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April 23, 2010

raison d'etre of legal doctrines

これは,この前のジュリスト(2月15日号=1394号)にも書いたことの(一部)繰り返しになるんだけど,法理論とか法学上の概念って何のためにあるかというと,それは,「議論を回避するためにある」。

本来であれば,法ルールは,様々なpolicy questionに対して最適な解答を与えるような形で問題解決できるようになっていることが望ましい。そのためには,そのケースごとにrelevantな変数を全て適切に取り込んだ形で解を導く必要がある。

けれども,それって簡単な作業ではない。誤判断する可能性もあるし,人(裁判官)によって答えが違ってしまう危険性がある。さらに,いちいち多くの変数を考慮して政策判断していくことには,大きな判断コストがかかってしまう。そうすると,こういった誤った判断がなされる危険性を減らし,判断コストを減らすためには,どんな人であっても一定の形式的な手続を踏めば,決まった解答が導かれるような定型的な判断枠組みを準備しておくことの方が,より効率的である可能性が出てくる。

つまり,法理論とか法学上の概念は,個別具体的な政策判断をするのではなく,それを回避して定型的な判断を実現するためのツールであることになる。確か長谷部せんせが,「憲法とは政治を忘れるためのツールである」という趣旨のことを書いていたような記憶があるけれど,それは法学全般に言えそうだ。法学というツール集に載っていれば,誰でも同じような解答が導ける。コスト(=判断コスト+誤るコスト)を低減するために,法学って有用なんだ。

けれども,当然,そこにはトレードオフがある。コスト低減のために定型的な判断枠組みを採用することは,①構築された定型的枠組みが解決されるべきpolicy questionを正確になぞることができない(over/under-inclusive)ことから発生するコスト(「文章」という形で定型化するには,切り落とさなければならないものが出てくるのは当然),②時代の変化等によっていったん構築された枠組みがpolicy questionとずれてしまうコスト,等々が発生する。
たとえば,科研費の使い方については厳しいルールがあるけれど,これは,1件1件の使途について具体的にその適否を判断するのはコストがかかるから,定型的で厳しいルールを設定しておくことによって,税金が濫用されるのを避けている。けれども,その厳格なルールによって,科研費が使いにくくなり,本当に有益な研究に活用することができない,といったコストが出てくる。ただ,今のところは,そういった研究の自由度が損なわれるというコストよりも,税金が無駄に奪われてしまうことの方が大きいと国民が考えているわけで,法理論や法概念っていうのは,ちょうどそれと同じような不自由さを持っていることになる。

なので,どっちのコストがより大きいのかで,こういった法理論とか法学上の概念とかが望ましいかが決まってくる。そうすると,そういったコストの方が大きいことが分かってくると,そういった法理論とか法学上の概念とかは,変容を迫られることになる。

ただ,ここのところで面白い(?)状況が発生する。普通の法律家は,定型的な判断枠組みの背後にある政策判断よりも,表面的な定型的な判断枠組みそのもの(適用の仕方とか)について議論することのプロフェッショナルであって,背後の政策判断を直接扱うことのプロフェッショナルではない。実は,定型的な判断枠組みそのもの(適用の仕方とか)について議論するときにも,背後の政策判断が実質上のdriving forceになっていることは決して少なくないのだけれど,普通の法律家は,そういった背後の政策判断を前面に出して議論することは少ない(避けるべきことだとされている)。
こういった人たちが,法理論とか法概念といった定型的な判断枠組みが変容を迫られている場合に,どのような行動をとるか,というと,次のような望ましくない行動をとってしまいがちだ:
①背後の政策判断を持ち出されることに抵抗し,定型的な判断枠組みを絶対のものとして振りかざすインセンティヴを持つ(∵自分の優位性を確保するため)
②定型的な判断枠組みを振りかざしつつ,実質的に背後の政策判断を行ってしまう(この場合,背後の政策判断が隠されてしまうので,どんな論理矛盾・事実誤認・偏見があったとしても,それを表に出さずに議論できるという,(本人にとっては)メリットがある。)

     *     *     *

法律家以外の人が法律家を見ると,「何でこいつらはこんな変な議論をしているのだろう」と感じられることがしばしばあるかと思うけれど,そのうちのかなりの部分は,このシナリオで説明できるんじゃないか。特に,倫理とか人権とかを絶対視して振り回すタイプの法律家については。
そういった法律家の議論を外部の人が見ると,意味不明だったり論理飛躍してたりするように見えるわけ(もちろん,ご本人は,自分がすごく正しい主張をしていると思っている)。もちろん,より科学的な議論に慣れている外部の人からすれば,すっ飛ばされている前提とかが見えてしまうんだけれど,ご本人はそういう思考回路がそもそも存在しないから,そこを指摘されても理解できないことがしばしばある。

(以下,5時55分頃に追記)
といっても,そういう人ばかりじゃなくて,上に書いたトレードオフが分かってる人は,法理論や法概念を使いながら議論していても,ちゃんと背後の政策判断を考えながら議論してることが多い。そうだとすると,法学そのものの問題じゃなくて,人の問題に過ぎないのかもしれない。ただ,法学にシステマティックに上に書いたような問題点があるってことは言えそうだ。

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コメント

基本的にはおっしゃる通りだと思うのですが

> 特に,倫理とか人権とかを絶対視して振り回すタイプの法律家については。

というとこは疑問があります。
こういうタイプの法律家はむしろ政策判断を前面に押し出していませんか?
彼らの中では利益衡量しても、人権や特定の倫理がそれ自体価値を持っているものとしているのではないでしょうか?
たとえば「自由の尊重」が自由を尊重したほうが食べ物がたくさん生産できたり
病気を治療する方法ができたりと
より「良い」暮らしができるよ、と説明する方法もありますが
それとも、たとえ飢えても、死人が増えても
自由それ自体に価値があると考える方々もいるのと
同じではないでしょうか?
そもそもこういった方々が「人として」ではなくいわゆる「法律家」として
本当にリスペクトを受けているのでしょうか?

個人的には、むしろ
「会社は株主のものである」だとか、
「過失責任主義」だとかを
法律で決まっている原則だと言っている連中のほうが
この例として適切だと思っています。
(もちろん結論自体の賛否とは別の話です...)

その辺は,後で書き忘れていたことに気づいて追記した部分にちょっと関係してるかも。

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