司法の行政に対するチェック機能の強化

藤 田 宙 靖       
平成12年12月12日   
司法制度改革審議会ヒアリング



はじめに


 我が国現行法制度のあり方、又はその運用の実態が、司法による行政のチェック機能のあるべき姿に照らして、様々の問題を抱えていることは、ここ十数年来、既に多くの行政法学者が指摘して来ているところであって、そこで指摘されていることの多くは、私自身また、かねがね大いに問題であると考えて来たところでもある。むしろ、これらの指摘に現れている問題意識自体は、今日、ほぼわが国行政法学者の全体がこれを共有するところであるとすら言うことができるように思われるのである。この意味で、本日は、新しい問題を提起すると言うよりはむしろ、これら提起されてきている問題に対して、私個人はどのような見方をしているか、ということを、申し述べさせて頂くこととしたい。なお、本日お話になる園部先生、山村先生の場合には、実務経験に照らしての提言になると思われるが、私の場合は、より理論的なものとなるであろうことをお断りしておきたい。


一 問題の所在


 これまでにも様々に指摘されているように、問題の中心は、現行の行政事件訴訟法がその根幹的制度として設けている抗告訴訟制度の不活性、そして、その反面で、それに代替する現象としての、国家賠償制度の過剰負担、並びに、住民訴訟制度(とりわけいわゆる四号請求訴訟)の機能肥大、ということである。こういった、行政活動に対する司法のチェック機能を実現する諸制度間の運用実態のアンバランスは、これまでにも散々に指摘されてきているように、結局のところ、抗告訴訟制度が、全体のシステムの中で、本来果たすべき機能を充分に果たしていない、というところから来ているものと言って良いものと思われるので、ここでも、現行の抗告訴訟制度の不活性という現象は何から来ているか、という問題から入って行くこととする。


二 現行抗告訴訟制度の抱える諸問題


 司法による行政のチェック機能という見地から見るとき、現行の抗告訴訟制度の抱える問題点は、大きく二つの種類のものに分けられる。一つは、私が、「近代行政救済法システムの例外」と称しているもので、昭和37年に行政事件訴訟法が制定された際に、既に内在していた問題である。その第二は、行政事件訴訟法が制定された当時には、想定ないし予想されていなかったパターンの争訟、つまり俗に言う「現代型訴訟」への対応可能性の問題であって、私が「近代行政救済法システムの限界」と称しているものである。この二つの問題について、以下、より詳細に見ると同時に、今後の対応のあり方について、考えてみたい。


三 まず第一の問題(近代行政救済法システムの例外)について。

 一般に、ドイツやわが国に見られるようなタイプの近代法治主義的行政法は、行政活動を予め法律を中心とする法によって縛って(いわゆる「法律による行政の原理」)、仮に違法な行政が行われた場合には、国民が裁判所に訴えてそれを是正してもらうことができ(独立の裁判所による適法性審査)、また、現状回復がもはや不可能である場合には、せめて損害賠償をしてもらえる途を確立する(国家賠償制度)、というシステムを、その理念型とすると言って良い。そこで、この理念型に従った国民の救済システムを、仮に「近代行政救済法システム」と名付けることができよう。ところがこのようなシステムは、現実には様々の理由により制約を受け、法治主義の理論的な貫徹がなされないままに制度化されることがあるのであって、わが国の場合で言えば、それが、紛争の一方当事者である筈の行政庁に法律上与えられた、様々の法的に優越した地位である。例えば、典型的には、行政処分の取消訴訟における執行不停止原則、内閣総理大臣の異議、仮処分の排除、更には、自由裁量行為についての審査権の限定等がそれであるが、更に運用上の問題として、義務付け訴訟をはじめとするいわゆる「無名抗告訴訟」の提起可能性についての、甚だ消極的な取り扱い等々がある。そこで考えなければならないのは、法治主義の論理の下で、何故、このような行政庁の優越的な地位が理論的に認められ得たか、ということである。例えば、「行政運営の円滑性の保障」ということが言われるが、本来法律に違反してまでも行政に円滑性を求めるということは、法治主義の見地からは理論矛盾なのであって、それだけでは、広く通用力を持つことにはならない。私はこの点、関係者間に「行政法の適用に当たっては、行政庁こそが本来最も適切な判断をすることができる」という認識(その意味での行政に対する信頼感、及びその反面としての、司法及び一般国民に対する不信感)が意識無意識中に広く支配していたことこそが、大きな原因であったものと考えている。

 この認識を最も明確に表しているのが、「行政庁の第一次判断権の尊重」という考え方であって、この考え方は、例えば行政処分の義務付け訴訟を認めない理屈として、学説判例上しばしば引き合いに出されるものであるのみならず、例えば田中二郎先生などの場合には、実体審理に関する裁量処分の司法審査の限定の理由としても引き合いに出されている。実際、裁量行為の審査基準として最高裁が立てている公式には、少なからずこういった考え方が反映しているものと見て良いように思われる。また、仮処分の適用排除の理由として主張される「裁判所による仮処分濫発のおそれ」などもそうである。このような不信感は、対裁判所の関係ではなく、対私人の関係においてはもっと露骨であって、例えば、執行不停止原則の根拠付け(「濫訴のおそれ」)などにそういったことが看て取れる。

 こういった、「厳正にして的確な法適用者としての行政庁」への信頼感は、元を辿れば、ドイツ公法学とりわけグナイスト流のプロイセン型法治国家観にそのモデルを見ることができるが、この考え方は、もともと「中立にして公正な公益実現者であるところの行政」という行政官僚への信頼に基づくものであって、19世紀のプロイセンでは、「法律による行政の原理」そのものが確立した後においても、当初、法律適合性について最も的確に判断できるのはまさに行政機関そのものである、との主張の下、裁判審査一般を排除する根拠として働き、また、裁判審査の必要そのものを退けることができなくなった後においても、行政権の一部としての行政裁判所という、プロイセン型の行政裁判制度確立の根拠となったのであった。ドイツの場合には、少なくともボン基本法の成立と共に、こういった考え方はもはや通用し得なくなっており、現実の訴訟法上も、例えば、執行停止原則の採用、義務付け訴訟の採用がなされる等、状況は、わが国とはかなり違ってきている。また、「行政庁の第一次判断権の尊重」というような考え方は、例えばドイツの行政法学者に対しては、もはや説明不可能である。ところがわが国の場合には、少なくとも昭和三十年代においては未だ、この点の法思想上の清算がなされていなかったというべきである。

 ところで、行政権の適正な判断能力ということに対する信頼感は、わが国の第二次大戦後の国家・社会において、行政主導のシステムを形作る、大きな基礎となって働いてきたのであったし、それ故にまた、昭和三十年代において、右のような思想の払拭ができなかったことにも、それなりの実態上の背景があったということが、或いは言えるのかも知れない。しかし、こういったシステム及びその前提となる考え方を根本的に考え直して、新たな「この国の形」を構築しようというのが、例えば、行政改革会議の最終報告に現れた行政改革の理念であったのであって、そこでは、政策の企画・立案という機能につき、行政主導から政治主導へと改革することが必要とされたのであった。同様にして、法律の解釈・適用という機能についても、対司法権との関係において、行政官僚に対する先のような信頼感はひとまず白紙に戻して、制度の再構築が試みられなければならないものと考えられる。

 なお、「行政庁に対する信頼」は、このような思想的背景を別にして考えれば、一面で「行政庁の専門技術的判断の尊重」そして「行政の政策的判断への司法の不介入」という考え方と結び付いている。ところで、こういった考え方が一般的に必要であるということ自体は、勿論否定できないのであって、例えば、司法審査の及び得ない「裁量行為」というカテゴリーを設けること、また、行政庁の政策的判断につき裁判所が別の政策的判断を以てこれを覆すことはできない、というルールを設定すること自体は、決して不合理であるわけではない。問題は、こういった思考枠組みが、余りにも形式的・画一的な形で一人歩きを始め、司法による行政のチェックということの本来の意義を失わせる結果となってしまう危険性にある。例えば、内閣総理大臣の異議という制度の必要性を根拠付けていたのは、「執行停止をするかしないかという判断は、本来行政的な判断なのであって、執行停止決定というのは、こういった、本来は行政作用であるものを、敢えて裁判所に行わせる制度なのであるから、その適否について、行政権は、最終的な担保手段を持たなければならない」というものであった。しかしいうまでもなく、執行停止をするかしないかの判断には、単に公益のために処分の続行が必要か否かという行政的判断のみではなく、国民の権利の保護のために、当該処分を止める必要は無いかどうかという、司法的な判断もまた必要でありかつ本質的に重要な部分を占めている。このように、裁判所は、たとえ行政の専門技術的判断或いは政策的判断であろうとも、本来、専ら、法治主義的見地からして国民の利益を救済する必要がないかどうかという見地からこれを審査する責務を負い、権限を有するのである。そういった目的のために必要であるならば、仮に事が専門技術的な事柄に関わろうとも、例えば鑑定意見等を利用することによって、裁判所としての判断を下すことは、理論的には不可能ではない筈であって、専門技術的判断であるが故に、当然に行政庁の判断が裁判所の判断に優先されて尊重されなければならない、という、理論的必然性は必ずしも存在しない。こういった見地から柔軟に司法審査の可能性を追求する試みが妨げられるのであってはならない。


四 次に第二の問題(近代行政救済法システムの限界)について。

 これは、周知のように、一方的な公権力行使、それもとりわけ行政処分という特定の行為形式による国民の権利侵害のみを、司法権による主たる救済の対象とし、しかも、その際、基本的に行政庁と処分の名宛人との間の二極関係のみに焦点を当てた現行の行政事件訴訟制度が、その制定当初には想定もしていなかったような問題、つまり、伝統的な意味での「行政処分」のカテゴリーに入りきらないような行政活動を契機としてもたらされる国民の被害、それも、二極関係のみならず、三面的或いは多極的な関係において生ずる被害の救済につき、現在の行政事件訴訟法及びその運用状況は、殆ど無力なものでしかない、というところから生じている問題である。具体的な問題としては例えば、抗告訴訟の対象となる「処分」の概念の狭隘さ、また、原告適格の狭隘さ、等が指摘され続けて来ている。この問題に関しては、次のようなことを考えている。

 第一に、処分性や原告適格の問題については、そういった問題が広範に生じていることは疑いもない事実であるが、理論的にいうならば、そういった状況の解消のために、果たしてまたどこまで、訴訟法制度そのものを変えなければならないのか、という問題がまず存在する。つまり、仮に実体諸法自体が、現在の行政活動の中で問題となっているものの全てを、明確に「処分」の形式に整理し直し(例えば、計画決定、勧告・公表等現在では法的拘束力を持たないとされている行為につき)、また、最高裁判例の公式に従い、処分要件の中で、第三者の利益を保護する趣旨の規定をおいた(例えば各種の許認可につき)とするならば(そしてそういったことは、少なくとも理論的には可能である)、訴訟法自体を変えなくとも問題の多くは解決されることになるであろうからである。

 この点に関しては、恐らく、今後、実体法上の進展もまた徐々に進んで行くものと期待される。ただ、そういった立法上の進展は、通常、現実の問題の出現に対し常に後追い的に、また、相当のタイムギャップを以て行われるものであるし、全ての行政分野において、バランスを取りつつ一斉に行われて行くものでもない。そこで、問題は、こういった実体法上の進展がなお遅れている場面において、訴訟制度自体の改善を図ることにより、それに代替する途を、果たしてまたどのように開き得るか、ということである。

 この意味での訴訟制度の改善についても、問題は二通り存在する。その一つは、現行訴訟法の運用を改めることによって、果たしてまたどこまで改善が図れるか、という問題であって、これは例えば、これまで行政法学者が様々に行ってきた「処分」の概念を解釈論上何とか拡大しようとする試み、或いは、原告適格に関する「法律上の利益を有する者」という規定の「法律上の利益」の解釈を巡る試み、等がその例である。しかし、このような試みについては、理論的な可能性としてはともかく、最高裁判例が今日のように固まってきた段階においては、なかなか、現在の事態を抜本的に変えるような解釈が広く実務を支配するようになることは考え難い。そうであるとすれば、右に見たような諸概念の拡大につき、何らかの立法上の手当をしようという考えが出て来ることになるのは当然のことであると考えられる。

 問題はしかし、第二に、このような立法上の手当を、どのような基本的な方向ないし理念において行うか、ということである。その場合、司法の行政に対するチェック機能には、本来、国民の権利利益の保護といういわば主観的な要素と、行政活動それ自体の法律適合性(合法性)の確保といういわば客観的な要素との両面があるのであるが、現行の行政事件訴訟法、そして最高裁判例などによるその運用は、この点、余りにも前者に比重を掛け過ぎて来たことに問題がある、ということを、否定できないように考える。これは単に、「主観訴訟中心主義」といった、制度の選択の問題に尽きることではない。問題はむしろ、「国民の権利・利益の保護」ということを、「個人の権利・利益でなければ保護の対象とはしない」ということと同義に考え、その上で、ここでいう「権利・利益」を、「法律上明確な輪郭を以て確定された、その意味での法的利益」に限る、というように構成して行く点である。しかし、行政と国民との法関係は、このように、法的に明確に(主観的に)保護されているか否かの基準によって、100か0かというように二元的に処理し切ってよいものでは、恐らくない。行政法の分野における立法にあっては、とにもかくにも行政の活動自体を法によって縛ることがまず目的とされるのであって、それを、正確に誰のために行うのか、ということまで、法的に厳密に詰めて規律の仕方を考える、というような作業が、必ずしも全ての場合に行われるわけではない。これが、先に見たように、行政実体法上の個人の保護規定の進展が現実の展開に遅れる、ということの一因でもある。このような場合に、「法律による明確な保護がなされていない」ことを以て直ちに「法律は保護をしない趣旨だ」と考えるかどうかが問題なのである。

 実体法による個人の利益の明確な保護が遅れている場合であっても、行政活動自体の違法性が確認され、取り消されることによって、明らかに、個人がいわれのない不利益から救済されることがあり得る。行政事件訴訟を主観訴訟中心として構築すること自体はもとより否定するものではないが、以上見てきたような理由からして、その場合、そこでいう「国民の権利保護」という要素は、より柔軟に考えらるべきである。とりわけ、原告適格の問題と並び、現行行政事件訴訟法10条1項でいう「自己の法律上の利益に関係のない違法」という要件を、より限定する方向(主張できる違法の範囲を拡げる方向)で考えるべきである。

 なお付言するならば、以上に見たような現行法上の抗告訴訟制度の構築の仕方及び最高裁判例等によるその運用のあり方は、行政訴訟を、基本的に民事訴訟のモデルによって処理しようというところから、発しているのではないか、と思われる。すなわち、一般に民事の争いにおいては、紛争の解決は、可能な限り当事者間での解決に委ねらるべきものであって、裁判というのは、当事者間で解決ができない場合に、公権力を持ってそれを一義的最終的に解決するという国のサーヴィスなのであるから、そういった制度を国民が利用できるのは、それが、紛争を解決するために必要不可欠であって、しかも法的に最終的な解決となる場合でなければならない、という制約が掛かることになる(三ヶ月)。そして、この「必要最小限」を判定するぎりぎりの基準が、当事者の明確な法的立場(権利)の有無であるということになる。仮にそうであるとして、そもそも、行政と国民との間の紛争、とりわけ、行政庁の公権力の行使を巡る紛争(公権力の行使に対する不服)が、対等な私人間の場合と同様に、まずは、当事者間の自主的解決を目指すことによって解決されるべきで、従って、国民による裁判制度の利用可能性も、民事の場合に言われるのと同様の形での「必要最小限」の場合に限られなければならない、ということになるのかどうかが問題である。ここでは両者は、そもそも始めから対等ではないのであって、誤解を恐れずに敢えて言うならば、その意味において、司法による行政のチェックの出発点は、「紛争の解決」以前に「国民の救済」でなければならない筈である。


五 裁判機関のあり方について

 右に見たこととも関連して、最後に、裁判機関ないし争訟裁断機関のあり方の問題について、一言しておきたい。行政事件を裁く裁判官は、以上見たような意味における民事事件と行政事件との間での、仮に本質的な違いと言わないまでも、少なくとも基本的な構造上の違いを、充分に理解しているのでなければならない。この理解とは、単に民事訴訟法に加え行政事件訴訟法の条文をも知っている、といった、表面的或いは技術的なものに止まるのでなく、行政法そして行政事件というものの本質を、いわば体得した上でのリーガルマインドである。そういった意味で、行政事件を裁く裁判官は、行政法を充分に勉強した者でなければならない。このことは、司法試験の試験科目のあり方、司法研修所における履修のあり方、そして、現在構想されつつあるいわゆる法科大学院における教育システムのあり方等を考えるとき、是非とも充分に考慮されなければならない問題であると共に、もし仮に、通常の民事・刑事を担当する裁判官にそれを期待することが困難であるというならば、行政事件を専門に扱う裁判組織の設置が別に考えられるのでなければならない。その場合、それを、現在の審査請求制度を発展的に吸収した、裁判の前身としての行政審判庁のようなものとして構想するか、通常裁判所の中に行政審判部をおくというような形を採るか、或いは、別に、現在の家裁のような形での行政裁判所を設けるか、様々の可能性があろうが、いずれにせよ、そこでは、審判官ないし裁判官として、行政法及び行政の実務に充分に通じた者が、キャリアの裁判官に加えて任命されるべきものと思われる。

 これまで、行政に対する司法のチェック機能を制限する根拠とされてきた、先に見たような「行政庁に対する信頼。その反面での裁判所に対する不満」は、一面で、「民事裁判官は、余りにも民事的な思考枠組みで行政事件を捉え過ぎる」という不満に基づくものであった。そしてそれは、かつては、「民事的思考枠組みに縛られ過ぎるが故に、公益を追求する行政の利益を十分に考慮しない」という面に重点を置くものであって、そういう意味では今日、この主張は成り立ち得ないということを先に指摘した。ところが今日ではむしろ、同じ命題が、逆に「民事的思考枠組みに縛られ過ぎるが故に、公権力を相手とする国民の立場というものを充分に考慮しない」というコンテクストにおいて、問題となっているのである。改めて言うまでもないことながら、右に見た行政事件を専門に扱う裁判組織の設置ということも、専らこういったコンテクストにおけるものである。


fujita@law.tohoku.ac.jp
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