法学教育における「先端」と「伝統」、「応用」と「基礎」



 学部長として出席したシンポジウム(96年1月、於名古屋大学)での講演の原稿です。

☆もくじ



法学教育における「先端」と「伝統」、「応用」と「基礎」

東北大学法学部
藤 田 宙 靖
I 若干の前提

 本報告のテ−マは、9月に開かれた準備会で、名古屋大学のシンポジウム準備委員会から与えられたものであるが、私の専攻との関係で、そこから「政治学教育」を落とさせて頂いた。加えて、本日の報告では、このテ−マ自体について、以下のような絞りを掛けさせて頂きたい。

 1。第一に、本報告では、法学教育 における「先端」と「伝統」云々を問題とするのであって、法学研究におけるそれを問題とするのではない。いうまでもなく、法学の研究についても表記のようなテ−マに従った検討は可能であり、また、研究と教育のそれぞれの側面でのこういった問題相互間には密接な関係がある、ということ自体を、否定する積もりはない。取り分け例えば、後にも見るように、「研究の最先端の成果を、従来のような形での法学部教育において、果してまたどのように教えることができるか」といった問題は、「研究における先端」と「教育における伝統」とが交錯する問題であり、しかも、極めてヴィヴィッドな問題でもある。しかし、この問題についても、ここでは「教育」の側から見た問題点を考察するのであり、従ってその場合の「研究における先端」もまた、ここでは専ら「教えらるべき事柄の内容」の問題として取り上げられることになる。このような意味において、本日は教育を検討の対象とするものであることを、まず明確にしておきたい。

 2。第二に、「教育」についても、その「方法」の問題と「内容」の問題の区別が可能である。例えば、大教室で教官が講義案をとつとつと読み上げる方法を「伝統」的方法とし、これに対し、様々のヴィジュアルな方法等を用いて少人数で進められる授業等を「先端的」方法と名付けることも可能であろう。しかし、本日は、このような意味での「教育方法」の問題を取り上げるのではなく、専ら、学部教育として教えられるべき「内容」を対象とすることとしたい。

 3。第三に、法学部における法学教育といっても、誰を対象とした教育か、という問題がある。この点に関し、本日の報告は「国立九大学の法学部生」を対象とした教育に限られることをお断りしておきたい。これは、次のようなことを含意している。
 今日、我が国における大学の大衆化に伴い、同じく大学生といいまた法学部生といっても、そこには、その資質・これまでの学習度・また勉学意欲等の点で、極めて大きな違いが存在することは、否定できない事実である。教育は、相手あってのことであるから、教育を受ける側のこれらの違いを前提とせずに、そのあり方を論ずることはできない。この点に関し、これまでにも各方面から指摘されていることであるが、私は、法学部生を大きく三つくらいのグル−プに分けて考えるところから始めたい。
 その一は、その能力においてもまた勉学意欲・問題意識等についても、全く申し分なく、まさに従来の大学教育で想定されていたように、自らの問題意識に従って、自分で自分に必要な勉学を進めて行ける学生である。かつては、大学生といえば、高校生までの段階と違い全てこのようなもの、との前提があって、教師の側でもそれを前提とした講義を行っていたが、今日の学生はより未熟であって、このような学生像は成り立たない、といわれる。しかし、このようなタイプの学生が今日絶滅したというわけでは決してないのであって、僅かではあるが、このような学生もまた間違いなく一部に存在する。従って、大学教育なるものはこのような者達だけを対象として行われればそれで良いのだ、という前提に立つならば、今日でも、改めて法学教育の改革問題を殊更に論ずる必要は無いことになる。
 第二にしかし、これとは全く正反対に、大学そして法学部に入ることに、およそ法律学を勉強するという目的(またはそもそも勉学するという目的一般)を見出さず、ただ、青春の一時期を自由に謳歌する(遊ぶ)ためだけに大学生になっている者達が数多く存在する。そのこと自体を嘆かわしいことと見るかそれともむしろ良いことと見るかはともかく、このようなグル−プに属する者を相手に法学教育を如何に行うべきか、という問題は、問題自体としてはあり得るとしても、我々国立九大学の法学部が対面している本当に深刻な問題ではないように思われる。
 仮に乱暴な言い方が許されるならば、上記の第一のグル−プについては、我々にとっていわば問題が存在しない。また、第二のグル−プの問題は、問題としては存在しても我々の問題ではない。我々が本当に問題としなければならないのは、第三のグル−プつまり、資質はありまたそれなりの勉学意欲を持って入学してくるけれども、何をどう勉強すれば良いか分からず、講義を聴けば難し過ぎるか或いは無味乾燥であるとして、途中から脱落して行くグル−プである。つまり、我々の教育の仕方如何によって、第一のグル−プの方へもまた第二のグル−プへの方へも引かれて行く者達であって、国立九大学の法学部生の中には、第一のグル−プに加え、このような者達がむしろ非常に多いのではないか、と考えている。

II 「先端」と「伝統」、「応用」と「基礎」とは何か?

 この二つの対概念自体もまた、その正確な意味を規定するのは、甚だ困難である。しかし、今回のシンポジウム開催に当りこのようなテ−マが設定された背景に鑑みるならば、ここでは差し当り、次のようなおおよそのイメ−ジを抱くことから始めることが許されるであろう。

 1。まず、「先端」と「伝統」の対比でイメ−ジされるのは、例えば、脳死であるとかコンピュ−タ−犯罪等を巡る「先端的」な法律学と民法典・刑法典等を巡る民法学・刑法学の「伝統的」な解釈論との違いであろう。要するにこの対概念は、主としては、科学技術等の進展によって「伝統的」法律学が予想していなかったような「先端的」問題が生じており、いわば、現実に対し従来の法律ないし法律学の遅れが見られること、あるいは両者間にギャップが生じていること、を前提とし、それにも拘らず、これからの法学教育が、従来の六法を中心とした伝統的な法律の体系に従った教育をしているので良いか、という問題提起をするために立てられたものであるように思われる。

 2。また、「応用」と「基礎」について言えば、同様に、従来大学で教えられて来た法律ないし法律学は、あくまでも「基礎」的なものでしかなく、現実に生ずる問題は、こうして得られた「基礎的」な知識だけを以てしては、解決することができないこと、従って、少なくともその「応用」の仕方を心得ていることが必要であること、を前提として、それにも拘らず、今後の法学教育が、従来通り「基礎的」知識を授けるに止まっているので良いか、という問題提起をするための対概念であるように思われる。

 3。両者は従って、多くの部分で重なり合っており、また、そもそもその違いを厳格に意識して立てられているものでもなく、従ってまたここでこの点を厳密に詰める必要も必ずしも無いように思われる。ただ、強いて両者間にニュアンスの違いをつけるならば、前者は主として、法律学の各分野間での水平的なギャップに目を付けるものであるのに対して、後者は主として、いわば同一分野内での垂直的なギャップを問題とするものである、ということができようか。

III 大学の法学部における法学教育の目的(一) −− 西尾論文

 さて、いずれにしても、このようにして投げ掛けられた上記の問に答えるためには、当然のことながらまず、そもそも大学の法学部における法学教育とは何を目的とするものなのか、についての検討から始めなければなるまい。そしてこの点については、差し当り我々が共通の資料として持っているものの中から、行政学の西尾勝教授が東京大学法学部長在職中に書かれた「法学教育の目的と方法」と題する論稿(IDE現代の高等教育No. 348、1993年8〜9月号、29ペ−ジ以下)が、格好の手掛かりを与えてくれるように思われる。
 この論稿で西尾教授が指摘されていることを、ここでの議論との関係で簡単に要約するならば、次の通りである。

 1。教授はまず「日本の法学教育の特徴」として、三つばかりの特徴を挙げられる。  その第一は、それが、アメリカやイギリスのロ−・スク−ルの法学教育とは違って、専門職業家(プロフェッショナル)としての法曹を養成することを専らの目的とはせずに、官公庁の行政官・行政職志願者から民間企業社員志願者に至るまで、幅広い人材を養成する教育を期待されていることである。そして、それ故に、法学教育は大学院レヴェルではなしに学部レヴェルで行われてきた、とされる。
 第二に、このように官公庁の行政官・行政職員志願者を育成することをその重要な任務の一つとしているが故に、法学部では、法学と政治学の双方を研究教育の対象としており、いわば「法学部教育すなわち法学教育ではない」という現実がある。
 第三に、官公庁等の国家試験が法律科目中心に行われて来たために、大学での法学教育が、多かれ少なかれ、これらの試験に密接に連動したものとなってしまっている。

 2。次に教授が指摘されるのは、「法解釈学は『科学』ではない」ということであって、教授によれば、取り分け、法学の核心を成している法解釈学は「科学」から最も疎遠な学問である。そこには多数説と少数説はあっても「正解」は無い。従って、小学校以来、正しいとされる数々の知識を詰め込まれ、試験問題には必ず正解があるものと思い込んで来た学生達にとって、これほど取りつき難く馴染み難い学問は無いのであって、このような特殊性を持つ法学を学部レヴェルの専門教育課程の2年ないし2年半の期間内に的確に教授することが果してできるか、取り分け大学の大衆化により学生の精神的な成熟度が低下している今日、これこそが日本の法学教育にとっての最も基本的な問題点なのである、とされる。

 3。更に教授は、「日本における法学部教育の目的」として、少なくともこれまで我が国の法学部で行われて来た法学教育の目的は、上記のように、スペシアリストとしての法曹養成ではなくジェネラリストとしての社会管理者養成であった、とされ、それ故にこそ、幅広い法律科目の教育が施されて来たのであり、また政治学・経済学等の科目がそこに取り込まれて来たのもこの故であることを指摘される。そして教授によれば、このような幅広い教育によって育成しようとしているのは「リ−ガル・マインド」である。この目的のために「そこで伝授されている技術」は、「小は個人間の紛争から大は国際間の紛争にまで至る、ありとあらゆる紛争を予防し、或いはこれを解決するための技術」である、とされる。そして教授によれば、このような技術は、社会状況の変動に自らを柔軟に適応させて行くものでなければならないのであって、このように社会制度の流動性ないし可塑性を認識させる最良の方法は、歴史を教えることと各国間比較を教えることであること、法学部のカリキュラムにおいて、法制史その他の歴史科目、また外国法等が採用されているのも、まさにこのためである、と説明されるのである。

 4。最後に教授は、以上に見たような日本の法学教育の目的については、これに基本的な変更を加える必要は認められないのであって、改善を要するのは、法学部教育の方法の側面である、と結論される。そして、このような見地から、東京大学法学部の拡充改組計画(大学院重点化)においては、「研究と教育の一体性」は現在ではもはや大学院レヴェルについてのみ妥当するものであり、学部レヴェルでの教育は研究とは別に考え、もっと教育の効果を重視したものに改めるべきだ、との判断に立って、ことが進められた、との趣旨を述べておられる。

IV 大学の法学部における法学教育の目的(二) −− 西尾論文の検討

 以上見た西尾論文の要旨を一口でまとめることが許されるならば、こういうことになろう。すなわち、日本の大学における法学教育の目的はジェネラリスト養成にあり、その場合、ジェネラリストとして身に着けることを要請されているのは、広範な紛争の予防及び解決技術という意味でのリ−ガル・マインドである。そのためには、独り法律学に止まらず広く人文社会科学の各分野につき教育する必要があるが、今日の学生の精神的成熟度の低下に鑑みると、2年程度の学部専門教育課程では消化不良を起し、この全てを教えることはできず、従って、研究と直結した高度な教育は大学院レヴェルで初めて行うこととし、学部レヴェルでは、いわば学生の精神的成熟度に対応した、いわばより初歩的な教育を行う必要がある、ということである。こういった数々の指摘は、甚だ傾聴に値するものを多く含み、私もまた、多くの点で共感を抱くものであるが、ただ、以下に見るように、いくつかの点で、なお趣旨の不明な点ないしは必ずしも完全には賛同できない面が残されていると言わざるを得ないように思われる。

 1。まず、大学の法学部における法学教育の目的がジェネラリスト養成であり、ジェネラリストに要求されるのは「紛争の予防及び解決技術を広汎に心得ている」という意味でのリ−ガル・マインドである、ということを前提したとして、そのことは、大学で教えるべきはこの種の「技術」そのものであるということを直ちに意味するか、という問題が残されているように思われる。確かに例えば司法研修所とか各省庁の研修機関等では、この意味での「技術」が教えられるものということができよう。しかしいうまでもなく、大学での法学教育が、これと同じ意味での実務家養成であるとは誰も考えていないのであって、まさにそうであるが故にこそ、大学ではスペシアリストではなくジェネラリストの養成を行うのだ、とされるのである。ではしかし、そこでいう「ジェネラリストの養成」とは一体何であろうか?それは、その対象が人文社会科学の分野一般に広く亙っているという、いわば量的な面で司法研修所等の研修機関における教育と異なるだけであって、その質における違いは無い、ということができるのであろうか?
 私は、この点、そうではないと考える。私の考えるところでは、大学がこれらの機関と本質的に異なるのは、それが、「学問」に携わる機関であるが故である。やや観念的にいうことが許されるならば、大学の存在価値は「学問」を行うところにあるのであって、まさにそれ故にこそ、「学問の自由」そして「大学の自治」による保障を求める資格が認められるのである。このことは、独り大学教官の「研究」についてのみならず「教育」についても言えなくてはならないのであって(そうでなければ、例えば大学のカリキュラムや教育方法についての大学の自治は、その存立根拠を失うことになる。)、大学における教育は、まさに「学問のあり方」を教えるところにこそ、他の諸々の研修機関には無い独自の特徴を持つものでなければならないのである。この意味において、西尾論文における、大学における法学教育の目的は、ジェネラリストのリ−ガル・マインドを養成するために、広く紛争の予防及び解決のための技術を伝授するところにある、というくだりは、少なくともミス・リ−デイングであるように思われる。

 2。ではここでいう「学問」とは何か。この点、西尾論文では、「法学(とりわけ法解釈学)は科学ではない」ということから直ちに「法学は技術である」という結論が導かれているが、私には、そこに一つの飛躍があるように思われる。
 私の信ずるところでは、「学問」の「学問」たる所以は、少なくとも、「何故か」を問うところにある。このことはそれが自然科学のような(言葉の狭い意味での)科学であろうと、「法学」あるいは「神学」のような「解釈学」であろうと、変わるところはない。例えば、ある判決において示された一裁判官の法解釈と学術論文において展開される法律学者の法解釈とに性質上の違いがあるとすれば、それは後者が、「何故そうか」という問に対し、前者には無い程により深くまた広い考察を加えたものであるところでなければならない筈である。このような考察を伴わない法解釈論は従って、「法学」の名に値しないものであると言わなければならない。そして、大学における教育とは、まさに、このような考察をする能力を開発すること、つまり、絶えず「何故か」の問を立てられる人間を育成することにある筈である。この意味において、法学部における教育とは、広い意味での(つまり、法についての哲学、法についての歴史、そして外国法等を含んだ)法及び(これまた広い意味での)政治を素材として、「何故か」を問い得る能力を育成するところにあるものというべきである。誤解を恐れずに敢えて言うならば、そこでの「法」や「政治」は、手段であって、目的ではない。そして更に言うならば、このように、対象とする素材を異にこそすれ「何故か」を問うことにおいて共通するものがあればこそ、自然科学・人文社会科学等を含めた総合大学というものが成り立ち得る理論的基盤がある筈なのである。

 3。なお、改めて言うまでもないことながら、ここで「学問のあり方を教える」と言い、また「何故かを問う能力を養成する」という場合、それは決して、いわゆる「研究者の養成」ということと同義である訳ではない。仮に「ジェネラリストとしての能力」ないし「リ−ガル・マインド」なるものが、時々刻々様々な形を取りつつ登場する諸問題に直面して、これに対し柔軟かつ的確に広く対処することのできる能力のことを意味するとするならば、このような能力とは、必ずしも膨大な知識を詰め込んでいるとか、一定のマニュアルを完全にマスタ−している、といったことではなく、どのような問題が生じようとも、何よりもまずそのような問題が生じて来たのは何故かを問い、自らの頭で原因についての分析を進めて行ける能力のことなのではあるまいか。「何故か」を問い原因を掴むことによって初めて、これまでのマニュアルの然るべき応用の仕方を考えることもできるし、また新たな解決の道を見出すこともできる。このような能力は、程度の差こそあれ、独り研究者のみならず、どのような世界にあろうとも、指導的な立場にある者が広く備えていなければならない能力である筈である。大学そして法学部とは、まさにそのような能力を開発する場所であるというべきである。

 4。大学における法学教育の目的がこのようなところにあるとすれば、「研究と教育の一体性」はもはや大学院教育においてしかあり得ない、という結論ないし判断についても、再度検討する必要が生じてくるであろう。西尾教授はこの結論を導くに当り、従来我が国では『大学での講義は教師がその研究の最先端の成果を講じるべきもの、その学問の蘊奥を究めるべきものと観念され、必要以上に高尚な講義が行われてきたきらいなしとしない』という認識を出発点としておられる。この事実認識自体は当っているように私も思うものであるが、しかし上に見たように、大学での講義は本来、必ずしも教師が自己の研究の最先端の「成果」を講じるべきものではなく、自己の研究を素材として、「何故か」を考えることの意味を教えるものであるべき筈である。そのための方法は、必ずしも「成果」それ自体の一方的披瀝であるとは限らず、「成果」を素材として用いるとするならば、むしろ、自分は如何様にしてそこに辿り着いたかという、いわば思考プロセスの披瀝でこそあるべき筈であろう。
 そしてこのこと自体は、学部における講義であろうが、大学院における教育であろうが、本質的に変わることは無いように、私には思われる。すなわちまず、大学院の学生を対象としてであろうとも、およそ教育である以上、受ける側に対する教育の効果を重視せずに講義・演習を行うことはできない。それはしかし、例えば学会において自己の最先端の研究成果を報告する場合、あるいは学術論文を書くことによって研究の成果を世に問おうとする場合でも同じことであって、およそ自己の考えることを他人に対し情報として発信しようとする限り、情報の受け取り手の理解度を確認しながらことを進めなければならないのは、当り前のことである。翻って、学部学生の場合について見るならば、少なくとも(始めに見たような意味で)本日我々が対象としようとしている学生群に関していう限り、高度な「知」の世界に対する関心自体が全く無いものとは考えられない。むしろ、彼らが求めているのは、教授達が行っている高度な内容の「学問」を、自分達に分かる言葉で説明してもらうことなのではないかと思われる。例えば、「ソフイ−の世界」がベストセラ−になるという昨今の現象は、そのことを示す象徴的な一つの出来事とも言えるのではなかろうか。
 つまり、問題なのは情報伝達の方法であって情報の内容そのものではない。そして、情報伝達の方法は、情報の受け取り手の能力に応じて工夫されなければならないことは自明のことであって、この点、一年生と四年生、大学院生、法律家一般、そして分野を同じくする専門の研究者とで、それぞれに違いがあるのは、当り前のことである。例えば、入学したばかりの一年生を対象として自分の最新の学術論文をただ読み上げるのでは、情報伝達として殆ど意味が無いことは、改めて言うまでもないことであろう。このことを踏まえずして、最近の学生には知的成熟が欠けるため自己の研究成果を教えることができない、というのは、もはや学生の能力や制度の欠陥の問題であるのではなく、むしろ教師の怠慢というべきである。

V 情報伝達手段としての講義における「先端」と「伝統」・「基礎」と「応用」

 さて、以上を前提とした上で、本日私の報告に課題として負わされていると思われる(先にIIで整理した)問題、すなわち、大学の法学部においては、今日なお六法を中心とした伝統的な法律分野を中心として、専ら基礎的な知識についての教育をしているので良いのか、という問題について、私なりの結論を出してみることとしたい。

 1。まず、今日、法律の世界においても、様々な(先に見たような意味での)「先端的」な問題が生じ、現実にこれらに対処するためには、単に六法についての「基礎的な」知識があるだけでは足りず、少なくともその「応用」の能力が開発されていなければならない、ということは、疑いを入れない事実である。そしてまた、今日我々法律学の研究者が、自己の専攻する分野についての研究を進めるに当って、この意味での「先端」と「伝統」、そして「基礎」と「応用」ということを絶えず頭に入れ、目を配りながら研究を進める必要がある、ということもまた、おおむねは承認して良いであろう。それは丁度、「歴史を知らなければ現在のことも本当には分からず、また現在を知らなければ歴史の意味も分からない」、あるいはまた「世界(または欧米)を知らなければ日本(またはアジア)のことも本当には分からず、日本(アジア)を知らなければ世界(欧米)のことも本当には分からない」といったような意味においてである(尤も、「研究」そのものについては、このような「先端」や「応用」とは切り離された、純粋に「伝統」的な問題についての「基礎」的な研究というものがあり得ないか、という問題があるが、これは本日の問題ではないので、ここでは措くこととする。)。

 2。しかし、上に見たように、法学部における「教育」の問題を「学問のあり方」についての情報の伝達方法の問題である、として捉えた場合、我々は、伝達方法の有効性の問題を抜きにして考察することはできない。言い換えれば、ここでの真の問題は次のようなものとなる筈である。

『大学で真に勉学したいという意欲は持ちながら、どのようにすれば良いのか分からずにいる相当数の学生達のために、法律学の分野における学問的な考え方、すなわち「何故か」を考える道筋を、学部レヴェルで教えるために有効な方法は、何よりもまず「先端」ないし「応用」を教えることなのか、それとも「伝統」ないし「基礎」に重点を置いた教育を行うことなのか』

 この問いは、ある意味ではそれこそ極めて「伝統的な」問いであって、例えば私の専攻する行政法学で言うならば「まず行政法総論を講義すべきなのか、それとも先に各論を講義した方が良いのか」といった古くからの問題に対応する一面を持っている。そして、それに対する答もまた、常識的に言えば、「そのように二者択一的な解決はできない」ということであり、いわば、「各論的な問題に触れずして総論を教えることはできず、また総論的な問題と関係無しに各論を講ずることはできない」ということになるであろう。そしてこのこと自体、ここでもまた敢えてこれを否定する必要は無い。ただ、強いて言うならば、従来のこの種の問い及び右に見たような答は、主としては、大学では法律に関する「知識」を授けるのだ、という前提に立ち、現在の法律についての十分な知識を修めさせるためには、どのような手順でものを教えたら良いか、という問題として論じられて来たように思われる。しかし、本日私が述べたように、「大学は、おしなべて学問的な思考能力(何故かを問うことのできる能力)を開発するところであり、その意味で法学部教育にとっての法律(の知識)もまた、目的ではなく手段であるに過ぎない」という考え方に立つならば、上に挙げた問いに対しては、次のような意味において(そもそも原理的に)「二者択一的な回答はできない」という答がなされざるを得ないことになろう。すなわち、「何故か」を問うことは、「先端」についても「伝統」についても可能であり、それぞれに意味のあることである。どちらを取り上げる方が、学生に対するより有効な教育方法であるか、ということは、一つには、学生がどちらにより興味を持つか、ということに掛る。しかしこのこと自体は、一概には言えず、より先端的・現代的問題に関心を持つ学生もいればまた逆に、むしろそうでない問題により関心を持つ学生もいる筈である。むしろ、ことは、教師自身が、どちらに依ることによってより良く自己の学問的関心を学生に伝達し得るか、ということに掛るように思われる。大学教育(あるいは少なくとも法学部教育)において最も重要なことは、教師の学問的世界を垣間見ることによって学生が感銘ないし感動を受ける可能性を、与えることである。どのようにすれば最も上手く自己の学問的世界を彼等に垣間見させることができるかを考えるのは、当の教師の責任であり、また権利でもある。そこにマニュアルはあり得ないし、況んやこの問題を制度的に解決する手立ては、本質的に言って、存在しない。

fujita@law.tohoku.ac.jp
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