行政主体相互間の法関係

(平成8年9月17日、法務省訟務局における講演)

藤 田 宙 靖


一 はじめに

 今回ご依頼を受けた標記のテーマについて、正面からこれを取り上げて論じた文献等は、多くはないのであるが、私自身は、良書普及会から出版した「行政組織法」の中で、ごく大まかにではあるがこの問題を取り扱ってみた。そして、このことがまた、本日このような話をするよう要請されている原因でもあると思われるので、本日は、同所で述べたことをベースとし、しかし、そこでは未だ詳しく論じていないことを中心として、お話をさせて頂くこととしたい。

二 行政主体の概念

 1)「行政主体」の概念

 まず、前提となる「行政主体」の概念について、その意味を確認しておく必要があろう。
 今日一般に、この言葉は、「行政上の権利・義務の主体」或いは「行政を行う権能を与えられた法主体」という意味において用いられているといってよいと思われる(藤田・前掲書19頁)。この言葉自体が我が国の行政法学で用いられるようになったのが、いつ頃のことからであるかは、必ずしも定かではないが(京都系の学者を中心として、「行政主体」と「行政客体」という対概念の下、かなり古くから用いられていたようである)、今日理解されているような意味での「行政主体」概念が確立したのは、おそらく、今村成和先生の「行政法入門」(昭和41年有斐閣)以来のことであったといってよいように思われる。ただ、今村先生の場合には、「行政主体」の概念の重点は、「行政を行うのは誰か」という問いに対する答えを整理するための一つの概念として、「行政機関」及び「公務員」という概念との違いにおいて、その「法人格を有する」という性質を強調するところに置かれており、「私人」ないし「私的法主体」という概念との対比においてその内包・外延を明確化しようという意識は、余り無かったように思われる。この概念を、明確にこういった問題意識の下に利用したのは、「行政主体と私人の二元論」そして「行政の内部関係と外部関係の二元論」というカテゴリーを用いて伝統的な行政法理論の基本構造を捉えようとした、私の「行政法I(総論)」(昭和50年青林書院新社)が初めてではなかったか、と考えている。そして、実は、この「行政の内部関係と外部関係の二元論」というものが、本日のテーマのような問題を産む重大な要因ともなっているのである。

 2)「公法人」と私法人」

 実は、こういった問題意識自体は、もちろん私以前の行政法学にも古くからあったところなのであるが、ただそれは、「行政主体と私的法主体」という対概念ではなくて、「公法人と私法人」という対概念を用いて、論じられていた。田中二郎先生などの時代は、まさにそうである。ただ、この用語法の下では、例えば田中先生のように「公法人であるからといって当然に公法が適用されるとは限らない」、といった議論が出てくることになり、それでは一体「公法人」とは何か、「公法人」という言葉を使うことの意味はどこにあるのか、といった理論的な疑問が出てきて、甚だしい理論的な混乱が生じていたのであった。このことは、田中先生流の「公法関係と私法関係」という言葉についても全く同じであったのであるが、私自身は、当時「公法人と私法人の違い」という言葉で表されていたのは、今日「行政主体の私的法主体(私人)の違い」と我々が呼んでいるところの事柄と、基本的には同じ事柄であった、と考えている。ただ、「公法」という言葉が用いられていたことが、混乱を招く原因となったのであるが、私はこの点、例えば田中先生の場合の「公法人」・「公法関係」の概念は、実は「公」法人・「公」法関係、という意味であったのであって、「公法」人・「公法」関係、という意味ではなかったのだ、と考えており、このように理解すれば、田中先生の時代の「公法人と私法人との違い」に関する議論は、即ち今日いう「行政主体と私的法主体(私人)との違い」という問題についての一つの議論として理解することができる、というように考えている。

三 行政主体と私的法主体(私人)の二元論

 1)「行政主体と私人の二元論」とその射程

 さて、上にも触れたように、私は、オットー・マイヤーに始まり、美濃部達吉先生・田中二郎先生などを経て、今日の我が国にまで到っている行政法学、そしてそれを基にして出来上がっている我が国の行政法制度の一つの基盤として、「行政主体と私人の区別ないし二元」という思考枠組みがある、と考えている。そして、この思考枠組みがまた、「行政の内部関係と外部関係の区別ないし二元」という考え方をもたらしている、ということになる。このことについて、本日は深く立ち入ることはしないが、それは要するに、行政という現象を、基本的に「行政主体と私人との対立」という図式でもって捉えようとするもので、そこからまた、行政の内部関係に関する法(即ち行政主体の内部組織に関する法…行政組織法)と外部関係に関する法(即ち行政主体と私人との相互関係に関する法…行政作用法)とでは、その性格も内容も基本的に異なる、という、一種の「定理」が出てくることになる。これは、その基を訪ねて行けば、ヨーロッパ近代の政治思想・法思想の根底にある「国家と社会の分離ないし対立」という考え方に辿り着くのであるが、もっと身近な例で見るならば、我が国現行の行政事件訴訟法が「行政庁の公権力の行使に関する不服の訴訟」としての「抗告訴訟」と、「国又は公共団体の機関相互間における権限の存否又はその行使に関する紛争についての訴訟」としての「機関訴訟」とを、明確に区別しているのが、その典型的な現われであるということができる。

 2)「行政主体相互間の法関係」という問題の発生原因

 ところで、以上を背景として、本日のテーマである「行政主体相互間の法関係」という問題について見るならば、こういった問題が出てくるそもそもの原因は、「行政主体相互の関係」というのは、そもそも上に見てきた意味での「内部関係」に属するのか、「外部関係」に属するのか、ということが、明確でない、というところにあるものといってよい。そして、それは、基を質すと、そもそも、上記のような思考枠組みの中には、「行政主体」そのものが複数ある、つまり言葉を換えていえば、国以外にも行政主体がある、ということ自体が、前提として入ってはいなかった、ということに由来するということができるように思われる。即ち、もともと、先に見たヨーロッパ近代の「国家と社会の二元論」というのは、19世紀の比較的単純な国家制度、即ち、(通常「夜警国家」という言葉で表現されるように)国家と市民社会との役割分担が比較的明瞭であった時代の国家制度、を前提として成り立っていたものであるが、その後、その複雑化が進むにつれ、政治学・社会学などでは、この二元論自体の相対化が進むようになる。そして公法学・行政法学の分野においても、国以外にも行政作用を担っていると考えられる法主体が様々に登場してきた、という状況の下、これをどう理論的に考えればよいか、という問題が深刻な問題として提起されるようになったのである。その場合、理論的に一つの可能性としては、従前の二元論的な思考枠組みを一掃して、全く新たな思考枠組みを作り上げる、ということもあり得た筈であるが、ただ法律学の場合には、現存する法律・法制度というものを前提とし、どうしても、ある意味で保守的な性格を帯びることになるので、問題は専ら、従来の基本的な思考枠組みを壊さないままこういった新しい現象に対処するにはどうすればよいか、という形で取り扱われることになったのであった。それがまさに、先にも述べた、「公法人と私法人との相対化」「公法関係への私法の適用」といった美濃部・田中時代の議論である。

 3)今日の基本的問題状況

 さて、それはともかく、今日の問題に立ち戻るとして、今日でも、例えば実定行政事件訴訟法自体が、先に見たような形で、伝統的な二元論を踏まえて出来上がっているとすれば、問題の解決はやはり、こういった二元論をベースとしながら、しかし他方、少なくとも純粋に二元論的な形を取っては現われてこない現象に対して、どのようにして対処すればよいか、という形で、探られなければならないことになる。こうした場合、考えられる一つの道筋は、先の二元論の考え方の下では、行政主体は本来私人とは性質を異にすると考えられてきた、ということに着目し、だから、行政主体相互間の法関係は行政主体と私人の間の法関係とは性質が異なるのであって、そこには、本来、行政の「外部関係」を規律する「法律による行政の原理」を始めとした様々の行政作用法理は、適用されない、というものである。言い方を変えると、行政主体相互間の法関係は、基本的に、行政主体内部の組織構造に関する法関係である、として位置付ける考え方である。そして、この考え方が、従来我が国の学説判例が選択してきた基本的な道筋であったということができよう(藤田・行政組織法40頁)。
 しかし他方、我が国の実定行政法自体、もはや、先に見たような意味での単純な二元論の上にのみ出来上がっているわけではない。様々の法律・法制度は、各種の行政主体が、通常の私人と全く同じ法的立場で、他の行政主体との法関係に入ることを認めている。そしてこのこと自体は、必ずしもそう新しいことではないのであって、例えば、既に19世紀当時から、ドイツやフランスの行政法学では、国が専らその財産管理上の行為を行う場合には、私人と同様、民商法等いわゆる私法上の法関係に立つ、ということが認められてきた。即ち、こういったケースは、国が、行政主体でありながら、敢えて私人と同様の法的立場に立つケース、と位置付けられてきたのである。そして、このことは、我が国行政法学においても、美濃部・田中先生以来、今日に至るまで、一般に受け入れられてきている。しかし、今日では更に、このような、純粋に私法上の財産管理行為というに止まらず、行政主体が直接に公行政活動を行い、かつ行政法によって規律される法関係に入るようなケースが、様々な形で広く登場してきているのであって(以下、藤田・前掲41頁)、困難な問題が生じているのは、まさにこのような場面においてである、ということができよう。こういったケースとは、例えば、国等が土地収用法上の起業者として都道府県の収用委員会に裁決の申請をする場合であるとか、或いは、バス事業等地方公営企業の事業主体としての市町村が道路運送法4条による運輸大臣の事業免許の申請をする場合、更には、地方公共団体が、土地区画整理事業・都市再開発事業等市街地開発事業の施行者として、国の監督を受ける、といった例である。即ち、「行政主体」と「私人」の二元論を基本的な前提としながら、こういったケースをどのように処理して行けばよいのか、これがまさに、我々に突きつけられている現下の問題である、ということになる。

四 考察すべき問題点

 以上見てきたように、少なくとも我が国の現行法、とりわけ行政事件訴訟法を前提として考える限りは、法解釈論として、今日やはり、(それ自体には様々な問題が内蔵されているにしても)「行政主体と私人の二元論」「行政の内部関係と外部関係の二元論」を基本的な出発点とし、かつ、行政主体相互間の関係は、基本的には「行政の内部関係」に属するのだ、ということを出発点としながら、しかし、個別的には、必ずしもそうでなく、私人相互間と同じ、或いは行政主体と私人との関係と同じ性質のものとなることもあるのだ、という考え方をすべきである、ということになるものと思われる。そこで問題は、では、一体どういう場合が、この後者のケースになるのか、ということである。
 この問題は、大きく分ければ二つの問題に分かれる。一つは、そもそも、何がここでいう「行政主体」であるか、ということである。今日様々の目的と権能を与えられた各種の法主体が、個別法の定めるところにより様々に認められているから、これらの中、そもそも行政主体として位置付けられるものとそうでないものとが区別されなければならない。いうまでもなく、「行政主体」ではない、ということになれば、その法主体に関する限り、本日の問題は解決済み、ということになるからである。この問題自体は、実は甚だ厄介な問題であって、様々な議論があり得るところなのであるが、ここでは、差し当たり私の「行政組織法」19頁以下に述べたことに譲ることとして、本日はむしろ第二の問題、即ち、既に一般に「行政主体」として位置付けられている法主体につき、その相互間の関係がどのような場合に内部関係とされ、どのような場合にそうでないこととされるのか、という問題に集中して、検討を試みることにしたい。

五 いくつかの前提 ―― 従来の基本的考え方からする帰結

 さて、この問題を考えるに当たっては、まず、以上見てきたことから出てくる、いくつかの基本的考え方を整理しておくことが、便利であろう。

 1)行政主体のみが行いうる活動の場合

 第一に、問題の始まりが、行政主体と私人の二元論にあったとするならば、まず、考え方として、行政主体が、そもそも行政主体にしか行えない活動、即ち、およそ私人には行うことのできない活動の主体として登場する場合には、こういった行政主体間の関係は、私人の場合にはあり得ない関係として、(少なくとも原則的には)内部関係となる、ということになる筈である。具体的にいえば、例えば、軍事、警察、司法、課税、等々、がその例である。こういった活動は、少なくとも、我が国憲法がその出発点としている、西欧流の近代国家においては、専ら国家にその権限と責務が集中せしめられてきたのであって、そもそも「近代における国家と社会の二元」が説かれたのも、そういった事態を想定してのことであった。例えば、「国の防衛上の秘密」という利益は、抗告訴訟によって保護される私的な利益とは言えない、として、那覇市長が行った公文書公開決定の取り消しを求める国の訴えを認めなかった那覇地裁平成7年3月28日の判決(行政事件裁判例集46巻2・3号346頁)は、基本的にこういった考え方の線上にあるものと見ることができよう。
 また、同様の意味からして、後に改めてみるように、行政主体が公権力の行使を行う場合には、私人の場合には、およそあり得ないケースとして、この権限を巡る行政主体間の法関係は、本来内部関係である、ということになる。

 2)私人の活動と本質的に違いのない場合

 逆に第二に、行政主体の活動であっても、内容的にいって私人が行う活動と本質的に違いがないと考えられるものの場合には、それを巡る法関係は、本来、内部関係ではない、ということになる。先にも触れたように、これは昔から一般に認められてきたところであって、例えば、国・地方公共団体等の行政主体が、その普通財産の管理に際し、民法等いわゆる私法上の当事者として私人と対等な立場で登場する場面に関しては、これがいわゆる「内部関係」に属さない、ということについては、従来から、全く争いのないところである。

 3)それ以外のケースと、問題解決の手がかり

 問題は、このいずれにも属さない第三のケース、つまり、伝統的な行政主体と私人の二元論に照らしてみても、果たして本来行政主体の行うべき活動なのか、それとも、本来私人も行いうる活動であると言えるのか、が、明確ではないようなケースである。こういったケースは、特に、行政主体が何らかの公の施設の管理者、或いは事業の施行主体として登場するような例において見られる。
 こういったケースについて問題を考えるに際し、従来までの法制度・法理論からして一つの手がかりとなるのは、行政主体の「固有の資格」という概念である。この概念はもともと、昭和37年に、同年施行の行政不服審査法において採用されたものであって、同法57条4項が、処分をした行政庁の教示義務に関する規定を「地方公共団体その他の公共団体に対する処分で、当該公共団体がその固有の資格において処分の相手方となるものについては、適用しない」という定めを置いたことに始まる。そしてこの概念は更に、平成6年施行の行政手続法においても、その4条1項で「国の機関又は地方公共団体若しくはその機関に対する処分」を適用除外とするに当たり、「これらの機関又は団体がその固有の資格において当該処分の名宛人となるものに限る」との括弧書きを付したことによって、同法に引き継がれ、いわば、実定行政法上の一般的な概念となったものということができる(なお、藤田・前掲43頁には、故雄川先生の用語を借りて、「当該法主体に固有する利益」という言葉を用いているが、これは、ここでいう「固有の資格」とは、意味が異なるので、断っておきたい。前者は、いわば、「国家的利益」に対する意味での「固有の利益」であるが、後者は、「私人の資格」に対する意味での「固有の資格」である。)。
 ところでこの概念については、従来、これらの法律のコンメンタール等で、「その固有の資格」というのは、「一般私人が立ち得ないような立場にある状態」という意味である、と説明されてきている。そしてその際、「一般私人が立ち得ないような立場」であるかどうかということは、少なくとも原則的には、法律が、その事業等の規制に当たり、私人であるか行政主体であるかを全く区別せず、同じ規制を行っているかどうか、によって、判断されてきているといって良い。例えば、行政不服審査法についての最も権威あるコンメンタールであるとされる、田中真次・加藤泰守コンメンタールでは、「例えば、市がバス事業を行うには、道路運送法第四条に基づいて運輸大臣の免許を受けなければならないが、このような立場は、一般の私人もまた立ちうるものであって、市のような公共団体の固有の資格とは言えない。しかし、地方自治法二五O条によって、普通地方公共団体が地方債を起こすには、当分の間自治大臣又は都道府県知事の許可を受けなければならないが、一般私人は、このような許可を受ける立場には立ち得ないものである。」という説明がなされている。つまり、前者の場合は、行政主体・私人を問わず行われる規制であるのに対し、後者は地方公共団体についてのみ行われる規制である、という意味であると思われる。
 実際、先に見たように、問題発生の源が「行政主体と私人の二元」という考え方にあるとすれば、行政主体が「固有の資格」において登場するものであるかどうか、というところに解決の基準を求め、また、「固有の資格」かどうかということの判断を「一般私人もまた立ちうる立場であるか否か」によって判断しようという考え方は、それ自体としては至極妥当なもの、といわなければなるまい。問題はただ、「一般私人もまた立ちうる立場であるか否か」を、具体的にどのように判断するか、という、そこのところの考え方にある。以下に、こういった見地からして出てくるいくつかの問題例を取り上げてみよう。

六 残された問題 ―― 若干の具体例

 1)行政主体と私人とで、規制の態様を異にするケース

 行政主体が行う事業であるが、法制度上の仕組みからして、全く私人との区別無く取り扱われているケース、例えば、先に触れた、土地収用手続の上で起業者として登場するケース、また、道路運送法上の事業免許のケースなどが、「一般私人もまた立ちうる立場」における活動であることは明らかであるといえよう。しかし他方、事業の規制をする法律の中には、法律が、事業主体が誰であるかということにも重大な関心を持ち、従って、単なる私人がその事業を行う場合とそうでない場合とで、手続の上でも違いを設けている場合があるが、こういったケースをどう考えるか、という問題がある。
 こういった類型に属するものとしては、その典型例として、例えば土地区画整理事業・都市再開発事業等の市街地開発事業のケースが挙げられる。例えば土地区画整理事業の場合であると、一連のプロセスの始めに国の行政機関による認可が必要とされているが、その認可の対象が、事業の施行者が誰であるかによって微妙に違い、個人施行の場合には、「事業の施行」についての都道府県知事の認可が必要とされるのに対し、組合施行の場合には、「組合の設立」に対する都道府県知事の認可が、そして、(地方)公共団体施行の場合には、「事業計画に定める設計の概要」について、都道府県知事又は建設大臣の認可が必要であることになっている。
 また、ある行為について、私人が行う場合にも行政主体が行う場合にも共に規制があるが、私人の場合であるならば、それをしようとすれば許認可が必要となるが、行政主体の場合には必ずしもそうでなく、別の手続が用意されている、という例がある(参照、藤田・前掲44頁)。この場合、そのことの意味をどう考えるか、という問題がある。

 2)経済的行為であって、行政主体の場合にのみ規制があるケース

 行政主体の経済的ないし財政上の行為について、私人の場合には必ずしも適用のない行政法上の規律が置かれており、これを巡り行政主体相互間に法関係が生ずることがある。例えば、地方自治法250条に基づく、普通地方公共団体の起債に対する自治大臣の許可、地方財政法に基づく、国と地方公共団地間の経費の分担、等がその例である。こういったケースにつき、先の田中・加藤コンメンタールのような考え方であると、それはそもそも私人の場合にはない規制であるから、行政主体に固有の規制であるとして、「固有の資格」に立つものだ、ということになるわけであるが、しかし、例えば従来の判例の中には、必ずしもこのような考え方では説明できないものも存在する(参照、藤田・前掲43頁)

 3)「行政主体の固有の資格」であるが、特別の法的保護の必要が問題とされるケース

 以上は、一定の行政主体の立場を「一般私人もまた立ちうる立場であるか否か」という観点から見る場合において生ずる問題であるが、これとは別に、「行政主体の固有の資格」に立つものであって、明らかに私人の立場と同じではないが、しかし、独立の行政主体としての立場それ自体に、特別に法的に保護されるべきものがあり、それ故に、単なる内部関係として処理することはできないものがあるのではないか、といった問題が提起されることがある。例えば、普通地方公共団体には、憲法、固有の権利として「自治権」が保障されているのであり、その保護ということが、考えられなければならないのではないか、という問題がその典型例である。

七 問題の検討

 残された問題例は、必ずしも以上に尽きるものではなかろうが、本日は、一応以上のような視点から、以下、事業主体としての行政主体の法的立場、財政上の諸問題を巡る行政主体の法的立場、そして、最後に地方公共団体の法的立場、という三項目に的を絞って、私なりの検討をしてみることとしたい。

 1)事業主体としての行政主体の法的立場

 事業主体としての行政主体の法的立場を論ずるということは、言葉を換えていえば、事業主体として登場する行政主体に対する、国の様々な関与について、それはどのような法的性質を持った行為であるかを論ずることでもある。そこで、ここでは、問題をこのような視点から見て行くこととするが、ここでいう国の関与については、各法律により様々の側面があるので、これを、例えば先に挙げた土地区画整理事業の例を取って、具体的に検討してみることとしたい。

  1.国の各種の関与行為

 まず、個人施行者に対する事業の施行の認可や、組合施行の場合の組合成立の認可が、外部行為であって、行政処分としての性質を持つことは、おそらく疑いがない。これらの認可を受けるのは、私人であって、いわば、この認可を受けることによって、私人が法律上の事業主体としての権能を取得することになるものであるからである。最高裁も、土地改良区の設立認可について、設立に反対であったにも関わらず設立認可が下り、その結果、強制加入させられてしまった地権者からの訴えにおいて、これを行政処分と認めているが、これは殆ど自明のことである。問題は従って、一度組合として成立した後での、組合に対する、都道府県知事等の介入、例えば、組合解散の認可(45条)、監督行為としての、組合のした処分の取消、変更若しくは停止、設立認可の取消、等(法125条)の性質をどう考えるか、である。そして、これと同じ問題は、地方公共団体の場合における、建設大臣による監督行為(126条)についても存在することになる。

  2.国の監督行為が、私人に対して持つ意味と行政主体に対して持つ意味

 ところでこの場合、問題は二つの側面を持つことに留意すべきである。即ち、この問題を、ここでは、都道府県知事や建設大臣のこういった行為は行政事件訴訟法等でいう「処分」としての性質を持つか、という形で立ててみることとするが、この場合、例えば、地方公共団体が施行者として私人(土地所有者)に対して行った処分を建設大臣が取消したとして、この取消し行為が、その私人に対する関係で処分であることは、おそらく疑いを入れない。しかし、ではこの取消し行為に対して、取消しの対象となった処分を行った地方公共団体が、抗告訴訟を起こして争うことができるかということになると、それは話は別であるというべきである。何故ならば、この取消し行為は、私人との関係においては、まさにその者の権利義務に直接の影響を及ぼすものであって、その意味において、この者に対する「処分」としての性質を持つと言えるのであるが、地方公共団体に対する関係では、地方公共団体の公権力行使に対する国からの監督行為という意味を持つのであるから、果たして、こういった公権力行使の権限に直接影響を及ぼす行為もまた、行政事件訴訟法上の抗告訴訟の対象であり得るのかどうかが、別に問われなければならないからである。
 そして、この問題については、まず、出発点として、次のことを確認しておく必要がある。第一に、行政事件訴訟法や国家賠償法を見れば明らかであるように、我が国現行法は、ある行為が「公権力の行使」であるかそうでないか、ということ、言い換えれば「公権力」と「非公権力」との二元を、行政救済法の一つの基本軸としている。そして第二に、その際、この公権力行使に対する不服の訴訟は、いうまでもなく、憲法32条で定める基本的人権としての「裁判を受ける権利」に基づくものである。そして、先に見たように、公権力を行使する行政主体の立場というのは、本来私人にはあり得ない立場として、行政主体の「固有の資格」が認められるものであった。こういったものとしての行政主体の「固有の資格」が、本来、憲法が保障する基本的人権を享受するものではないことは、改めていうまでもないことであろう。この意味において、行政主体は、法人格を有しているからといって、そのことから当然に、私人に対し公権力を行使する権限を裁判上実現する権利を、憲法及び現行行政事件訴訟法によって保障されているとは、言えないものというべきである。
 このような考え方に立つならば、行政主体の公権力行使に対する他の行政主体からの監督行為は、対私人間においては「外部行為」であるにしても、行政主体相互間について見る限り、少なくとも行政主体と私人との関係と同じ意味での「外部関係」上の行為ではない、ということになる。そして、(少なくとも結果的に)このことを示したのが、最高裁の、昭和49年5月30日判決(民集28―4―594)であったというべきである。周知のように、この判決は、国民健康保険事業の事業主体としての地方公共団体が行った処分につき都道府県の国民健康保険審査会がした裁決に対して、地方公共団体が抗告訴訟を提起したものであるが、最高裁はこの訴えを認めなかった。その理由として最高裁は、「保険者のした保険給付等に関する処分の審査に関する限り、審査会と保険者とは、一般的な上級行政庁とその指揮監督に服する下級行政庁の場合と同様の関係に立ち…保険者が右裁決を争うことは、法の認めていないところである」と述べているが、これだけでは、何故審査会と保険者とが上級行政庁と下級行政庁の場合と同様の関係に立つといえるのか、必ずしも理論的に明確であるとはいえない。私のような考えに基づきこれを補足するならば、おそらく、「この場合には、行政主体の公権力行使に対する他の行政主体からの監督行為であるから、私人に対する公権力行使の場合とは違って、外部行為であるとはいえず、従って、上級行政庁と下級行政庁との関係と同様の関係と考えるべきである。」ということになるものと思われる。
 尤も、このケースの場合には、今一つ、下級審判決で問題とされたように、「国民健康保険事業の事業者たる行政主体には、事業者としての権利義務主体としての法的地位があり、このような見地からして、裁判上保護さるべき法的利益があるといえるのではないか」という問題があった。行政主体であっても、その経済的利益を私人と同様の形で保護されることがあるのは、先に見た通りである。しかし、この最高裁判決は、このような利益の追求が「公権力行使」という形で行われる場合には、少なくともこの公権力行使の適法性を争う場面において、行政主体は私人と同様の立場に立つものとはいえない、ということを示唆したものと、いうことができるのではなかろうか。

  3.「外部行為」と「内部行為」との両面を持つ行為

 さて、以上に見てきたこととの関係で、今一つ重要な事柄を確認しておかなければならない。それは、行政主体相互間で行われるある行為が、その外にいる私人との関係では「外部行為」即ち「処分」としての性質を持ち、しかし、行政主体相互間では、「内部行為」即ち「処分としての性質を持たない行為」とされることがあり得るのだ、ということである(このことは、既に、上記の最高裁判決でも前提とされていたというべきであって、仮に都道府県の審査会のした裁決に対し、市町村の審査会の原処分を受けた私人が、これを不服として争ったのであったとしたならば、そのような訴えは当然に認められたことは、いうまでもないことである)。そして、このことを前提とするならば、種々、留意をしておかなければならないことが生じてくる。
 例えば、行政主体間の行為をいわば「内部行為」とした最高裁の先例として有名な、「成田新幹線訴訟判決」(最判昭和53年12月八日、民集32―9―1617)について考えてみよう。この判決は、“いわば上級機関としての運輸大臣による下級機関としての鉄道建設公団に対する監督手段としての承認の性質を有するものである”との理由の下に、公団の工事実施計画に対する運輸大臣の認可を「行政機関相互の行為と同視すべきものであり、行政行為として外部に対する効力を有するものではな」い、としたのであるが、ただ、本件訴訟自体は、先の健康保険事件とは違い、公団が運輸大臣の認可の取消を求めて争ったものではなく、新幹線の通過予定地となる江戸川区等、外部の第三者が争ったものであった。従ってこの判決の場合には、判旨のこの部分はむしろ無くてもよかったのであって、その後の、「また、これによって直接国民の権利義務を形成し、又はその範囲を確定する効果を伴うものではない」という部分こそが、決定的に重要であったのである。
 また、最高裁は、昭和61年2月13日の判決(民集40―1―1)で、土地改良法に基づき都道府県知事が行う、市町村営土地改良事業施行の認可を、取消訴訟の対象となる行政処分である、と判示した。しかし、この判決もまた、この認可の名宛人である市町村自体がその取消を求めたものではなく、第三者たる私人が抗告訴訟を提起したものである。従って、この判決によって直ちに、この認可が、国と市町村との相互関係においてもまた「外部行為」としての性質を持つものと判断された、ということにはならない、というべきである。同判決の論理は、市町村営の場合の事業の施行認可は、国営又は県営の場合の事業計画決定に対応するものであって、そして、後者については、行政不服審査法上の不服審査をすることができる旨が、法律上明確にされており、(私人に対する関係で)行政処分としての性質を持つことが明らかであるから、前者についても同様に考えるべきである、というのである。そうすると、この論理の下ではむしろ、事業施行の認可は、対市町村との関係では、私人に対する公権力行使(処分)を行うための一種の(監督的意味を持った)内部手続としての性質を持つもの、と考えることも、可能なのではなかろうか。

 2)財政上の諸問題を巡る行政主体の法的立場

  1.「固有の資格」とは考えられないケース

 行政主体の財政に関し、他の行政主体(とりわけ国)との間に様々の問題(監督、負担の配分、等々)が生じ、これに関して法律上の規律がなされ、行政主体相互間に法的関係が形成されているケースがしばしばある。例えば、先にも触れた、地方公共団体の起債に対する自治大臣の許可(地方自治法250条)、補助金等の交付の決定(補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律6条)、及びそれに対する地方公共団体からの不服の申出(同法25条)、経費負担の割合の法定及びその実施等を巡る紛争(地方財政法27条その他)、等々がその例である。こういったケースについては、先にも見たように、従来の「固有の資格」論に従う限り、行政主体であると私人であるとの区別なく適用される(例えば補助金適正化法6条)のでなく、行政主体のみが対象となっている規制である限りは、「私人が立つことのあり得ない立場」として、行政主体はその「固有の資格」で登場している、ということになる。しかし、私は、次のような理由から、これらのケースについては、必ずしもそのように考える必要はないのではないかと思っている。
 私もまた、私人の場合には無いような規制が行政主体の場合については行われているようなケース、また両者において、同じ問題について違った形の規制が行われているようなケースにおいては、そのことが、ここでいう「内部関係」か「外部関係」かの判断に意味を持ってくるような例もあり得ると考えている。ただしかし、そういった意味を持ちうる規律の違いというのは、まさに、行政主体相互間の関係が、いわば、実質的に内部関係である、という見地からする違いであるべき筈であろう、と考える。ここで、「実質的な内部関係」というのは、言葉を換えていえば、行政庁の意思形成過程において、行政主体と私人との対立(即ち、公共の利益と私益との対立)という意味での対立関係が出発点におかれ、その解決を図る、というコンテクストにおいて法制度が出来上がっているのではなく、むしろ、必ずしもこういった意味での利益の対立ということを前提としないで、しかし必ずしも同じとはいえない利益の調整が計られている、という意味である、といってもよいかも知れない。然るに、補助金の受給はもとより、経費の負担の配分といった問題もまた、それ自体は、近代社会において、本来行政主体間においてしか生じえない問題であるというわけではなく、私人相互間においても全く普通に起こりうる問題である。そして、この問題につき、行政主体の場合にのみ特別の財政法規があるというのは、基本的には、その財源が国民の税金等を主とした公金であるから、その使い方に、一定の枠をはめよう、というものであるに過ぎない。私は、こういった法的規制は、ここで問題とする「内部関係」か「外部関係」かの問題とは、直接の関係は無いものであるように考える。

  2. 内部関係と考えられるケース

 これに対し、藤田・前掲44頁に挙げておいたような、私人の場合には許認可が必要とされる行為について、行政主体の場合にはその適用を排除し、許認可庁との協議等を以て代えているようなケースについて見てみよう。 私は、こういった規定というのは、まさに今述べたように、法律が、問題の処理を、行政主体と私人との対立(公益と私益との対立)とその解決という形で捉えようとせず、いわば行政内部的な意思形成のシステムによって行おうとしているケースと見るべきではないか、と考えるのである。

 3)地方公共団体の法的立場

  1. 問題の所在――憲法上保障された「自治権」(?)

 地方公共団体(ここでは、普通地方公共団体に限る)の法的立場に関しては、以上に述べてきたことの外、今一つ重要な論点がつけ加わる。それは即ち、日本国憲法における地方自治の保障との関係であって、一口でいうならば、地方公共団体は、行政主体と私人との二元という意味での私人ではないにしても、憲法上保障された、「自治権」ともいうべき固有の権利を持っているのであって、この権利に基づき、他の行政主体とりわけ国に対して、特別の法的地位に立つのではないか、という問題である。この問題は、具体的には例えば、地方公共団体は、国からの監督行為に対して、行政事件訴訟法に基づき抗告訴訟を提起できるか、という問題となって現われる。

  2. 統治権の主体(統治団体)としての地方公共団体の「自治権」(?)

 ところでこの問題につき、地方公共団体が、「行政主体と私人との二元」という意味での私人の立場で登場するとき、即ち例えば、普通財産の管理のために民商法上の行為をする場合とか、或いは、他の私人と全く同じように行政法上の規制に服する場合(公営企業に対する運輸大臣の免許、土地収用法上の起業者としての立場)には、そもそもここでいう問題は生じない。これらの場合には、地方公共団体もまた、私人と同様「外部関係」に立つことは、従来からも全く争われてはいない。問題は、地方公共団体が、先に述べた意味での「固有の資格」で登場する場面であって、この場合に、地方公共団体は、通常の私人の立場で国等に対峙することはできないにしても、しかし、それとは別の、固有の自治権に基づいて、対峙することはできないか、が問題となる。この問題がとりわけ明確な形で出てくるのは、地方公共団体は、その公権力行使(統治権の行使)に対する国からの監督行為(取消その他)に対して、行政事件訴訟法3条により抗告訴訟を提起できるか、という問題である。例えば、塩野宏教授は、まさにこのような問題意識から、この問題に対して肯定的な解答を与えておられる(参照、藤田・前掲45頁)。しかし、私は、この点に関しては、少なくとも現時点では、逆に否定的な考え方をしている。その理由は次の通りである。
 まず第一に、先にも触れたように、行政事件訴訟法の定める抗告訴訟が、「私人」の権利を保護するために設けられたものであり、それは究極的には、日本国憲法32条の定める基本的人権としての「裁判を受ける権利」に基づくものであることを、確認しておく必要がある。そして、行政主体による公権力行使が、こういった基本的人権による保護の対象とはならないことは、先に述べた通りである。このことは、地方公共団体の場合にも変わるところはないのであって、いわゆる「統治団体」としての資格における地方公共団体は、この意味において、本来当然には、抗告訴訟を提起する権能を持たない。そこで問題は、「裁判を受ける権利」ではなく、「地方自治の保障」から由来する憲法上の「自治権」に基づいて、以上の理屈とは別に、現行法上の抗告訴訟を利用しうる、ということができるか、である。この問題については、まず、憲法解釈論として、そういった意味での実体的な権利としての「自治権」なるものが、憲法上保障されているか、という問題と、更に、仮にそのような実体法上の権利があるとして、それは同時に手続法上も、抗告訴訟を提起する権利として認められているか、という点が論じられなければならない。そして、こういった問題自体、現在の憲法学において、必ずしも一義的に積極的な解答が与えられているところであるとはいえないように思われるのであるが、ただ、上に述べたことを前提とした上で、もし積極説を唱えようとするのであるならば、考え方としてはおそらく、次のような論理を立てる以外にはないであろう。すなわち、「日本国憲法は、国に対する地方公共団体の「自治権」を保障しており、そして、このような権利が実体上保障されている限りは、それを手続的にも実現する、何らかの訴訟手続が存在していなければならない、そしてそのような手続とは、現行法でいう限り、行政事件訴訟法の抗告訴訟でしかあり得ない」という憲法訴訟論を採用することである(塩野教授の論拠は、概ねこのようなものであるように思われる)。しかし私には、この考え方には、それが憲法訴訟論として受け入れられ得るものかどうかということは別にしても、現行の行政救済法制度の基本構造との関係において、次のような意味で、なお問題が残されているように思われる。
 周知の通り、現行法上の抗告訴訟は、行政活動の適法性を客観的に保障するための客観訴訟であるのではなく、私人の主観的権利の保護を目的とする主観訴訟である。それは、行政庁の公権力行使に対して私人の権利を護るための訴訟なのであって、行政庁が私人の権利を抑制するために用いうる訴訟であるのではない。ところで今、地方公共団体が私人の権利を侵害するような公権力行使を行い、これに対し国が法律上許された監督権の行使を行ったとして、これに対する当該地方公共団体からの抗告訴訟を認めるということは、私人の側から見れば、抗告訴訟が、自己の権利に対する侵害のための手段として利用される、ということを意味する。抗告訴訟がその性質上客観訴訟であるならば、このようなことはあり得ても不思議ではないが、国民の権利を保護することを目的とする主観訴訟としての抗告訴訟においてこのようなことが認められるということは、果たしてこの訴訟の基本的構造に矛盾することなしに、あり得るのであろうか? このようなことを「地方公共団体の自治権の保護」を理由に敢えて認めるということは、その実、抗告訴訟を客観訴訟化することを意味するのではなかろうか? 私は、統治権の主体としての地方公共団体に抗告訴訟の提起を認めてしかるべきかどうかという問題は、少なくともこういった問題に理論的な解決を与えることなしに、安易に肯定的な答えを出しうる問題ではない、と考えるのであって、地方自治の本旨、地方分権の推進、ということのみを旗印に、これを肯定される塩野教授の主張には、未だ、納得のできないものを感じている次第である。

八 結び

 以上、与えられたテーマにつき、必ずしも完全とはいえないが、現在のところ私が考えるところを、お話ししてみた。しかし、このテーマは、もともとそれ自体、甚だ解決の困難な問題であって、なかなか、明確に一義的な解決基準を示すことはできないものである。そしてそのことは、こういった問題が生じるその歴史的背景からして、むしろ当然のことなのだ、ということも、或いは、本日の話からお分かり頂けたか、と考える。本日は、実務界において日々悪戦苦闘されている方々とお話しできる折角の機会であるので、できれば皆様の方からも、色々なお考えを聞かせて頂いて、今後私がこの問題を更に考えて行く際の手がかりを頂くことができるならば、幸せである。

fujita@law.tohoku.ac.jp
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