともに、親子関係を守りたいとする当事者がいるときは嫡出推定条文解釈論の外観説の限りで法的な親子関係を維持して、立法的根拠なく無制限に広げられてきた親子関係存否確認訴訟に提訴当事者や生活実態や権利濫用という面から解釈論的制限を施し、子のプライバシー中のプライバシーである血縁鑑定は厳に慎む、という解釈でしのぐしかないであろう。

 フランス法においては、すでに完全養子制度において、実親子関係は封印されており、出自を知る権利は認められてこなかった。親子関係の争い方においても、子の身分を不当に奪うことがないように、諸利益を考慮して複雑に規定されていた。子の身分の設計においても開示についても、慎重に配慮されてきた。人工生殖による親子関係を立法するにあたって、わが国が今直面しているような難しさがなかったのは、その「美しき法」の存在という前提があったからでもある。

 人工生殖にかかわる諸法益の調整を、それらの対立をむき出しで議論するのではなく、既存の民法体系に照らして設計しようとしても、つまるところ、わが国の実親子法がそれに値する存在ではなかった、つまり「美しき法」といえるほどの法益調整の機能をもつものでなかったという問題に戻ってくる。財産法におけるような継受法の努力が、家族法には足りなかったのだろう。しかし最高裁はまだ最近の判例でも、外観説を崩さずに、血縁主義には踏み切っていない*29。今後の実親子法の展開を考えると、民法の実親子法そのものを「美しき法」に作り上げていく可能性は十分ある。しかし人工生殖立法を機会に、逆の方向に進んでしまう危険も強い。たとえば嫡出推定制度が親子関係不存在確認訴訟によって空洞化してきた現状を前提に、血縁関係のない子でも人工生殖子の場合には人工生殖を利用した者を親とするという定義規定を置くことは、解釈上、人工生殖に依らない子は血縁によって親子関係が成立するという血縁主義的解釈を、立法的にも決定的にしてしまうおそれがある。日本法は、出生時に母をサポートすることもなく、結果として生じた脱法行為の被害者であるわらの上からの養子の相続権を不当に奪ってきた。その子たちのうちには、ときには実の親をさがすすべもない子もいたであろう。人工生殖子の登録を頼りにする立法は、同じ歴史を繰り返す可能性がある。遺伝的に誰の子であるかという情報は、子の人生のもっとも中核にあるプライバシーである。実親子法は、それに極力触れることなく、子の身分を設計しなくてはならない。他のすべての子が守れる枠組みと共通の枠組みで、はじめて、人工生殖子の身分を本当に守ることができるだろう。

 人工生殖立法はどうなるのだろうか。生まれた子の人生の重さを十分に配慮した立法になるのだろうか。それとも逆に、たとえば少子化対策の一助となるというような乱暴で短絡的な政治的判断と、自己決定と自由の論理が競合脱線して、人工生殖を幅広く認める立法がなされるのだろうか。自由が抑圧された日本社会に対する、本来はアンチテーゼの議論であるはずの自己決定と自由の論理が、結論においては、保守的で頑迷な勢力の論理と、一致してしまうことが、家族法においては少なくない*30。今回も、その一例となるのだろうか。

三、子どもの権利

 最後にふたたび渕論文に戻って、「子の福祉」について考えてみたい。「子の福祉」や「子どもの権利」という概念が、それ自体としては誰にも否定できない価値や正義を意味するために、その言葉を用いることが、思考停止を招き、建設的な議論を封じてしまう傾向があるという問題意識は、私も共有する。しかし前述したように、渕論文は、人工生殖に対する親の「権利」を所与の前提として論じており、「子の福祉」自体は権利ではないために権利に劣後するものとされる。つまりこの枠組みではまだ生まれてこない子の「権利」は、主体がないために当然のことながら無視される。

 アメリカ法の枠組みでは、「権利」になると、強力な力を持つ。そして法的な議論は、権利同士の調整になるように思われる。生まれた子の権利は「権利」として強力に主張される。児童の権利条約は、このようなアングロサクソン流の議論が先導して締結された条約であった。

 Alain Finkielkrautは、児童の権利条約にフランスが批准するに当たって、次のように議論していた。「現実と条約のずれには、なにか胸の悪くなるものがある。そこには、同時に二つの無視がある。ひとつは現実の悲惨を天使のように無視することである。つまり、非難するわけではなく、なんの効果も持たないことを知りながら、敬虔な意図で覆ってしまう。もう一つの無視は、法の無視である。法は、権力に限界を画し、欲望に限界を画することを目的とする。法とは、限界の表明である。ここでは、法を限界として考えるかわりに、欲望を現実と考えることを《法=権利droit》と呼んでいると考えられる。言い換えると、現実の原則によって欲望や感情に画されたすべての制限をなくしてしまうことである」*31、と。そしてこのAlain Finkielkrautの危惧は、子どもの権利を論じる場合に、共感を持って引用される*32

 しかしもちろん児童の権利条約は、フランス法にも大きな影響を及ぼしている。たとえば最近の立法でも、児童の保護者(Defenseur des enfants) の設置に関する二〇〇〇年三月六日の法律第一九六号が、共和国斡旋員の特別バージョンとして児童の保護者を創設したのは、この条約の影響を否定できない*33。しかしこの制度を見ても、フランス法の子どもを守る法的な体系はすでに整っており、児童の保護者という新設の制度がその保護の体系を覆すものではないことがわかる。児童の保護者はいわゆるオンブズマンであるが、司法の育成扶助に対しては非介入原則がとられ、県行政の社会扶助について県議会長への通知権限が児童の保護者に認められているにすぎない。要するに、既存の法制度において、それぞれの場面で子どもの保護について考えて実質的に保障する制度ができているのであり、それを前提としたオンブズマン制度である。

 ひるがえってわが国の態勢を見ると、離婚法においても*34、親権行使においても、公権力が介入して子どもの保護をはかる実効的な制度が不十分である。日本民法の親権法は、フランス法を参考に立法されたのに、育成扶助としてその後発展してきたフランス法の成果が取り入れられることもなく、児童虐待から子を有効に救うことも長らくできなかった。親権をいくら権利ではなく義務であると解釈しても、それだけでは子を有効に保護することはできない。国家権力との関係では、子を育てる権利はあくまでも親にあり(その意味で、親権は基本的に権利であり続けると私は考える)、ただしその権利は子の健全な育成という目的のためだけに認められるのだから、親がその権利を濫用していたら、子を救うべく公的な介入が必要となる。そして法は、その調節を行う。すなわち親が子を虐待するなどの親権濫用をしたときには親権を制限して介入し、かつ国家が親権を過度に侵害しないようにその介入を制限する。ここで必要なのは、親の権利と介入する国家権力との調整であり、法はここで双方の限界を画する役割を果たす。必要とされるのは実際的で実効的で困難な調整であり、なんらかの権利や原則を至上のものとして唱えることではない。

 離婚の場面においても、両親間の子の奪い合いがもたらす紛争は児童虐待に近い事態を招来するが、ここでも自力救済を防いで両親が協力して子育てができるように*35、また経済力のない当事者への養育費が確実に履行されるように、公権力の介入が必要である。しかしわが国の状況は、それにはほど遠いまま推移してきた。この場面で必要なことは、それらの基本的な保護を整備することであって、子の奪い合いの場面で子どもの意見表明権を適用して子に親を選ばせるようなことではない。Alain Finkielkrautは、子どもの意見表明権という概念を離婚事件に適用して、子どもに両親のどちらかを選ばせることを「残虐なソロモンの裁きcet atroce jugement de Salomon」と喩えて非難する。「絶対的に恐ろしく、大衆迎合の欺瞞的ですさまじい、両親の競りdes surencheres absolument terribles entre les parents, de formidables surencheres demagogiques」が現実化してしまうと表現する*36。このような残酷な選択は、ハーグ子奪取条約の実務でも極力避けるようである*37

 フランス人が法の無視を危惧する「子どもの権利」の主張も、アメリカ社会においては、人工生殖の問題をのぞけば、親のプライバシー権や自己決定権がきわめて強力に働く対抗原理として機能するから、それなりの安全弁があるのだろう。また児童虐待やDVへの対応についても、アメリカ社会は費用を投下して実行に移す機動性と実際性をもっているように思われる。実際には自由も自己決定も抑圧され、法の機能や整備もまだ不十分で国民のものとなっていない日本社会でこそ、単純な言葉によるスローガンの危険性がもっとも高いのかもしれない。児童虐待や児童による犯罪が報道されるたびに、マスコミの集中砲火が行われ、時代錯誤の厳罰化が政治家の口から語られて喝采を浴びる。村社会の規範意識が、共同体の崩壊したのちも、幻想として維持されるときに、もっとも人権が脅かされる。しかしその悲劇に対抗するものとして、たとえ善意からであっても、単純な権利を主張することは、ときとして逆にスケープゴートを血祭りに上げるだけで、本当の解決にはならない。

 小熊英二『「民主」と「愛国」』が描き出している戦時中の日本の姿の描写、崇高な理念が表面的に賛美されていたのと裏腹に、内実においては物欲、名誉欲、虚栄心が跋扈して、虚偽と無責任が国を覆った悲劇の描写は、圧倒的である*38。野田良之博士がポルタリス『民法典序論』を訳して、「砂上楼閣でない基礎工事が一歩でも進められ<人類の革命>が少しでも現実となってくれれば良い」と書いたのは、そのような時代の直後であった*39。戦後日本社会は、それに代わる「公」と「私」の関係を築き上げることができたのだろうか。戦前の我が国の悲劇的様相をもたらし、それを有効に是正することもできなかった文化が、いまだにわが国には残っているように思われる。スローガンではなく、明確な規範の集積がもたらす調整と安定こそが必要である。その基礎になるのは、紛争を宿命とする人類がそれを解決するための英知を蓄積してきた民法のような法規範を、真に国民のものにすることだろう*40


*1初期の代表的な業績である大村敦志「フランスにおける人工生殖論議」法協109巻4号(1992年)をはじめ、フランスの人工生殖についての紹介業績は、少なくない。ここでは、とりあえずマロリ・ビュゲ=コルディエ、箱井崇史・杉原丈史・馬場圭太訳「フランス家族法および相続法における現代生殖医療」公証法学26号(1997年)、松川正毅「フランスにおける人工生殖の実施基準」潮見佳男他編『民法学の軌跡と展望』(日本評論社、2002年)だけをあげておく。

*2RTDciv.Avril/Juin 2002 p.253.

*3H.T.エンゲルハートほか著・加藤尚武・飯田亘之編『バイオエシックスの基礎』(東海大学出版会、1988年)、ディヴィッド・ロスマン著・酒井忠昭監訳『医療倫理の夜明け』(昭文社、2000年)、グレゴリー・E・ペンス著・宮坂道夫・長岡成夫訳『医療倫理1』『同・2』(みすず書房、2000年)など、翻訳書も多い。民法学者によるアメリカ法についての業績としては、吉田邦彦「アメリカ法における『所有権法の理論』と代理母問題」『民法解釈と揺れ動く所有権論』(有斐閣、2000年)(初出は、星野古稀『日本民法学の形成と課題・下』(有斐閣、1996年)、山畠=五十嵐=藪古稀『民法学と比較法学の諸相T』(信山社、1996年)を特筆すべきだろう。吉田論文の紹介によると、アメリカではきらびやかな理論がめくるめくように論じられているが、はたして法に収束するのだろうか。
 2003年1月23日にパリ第12大学で行われたPhilippe Jestazの法の認識論についてのコンフェランスに出席する機会を得た。その報告内容は、活字になっているものを発見できずにいるが、アメリカ法に対する批判が興味深かった。彼によると、法学者は科学者でもなく文学者でもない、相対的真実を追究する存在であり、法学は、理論的体系的な説明可能性を追求し、現実に適用する科学であるという。理論的でありかつ実際的であることが法学のダイナミズムをうむ。しかしアメリカ法学は、経済学や社会学を多用するけれど、法理論というよりも、むしろ文学である、とアメリカ法学の特殊性を批判する。吉田論文に描かれたアメリカ法学の現状には、この批判が当たっているように思われる。
 なお、法学文献ではないが、地球規模の資本主義の嵐が環境と人間にもたらしている弊害を描くミシェル・ボー『大反転する世界』(藤原書店、2002年)も、フランス人がアメリカの論理と哲学に対して抱く危惧を端的に表す書として、注目される。

*4同様の指摘をする論者も多い。わが国の議論が、1960年代以降米国で優勢になった、オートノミーを過度に強調する自由の概念を無批判に受容していること等を批判する、秋葉悦子「出生前の人の尊厳と生きる権利−母体保護法改正に向けての提言−」ホセ・ヨンパルト古稀『人間の尊厳と現代法理論』(成文堂、2000年)、「とくに遺伝子研究・遺伝子治療の在り方で、日本がアメリカばかりをモデルにしていていいのだろうか」とする中村雄二郎「遺伝子研究・遺伝子治療の問題点」加藤一郎他編『遺伝子をめぐる諸問題』(日本評論社、1996年)など。

*5老人介護問題でも、自己決定の概念は危険である。当初、周囲から要請される義務感や肉親の情で、老親を引き取ることを決断した扶養義務者は、やがてとほうもない介護労働負担を負うことになる。それが自己決定で正当化されるだろうか。わが国の扶養法の従来の議論は、望まない者に強制できないということと、自分で望んでする分には問題はないということとでは、一致していて、そこから思考が発展していないように思われる。両親に無条件に対価なく義務づけてよい子の養育とは異なり、老親の介護の場合には、介護労働の対価をどのように保障するかという観点から、従来の私的扶養法の議論を整理する必要がある。水野紀子「『相続させる』旨の遺言の功罪」久貴忠彦編集代表『遺言と遺留分・第1巻遺言』日本評論社(2001年)を参照。

*6Francois Terre, 'Pitie pour les juristes ! ', RTDciv.Avril/Juin 2002 p.247 et suiv.

*7Francois Terre, op.cit., p249.

*8原島重義『法的判断とは何か』(創文社、2002年)。

*9原島重義教授の学説の位置づけについて、たとえば笹倉秀夫『法哲学講義』(東京大学出版会、2002年)158頁以下のように、自己決定権を推進させる立場とそうでない立場に二分し、原島教授を山本敬三教授らとひとくくりにして前者の立場に置き、後者に対置する理解には、疑問を感じる。原島教授の学説は、たしかに利益考量論を便宜主義と批判して体系を重視する立場ではあるが、自己決定に帰着させる立場というよりは、民法にはるかに豊かな内容をもたせているように、私には思われる。

*10丸山真男『日本の思想』(岩波新書、1961年)17頁。

*11海老原明夫「リストの刑法学方法論」西川洋一他編『罪と罰の法文化史』(東京大学出版会、1995年)238頁。この論文は、リストの刑法学を論じつつ、概念法学の積極的な意味を確認する。本文に引用したリストの発言も同227頁による。

*12Philippe Jestaz, 'Le beau droit', Arch.phil.droit 40 (1995), pp.14-24.

*13内縁準婚理論に否定的な立場をとる私の見解(水野紀子「事実婚の法的保護」石川稔・中川淳・米倉明編『家族法改正への課題』(日本加除出版、1993年)、同「団体としての家族」ジュリスト1126号(1998年) 参照)に、近時、家族法学者のみならず、憲法学者や法哲学者からも批判が加えられている。野崎綾子「正義論における家族の位置」国家学会雑誌113巻11=12号(2000年)80頁、安念潤司「『人間の尊厳』と家族のあり方−『契約的家族観』再論」ジュリスト1222号23頁(2002年)など。それぞれの専門によって用語が異なり、専門外領域への私の蓄積や理解能力が乏しいこともあって、これらの批判を十分に理解できているかどうか心許ないが、どうも議論がかみあっておらず、ねじれの位置ですれ違っているように思われる。自由主義の立場からする安念教授の批判についていえば、むしろ内縁準婚理論はあらゆる自由主義の立場と衝突する内容をもち、「そもそも、不平等あるいは非対称な関係を内包した婚姻関係でもよいと考える当事者(つまりは女性)がいるとすれば、そうした当事者が取り結ぶ結婚契約に、なぜ政府が介入しなければならないのであろうか」(安念・前掲28頁)という主張は、内縁準婚理論に反対する私の立場とこそ整合的である。
 もちろん家族法・家族像の変化とそれに民法がどこまで対応すべきかという議論は、西欧社会でもさかんに、むしろ厳格なキリスト教文化のもとでの西欧民法であったから日本におけるよりもある意味では強力に、論じられている。また婚姻観や家族観のような基本的な価値観にかかわる問題については、それぞれの主張は、客観的な記述を志したとしても、各自のかかえる傾向によってニュアンスの異なりがどうしても現れるであろうから、そのニュアンスをとらえた批判はありうるであろう。しかし少なくとも内縁準婚理論批判についていえば、私の主張は、もっと基本的なごく単純な論理のものである。婚姻家族のみを正統化して離婚を制限し非嫡出子を差別していたかつての西欧法は、次第に変容して法律婚と事実婚の中立化を採用するにいたった。内縁準婚理論の立場をとる者は、この西欧法の変容の経緯を論拠にあげるが、疑問である。私はこのような動きを否定するものではなく、またそれに対して批判的な立場をとるものでもない。なぜなら内縁準婚理論は、法律婚と事実婚の中立化と同意義ではないからである。
 法がどのような家族を守るべきかという判断は、どのように守れるかという国家に可能な手段の判断と密接に結びついている。婚姻という民法に用意された枠組みに入ることを選んだカップルには、婚姻の効果を強制してその関係を守ることができるが、それを拒絶した事実婚カップルには、その間にできた子への民法上の責任を問うことで、関与するしかない。いいかえれば、法律婚夫婦は婚姻の瞬間から民法上の「家族」となるが、事実婚夫婦は子の誕生によって「家族」となるともいえるだろう。事実婚の「契約」という構成についても、民法の観点からは慎重に考えなくてはならない。いくら事実婚を契約と構成しても、財産を共有とするような財産的合意についてはともかく、その契約に基づいて裁判所が同居義務や貞操義務などの婚姻と同様の債務履行を強制するわけにはいかず、契約としてどこまで有効と評価できるかは微妙である。しかし民法上のこのような位置づけは、法律婚と事実婚に価値的序列をつけることと、同意義ではない。すなわち、内縁準婚理論の是非は、法律婚と事実婚を同価値に評価するかどうかという問題そのものではない。法律婚と事実婚を価値的に同等であると評価することは、論理的には、内縁準婚理論を採ることに直結しない。なぜなら内縁準婚理論は、法律婚を望まなかった当事者に、裁判所が、すなわち国家権力が、法律婚の効果を強制する理論だからである。裁判所も国家権力のひとつにほかならない。
 内縁準婚理論は、事実婚配偶者に民法の法律婚の法的効果を準用して適用するという、西欧諸外国に類を見ない解釈論である。中川善之助教授の提唱にかかるこの理論は、リベラリズムとはおよそ対極にある、中川教授の中にあったある種の儒教的国家観とでもいうべき発想、中国文化圏にあるわが国の文化的遺伝子ともいえる発想がもたらしたもののように思われる。婚姻成立の基礎には婚姻意思があるが、婚姻意思を重視しない伝統をもつ中国文化圏では、「事実上の婚姻関係存在確認訴訟」によって一方当事者に法律上の婚姻を強制する韓国法や、売買婚や略奪婚による婚姻成立も認める中国法などがあり、内縁準婚理論は、それらの法理とむしろ親近性をもつものであって、個人の意思による自律と自由、国家権力の法による制限を原則とする、西欧近代法とは相容れない。私は、少なくとも、そのような国家権力の干渉を拒絶したいと考える程度には、リベラリストである。そしてこのような文化的遺伝子に規定されるところの多いわが国独特の家族法学を、近代民法の家族法学に脱皮させたいという問題意識をもっている。私の主張する内縁準婚理論否定説の眼目は、実はそこにある。
 日本とフランスの状況の対比について、水野紀子「カップルの選択」ジュリスト1205号(2001年)参照。

*14大村敦志「生殖補助医療と家族法−立法準備作業の現場をふまえて」ジュリスト1243号(2003年)は、民法典の制度趣旨からこの問題について論じる数少ない貴重な論文である。「本稿が述べた見方が唯一の見方というわけではない」と断りつつ、「何が問題なのかを的確に認識する必要があるという認識自体についての理解が得られれば、本稿の目的は達成されたことになる」との結語には、フランスとは民法学の地位が異なるわが国での代表的民法学者の苦渋がしのばれる。Pitie pour Monsieur le professeur Omura !

*152002年度の私法学会においても、人工生殖をテーマにシンポジウムが行われ、シンポジウム資料はNBL742号・743号(2002年)に公表されている。

*16水野紀子「人工生殖と家族と法」神奈川大学評論32号(1999年)、同 「人工生殖子の家族法上の身分−出自を知る権利はあるか−」産婦人科の世界2000春季増刊号・Bioethics医学の進歩と医の倫理(2000年)、同 「不妊症治療に関連した親子関係の法律」ペリネイタルケア2001年新春増刊号(2001年)、NIRA国際シンポジウム「21世紀日本のあり方」特別セッション「生命科学の発展と法−生命倫理法試案」におけるコメンテーター発言・総合開発研究機構(NIRA)編『「生命倫理法試案」に関するシンポジウム議事録』(2001年) などがあるが、どれも短いものでまとまった論文ではない。

*17渕史彦「生殖補助医療と『子の福祉』」ジュリスト1247号126頁(2003年)。

*18棚村政行「生殖補助医療をめぐる契約と同意」NBL742号28頁(2002年)もカウンセリングや十分な情報提供と証明責任を果たすことで、配偶子提供契約を正当化できるとする立場に立つ。しかしここでのカウンセリングの内容は、どのようなものになるのか、ブラックボックスである。カウンセラーは、子の将来の人生の重さを説明するのだろうか。この種の「契約」は、意思決定によって正当化できない無効な契約であると私は考える。

*19これらの議論のされ方は、たとえばビュゲ=コルディエ・前掲注(1)などのフランス法紹介にもあきらかである。

*20ただし、Dominique Youf, Penser les droits de l'enfant, Questions d'ethique,PUF,2002,p.91は、子の出自を知る権利との関係で、この両者を対比した上で、遺棄と生殖子提供者との地位は異なっている、とする。子の懐胎を可能にするための好意による提供とすでに生まれた子の遺棄は別物だから、提供者の匿名権は正当な利益である、出自を知る権利という正当な利益と、どちらも正当な利益同士が衝突する場面だから難しい、と述べる。Dominique Youfは次注に引用するように、出自を知る権利に好意的で、従来のフランス法に批判的な立場をとる論者であるが、提供者の匿名権については、慎重な態度であるのが注目される。

*21Dominique Youf, op.cit.,p.67.匿名出産をめぐっては、子の出自を知る権利を根拠にした国際的な圧力や国内での成人した養子からの要求などが強くなって、現在のフランスでは立法論的な廃止論が論じられている。コンセイユ・デタは、「血縁上の親は、個人の自由の名において、私生活のもっとも基礎的な要素のひとつ、つまり自己の父性や母性を黙秘することを尊重される権利を持つ」として現行法を正当化している。国連児童の権利委員会のフランス代表(M.Fonrojet)は、個人の自由、とくに父性や母性を黙秘する私生活の権利を根拠に、匿名出産を正当化した。結局、子どもの権利も他人、つまり大人の権利に優越するわけではない、というわけである。Dominique Youf, op.cit.,pp.68-69.しかしこのような議論の前提状況が、日本法とはまったく異なっていることに注意しなければならない。日本の戸籍の出生届は、母の戸籍に入籍する形式で行われるが、この制度を作った明治政府の見解は、「婦女ニ戒愼ノ心ヲ生セシメ以テ弊源ヲ防カレン」という、ふしだらな女性に制裁を加える意図であったのだから。水野紀子「親子関係存否確認訴訟の生成と戸籍訂正(二)」名大法政論集136号(1991年)126頁参照。

*22Cornu, La famille, Montchrestien, Domat, 7e ed.2001,p.399 など。

*23国家ごとの規制を越えて、「人権と生物医学に関するヨーロッパ条約」などをはじめ、国際的なルール調整の努力も行われている。なお、このような国際化の努力と同時に、それと両立するものとして、フランスでは「法は国家意思である」という原則も根強い。現在のフランス民法学界では、フランス民法に関してのヨーロッパ人権裁判所の一連の判決について、批判的な議論が活発化している。

*24Francoise Dekeuwer-Defossez, La filiation en question, Francoise Dekeuwer-Defossez, Philippe Jeammet, Norbert Rouland, Albert Donval, ’Inventons la famille !’, Bayard, 2001.p.51.

*25Cathrine Labrusse-riou, filiation,Rep.civ.Dallz,pp.43 et suiv.1995「危険は、普通の子と人工生殖子を区別すること、そして人工生殖子の中で合法な子と非合法な子とを区別する中にある」同n.245,p44.

*26伊藤昌司「親子法学100年の誤解と躓きの石」西原古稀『現代民事法学の理論・下巻』(信山社、2002年)467頁は、「身分占有には生物学的真実をねじ伏せて『法律上の親子関係』を尊重させる力があるというのなら、夫も同意したAID人工授精子に対する父子関係を争う訴えが身分占有を理由に不受理とはされなかったは何故か、説明が付かない。私が、身分占有についてのわが国の議論が本当かどうか調べ直す気になったのは、この疑問からであった」とし、フランス民法311条の20によって「解決する他はなかったのである」とする。たしかに夫が嫡出否認を出訴期間内に提起したときにそれを封じるためには、この条文は必要であった。しかしそれは身分占有の議論とは関係ない。身分占有によって嫡出子身分を守る民法322条は、夫の嫡出否認権を規定した本来の条文ではなく、解釈によって嫡出否認権を拡大するときに便法として用いられた条文である。条文解釈としては、条文上本来認められている夫の嫡出否認権を322条の身分占有を根拠に否定することは、解釈論的には難しい。したがって311条の20が立法的に必要となったのである。しかしそのことが322条の身分占有が子の身分を守る機能を持たないという理由にはならない。
 なおこの論文は、私の実親子法に関する見解についての厳しい批判を主唱するものである。本来であれば、私も枚数を使って本格的な反論を展開するべきであるが、本稿は実親子法を対象とするものではないので、その余裕がないため他日を期すこととし、基本的なことを簡単に反論しておきたい。伊藤教授の批判は、「成立」という言葉の問題についての総論としては私見と激しく対立するようであるが、結論的にはそれほど遠くないように思われる。「生物学的事実に反すれば、そこには親子関係が存在しないと考えるべきであり、ただ、存在しないという主張を許さない場合を個別に限定的に設けていけばよいことである」(同・471頁)とする結論は、その前段に力点を置くかどうかという相違はあるにせよ、後半の設計が必要なことについては、私にも異論はないからである。親子関係訴訟の法理の重要な点は、まさにその設計をどうするかにつきる。伊藤教授は、親子関係の「成立」ではなく「証明」というべきであるとして私見を批判されるが、フランス法の理解においても、親子関係の存在が認められる要件(身分証書、嫡出推定、認知、身分占有、判決など)と、そうして認められている親子関係の否定が許されない場合の要件をはっきり認識できていれば、親子関係の存在が認められる要件を「証明」と呼ぼうと「成立要件」と呼ぼうと、言葉にこだわる必要はない。ただその言葉が喚起するイメージを根拠に、母法の実態を不正確にイメージさせて、日本人的な誤解を助長することが危惧されるだけである。たとえば成年後見法の議論において、ドイツ法の「個人的な世話」概念のイメージを根拠に、日本人的な誤解を招いた例のように(水野紀子「成年後見人の身上監護義務」判例タイムズ1030号(2000年))。
 そしてたしかにフランスにおいても、従来の親の意思に依存した親子関係の設定方法について、批判的な立場が強くなっており、その立場は、たとえば認知は親子関係を「作る」のではなく、生物学的な親子関係の存在の「証拠」であるといういい方をすべきだとする。しかしその立場も親の意思次第で子の身分が揺らぐことをもっとも危惧しており、身分占有だけでは子を守れないと嘆くのである。たとえば、Dominiques Youf,op.cit.,pp.73-74など。それぞれの国の制度の批判派は、従来の制度の欠点がよく見えるからこそ、その制度の基礎をなしてきた考え方に批判的になるのだろう。私が日本の血縁主義的傾向を批判する場合も、その傾向はあるのかもしれない。しかし比較法的な研究においては、その考え方の部分を拡大して、単純化した議論をすることの危険は大きい。国によって制度的前提が異なるからである。親の意思に依存したフランス親子法の設計をもっとも強く批判するフランスの学者であっても、日本法の親子関係不存在確認訴訟の実態を説明されると、それではいきすぎであると驚くのではないだろうか。そして依然として「フランス法は生物学上の関係よりも愛情関係の永続と身分占有に重要性を認めている」と総括をするフランスの学説も存在する。Boulanger, Droit civil de la famille, Aspects compare et internationaux. Serie etudes et recherches, Economica 1994, p.117など。
 嫡出否認制度についての私の立場も伊藤教授が強く批判するところである(同・456頁以下)。しかしここでも伊藤教授の批判には異論がある。伊藤教授は夫だけが否認できる点でこの制度を批判するが、私は嫡出推定=否認制度の意義をそこにはおいていないからである。すでに夫だけの否認権は、諸外国でも日本でも失われている。「妻と妻の子の運命が夫の一存にかかってもよい」制度であるという評価は、最初は夫婦の子としての身分を与えて育てておきながら、妻との仲がうまくいかなくなったら、「夫の一存」で子の身分を奪うことを許す、日本の血縁説や家庭破綻説にむしろあてはまるのではないか。嫡出推定制度は「照明の暗い19世紀の闇に跳梁したケチな小悪魔」(同・457頁)として一蹴すべきものではなく、その制度的是正は必要であるけれども、存在意義については慎重に考えたい制度である。嫡出推定制度には夫に妻の子を育てさせる義務を課している側面があり、私の関心は、子の福祉に必要な場合に子の身分が安定することにある。
 フランス親子法は、モザイク状の多面的なもので、そのどの面を照射するかによって、アバウトにはさまざまな評価をすることが可能であろう。しかしドイツ法と比較して、血縁関係よりも意思や生活事実を重視して設計していることは、たしかである。トビアス・ヘルムス著、野澤紀雅・遠藤隆幸訳『生物学的出自と親子法』(中央大学出版部、2002年)参照(外国法の一面を自己の説に都合よく引用する業績よりも、このような労多い翻訳業績こそが、学界に益するところ、外国法の理解に資するところが大きいように思われる。ただしこの本のはしがきでは、日本法はドイツ法とフランス法の中間だとされているが、ドイツ法の請求権の手続き的な制限も知らず、フランス法の身分占有を駆使した制限も知らず、素朴な血縁信仰が強い日本法は、とても中間とはいえない)。提訴期間や提訴権者の制限のない親子関係不存在確認訴訟を活用してきた日本法は、それらの制限をもつドイツ法よりもずっと血縁関係を絶対視してきた。日本法になくてフランス法にある提訴期間の制限や認知無効の制限などの立法的な制限はとりあえずおくとして、伊藤教授がフランスの判例が法律上の親子関係と生物的関係の「二つの関係の距離を、水野に較べてはもとより私よりも、ずっと近いところに取っている」ことの根拠にあげるフランス法の嫡出推定の「隠退」も、23条審判などを合わせて考えれば、そのような評価には異論がある。なぜならフランスの判例は、子が夫の子ではないという事実のみによって嫡出推定を退けるものではないからである。生物学上の父との父子関係が成立することによって(成立という表現がいけないのであれば、認知によって立証、といいかえてもかまわない)、子の出生証書に夫の名が記載されないことによって、また子と夫との身分占有が否定されることによって、はじめて退けられるのである。たしかに身分占有という概念は曖昧であり、23条審判のような便法のないフランスでは、子が請求して夫も同意しているケースも裁判所に登場するから、事案によってはかなり寛大に嫡出推定を覆すケースもある。しかしフランスの裁判所では、日本の下級審判例に見られるように、たとえば妻の浮気による子であることを知った夫が、生物学上の父との父子関係を探しようのない状況でも法律的な父子関係を否定して子との関係を絶つことを認められたり(母が出産2ヶ月後に自殺した神戸地裁平成3年11月26日判決判時1425号111頁のケースが典型的である)、また数十年も嫡出子として生きた子が相続争いの場面で父子関係を否定されて相続権を奪われたりすることは、ありえない。フランス法の親子関係法は、鑑定によって決定されるのではなく、裁判所が決定するものである。日本でも裁判所において決定されるが、現状では鑑定結果を確認するだけとなっている裁判が多く、それでは裁判所による決定とはいえない。たしかに1972年法以前の厳格な親子関係法と比較すると、フランス法は生物学上の親子関係が法律学上の親子関係と一致するように法改正と判例法が進展してきたけれども、それはあくまでも裁判所の決定を柔軟にできるように改正されてきた。フランスの裁判所は、法律上の親子関係を奪う場合は、身分占有などの技術を駆使して、子の身分が不当に奪われないようにつねに配慮してきたのであり、現在もそれが可能な法制度となっている。

*27戸籍制度の存在を前提とすると、特別養子のプライバシー権保護に限界はあったとしても、実父母の監護不適当さという要件を明示した民法817条の7が特別養子身分のスティグマとなってしまうこと、施設に預けきりで育てる意思のない実親の親権行使濫用の段階で介入することなく、そのような実親との断絶手続を養子縁組手続と別立てにしなかったこと等が、立法的欠陥として挙げられる。特別養子制度に対する批判的評価については、水野紀子「認知無効について(二)−血縁上の親子関係と法律上の親子関係の不一致−」法学64巻1号39頁以下(2000年)参照。

*28深谷松男「人工生殖に関する家族法上の問題」家族〈社会と法〉15号(1999年)」など。同・135頁は、「生物学的に血縁関係にない者同士を実親子とすることは、法に許された制度創設の限界を超えるもので、法的擬制ではなくて、虚偽ではないか」とする。

*29水野紀子・最高裁平成12年3月14日判決評釈・ジュリスト臨時増刊・平成12年度重要判例解説(2001年)。

*30星野英一『家族法』(放送大学出版会、1994年)はしがき参照。

*31Alain Finkielkraut, La mistification des droits de l'enfant, Les Droits de l'enfant : actes du colloque europeen, 8-9 et 10 novembre 1990, Amiens / sous le patronage Ministere de la solidarite et de la protection social et de MadameLalumiere.: CRDP Amiens, Centre national de documentation pedagogique : Conseil general de la Somme, 1991.pp.66-67.

*32Elenore Lacroix, Les droits de l'enfant, ellipses, 2001,p.25は、Alain Finkielkrautが条約を欺瞞mistificationと呼んだことについて、「この言葉は重い」と引用している。

*33この法律の内容については、パリ第12大学に留学中の高山奈美枝氏に日仏法学23号に掲載予定の原稿を見せて頂いた。記して感謝する。

*34離婚法についての私の見解は、瀬木比呂志判事との対談「離婚訴訟、離婚に関する法的規整の現状と問題点」判例タイムズ1087号(2002年)参照。

*35日本社会〈家族と法)学会のシンポジウム記録「子の奪い合いの法的解決をめざして」家族〈社会と法〉18号(2002年)参照。

*36Alain Finkielkraut, op.cit.,p.69.

*37前掲・家族〈社会と法〉18号・180−181頁。

*38小熊英二『「民主」と「愛国」』(新曜社、2002年)「第一章モラルの焦土」。

*39ポルタリス『民法典序論』(野田良之訳、日本評論社、1947年)はしがき。

*40水野紀子「中川理論ー身分法学の体系と身分行為理論ーに関する一考察」山畠=五十嵐=藪古稀『民法学と比較法学の諸相III』(信山社、1998年)参照。


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