はじめに
本日の講演の内容につき、主催者から求められたのは、次のような事柄である。
- 今、国立大学では、独立行政法人化についてどのような現状認識を持っているのか。
- 今後、国立大学は、どうなるのか(私見でも良い)。
- 独立行政法人化によるメリット・デメリットは何か。
- 現行の99の国立大学はどうなるのか。
- その他
- 今後、公立大学に与える影響は何か。
- その他
この講演では、出来得る限り、このご要望にお応えしたいと思うが、そこには、私の立場として、自ずから、現段階でお答えできることと出来ないこととがある。そこで、本日は、主として、この国立大学の独立行政法人化という問題の経緯につき、(先に私がジュリスト誌上に一文を書いた5月末の段階では未だ公に出来なかったことをも含めて)振り返ることとし、そういった経緯の中で、現在問題状況はどのような段階に達しているのか、そして、今後どのようなことが予測され得るか、といったお話をさせていただくこととしたい。ただその場合、当然のことながら、現状況で私自身がこの問題をどう考えているか、それも、大学で行政法学を専攻し、またこの問題をめぐる政治的な動きにいわばその初期の頃から触れてきた者として、何が問題であると考えるか、という、その意味では、問題の取り上げ方についての視角が、それなりに限定された話とならざるを得ないことを、お断りしておきたい。また、皆様方が最も関心を抱いておられる筈の、国立大学におけるこのような問題状況が公立大学にどのような影響を与えるであろうか、ということについては、本来私が充分にお答えできる資格もまた能力も無いことであるので、ごく基本的な問題点の指摘のみをさせていただくに止めざるを得ないことをお許し頂きたい。
なお、本日は、お手元にレジュメを配布させていただいており、概ねこれに沿った話をするつもりでいるが、実は、このレジュメを作った後に、若干の状況の変化も生じており、それを補った上でのお話になることを、お断りしておきたい。
一 国立大学の独立行政法人化問題をめぐる客観情勢について
1.問題の経緯
国立大学の独立行政法人化という問題のそもそもの発端は、いうまでもなく、橋本内閣時代の平成9年(1997年)12月になされた行政改革会議の最終報告で、独立行政法人制度の導入が提言され、また、その際、国立大学に関しても若干の言及がなされたことに遡る。但し、この「最終報告」においては、国立大学に関する限りは、「独立行政法人化は、大学改革方策の一つの選択肢となり得る可能性を有しているが、これについては、大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図るという長期的な視野に立った検討を行うべきである」と述べられていたに止まるのであり、少なくとも、緊急に結論を出すべきものとは考えられていなかった。しかし、その後、この最終報告の内容を実現するために(翌平成10年6月に制定された中央省庁等改革基本法に基づき)設置された政府の中央省庁等改革推進本部が、その作業を進める課程において、国立大学を対象から除いていたのでは、独立行政法人制度の導入の成果が充分であるとは言えない、という考え方が、強く出てくるところとなった。とりわけ国立大学についても独立行政法人化を、ということを強く主張されたのは、行政改革担当大臣太田誠一前総務庁長官であったが、このような主張は、大臣一人のものではなく、改革の進め方を監視するために設けられた推進本部の「顧問会議」の席でも、複数の委員から、「国立大学をも聖域とするな」との主張が繰り返し行われるところとなったのである。こういった状況の下、平成10年(すなわち昨年)の終わり頃からは、国立大学についても直ちに検討を始めるべきであるとする太田大臣と、行革会議の最終報告ではこの問題は長期的に検討することになっていた筈だ、としてこれに抵抗する当時の有馬文部大臣との間で、かなりの攻防がなされたようである。その結果は、両者の妥協として、「国立大学の独立行政法人化については……平成15年度までに結論を得る」という了解となり、これが、本年(平成11年)1月26日の中央省庁等改革推進本部決定(実質は閣議決定と変わらない)「中央省庁等改革推進大綱」の中に明記されるところとなったのであった。
ところが、私のジュリスト論文で指摘しておいたように、この平成15年までというのは、実は「それまでの間は結論を出す必要は無い」ということではなくて、現実にはそのような時間的余裕は与えられておらず、平成12年中(正確には、平成13年度の概算要求時期)までには(少なくともその本質的な部分については)結論が出されていなければならない、ということが、事実上はじめから決まっていたのであった。それは、最終報告が掲げた定員削減計画との関係によるものである。すなわち「最終報告」は、省庁再編が始まる平成13年(2001年)から10年間で、公務員の定員を10パーセント削減することを、目標として立てていた。但しその際、現行の行政組織から独立行政法人に移行するものについては、定員法でいう定員の中に含めないこと、つまり、そこでいう10パーセントの削減の対象とはしないこと、としていたのである。そしてこれは、独立行政法人であって、職員の身分を公務員とするもの(通則法のいう特定独立行政法人)についても、そうであることとされていた。そうであるとすると、上記の平成13年からの10パーセントの定員削減計画というのは、いずれにせよ、現行の定員の中から独立行政法人に移行するものを除いた数を対象として行われることになる。そのことはつまり、平成13年に削減の実施が始まる前には、現行の全職員の中、どの部門のどれだけの職員が独立行政法人へ移行するのかについて、少なくとも基本的な決定がなされているのでなければならない、ということを意味することにもなるわけである。
しかも、その間、小渕内閣の発足に際して、この10年間で10パーセントという削減率は、20パーセントまで引き上げられた(その後の自自合意で、現在では25パーセントとされている)。そしてその場合、橋本内閣時の10パーセントに対する更に10パーセントの積み上げ分は、国の行政事務の独立行政法人化を進めることによって達成すべきもの、とされたのであった。つまり、この計画で行くと、現在の定員法で定める総定員ほぼ53万人の中10パーセントは、平成13年から10年以内に独立行政法人へ移行しなければならないことになるわけである。その場合、独立行政法人化の最も有力な候補となる現業公務員の場合は、既にここでいう定員法上の定員とはされておらず、他方国立大学関係者は、10万人もいるのであるから、この10万人が、独立行政法人化の絶好かつ不可欠の対象として目を付けられることになるのは、不可避の事態であったといわなければならない。当初「長期的に検討すべき問題」とされていた国立大学の独立行政法人化の問題が、ここに来て(小渕内閣になって)急激に表面化してきたことには、このような政治的背景があるのである。
今日、問題のこのような状況については、少なくとも国立大学関係者の間では、既に広く認識されているところと言ってよいと思われるが、私が先のジュリスト論文を書いた時点では、国立大学関係者の殆どは、この問題がこのように緊急の検討を要する問題であるということ、すなわち、一般に報道されていた平成15年までというような悠長な話ではなく、来年の概算要求時までには、基本的な結論を出すことが求められている問題なのだ、ということに、気が付いてはいなかったように思われる。実は、私自身、このことに気が付いたのは、本年の3月はじめ頃になってのことであったが、他方で、文部省は、本年の2月頃までには、現在の政治状況の下で、国立大学の何らかの形での法人化は避けられない、との判断にほぼ達していたようで、同時にまた、その場合、問題が上記のように差し迫ったものであることも、察していたようである。そして文部省は、当時の状況では、大学側が、そのような短期間の中に十分な検討を行い、この問題について統一的な見解を出し得るかどうかについては、甚だ悲観的であった。他方でしかし、文部省としては、政府の定員削減計画との関係で、上記の政治的スケジュールを動かすことは出来ないのであるから、大学側の自発的な検討結果が出てこないのならば、やむを得ず、文部省が一方的にであれ、法人化に向けた具体的な提案をしなければならないであろう、と考えていた。そしてこういった提案をする時期は、当初、通常国会が終わる時点、すなわち7月末頃とされていたのである。私がジュリストに先の一文を書いたのは、こういった政治的状況の下、まさにやむにやまれぬ思いからであった。
私のあの論文は、国立大学関係者にとっては、いわば「太平の眠りを覚ます蒸気船」としての意味を持ったようであって、一方では、例えば、東大の蓮見総長等からの、私に言わせれば、全くいわれのないとしか言い様のない反発を受けたところである。しかし、私自身は、あの一文を発表したことによって、いわば、大学人が寝耳に水の形で文部省の提案に接し、上を下への大混乱の中に、大学には問題の自主的解決能力無し、との口実の下、政治のレヴェルで極めて乱暴な決定がなされるといった、最も不幸な経過だけは避けることができたのではないか、と考えている。
さて、幸い、国立大学関係者は、国立大学協会をはじめとし、多くの大学において、真剣な検討を始めて下さった。そしてその結果は、まず、国立大学協会の第1常置委員会が、9月7日付けで公表された「国立大学と独立行政法人化問題について」と題する中間報告としてまとめられている。他方で文部省は、通常国会が延長されたこともあり、また、国大協での検討が始まったことをも考慮して、当初7月中にもと言っていた具体案の提示を、9月の半ば過ぎになってはじめて行うところとなった。これが、9月20付けで各国立大学の学長に示された「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」と言う文書である。ここでは、独立行政法人化を前提とした上で、その制度設計の概要を明らかにする文部省案が示されている。そして、私のみるところでは、この両者ともに、その内容は、実質的に、私がジュリスト論文で指摘したところを下敷きとしたものとなっている、と言って良いように思われる。
いずれにしてもこうして、ともかくも、国立大学協会から一応の検討結果が公にされた後に、それをも踏まえた上で文部省が具体案を提示する、という形となったのであって、この文部省の提案を受けて各大学で具体的な検討中、というのが、基本的に言えば、現段階での状況である、と言って良いと思われる。
ただ最近、国立大学協会は総会を開き、11月18日には、「会長談話」として、蓮見東大総長の「国立大学の独立行政法人化問題の議論を越えて高等教育の将来像を考える」と題する談話が発表された。その内容は、私の見るところ、要するに、国大協としては、少なくとも現段階では、文部省の具体的提案に対して賛否の表明あるいは修正提案等をすること自体をしないのだ、という宣言であるように思われる。その理由としては、今日大学にとって、独立行政法人化の問題を検討する以前に検討しなければならない重要な問題が種々あるのであって、そういったことの検討をしないままに独立行政法人化云々を論ずること自体、こういった問題の所在を覆い隠すことになるおそれがある、といったことが述べられている。しかし、その実態は、国立大学協会に参加する99国立大学の間には、独立行政法人化に積極的なものから、絶対に反対というものまで、様々の違いがあり、国大協としての意見をまとめることは不可能、ということのようである。いずれにせよしかし、この会長談話は、現実には、現下の国立大学独立行政法人化の問題について、国大協が国大協として一定の政治的責任をはたすことを放棄することを意味するものであって、そうであるとすれば、今後の展開は、必然的に、文部省からのリードを中心として行われて行く結果とならざるを得ないものと予測される。
2.現時点での問題状況
以上見たように、現段階では、国立大学としてこの問題につき最終的にどう対処するか、ということは、正式には、未だ全く決まっていない、といわなければならない。しかし、以上のような経緯、及び、各方面でこれまでに発言されてきたことを総合すると、私は、現時点では、ほぼ、次のように、問題状況が煮詰まってきたと言ってよいのではないか、と考えている。
第一に、先の通常国会で成立した「独立行政法人通則法」を、国立大学にそのままに適用することは出来ない、ということについては、恐らく、全ての関係者の意見は合致している、ということである。そしてこれは、私自身、ジュリスト論文で指摘したところでもあった。
しかし第二に、他方で、国立大学が何らかの形で独立の法人格を得るということ、すなわち、もはや現行のように、文部省の付属機関(施設等機関)として国家行政組織内に止まるのでなく、その外に出るという形での独立性をもつこと、自体については、これまでの議論を見る限り、必ずしも、正面からの反対が、説得的な論拠をもって行われているとは言い難いように思われる。例えば、国大協の中間報告を見ても、明確に反対されているのは、「独立行政法人通則法」のままでの法人化であって、実質的には、法人化をするとしたならばどのような条件の下でなければならないか、ということが、詳細に論じられている。そして、そこで提示されている諸条件と、文部省の具体的提案の内容とには、少なくとも決定的に対立するところは、必ずしも存在しないように思われる。その限りにおいては、国大協の中間報告と文部省の提案とで、その考え方の間に、それほど本質的な違いは無いのであって、政府の中央省庁等改革推進本部においても、両者の関係は、ほぼそのように捉えられているようである。そして、既に見たように、11月18日の国大協会長談話もまた、結局、国立大学が独立の法人格をもつということ自体に対しての、決定的な反対として働くことにはならないのである。
そして仮に現状況がそのようなものであるとするならば、現実に意味のある問題は、「通則法」を特別法によってどのように修正ないし補足したならば、大学にふさわしい独立の法人の制度設計が可能になるか、という点に、集約されることになるものと思われる。そして、この点については、既に文部省から、一定の構想が示されているのであるから、そこで示された構想をどのように考えるべきか、ということこそが、中心的な議論の対象となるはずである。そこで以下では、この文部省の構想を、どのように理解し、またどのように評価したらよいのか、ということについての、私の考えを述べることとしたい。
まず、文部省案を理解する前提として、「通則法」を修正ないし補足する上記の意味での特別法には、理論的に言って次の三通りないし四通りのパターンがあることを、はっきりとさせておきたい。
その一つは、制度の内容自体については「通則法」のそれをそのままに適用し、ただ、個別法人の業務の内容とか名称とかのみを別に定める「個別独立行政法人設置法」であって、現在開催中の臨時国会に提出された、来年度第一陣として独立行政法人化されることが決まっている90ばかりの機関については、通則法に対するそれぞれの「個別法」は、このようなものとなっている。これに対し第二に、制度の内容そのものについても、「通則法」の内容を修正する「個別独立行政法人特例法」とでも呼ぶべき個別法が、別に考え得る。この場合には、「通則法」がそのままに適用されるわけではなく、業務の内容に応じて、制度のあり方に修正が加えられるが、ただ、「独立行政法人」という基本的な構想の枠自体を外れ得るものではない、という制約が存することになる。私のジュリスト論文では、この第一第二の二つのケースが考え得ることを指摘していたが、両者を共に「個別法」とのみ表現していた。しかし、議論がより煮詰まってきた現在、この両者は、仮に「個別法」と「特例法」のように、用語を変えて表現した方が分かり易いように思われる。因みにこの区別は、推進本部でも採用している用語法のようであり、その場合、推進本部では、国立大学を独立行政法人化する際には、その設置法のあり方はここでいう「特例法」となるであろうこと、すなわち、「通則法」の内容自体、大学の特殊性に会わせて修正されることになるであろうことを、顧問会議の席で、明言している。
「通則法」をそのままに適用しないことを前提として、考え得る第三の道は、(これまた私のジュリスト論文において指摘しておいたところであるが)いわば「大学法人」とでも言うべき、大学に独自の法人制度を考え、独立行政法人の制度設計とは全く関係なく、独自の制度設計を行う道である。このケースは、仮に「大学法人法」のケースと呼ぶことが可能であろう。但し、このケースは、第四の、いわゆる民営化のケースとは異なるのであって、とりわけ「独立採算制」を採用するものではない。
3.現実の選択肢
さて、上記の四つの道、すなわち、「個別法」「特例法」「大学法人法」「民営化」のケースの中で、現在までの議論の状況を前提とするならば、「個別法」ケースと「民営化」のケースは、国立大学関係者の現実の検討の対象からは、はずされる(あるいは、はずされることになる)ものと言ってよい。そうすると、残る可能性は二つであるが、この両者が基本的に異なる点は、再度整理しておくならば、次の通りである。
「特例法」ケースでは、「通則法」の定める制度の内容は修正され得るが、しかし、その修正は、「独立行政法人」の基本的な構想の枠内に止まらなければならない。そこで、このケースにおいては、何がその意味で許される修正であり、何が既に「独立行政法人」の基本構想を超え許されない修正であるか、ということが、決定的に重要な問題となる。
これに対し、「大学法人法」のケースにおいては、制度設計自体は、「独立行政法人」の基本構想と無関係に、自由に行えるが、他方で、「民営化」のケースと異なるのはどこかが、重要な論点となる。因みに、文部省案は、明らかに「特例法」案であるが、国大協中間報告がこのどちらを想定しているのかは、必ずしも明確ではない。しかし、国立大学関係者の中には、「独立行政法人」案を拒否し、こういった意味での「大学法人法」の方向を探るべきことを述べている向きも、少なからず存在している。そして実は私は、文部省案に対して、国大協からは、こういった方向の対案が出されてくるのではないか、と予測していたのであった。
二 各案の検討 …… その特徴と問題点
1.基本的視角
独立行政法人となることのメリットは、いうまでもなく、国の行政組織から離れた独立の法人格を取得することによって、その組織編成、人事管理、財務・会計処理等、様々の点で、現在よりも、自由な判断及び行動の余地を得ることができる、というところにある。ところが他方、この制度は、民営化の場合とは違って、その業務自体はあくまでも国の行政の一部として位置付けられ、従ってまた、独立採算制ををとるものではなく、業務の財源に当てるために必要な金額は、政府が予算措置を執ることによって、まかなわれるのであるから(通則法46条)、自由な判断及び行動の余地といっても、そこにはおのずから限度があり、民営化の場合にはあり得ない、国(主務省)による様々のコントロールが加えられることとなっている点に特徴がある。国立大学の独立行政法人化問題について、国立大学関係者が、なかなか明確な結論を出し得ないでいるのは、基本的に言えば、人事管理や財務・会計処理の上で「自由な判断及び行動の余地が拡がる」という点にはメリットを見出すことができるにしても、後者の、業務運営に対する「国によるコントロール」の結果、現在よりもむしろ、その活動の自由は狭められてしまうのではないか、という疑念を払拭できないでいるからである。
例えば、「通則法」を大学に適用することが適当でないのは何故か、については、先のジュリスト論文においても述べたところであるが、基本的に言えばそれは、本来、執行部門に企画立案部門たる本省からの自由を与えることによって、業務の効率化を図ろうという目的のために設計されている、独立行政法人についての様々の制度が、国立大学の場合には、むしろ逆に、従来与えられている文部本省からの自立性を制約する結果となり、大学における教育・研究の遂行上望ましからぬ影響をもたらすおそれがあるからである。それを象徴するのは、例えば、法人の長の任命についての主務大臣の権限、中間目標の指示・中期計画の認可等の手段による、主務大臣の監督、そして、主務省及び総務省における評価委員会による評価システム、等である。そして、文部省案に見られるような「特例法」選択案は、通則法上のこういった制度自体はいわば形式的に維持しながら、その実質を、大学の自主・独立性を失わせることのないようなものに修正していこう、という考え方であると言って良い。これに対して、「大学法人法」選択案については、未だいずこからも、その具体的な制度設計が示されてはいないため、正確なことは言えないが、基本的に言えば、上記のような通則法上の諸制度は、形式的にであれ採用することは危険なのであって、従って、通則法の定める内容から、こういった危険な制度一切を除去した制度設計を考えよう、というものであるということができよう。
このことを前提として、以下、両案の特徴と問題点について、更に詳細に検討してみることとしたい。
2.「大学法人法」案
便宜上、まず「大学法人法」案の方から先に取り上げることにしたい。この道を選択する場合には、「通則法」の定める諸制度の枠に囚われる必要はないから、理論的に言えば、制度設計自体は、大学の業務(研究・教育)の固有性に即して自由に行うことが出来る、ということになる。しかし他方、先にも述べたとおり、主務省からの自由を拡大すればするほど、民営化した場合との制度的な違いがどこにあるのかが問われることになる、という点も、看過することは出来ないものと思われる。言葉を換えて言えば、一層民営化してしまうというのならばともかく、国の予算において所要の財源措置が執られるということを前提とし、また、職員の国家公務員としての身分を維持しつつ、しかし他方で、およそ組織編成・人事・業務運営の一切について国からの介入を(形式的であるにもせよ)受けない、という制度設計をすることが、政治的あるいは一般人の常識からして、受け入れられるものかどうかが問題となろう。言い換えれば、国からの自由を拡大しようとすればするほど、政治的には、民営化圧力が掛かることになりかねないのであって、その制度設計に当たっては、こういった点についても、よほど慎重な配慮がなされるのでなければなるまいと思われるのである。
3.「特例法」案
この案の場合には、先に見たように、「独立行政法人」という制度設計の基本的な枠組みからはずれることは出来ないのであるから、何よりも問題となるのは、通則法が定める様々の個別的な制度の中、何がこの意味での枠組みとなり、何が必ずしもそうではないか、ということである。とりわけ問題は、先に触れた、「法人の長の任命権」「中期目標・中期計画」「主務省及び総務省におかれる評価委員会による評価」の三点にあると言えよう。そこで、これらの制度は、どのような意味を持つものであるのかを、独立行政法人という法制度の本来の目的との関係から、再度検討してみることとしたい。
三 独立行政法人制度の目的とその制度的枠組み
1.独立行政法人制度の目的とその基本的骨格
「通則法」における独立行政法人制度の設計は、先のジュリスト論文においても述べたとおり、本来、企画・立案から実施に至るまで一体として行われていた行政分野において、実施部門に独立性を与えることによってその効率化を図ろうという目的の下なされている。従ってそこでは本来、第一に、企画・立案機能と実施機能とがかなり明確に分け得るということと、更に第二に、現行制度の下では実施部門に独立性が与えられていない、ということが前提となっているのであって、その本来のターゲットは、例えば、検査検定事務・許認可事務、といったような、比較的定型的にして、かつその効率性を数量的に測定できるような事務である。ところが国立大学の場合にはもともとこの二つの要件が備わっていない、というところにそもそもの問題がある。このことは、既に様々の論者が指摘しているところである。ただ、今回の独立行政法人制度の導入自体には、こういった「効率化」の観点と並び、更に第一次的な目的としての「国家行政組織の減量化」という目的があるのであって、そういった観点からは、国立大学の場合も、この制度の対象として、射程距離の中に入らないこともない、といった関係にあることは、先にジュリスト論文で指摘したとおりである。
但し、「通則法」の制度設計自体は、むしろこの「効率化」の観点が中心となって出来上がっているのであって、そのような観点からみる限り、その本質的構造は、次のようなことになる。 第一に、主務大臣が、法人の長に大幅な自由を与えることにより、いわば長の才覚により、その責任において、業務の効率化を図ることとする。第二にしかし、その場合にも、国の行政の一環として位置付けられる業務である以上、主務大臣が、全く責任を放棄することは出来ないのであって、従って、業務運営に対する個別的な指揮監督は行わないにしても、業務の運営についての基本的な目標を予め与え、かつその目標が達成されたか否かについての事後評価を行うシステムは、これを確保する。第三に、所要の財源につき国の予算による措置を行うが、その支出については基本的に法人の自由に委ねるものである以上、適正な支出がなされることを担保するための手段が、何らかの形で、主務大臣に残されていなければならない。先に挙げた三点セットすなわち「長の任命権」「中期目標・中期計画」「事後評価」という諸制度は、まさにこういった目的を実現するための制度として、今回の「通則法」の制度設計においては、いわば、その基本的な骨格を成す部分であると言わざるを得ないのである。この点に関して、文部省の「検討の方向」では、次のような説明をしている(「検討の方向」(3))。曰く、
「独立行政法人制度は、国の事前関与・統制を極力排し、事後チェックへの重点の移行を図ることにより、各法人の自主性・自立性を高めようとするものであるが、その一方で、行政の一端を担い、財政支出により支えられることに伴う国としての必要最小限の関与は避けられず、このため、
- 主務大臣による中期目標の指示、中期計画の認可は、唯一の事前関与のシステムであること
- 主務大臣による中期計画の認可は、予算の弾力的な運用が認められることの前提条件と解されること
- 主務省におかれる評価委員会による評価は、事後チェックの中核的なシステムであること
- 中期目標期間終了時における主務大臣による検討は、行政責任を負う主務大臣としての事後チェックであること」
そして、このような理解はまた、恐らく、推進本部の理解とも一致するのではないかと推測される。
2.三点セットと国立大学
では、こういった制度的枠組みを前提としながら、国立大学の業務の固有性に適合した制度設計を考えることは、果たしてまた如何にして可能であるのか。
この点についてはその間、東京大学法学部の山本助教授が、ジュリスト8月号誌上で、「個別法で通則法に大幅な修正を加えることは、立法形式の濫用であって、許されない」との考え方を示された。この点については、私は、次のように考えている。問題はもとより、何がそこでいう「大幅な修正」に該当するか、というところにも存在するが、更に加えて、先に私のジュリスト論文においても指摘したとおり、今回の「通則法」においては、今回の我が国における独立行政法人制度導入の背景にも鑑み、業務の固有性に応じた修正を加えることを、法律自体が前提しているというべきなのであるから、山本助教授の指摘されるような問題は、一般論としては存在するものとしても、私がここで立てるような問題の意義自体を否定することにはならない。と同時に、現下においてまさに必要なのは、山本助教授のような一般論ではなく、まさに私がここで問題とするような点について論じることなのだ、と私は考えている。
さて、先の私のジュリスト論文では、ここでの問題に関して、具体的に二つばかりの点を指摘しておいた。その一つは、長の任命権に関する問題であって、仮に独立行政法人となったとしても、現行の教育公務員特例法の適用は廃止すべきではなく、長の任命は、大学管理機関(評議会)の申し出に基づき大臣が行う、というシステムを維持すべきである、ということである。この点については、現行制度の下でも任命権者は大臣であるにもかかわらず、大学の独自性を考慮してこのような手続となっているのであり、また、その手続の運用についても、長年にわたる慣行が出来上がってきているのであって、大学の固有性を考慮すれば、通則法の定める任命権の行使につき、このような手続上の補足を加えることは、当然許されるものと考える。私が指摘した第二の点は、中期目標・中期計画という制度が前提としている「業務の効率性」ということにつき、大学の研究・教育における「効率性」というものは、許認可事務や検査・検定事務などの「効率性」とは性格の異なるものであって、従って、中期目標・中期計画の内容についても、このことを前提とした修正が加えられなければならない、ということである。そこでも指摘したように、「通則法」自体「この法律及び個別法の運用に当たっては、独立行政法人の業務運営における自主性は、十分配慮されなければならない」と明文で定める(3条3項)ほか、政府の「中央省庁等改革の推進に関する方針」においては、中期目標について「なお、独立行政法人の業務の性格に応じた目標の設定となるよう特に配慮するものとする」と明言されているのであって、こういった修正を加えることが、独立行政法人制度の骨格を否定するとか立法形式の濫用になるといったようなことは、全くないものであると考える。
私が先に具体例として指摘したのは、ほぼこういったことであったが、更に今回の文部省案では、中期目標の策定そして評価機関による評価に際して、文部大臣や主務省の評価機関が、一方的な判断でこれを行うのではなく、大学の研究教育の自主性・自立性を担保するため、中期目標については各大学の、そして、評価については、大学評価・学位授与機構(仮称)の専門的な判断を踏まえて行うことにする等を提言している。そしてこの提言は、国大協の中間報告が指摘しているところとも、ほぼ一致している。こういった提言はいずれも、通則法が定めている各機関の権限の行使について、通則法自体は直接に定めていない手続の上での整備ないし補足を行おうとするものであって、法的にみて、独立行政法人の制度の枠内において大学の業務の固有性に応じた修正を加えるものとして、十分考え得る一つの構想ではないかと考えられる。その場合、もとより、こういった手続上の制約を課することが、実質上、主務大臣が権限を持つことの意味を否定することにならないか、という問題は、残るであろう。しかし、ジュリスト論文以来繰り返し指摘してきたように、国立大学の場合には、そもそも、その業務運営に対してもともと主務大臣が広く監督権を有してきた他の行政分野とは異なり、少なくとも、研究・教育のあり方に関しては、文部本省は指揮監督を行わず、指導と助言に止めることとされてきたのであって、その意味において、通則法が本来の対象としている筈の行政分野とは、異なった性質を持つ任務・課題を担わされているのである。このギャップを制度的に埋め、両者の要請を調整しようとするならば、少なくとも先に述べたような制度の修正は、どうしても必要となるのであって、国立大学を独立行政法人化しようとする以上、政府においても、ここのところは何としても理解されるのでなければならないと考える。
四 問題をめぐる政治的情勢
上記を踏まえた上で、国立大学関係者がどのような道を選択すべきかについては、この問題をめぐる政治的な情勢ないし条件についても、充分に目を配っておく必要があるのではないかと考えている。それは、この問題についての最終的な決定をするのは、実は、文部省でもなくまた政府でもなく、国会なのであるから、そこでの議論がどのようなものとなるであろうかについて全く度外視した立論をすることは、問題が国立大学にとって極めて重大な問題であるだけに、甚だ危険であり、また、その意味において、無責任な判断となるおそれがあるからである。
まず第一に、政府の政治的スケジュールとの関係において、この問題の検討が、少なくとも基本的な部分については、来年の概算要求時までに終わっていなければならない、という先のジュリスト論文で指摘した状況は、今日でも全く変わってはいない。
[敢えて言うならば、状況はむしろ、実質的に、更に切迫したものであるかも知れないのである。何故ならば、この問題が政治的な論議の正面に浮上してくるのは、事実上、それよりも早い時期であるかも知れないからであって、すなわち、政府は、次期通常国会に、現在の定員法の改正を提案する予定でおり、この段階で既に、国立大学の独立行政法人化はどうなるのか、についての議論が、政治上浮上してくる可能性がないとは言えないからである。もとよりこの改正自体は、差し当たって2001年1月6日からの省庁再編に対処するものであって、当面国立大学の独立行政法人化とは直接の関係はない。しかし、その審議の過程で、その先どうなるのか、が、政治的に取り上げられる可能性は、決してないとは言えないのであって、仮にそうであるとすると、法案提出は3月であるから、早ければ既に来年の4月5月頃には、この問題が政治レヴェルでの議論の対象となっている可能性が十分にあるのである。その場合に、大学側及び文部省の基本的な考え方が定まっていないならば、政治レヴェルでどのような既成事実が積み上げられて行くか、甚だ危惧されるものがある。]
第二に、仮に国立大学側が、法人化につき「NO」との結論を出した場合、あるいは、法人化はするが、独立行政法人にはならず、独自の大学法人の道を選ぶ、との結論を出した場合に、どのような事態が予測されるであろうかについても、検討をしておかなければなるまい。
まず、およそ法人化を否定し、今後とも、国の直営、すなわち、文部省の付属機関として止まる、という道を選択した場合には、どうなるであろうか。この場合にまず考えられることは、定員の10パーセントを越える大幅削減である。何故ならば、この場合、小渕内閣が公約している、平成13年度から10年間で、独立行政法人への移行分も含めて公務員定員の25パーセント純減というプランは、(もし国立大学が法人化せずそのまま残るとすれば、独立行政法人への移行分を見込んで当初の10パーセント削減に上乗せされた15パーセント分を達成することは、到底不可能であるから)法人化せず残った部分についての削減を10パーセントより上乗せするのでなければ、実現不可能となるからである。その場合、当初計画で立てられた10パーセントという数字自体についても、これは、トータルで10パーセントということであって、全ての分野から均等に10パーセントずつということではないから、これまでの度重なる定員削減において優遇されてきた大学教官については、大幅な削減率の上乗せがあっても不思議ではないのだということにも留意しておかなければなるまい(試算では、30パーセントほどになる、という指摘もある)。
次に、国家行政組織の外には出るが、如何なる形であれ独立行政法人という枠内に止まることは拒否し、固有の大学法人となる、という結論を出した場合にはどうか。この場合に、最も危惧されるのは、先にも触れたように、民営化との違いを、上手く説得することが出来るかどうかであって、金だけを国からフルに出させて、あとは全ての点で自由を獲得する、といった構想が、私立大学をも含め、政治家そして国民一般から支持され得るかどうか、かなりの不安がある。仮に不幸にして、この不安が的中したとするならば、そこで出てくるのは、民営化への圧力であるか、あるいは、国の予算による財源措置の、大幅な縮減であろう。
五 今後の見通し(私見) …… 国立大学はどうなるか?
1.国立大学が置かれている現在の状況
国立大学がどうなるのか、ということについては、冒頭にも述べたように、現段階では未だ最終的な結論を出すことはできない。しかし、以上述べてきたところからして、私が判断するに、現在国立大学が置かれている客観的な状況については、以下のように要約することができるのではないか、と思われる。
第一に、国立大学の何らかの形での「法人化」は、全ての情勢を総合して考えるに、恐らく避けることはできない。
第二にその場合、国立大学が採るべき道は、およそ民営化を考えないのであるとすれば、「特例法」案か、「大学法人法」案かのいずれかである。
第三に、「特例法」の道を選択するのであれば、当面、文部省案をベースとして、より詳細な検討を進めるべきである。文部省案は、特例法案としてはよく考えられていると思われるが、ただ例えば、内部組織に関して、「教育研究組織のうち学部・研究科・付置研究所等は、各大学の業務実施上の基本組織として法令に規定する」とある点などは、内部組織の自由な改廃の余地を限定するものであって、独立行政法人化することの本来の意義に照らしそれでよいかどうか等、なお検討すべき点が残されている。
第四に、「大学法人法」の道を選ぶのであれば、早急に、その具体的な制度設計を明らかにする必要がある。その際、独立行政法人の構想に乗らないことに伴う様々の外的圧力の可能性に留意するとともに、仮に検討の結果において、独立行政法人案と近いものになり得るのであれば、小異を捨てて、「特例法」案との大同の道を探ることをも憚るべきではない。
2.独立行政法人化した後の国立大学についての推測
では、仮に国立大学が独立行政法人化するとして、各大学は、どのような運命を辿ることになるであろうか?この点についても、現段階で行い得るのは、単なる推測でしかないが、敢えて私見を述べるならば、以下の通りである。
まず、客観的な事実として、既に明らかになっている事がいくつかある。
第一に、法人化の時期については、現在の文部省の予定では、次の通りである。まず、来年の概算要求時期までには、およそ独立行政法人へ移行する、ということについての、基本的な決定がなされる。但し、その詳細な制度設計については、政府の方針として認められている平成15年という期限を利用して、なお慎重に検討を続ける。そして、現実の移行は、平成16年から23年(10年間の定員削減計画の終了時)までのいずれかの時期に行う。
第二に、現在の99国立大学のそれぞれがどうなるか、であるが、文部省は当初、全大学をそれぞれ一つの法人とする案と、いわば弱小の地方大学については、いくつかをまとめて、一つの傘法人の下に置く案と、両方の検討を行っていた。しかし最終的には、文部省は、前者を採用している。
次に第三に、こうして、一つずつ独立の法人化した大学がどのような状況に置かれるかについては、現段階では、次のような推測がなされ得る。
まず、その1として、独立行政法人は、民営化の場合と違って、独立採算制を採るものではないから、例えば地方の弱小大学であるからといって、経営が成り立たず倒産する、と言ったことはあり得ない。
しかし、その2として、そうではあるにしても、今や各大学は独立の法人として、自らの力で業務を運営する責任を負わされるのであり、また、業務の運営実績については、評価委員会による評価の結果、組織の改廃に到る可能性もあるのであるから、運営についての能力を備えた有力なスタッフを確保し、業務運営の効率的なシステムを確立することが、極めて重要となる。この点については、文部省案、及び国大協中間報告のいずれも、例えば、それぞれ独立の法人化をした後も、職員人事の交流・人事の流動化を確保する、といった途を考えているようである。しかし、私の考えるところ、そういった制度的な手当に先立ち、最も大事なことは、大学における「業務の実績」とは何か、ということを明らかにすることであって、ジュリスト論文以来指摘しているように、大学における業務の効率、あるいはその実績といったものは、例えば許認可事務とか検査検定事務のようなものとは異なることを明確にし、大学が目指すもの(すなわち大学における「業務」)は何かを、国民に明確に説明することである。この点については、例えば、必ずしも、数多くの国家試験合格者を送り出す、といった数量的な目標ではなく、各大学の特徴・個性、その大学が、研究教育の上で何を一番の狙いとするか、といった、業務目的の明確化、そのアピール、をすることが不可欠となるものと思われる。言葉を換えて言えば、何の特徴も無く、国の組織であることに寄り掛かって漫然と日々を過ごしてきたような大学は、今後ともそのような状況を続けるならば、いずれ統廃合される運命も覚悟しなければならない、ということになるであろう。
六 国立大学の独立行政法人化が公立大学に与える影響
この問題については、冒頭にお断りしたように、私には、充分なお話をする資格も能力もない。しかし、敢えて二三の点について指摘させて頂くならば、次のことは言えようかと考える。
第一に、先にも明らかにしたように、国立大学の場合には、このように急激な形でこの問題が進んだのは、何よりも、中央省庁再編(省庁の大括り)ということを前提としての、国家行政組織の減量の要請、そして、小渕内閣において更に拡大された定員削減計画という、極めて政治的な背景があってのことであって、その限りでは、この問題は、現在のところ、国に特有の事情に基づくものである、という側面を持っている。従って、公立大学の場合には、同じような行政改革上の問題が生じない限り、少なくともそういった意味での急激な独立行政法人化への圧力は、無いのではないかと思われる。
第二に、独立行政法人化が果たして、現実に、国立大学に現在よりも自由を与え活性化をもたらす、というその本来の目的通りに働くかどうかについては、現段階では未だ断言ができないものがあるのであるが、しかし仮に、そういった理想的な事態が生じた場合には、そのことが公立大学に与える影響は、少なくないであろう。とりわけ、業務運営の自己責任化という課題に対応するために、いずれ将来においては、独立行政法人化した各大学相互の間で、統合・合併の動きが自発的に生じてくる可能性もある。そこで登場する大学は、いわば、競争の中で鍛えられ体力を強化し、しかも国による財源措置を受けた、甚だ強力な存在なのであるから、今後の少子化の時代、そのような状況の中で、各公立大学が自らの存在意義を明らかにし、充分な成果を挙げて行くためには、現在よりも一層の努力が必要とされることになるのではないかと思われる。
七 結語
以上で、本日の私の話を終わらせて頂きたい。冒頭にお断りしたように、国立大学の独立行政法人化が公立大学にどのような意味を持つか、ということについては、本来私には、何事を申し上げる資格も能力も無く、本日の私の話を踏まえて、皆様方がそれぞれにお考え頂くべき事柄である。それにも拘わらず、最後に蛇足を付け加えさせて頂いたが、非礼にわたる部分があったとしたならば、お詫びを申し上げたい。ご静聴を心より感謝する。