21世紀の社会の安全と警察活動

(警察政策学会シンポジウム基調講演)
(平成13年6月15日)      

藤田 宙靖  



一 始めに …… 報告の前提たる枠組みの設定


 私に主催者から与えられた講演題目は表記の通りであるが、この標題は、甚だ漠たる内容を持っており、限られた時間及び私自身の能力に鑑み、報告の前提として、一定の枠組みを設定せざるを得ない。


 (1)諸概念の吟味


 まず第一に、この標題の中で用いられている言葉そのものについて、その含意を検討しておく必要がある。言葉の検討というと、些細な問題のようではあるが、実はこれは、今後こういった問題を議論しようとするならば、なさるべき議論の対象自体についての、次のような分析ないし整理が必要ではないか、という、私の問題提起でもある。

 最初に「21世紀の社会」ということであるが、文字通りには21世紀とは、2100年までを含むことになり、現在の時点からほぼ100年間を意味する。しかし、100年後とまでいわずとも、今から5―60年後の社会がどのようになっており、どのような問題がそこに生じているかということを、現在の段階で正確に予測することは、少なくとも私のようなものには、到底不可能である。このことは、例えば昭和の初期頃に私くらいの年齢であった、つまり私の祖父母ないし曾祖父母の世代に当たる人々が、当時、今日のような社会の到来を予測し得ていたか、ということを考えても、既に容易に導かれるところであろうが、更に、現在の科学技術の進歩のスピードは、人間社会にドッグイヤーどころかマウスイヤーをもたらすであろうとすらいわれている今日、近未来についての予測の困難さは、一層厳しいものとなっているといわなければならない。従ってここでも、「21世紀の社会」というのは、文字通りの意味ではなく、(たまたま21世紀となった)現時点での社会、そして、せいぜい、極めて不確実な近未来の社会、ということでしかあり得ない。

 次に「社会の安全」という概念である。およそ「我々が生活する空間」という意味での「社会」の「安全」の中には、「宇宙からの危険に対する安全」「海外からの危険に対する安全」「天然・自然災害による危険に対する安全」等を始め、様々の意味での「安全」があり得る。しかし、これらの全てを考慮に入れて警察活動のあり方を論ずることは、仮に不可能ではないにしても、少なくとも議論の幅を甚だ広範なものとし、議論の拡散を招くおそれがある。従って、こういった様々の意味での「安全」については、一応意識の中に入れておくにしても、ここでの話は、「社会において生ずる危険に対する安全」を中心とするものとしたい。すなわち、ここでいう「社会の安全」とは、「社会における安全」の意味であると理解することとしたい。

 第三には「警察活動」ということの意味である。この点については、二つのことを確認しておきたい。第一に、周知のように、従来、「警察」の概念には、伝統的に行政法学で用いてきたいわゆる「理論的意味での警察概念」と、警察法という法律を中心とした我が国の実定法規が用いている「警察」概念とがあって、両者の意味は必ずしも同じではないということが、指摘されてきている。そして、後にも再度触れるように、近時では、両者が混同して用いられることによって、現実に様々の理論的な混乱がもたらされていることが、指摘されるようになっている。そこでここでは、この点に充分に留意して、ここでいう「警察活動」とは、専ら、我が国の実定法律のいう「警察」、すなわち、警察法によって定められている「警察」という行政組織ないし行政機関が行う活動のことであることを、明確にしておきたい。その際第二に、そこでいう「活動」の中には、単に、直接国民に向けて行われる行政警察活動・司法警察活動のみならず、法律案の企画・立案といった作業をも含めて考えるべきであろうと考える。これは、いうまでもなく、今日、数々の行政機関、とりわけ霞ヶ関の中央省庁において、その活動の中心を占めるのは、必ずしも、法律の執行活動ではなく、むしろこういった意味での企画・立案活動であるということは、周知の事実であり、これは、上記に見た意味での警察組織についても、全く変わるところはないからである。


 (2)アプローチの視角


 本報告では、上記のような前提の下に、標題についてお話をすることになるが、その際、私の専門とする分野は行政法学であるので、本日の話の内容も、専ら、このテーマについて、一行政法学者としてどう見るか、ということを中心とするものに止まることを、予めお断りしておきたい。


二 問題状況の概観


 さて、今日改めて、標記のような問題提起がなされるについては、いくつかの要因があるものといえるが、これらは、大きく分けると、およそ、二つの類型のものに分かたれるように思われる。その第一は、ここに来て我が国社会に新たに登場してきた(或いは、少なくとも著しく顕著になってきた)様々の現象(それに伴う問題)であり、第二は、現象(ないし問題)それ自体としては従前からも存在していたが、それについての見方が変わってきた、というものである。ここでは、前者を「外在的要因」と称び、後者を「内在的要因」と称ぶことにする。


(1)外在的要因(新たに登場した問題)


 これは、今後の我が国社会全体のあり方に大きな影響を与える根本的な要因として、既に各方面から指摘されているところであって、とりわけ、科学技術の驚異的な進歩と、そのこととも一部関連するが、グローバリゼーションの進展ということであると言えよう。

 前者については、いうまでもなく、たとえばいわゆる情報革命、そして生命科学の進歩等が問題となるが、このうち前者については、本日、後のシンポジウムでも、具体的に取り上げられることになっている。これらに共通する問題は、いわゆるサイバースペースや遺伝子操作の世界で既に生じ、かつ、今後更に生じるであろうと考えられることが、我々が従来、社会において生じる諸問題を統御するための手法として保持してきた制度や技術がおよそ前提としてこなかった形態や質量において登場してきていることであって、いわば、三次元の世界から四次元・五次元の世界を眺めるような状況に置かれているということである。しかも、そこでの状況は、今後一層の加速度をもって、変化し、進化するであろうことが予測されている。一体我々は、そこから生じ得る社会の安全に対する危険に対して、警察活動をもって、果たしてまた如何にして、こういった事態に対処することができるのであろうか、という問題である。

 グローバリゼーションが我が国社会にもたらす諸問題については、既に様々の分野で様々の人々が論じているが、問題は、根本的に、そもそもこういった事態の下で、いわゆる「国家」というものそして「国境」「国籍」といった、近代法制度上の産物が、どのような意味を持ち続けうるか、といったところまでも関係しうる。こういった問題は、本年秋の日本公法学会総会においても、「国家のゆらぎと公法」という総合テーマの下に検討されることになっている。


(2)内在的要因(内在的変化)


 標記の問題が新たに提示される背景には、警察はそもそもどのような任務を負っているのか、ということが、新たに問い直されるようになってきている、という事実があるように思われる。

 かつて、昭和三十年代から四十年代頃までは、いわゆる「理論的意味での警察概念」の影響を受けて、警察の任務は、専ら「公共の安全と秩序の維持」にあるのであり、「個人の保護」ということは、それ自体としては、警察の直接の任務とはならない、という考え方が強く存在していた。つまり、この考え方の下では、例えば現行の警察法二条が警察の責務の一部として「個人の生命、身体及び財産の保護」を挙げていることについても、それはこういったことが「公共の安全と秩序の維持」と関連付けられる限りにおいてのみ警察の仕事となる、という考え方がなされることになる。ここから、警察権の限界の一内容として、「警察公共の原則」が唱えられ、いわゆる「民事不介入」といった活動規範が導き出されるところとなっていた。しかしこのような意味での「警察公共の原則」は、果たして我が国現行の警察行政法の実態と合致したものかどうか、「民事不介入の原則」というものが、その本来の意味とは異なって拡大適用されているのではないか、といった疑問が、昭和五十年代頃からは、部分的にではあるが、提示されてくるようになり、ここ十年ばかりは、とりわけ警察庁の中堅・若手の論客によって、正面から問題とされるようになってきている。そこで主張されているのは、例えば、「個人の生命身体財産の保護」ということは、それ自体独立した警察の任務なのであって、単に「公共の安全と秩序の維持」の一部をなすものとして、そこに吸収されてしまうようなものではない、ということであり、また、警察は、法律が認める限り、「個人の保護」のための活動を、何でも行いうる、ということである。こういった前提に立つと、いわゆる「民事不介入」という原則そのものについても、その妥当性につき疑問が抱かれることになる。


三 今後の展望並びに私見


 それでは、こういった外在的・内在的状況の変化の下で、今後の警察活動のあり方について、どのようなことが言えるのであろうか。極めて困難な問題であるが、以下、私なりに今後の検討課題について展望を示すことによって、引き続き行われるシンポジウムへの橋渡しを試みることとしたい。


(1) 外在的要因について


 この点については、私には、多くを語る資格も能力も無く、むしろ、後のシンポジウムにおける、それぞれの専門家からのお話に譲ることとしたい。ただ、いずれにせよ明白であることは、今後、単に警察活動のみならず、全国家行政活動、また、立法活動は、こういった科学技術の進展についての十分な理解無しには成り立たない、ということである。このことは、いわゆるグローバリゼーションの進展とも深く関係することであるが、例えば、遺伝子操作に関する充分な知識を持たずして、アメリカの通商産業政策に太刀打ちすることはもはやできないということは、現実の問題となっている。諸外国に比べてこの分野における我が国での研究・開発が如何に遅れをとっているかということについては、例えば立花隆氏などが、かねてより強調されてきているところであるが、この問題が、社会の安全という見地からして如何に恐ろしい問題かということについては、最近警察庁の中堅・若手の方々が中心となって編集された『警察行政の新たなる展開』という書物の上巻で、三菱化学生命科学研究所社会生命科学研究室長の米本昌平氏が、具体的な数々の指摘をして居られる。警察の場合、情報革命に対処する体制は、それなりにとって来られているようであるが、高度に発展した遺伝子操作技術を悪用した犯罪が起こる可能性と、それへの対処の可能性、という問題についてはどうなのであろうか。その意味では、本日のシンポジウムで、情報と外国人問題については報告があるものの、生命科学の分野からの報告者がいないと言うことは、いささか残念なことに思われる。こういった意味で、今日の警察に是非とも必要なのは、(そういった人々を警察組織自体の中に抱え込むか否かは別として)、スタッフとしての大量な知的エリートの確保であろうと思われる。


(2) 内在的要因について


 私の専門分野との関係でいえば、こちらの方については、今少し突っ込んだ話ができそうである。

 まず第一に、昨今警察庁の田村正博氏等を中心として主張されている、「現行我が国の警察法の下において、『個人の保護』ということは、それ自体独立した警察の任務なのであって、従来考えられてきたような、公共の安全と秩序の維持といった任務の中に吸収されその限りでのみ認められるといったものではない」という考え方、そしてまた、「警察の任務及び権限は、憲法に反しない限り、如何様にでも法律によって定め得るのであり、実定法を越えた『警察消極目的の原則』といったようなものがあるわけではない」という考え方については、私自身もまたかねてより、その理論的正しさを正面から認めたいと考えてきている。従ってまた、いわゆる警察権の限界としての「警察公共の原則」そして「民事不介入」といった考え方についても、従来ともすれば理解されてきたような意味合いのもの、つまり、およそ「公共」以外の分野、すなわち「私」の分野は、警察活動にとってアンタッチャブルな聖域であるといった意味のものとしては、現行法律上もまた憲法上も、充分な根拠を持たないものである、といって良い。

 但し、同時に、この問題に関しては、以下のようなことを十分に理解しておく必要があると考えている。

 第一に、たとえば田村氏は、個人の権利・利益の保護ということも警察の直接の目的と考えるべきである、という要請が今日広く認められ得る背景として、今日、独り警察行政法の分野のみでなく、行政法一般の問題として、行政権と私人との間の関係が、かつてのように、行政処分とその名宛人との間の二極関係としてのみでなく、第三者の利益をも考慮に入れた三極関係ないし多極関係として把握されなければならない、という理解が確立してきている、ということを指摘して居られる。そしてこのこと自体は、否定し得ないところであるのであるが、但しその際留意しておかなければならないのは、行政法一般のレヴェルで見る限り、行政権の行使(とりわけ規制権限)にあたっての第三者と行政権との間の法関係には、いわば濃淡様々のものがあり、規制権限が適切に行使されることについての第三者の「権利」ないし「請求権」が存在すると認められるケースは、今日でも依然としてさほど多くはない、ということである。行政救済法の分野においては、今日なお、「第三者が受ける利益は、公益一般の見地から名宛人を規制することの単なる反射的利益に過ぎない」とされるケースは、むしろ圧倒的に多い。つまり、専ら規制の対象とされる相手方の保護ということのみに関心を抱いてきた伝統的な行政法学の考え方がもはやそのままでは通用しないということは事実であるが、しかし他方で、ある規制活動によって利益を受ける第三者の保護のみを専ら考えればよいということでもないのであって、問題は、第三者の利益ということも充分考慮に入れた上で、関係者間での適正な利益配分を考えなければならない、ということなのである。警察活動の場合に、この利益配分のあり方をどう考えるのかということは、まさに、警察法を中心とする現行法の諸規定のあり方、そして、今日他ならぬ警察に求められていることは何か、をより詳細に検討する作業を通して、解明されて行かなければならない課題である。そして、ここにこそ、行政法総論に対し、行政法各論としての警察行政法論が成り立ちうる基盤があるのである。

 第二に、従来のような意味合いにおける「警察権の限界論」としての「警察公共の原則」或いは「民事不介入」といった理屈がもはや成り立たないことは、先に見たとおりであるが、しかし、このことはいうまでもなく、現行の警察組織を前提とした上での新たなる警察権の限界論が全く成り立ち得ない、ということではない。そして、この意味での新たなる限界論を考える際に、従前の「警察公共の原則」ないし「民事不介入」といった言葉の背後にあった理念そのものを再度十分に評価すること自体は、決して無意味なことではないと考える。この点につき、以下二つのことを申し上げたい。

 第一に、「公共」の世界と「私」の世界が、あたかも鉄のカーテンの此方と彼方のような意味で厳密に線引きされるといった関係にあるものではないことは、もはや明らかであるが、しかし、いうまでもなく、だからといって、「私」の世界に、(立法権をも含めた意味での)国家権力が如何様にでも踏み込んで良いというものではない。これは、いわゆるプライヴァシーの侵害については、改めていうまでもないことであって、この場面では、憲法による国家権力行使の限界が、既に存在する。また、「プライヴァシー」とまでは言えない事項についても、いわゆる「自己責任原則」との兼ね合いの問題があるのであって、「個人の身体財産の保護」については、保護の要否及びその程度について、第一次的には個人自らの責任で判断すべきであるという原則は、やはり明確にされておかれなければならない。これは、一部は憲法13条等から導かれる部分もあろうが、そうでない部分においても、立法政策上の基本原則とされるべきであって、「法律で決めれば何でもできる」というべきものではない。更に、警察の場合、その活動については、このように、「個人の生命・身体・財産の保護」につき、当の個人自らとの間についてのみならず、他の国家機関との関係でも、一定の限界があるというべきものである。これは、例えば民事事件の処理における司法機関との関係をとってみれば既に明らかであるが、行政権の内部においても、他の省庁に法律上与えられている任務との関係で、警察活動には制約があるものというべきである。すなわち、他の省庁もまた、「個人の生命・身体・財産の保護」に関わる任務並び権限をそれなりに法律上与えられているが、この場合、警察の一般的な任務よりは、そちらの方が優先するというのが、基本的な考え方となるべきであろう。つまり、「個人の生命・身体・財産の保護」ということにつき、警察は、一般的に任務を負っているが、それは、丁度一般法と個別法との関係がそうであるように、他の省庁がそれを行わない限りにおいて、補完的に、警察が自ら果たすべき任務として位置付けられているものというべきである。これは憲法上の要請であるわけではないが、明治憲法から日本国憲法への移行に際して行われた、いわゆる「理論的意味での警察権」の分散、という立法政策の意味するものは、言い換えればこういうことであると考えられる。

 以上見たような意味において、警察活動には、個人との関係そしてまた他の国家機関との関係において、「補完性の原則」ないし「副次性の原則」とでもいうべき限界が存在する。しかしこのことは、決して、「警察は常に正面に出ず後方での球拾いに徹せよ」ということではない。いわば警察は「個人の生命・身体・財産の保護」ということに関し総合的にカヴァーする責務を負っているのであるから、第一次的に責任を負う個人や他の国家機関が本来なすべきことを怠っているならば、当然、総合的見地から、問題を提起し、あるべき方向を提案する権限を有し、責務を負っている。こういった場合に、仮に他の省庁の所掌に属する事項であっても、積極的に意見を述べ、提言をすることができるし、またそうすべきである、という考え方は、今回の省庁再編に伴い導入された、いわゆる「政策調整システム」が意図するところである。ただ、当該の事項につき、第一次的責任者が行動を起こすならば、警察はそこで身を引くべきなのである。

 第二に、では、警察は何故、このように、「副次的」ないし「二次的」な存在に止まらなければならないのか、という問題である。そして、この点に関しては、やはり、警察組織というものの属性並びに歴史的経緯に伴うその「悲しい定め」と切り離して考えることはできない。

 警察組織の大きな特徴の一つは、軍隊と並び、強力な実働部隊を持った公権力組織であるということである。この公権力は、まさに「社会の安全」を守るために、それを脅かす者に対して向けられるべきものであるが、何が「社会の安全を脅かす者であるか」の判断は、しばしば微妙な問題を含む。とりわけ、歴史の経験からして、時の政権が、自らを脅かすものをすなわち「社会の安全を脅かすもの」とし、警察力を使ってこれを弾圧したいという誘惑に駆られやすいということは、否定できない事実である。こういった政治権力と警察力との結合に対する不信感・警戒心を制度的に表現しているのが、我が国の場合でいえば、例えば公安委員会の制度であって、これは、国民の代表たる内閣(或いは住民の公選によって選ばれた長)を行政権の最高機関とするという民主政の構成原理に対し、まさに先のような警戒心から、ある種の例外を設けたものである。また、我が国の場合、警察官が現場の判断で緊急かつ直接に対処するための権限を認める権限規定につき、例えば警職法の改正といったような包括的なものとしては、なかなか認められず、個別の事態に応じ、個別法によってのみ(しかも多くは議員立法で)徐々に拡大されるに止まって来たのであるが、この事実は、何といっても、警察組織というものに対するこういった警戒心の表れであることを否定できないであろう。こういった警戒心に対して、「徒らに過去の亡霊に囚われたものであって、今日の民主的警察組織には妥当するものではなく、より未来志向で考えるべきである」ということは、恐らく事実として当たっている面は多々あるにしても、こういった主張だけで、警察組織に対する潜在的な恐怖感・警戒心を完全に払拭することはできない。それはいわば、東アジアの諸国が日本に対して抱く潜在的な恐怖心のようなものである。

 このような警戒心を解くためには、国民・市民の、警察組織・そして警察活動に対する信頼感・安心感を少しでも拡大して行くよう、堅実な努力を積み重ねて行く以外にはない。それはとりわけ例えば、情報の公開であり、市民との絶えざる対話である。こういった面においても、その間、警察庁を中心として、我が国の警察が大きな努力を払ってこられたし、現に懸命の作業を続けて居られることは、これを認めうるのであって、この点については、私も常々多大の敬意を払うものである。ただ、例えば情報の公開に関して言えば、法定不開示事由としての「公にすることにより、犯罪の予防、鎮圧または捜査、控訴の維持、刑の執行その他の公共の安全と秩序の維持に支障を及ぼすおそれ」(参照、情報公開法五条四号)といった要件は、甚だ曖昧であって、仮にいささかなりともこういった「おそれ」があるものは不開示ということになると、警察に関する情報は殆ど全てが不開示ということにもなりかねない、といった問題がある。如何なる理由により、具体的にどういった不都合があるのか、という点についての説得力ある説明がなされなければ、警察の体質に対する不信感の払拭どころか、却って増殖に繋がらないとも限らない。逆に、ここの説明がきちんとなされるならば、それは、当該の事案を越えて、広く警察への信頼度を増す方向へと繋がるのであると思われる。つまり、「どうすれば開示しないで済むか」という発想に立つのではなく、むしろ、「どうすれば開示できるか」という発想で物事を考えることが大事だ、ということである。例えば「入学試験情報の秘匿は、適正な入学試験の実施のためには是非とも必要」といった一般的な観念に基づく情報の不開示が、どのように恐ろしい結果を招くかということは、先の山形大学・富山大学等におけるミスによって、大学人の広く思い知らされたところであった。


結び


 以上、与えられたテーマについて、私の専門分野からの関心を中心とした上で、甚だ雑駁な話をさせて頂いた。「21世紀における社会の安全を確保するためには、大いに警察活動の自由を認め、およそその足を引っ張るようなことは止めるべきである」といった話にはならなかったので、主催者には大変申し訳ないと思うが、私個人が考えているところを、率直に述べさせていただいたつもりである。関係者におかれては、いろいろ御異論もお有りのことと思うが、後のシンポジウムの席で伺わせていただきたいと考える。


fujita@law.tohoku.ac.jp
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