情報公開法施行一年を振り返って
―― 情報公開審査会委員としての経験から ――

(平成14年7月12日)    
(法務省仙台法務局における講演)
東北大学  藤田 宙靖     



はじめに


 衆知のように、国の情報公開法(正式には「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」。以下、単に「情報公開法」と略称)は、平成13年(2001年)4月1日をもって施行されるに到った。私は、その施行と共に、同法の定めにより内閣府に設置された情報公開審査会(法18条)の9名の委員の一人として任命され、この一年間、行政機関の行った不開示決定処分に対する不服申立て案件についての審査会答申の作成に携わってきた。そしてその過程において、今回の情報公開法が導入したいくつかの注目すべき制度につき、そのメリット・デメリトを、つぶさに感ずる機会を持つことができた。本日は、法施行後一年が経過したことにも鑑み、その間私が感じたいくつかの事柄について、簡単に振り返ってみることとしたい。

 以下、まず第一に、情報公開審査会というものそれ自体に関して、その組織・機能のあり方についてお話し、次に第二として、情報公開法の定める不開示事由に関し、私自身が、この一年間の審査の実務の上で感じたこと、考えたこと、のいくつかについて、お話しすることとする。ただその場合、現職の委員の一員として、当然に、お話できることの内容には限界があることをご了解いただきたい。因みに、委員には、法律上、特別の守秘義務が課せられており(法23条8項)、この義務に違反した場合には、一年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処せられることになっている(法43条)。また、情報公開法の解釈をめぐる諸問題については、本日お話できるのは、立場上、私自身が所属している第三部会で行われた議論の結果に基づくものに限られ、他部会での議論に触れることはできない。更に、第三部会での議論の結果といっても、本日お話しするのは、そこでの議論を踏まえて、私自身が、一行政法研究者としてどう考えるか、という話なのであって、必ずしも、第三部会が、部会として公式に採用している考え方というわけではない。こういった意味において、要するに、本日お話しすることは、基本的に、私個人の独断と偏見に充ちた考え方に過ぎないものである、ということを、はっきりとお断りしておきたい。


一 情報公開審査会


(1)情報公開審査会の組織および運営等


 1. 組織


 情報公開審査会は、法(21条)に基づき、内閣府に、内閣府設置法54条(国家行政組織法8条の規定に相当)に定める審議会等の一つとして置かれている。もともと委員9名をもって組織され、非常勤を原則とし、ただし、そのうち3人以内は常勤とすることができる、とされていたが(改正前22条1項・2項)、その後昨年12月に独立行政法人等情報公開法(独立行政法人等の保有する情報の公開に関する法律)が成立し、現存の情報公開審査会がこの法律に基づく事案も担当することとされたため、法律が改正され、現行法上は、委員12名、うち常勤4名以内、ということになっている(現行23条1・2項)。独立行政法人等情報公開法は未だ施行されておらず(平成14年10月1日施行の予定)、現在のところは、未だ委員9名(うち常勤3名)という陣容で任に当たっているが、三部会構成をとり、常勤の3名が、それぞれの部会長を務めている(法25条1項参照)。これが近く4部会構成になるわけである。因みに、現国会で審議中の(今国会での成立は不可能のようであるが)個人情報保護法(以下では、行政機関関係のもののみを意味する。現行の「行政機関の保有する電子計算機処理にかかる個人情報の保護に関する法律」を改正したもの)が成立した場合には、同法に基づく自己情報の開示請求についても、現在の情報公開審査会が担当することになるため、さらに委員の増員があり、部会が増えることになる筈である。因みに、こうして4部会ないし5部会構成になった際、三つの法律に基づく事案をそれぞれどのように配分するか、という問題があるが、この点については、未だ最終的な結論が出ていない。

 委員は、法律上「優れた識見を有する者のうちから、両議院の同意を得て、内閣総理大臣が任命する」ものとされているが(法23条1項)、現在の顔ぶれを具体的に見ると、第一部会が、元高裁長官である部会長(審査会会長)の下、マスコミ出身者、および大学教授(行政法専攻)、第二部会が、元高検検事長(審査会会長代理)である部会長の下、弁護士及び大学教授(憲法専攻)、第三部会が、元労働省局長である部会長の下、弁護士および大学教授(行政法専攻)、ということになっている。因みに私自身は、第三部会に所属している。

 委員会の事務局は、事務局長(総務省から出向。審議官クラス)以下総勢27名(7月10日現在)から成っている。定員法上の定員は、7名であるが、他は、事務局長をも含め、全員各省庁から併任の形で出向している。構成としては、事務局長の下に審査官4名(課長クラス)、調査官4名(企画官クラス)、調査専門官14名(課長補佐クラス)がいて、各種資料の調査・収集、会議資料の整理・作成、答申案作成に際しての常勤委員の補佐、等の任に当たっている。


 2. 運営


 各部会は、原則毎週一回会議を開いて、部会毎に割り当てられた事案の審査に当たっている。ただ、第3部会については、私が東京在住でないことから(他の委員は全て東京在住)、現在、一週間おきに一回で、その代わり、二日間にわたり半日ずつ会議を開くこととしてもらっている。そのほか、年に数回、審査会全体としての会議が「運営会議」の名の下に行われている。これは、主として審査会全体の勉強会としての内容を持ち、外部講師を招いての勉強会、あるいは、委員会全体として意思統一をしておくべき審査・答申の方針等について、意見を交換するものである。現在のところ、具体的な事案につき全体会議で審議を行った例(法25条2項参照)は無い。

 各部会の担当する事案の割り振りについては、部会長会議がこれを行っている。発足当初は、法5条各号が掲げる不開示事由毎に部会の担当を決める(例えば、一号・二号の個人情報・法人情報は第一部会に、三号・四号の国家および公共安全情報は第二部会というように割り振る)ことが考えられていたようであるが、結局は、そういった配分は無理であることがわかり、実際には、事案の性格とは無関係に配分が行われている。それは、一つには、一つの事案が複数の、性質の異なった不開示情報を巡るものであることが多く、明確な区分はできないこともあるが、各部会の委員の顔ぶれからしてそうせざるを得ない、という問題もある。例えば、東京大学の情報公開が問題となっているケースを、東大の小早川教授が委員である第一部会に委ねることはできないし、東北大学のケースを、私が所属している第三部会に割り振ることはできない。

 ただこの点、先にも触れたように、独立行政法人等情報公開法および個人情報保護法に対処して部会が増えた場合にどうなるのかについては、問題が残る。前者については、おそらくトータルとして、4部会に割り振るということになるものと思われるが、個人情報保護法に基づく自己情報の開示請求の場合についても当然にそうなるのかについては、なお問題が残るところである。

 会議は、現在まではいずれも、3名の委員による合議で行っており、担当委員制度のようなものは採用していない。常勤委員である部会長が、事務局の補助の下会議にかける事案につき整理を行い、答申原案の作成等を行って、それを、合議で検討する、という形をとっている。ただ、現在、毎回の会議時間が数時間に及び、部会によっては、さらにそれを大幅に上回る時間をかけて審議を行っているにも拘らず、一方では、諮問を受けた未答申事案がますます累積して行くという状況にあり(昨年4月に発足以来、現在までに諮問を受けた事案は、ほぼ500件で、答申済のものはその約半数であるに過ぎない)、こういった事態の下、果たしてどこまで、今のような態勢で続けて行けるかは、なお不明確なものがある。

 現在会議の負担を減らすためにとっている運営方法上の工夫は、法30条の定める指名委員制の利用であって、私の所属する第三部会では、意見陳述の聴取につき、とりわけ、地方へ出張しての聴取、また諮問庁からの聴取等につき、部会長を指名委員として、これらを行った例がある。最近では、こういった例が増える傾向にある。


 3. 審理の方法について


 ご承知のように、審査会には、法律上、その審理に関し、かなり強力な権限が認められている。

 イ) インカメラ審理権

 その最も代表的なものは、いわゆるインカメラ審理権、すなわち、開示請求の対象となっている文書を直接に閲覧する権限であって(法27条1項)、これは、不開示決定の取消しを求めて争う行政事件訴訟の場合には、裁判所に認められていない権限である。

 法律上、インカメラ審理は、審査会が「必要があると認めるとき」に行うことができることとされており、これまでこれを行った事件数は、お手元の配布資料では、ほぼ全体の三分の一程度となっているが、しかし、実感としては、ほとんど全てのケースで、これを行う結果となっているように感じられる。資料上の数字とのこのギャップは、事案の中には、例えば不存在事例のように、そもそもインカメラを行うことがありえないケース、また、後に見る存否応答拒否事例のように、はじめから、インカメラの必要がないことが明らかなケース等も多数あるからである。しかし、こういった事例を除き、法定の不開示事由への該当性の有無を正面から判断しなければならない事案においては、本当に不開示としなければならないかどうかは、諮問庁の説明だけでは十分に判断できない場合がほとんどであるといってよいように思われる。私の実感では、仮にインカメラ審理が許されないとしたならば、情報公開法を定めた意味は、著しく減殺されるように思われる。裁判所にこれが認められなかったのは、裁判の公開の原則に抵触するのではないか、という懸念からであると聞いているが、いずれにせよこれでは、情報公開法制の適切な運営を図る上で、裁判所の機能が審査会の機能に著しく劣る結果となるのを、避けられないものと考える。

 ロ) ヴォーン・インデックス

 他方で、同じく審査会に認められた、諮問庁に対しいわゆるヴォーン・インデックス(開示請求の対象となっている文書に記録されている情報の内容を審査会の指定する方法により分類または整理した資料)を作成し、審査会に提出するよう求める権限(法27条3項)については、このような資料の提出を求めた例はあるが、現実には、さほど重要な機能は果たしていないように思われる。それは、インカメラで文書の内容を直接に見た方が、全体の問題状況を把握するためには、ずっと手っ取り早いからであって、本当に審理の役に立つ情報内容の整理は、むしろ、その上で事務局が行うケースがほとんどであるといってよいものと思われる。


(2)情報公開審査会の機能について


 1. 法律上の位置付けと現実の機能


 法律上、審査会の出番並びにその機能は、かなり控え目なものとして規定されている。すなわち、審査会が登場するのは、法律に基づく開示請求があって、これに対して、第一次処分(原処分)により不開示決定(或いは、一部開示決定)がなされ、更にこの第一次処分に対する不服申し立てがなされた場合、しかも審査庁が原処分を維持しようとするとき、審査庁から、そのことについての諮問(法律上、この場合には諮問する義務が課せられている。法18条)がなされて、はじめてのことなのである。従って、そもそも原処分において開示請求が認められた場合、或いは、認められなかったが請求者が敢えて不服申立てをしない場合、更に、不服申立てがなされ、審査庁がこれを認容した場合、等には、審査会の出番は全く無い。また、不開示処分がなされた場合、制度上不服申立て前置とはされていないから、請求者は、いきなり裁判所に取消訴訟を提起することもできるのであって、この場合にも、(請求者が、別に不服申立てを、訴訟と平行して提起しない限り)事件は審査会にはかからないことになる。それにも拘わらず、昨年4月に発足以来ここまで(6月25日現在)審査会が諮問を受けた事件数は、三部会合わせて472件に及んでおり、しかも、新たに諮問される件数は、加速度的に増え続けている。

 また、審査会がこれまで行って来た答申には、諮問庁(不服申立てに対する決定庁又は裁決庁)の原案(諮問に添えられた理由書に示されている)とは異なり、原処分を取り消し、全部開示あるいは一部開示することを妥当とするものが数多くあるが、これまで、行政庁側で、これらの答申と異なる決定・裁決を行ったという報告は一例も聞いていない。これは、審査会の答申は、あくまでも「諮問」に対する「答申」であって、行政庁に対する法的拘束力を持つものではないことに鑑みると、極めて重要であり、甚だ注目に値するところである。こういった意味においては、情報公開審査会は、現実に情報公開の現場での基準を作りつつあると言って良いのであり、極端に言えば、情報公開法の分野における最高裁と言ってもよいほどの役割を、現実に果たすようになっているとすら言うことができよう。


 2. 情報公開審査会が現実に果たしている強力な機能の原因について


 情報公開審査会が、その法律上のかなり控えめな位置付けにも拘らず、現実にこのように重要な機能を果たす結果となっている原因について考察してみると、以下のようなことが言えようかと思われる。

 イ) 行政不服審査手続の一環として位置付けられていること

 情報公開審査会の審査は、行政不服審査法に基づく不服申立ての審査の過程で行われるものであるから、裁判所による審理の場合と異なり、原処分庁の不開示決定につき、その違法性のみならず、不当性、すなわち、行政庁の裁量の誤りについても、審査権が及ぶ。従って、仮に裁判所であれば、行政庁の裁量権を理由に訴え棄却となるケースにおいても、審査会では、不開示決定を妥当でないとする答申が出される可能性がある。しかも、審査会の場合は、裁判所と異なり、上記のように、インカメラによってこの点についても判断するのであるから、不開示決定の違法・不当という認識に辿り着く可能性が、実質上も、かなり高い。

 また、諮問庁が審査会の答申に従った裁決をした場合、不服申立てに対する裁決であるから、これに不満な場合、不服申立人の側は更に訴訟を提起することができるが、原処分庁の側は、訴訟を提起することができない。これに対して、裁判所の判決の場合であれば、行政庁の側も上訴することができるのであるから、開示請求をする者にとっては、まず審査会の判断を受ける方が、手続上も有利であることになる。

 こういった制度の構造について理解が広まってくるにつれ、不開示決定を不満として争おうとする人達の間でも、当初の、裁判所による統制に、より期待を掛けていた立場から、次第に関心の重点を審査会の方へシフトする動きも、一部で始まっているようである。

 ロ) 行政部内での統一基準確立への要請

 他方で、行政庁の側からすると、自らの保有している情報については、できれば見せたくない、というのが人情であるが、しかし他面で、もし出さなければならないのであるならば、どのようなものをどこまで出さなければならないかを、どこか権威のあるところで決めて欲しい、という心理もある。これは言い換えれば、情報を公開することの責任を、自らが直接に負いたくはない、という心理とも言えるが、いずれにせよ、審査会の判断に従うのだということになれば情報を出し易い、という実態は、確かに存在するようである。

 その際、情報公開審査会が、行政組織の外に存在する、いわば「他人」であるのではなく、しかし、横並びの各省庁とは異なり、その一段上に位置付けられている内閣府という組織の中に置かれた機関である、ということも、あるいは、何らかの意味を持っているかもしれない。

 そして更に、現職の委員としては、委員の識見に対するいくばくかの尊崇もまた、何らかの寄与をしていないではない、ということを期待したいところではある。


 2. 審査会の任務(審査権)とその限界


 審査会は、上記のように、行政不服審査法に基づく不服申立てに対する決定ないし裁決を行う過程において機能すべく設置されたものであるが、それが、情報公開法という法律によって特別に設けられたものであることから、その任務、言葉を換えて言えば、審査権の及ぶ範囲には、それなりの限界があるのではないか、という理論的な問題がある。具体的に言えばすなわち、審査会が行うべきであるし、また行うことができるのは、専ら、問題となっている情報が、法5条等に定める不開示事由に該当するか否か、という点についての判断なのであって、原処分の違法性ないし不当性一般についての判断ではないのではないか、という問題である。具体的に言えば例えば、専ら原処分の手続法上の瑕疵(例えば、理由付記の不備のように、行政手続法の定めるところに違反している、というケース)を理由に、原処分における不開示決定は違法であって取り消すべきものであるということを答申して良いか、という問題である。

 この点については、立法過程において既に問題となり、しかし、そのような限定は特に加えないこととされた、という経緯があるようで、現行法上は、審査会の審査権の範囲を画するような規定は存在していない。そして、実際にも、手続法上の問題であるからといって、当然に情報公開法自体の解釈のあり方とは無関係である、とは言えないようなケースは、明らかに存在する。例えば、最近第三部会で実際に取り扱ったケース(他ならぬ法務省も関係している)では、「法5条1号に該当する個人情報が含まれるため不開示」或いは、「法5条2号に該当する法人情報が含まれるため不開示」とのみ説明された原処分に対し、開示請求者が、法5条1号に該当する、或いは法5条2号に該当するというだけでは、理由付記に不備があるとしてその取り消しを求めたものがある。ところでこの場合、5条1号に掲げられた個人情報の中には、「特定の個人を識別することができるもの」と「特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害するおそれがあるもの」との二種類があり、また、5条2号に掲げる法人情報の中には、同号イに掲げるものとロに掲げるものとの違いがある。このどちらに該当するとされているのかによっては、これに対し反論するのに大きな違いがあるのであって、少なくともこのどちらの情報に該当するというのかを明確にしない処分は、やはり理由付記に不備があるものと判断せざるをを得ない。そしてこういった判断は、まさに、情報公開法が不開示事由について定めている規定を巡ってのものであるから、専ら情報公開法の適正な運営を担保するために設置された機関である、ということを仮に前提としたとしても、情報公開審査会にその権限無し、ということはできないであろう。

 尤も、審査会の答申内容にその性質上限界がある、ということ自体は、当然これを否定することはできない。すなわち、例えば、原処分の不開示決定に対して不服申立てによってその取消しが求められている場合、決定庁が原処分庁と同一の機関である異議申立ての場合は別として、裁決庁が原処分庁とは別の機関である審査請求の場合、裁決によって行えるのは、原則として、原処分の取消しか或いは請求棄却かのいずれかでしかないのであって、文書の開示を命ずることが、当然にできるわけではない(ただ、裁決庁が処分庁の上級庁である場合には、原処分の変更を命ずることができる。行政不服審査法40条5項)。また、理論的にいうならば、審査庁には、処分が違法又は不当と判断された場合であっても、事情裁決を行う可能性がある(同法同条6項)。こういったようなシステムの下、審査会が、問題となっている情報が法定の不開示情報に該当するとの判断をした場合であっても、当然に、「開示すべきである」或いは「原処分を取り消すべきである」という積極的な内容を持った答申までを行い得るか否かには、理論的には問題が無いではない。これまでの審査会の答申では、こういった表現を用いているものもあるが、私自身は、これは、それぞれ「開示に値する」また「取消しに値する」という判断を、このような言葉を用いて表現しているに過ぎないものと理解すべきであろう、と考えている。


二 情報公開法 ――― とりわけ、不開示事由を中心として


 1. いわゆる「個人情報」について


 1) 情報公開法の特色

 情報公開法は、諸外国の法制度についての広範にわたる調査と、国内地方公共団体レヴェルでの、過去20年にも渉ろうとする情報公開諸条例の経験の積み重ねの上に立法されたものであって、その意味においては、慎重にも慎重を重ねた検討の上に出来上がった法律であると言える。とりわけ、従来の地方公共団体の情報公開条例と比較したとき、この法律において導入された制度として、特に、いわゆる個人情報に関し、次のような点が注目される。

 第一に、不開示の対象となる個人情報について、従来の情報公開条例中には、いわゆる「プライヴァシー保護型」を採るものもあったが、意識的にこれを採用せず、いわゆる「個人識別情報型」を採用したことである。このことによって、果たして「プライヴァシーの保護」に当たるか否かが明確でない個人情報についても、特定の個人が識別できる限り、広く保護されることとなった。ただ、それは同時に、他面では、公開の対象となる情報の範囲が、その分だけ狭くなったことをも意味する。

 第二に、不開示の対象とされる個人情報については、それが、当の本人による自己情報の開示請求であった場合にも、開示を認めないこととされたことである。これは、言葉を換えて言えば、情報公開請求制度と個人情報保護制度との目的ないし性質上の違いを、法律上明確にした、ということでもある。

 第三に、個人情報の保護を徹底するという見地から、いわゆる「存否応答拒否(グロマー拒否)」の制度、すなわち、「開示請求に対し、当該開示請求に係る行政文書が存在しているか否かを答えるだけで、不開示情報を開示することとなるときは、行政機関の長は、当該行政文書の存否を明らかにしないで、当該開示請求を拒否することができる」制度(情報公開法8条)、を導入したことである。

 これらの制度は、そのそれぞれを取ってみる限り、(それらを導入すること自体についての賛否はあり得るにしても)法律上、その趣旨はほぼ明確であると言って良かろう。しかし、法施行後の実態においては、これらの諸制度が相互に絡み合うことによって、実のところ、恐らく立法に携わった人々が、充分予想していなかったと思われる事態が発生している。以下、この点について、私自身の関与した事例を素材としつつ、いささか詳細に見て行くこととしたい。


 2) 存否応答拒否

 上記に触れた問題の所在を明らかにするためには、右に指摘した諸制度のうち、第三の存否応答許否制度から逆に見て行く方が便利である。

 情報公開審査会が最初に行った答申(第二部会)は、存否応答拒否事例についてのものであった。そして、その後の一年間においても、審査会が2002年5月末までに行った答申数計232件の中、その一割を超える27件を、存否応答拒否事件が占めているのである。

 俗に「グロマー拒否」とも呼ばれるこの「存否応答拒否」の制度は、もともと、かなり特殊な事例を想定して考案されたものであった。すなわち、立法過程においてしばしば引き合いに出された例は、次のようなケースである。例えば、ある特定の人物が精神病院に入院していた際の診療記録についての開示請求が出された場合、このような記録は、いうまでもなく個人情報であり、しかも特定の個人が識別できる情報(個人識別情報)であるから、開示することはできないことになる。しかし仮に、行政機関が「そのような記録は存在するが、個人識別情報であるから開示できない」との理由で不開示決定をしたとすると、少なくとも、その人物が精神病院に入院していた、という過去の事実(それ自体が個人情報)が明らかにされてしまうことになる。こういった事態を防ぐためには、そのような記録が存在するか否かを明らかにすること自体避けられなければならない、というのが、この制度の背景をなす考え方であった。

 ところで、このような意味における個人識別情報の開示は、上記のような個人のプライヴァシー侵害に係るようなケースのみならず、およそある人物を特定して、その者に係る情報の開示を請求するようなケースでは、極めて広範に生じ得ることになる。例えば、「Aという人物が行った何らかの申請(許可の申請、或いは労災給付・健康保険給付等の申請)の処理に関する一件書類の開示を求める」というような請求の場合、仮に「そのような書類は存在するが、個人識別情報であるから不開示」とするか、或いは、「そのような書類は作成されておらず、不存在」として不開示決定をしたならば、Aがそのような申請をした、という事実自体は、明らかになってしまう。この「Aが一定の申請をした」という事実がプライヴァシーに属するものであろうがそうでなかろうが、それ自体は明らかに個人識別情報の一種であるから、一般論として考える限り、このようなケースはすべて、「存否応答拒否」の対象となり得るケースであることになる。そうして実際、現実に生じた「存否応答拒否」の事例は、ほとんどがこういったケースであった。つまり、不開示情報としての個人情報の意味につき、いわゆる個人識別型を採用した場合には、個人に係る情報を個人名を特定して開示請求する限り、極めて多くのケースが、存否応答拒否の対象となってしまうのである。このような事態は、おそらく立法に際しては、想定されていなかったところと思われる。


 3) 本人情報(自己情報)

 ところで、上の2)で見たようなケースは、そのほとんどが、開示請求者が、自らの申請がどう扱われているかを知りたい、という目的の下、自己に関する情報の開示を求めているケースである。従って、この場合、いうまでもなく、開示請求者Aは、「Aが一定の申請をした」という事実の存在自体は、先刻承知しているわけである。ところがそれにも拘らず、こういったケースでは、あくまでも「存否応答拒否」がなされることになる。何故ならば、先にも触れたとおり、現行の情報公開法は、法の定める不開示情報については、本人であるか否かを問わず、およそ何人からの請求に対しても開示を認めない、という立場に立つものと考えられており、この点で、自己情報の開示を認める制度である「個人情報保護法」とは、その目的並びに性質を異にするものである、と考えられて来たからである。この考え方の下では、本人が自己に関する情報を求めようとするならば、それはもっぱら、個人情報保護法に基づいて行うべきであって、情報公開法に基づく開示請求を行うのは、筋違いである、ということになる。問題はしかし、少なくとも、情報公開法施行後1年間を経た現時点では、未だに完備した個人情報保護法制が、成立していないことである。尤も、厳密にいうと、現在でも、先にも触れたように昭和63年の制定に係る「行政機関の保有する電子計算機処理に係る個人情報の保護に関する法律」が存在しており、この法律に基づき、自己情報の開示を求める道が開かれている(同法13条)。ただ、この法律が開示の対象としているのは、コンピューター処理をされたファイル上の個人情報のみであって、情報公開法が対象としている「行政文書」に比べると、その範囲が著しく狭い。のみならず、この法律に基づく開示請求ができる情報からは、学校関係情報・医療関係情報等、まさに、しばしば本人が自己情報を求めたがる分野の情報が、そもそも除かれているのであって(同法13条)、本来の個人情報保護法というには、かなり不十分なものがある。

 こうして、自己が行った申請に対し、その後の処理がどうなっているのか、あるいは、申請に対してなされた処分が、どういった経過でそのような内容のものとなったのか、を知りたいと思う者は、情報公開法に基づく開示請求を出してみても、「個人識別情報であるが故に不開示」との判断を受けるどころか、そもそも「存否応答拒否」という対応をされることになる。自己についての情報を請求するのは、情報公開法の世界の問題ではなく、個人情報保護法の領分である、といわれてみても、その情報公開法がそもそも制定されていない。これでは、あまりにも人を馬鹿にした話だという感じが抱かれたとしても、仕方がないといわざるを得ないであろう。

 こういった事態に対処するために考えられる途は、例えば、次のようなものである。すなわち第一には、情報公開法が自己情報の開示請求を認めていないのは、あくまでも別に個人情報保護法制が完備しているということを前提としてのことであって、この前提が充たされていない場合には、必ずしも、情報公開法と個人情報保護法との目的・性質の違いということにこだわる必要はない、という考え方をとることである。これは、例えば、最高裁が兵庫県の情報公開条例に関連して昨年12月18日に出した判決においても、示唆されている考え方である。情報公開審査会は、少なくとも現在までのところ、情報公開法についてこういった考え方を採用してはいないが、私個人としては、個人情報保護法が今後いつまで経っても成立しないような場合、こういった考え方が全く考慮に値しないものであるかどうかは、なお検討の余地があるのではないか、と考えている。その詳細については、本日は触れないが、最近、台湾の翁教授の古希記念論文集に寄せた「いわゆる存否応答拒否制度について」と題する小論において、このことにも、若干触れておいた。

 審査会が現在のところ採っているのは、第二の途であって、情報公開法5条1号イに定める、個人情報についての例外的開示規定を、場合によっては適用できるのではないか、という考え方である。例えば先に見た特定個人の申請に対する対応状況を示すような情報を含んだ書類の場合、その存否が明らかになると、特定の個人が一定の申請をしたという事実(個人識別情報)が明らかとなってしまうから、という理由で、存否応答拒否がなされることになるのであるが、しかし、ある特定の人間が一定の申請をした、という事実の中には、別に公にされたとしても問題のないケースもあるのではないか、ということである。例えば、ある人間が生活保護の申請をした、という事実は、これを公表して良いというものではないであろうが、これに対して、例えば、ある土地の所有者が建築確認の申請をした、というようなケースであったら、どうであろうか?つまり、こういった事実の中には、法5条1号イにいう「法令の規定により又は慣行として公にされ又は公にすることが予定されている情報」であると考え得る事実もあるのではないか、ということである。そこで、審査会では、この種の事案については、特定個人が一定の申請をしているという事実は、それ自体は、法5条にいう「特定の個人を識別することができる情報」である、とした上で、それが、1号イに該当するものではないかどうかを審査する、という方式を採ってきている。

 そこで、問題は、このイに定める要件の充足の有無を具体的にどのように判断するか、ということであるが、この点については、後に、他の要件の場合をも含め、要件解釈の方法一般についてお話しするところに譲ることとしたい。


 3) 個人情報 ―― とりわけ、「権利侵害」の有無について ――

 情報公開法は、不開示情報たる個人情報を「個人に関する情報・・・であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と照合することにより、特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)または特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害する恐れがあるもの」と規定している(法5条一号本文)。ところでこの後段の「特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害する恐れがある」情報とは一体どのようなものであるのか、ということは、必ずしも簡単に答え得る問題ではない。

 この問題について、解説書等で挙げられてきた典型的な例は、例えば、病院における医者のカルテの開示の可否という問題であった。つまり、医者のカルテにおける記載内容は、患者のプライヴァシーの最たるものであって、これを開示することは、仮に患者の氏名が秘匿されており、識別することができない場合であっても、当人の基本的人権(人格権)を侵害するものである、という考え方である。しかし、そこで言う「患者の基本的人権の侵害」とは、より正確に言って、患者の何に対するどのような侵害なのか、ということは、これだけでは必ずしも明確であるわけではない。すなわちまず、理論的には、仮に、当該カルテの対象が誰であるかということが完全に秘匿されている場合、それでも、プライヴァシーの侵害ということがあり得るのか、が問題となる。この場合、考え方としては、仮にプライヴァシーの侵害ということではないにしても、しかし、患者自身が見れば、そのカルテが自分のものであることは認識できるのであって、自分に関するそのような情報がそもそも外部に晒されるということ自体、耐えられない、ということはあり得る(つまり例えば、仮に被写体が自分であるということは判らないようにされていても、自分の裸体写真が公にされることは、それ自体耐えられない、というのと同じである)ので、こういった感情を保護する必要があるのだ、という説明をすることになろう。しかし、そうであるとするならば、問題が個人の主観的な感情という要素に支配されることとなってしまい、その判断は、甚だ困難なものとなる。例えば、エイズに罹っているという情報は、仮に匿名で公表されたとしても、そういったことが公表されるということ自体、患者本人にとっては、著しく不愉快であり権利を侵害されることである、と考え得るとして、では、癌の場合であったらどうか?喘息であったらどうか?胃潰瘍であったらどうか?そもそも病気に掛かったということ自体、公にされるのは、当人にとっては決して愉快なことではないのではないか?等々、その判断は、極めて微妙なものにならざるを得ない。また例えば、本人が、名前を出されるのは困るが、病院での治療の結果エイズに感染させられてしまったという事実は、むしろ積極的に公にして欲しい、ということを希望しているような場合には、どう考えたらよいのか?実際、審査会としても、こういった点の判断については、これまで、大いに苦慮してきているのである。

 ただ、現在では、この問題に対するアプローチの一つの方法として、「個人の権利利益が害される」か否かは、多くの場合、個人識別の可能性の度合いと切り離しては考えられないのではないか、という考え方が登場してきている。すなわち、一般に、(そのことだけを以て不開示事由となる)5条1号本文前段の場合の、ある情報が「特定の個人を識別することができる」ものであるかどうかの判断は、「知る人ぞ知る」ということでは駄目なので、広く一般の者に識別できるかどうかによって判断されなければならない、とされているため、仮に、氏名等を伏せても身内を始めとする周辺の者には当人だと判ってしまう、というようなケースでは、ここでいう「個人識別情報」とは性格付けられないということになる。しかし、こういった場合、情報の内容によっては、「特定の個人を(この意味において)識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害するおそれがあるもの」として性格付けることができる場合があるのではないか、ということである。その判断は、おそらく、情報の内容如何(例えば、エイズであるか、単なる風邪であるか、といった違い)と、この後者の意味での、「他人に知られる可能性の度合い」如何との相関関係によってなされることになる。最近の第三部会の答申は、このような考え方に立って行われており、従ってまた、そこでは、個人が「識別される」という言葉(前段のケース)と、当人であることが「知られる」という言葉(後段のケース)とが、意識的に使い分けられているのである。


 2. 要件解釈の方法に関する若干の論点 ――― 事実(Sein)と規範(Sollen)の交錯


 1) 「公にすることが予定されている」情報(法5条1号イ)

 先に触れたように、不開示情報となるいわゆる個人識別情報であっても、法5条1号のイ、ロ、ハ、のいずれかに該当する情報は、例外的に開示されることになる。このイ、ロ、ハ、のいずれの要件についても、それが充足されているか否かについては、それぞれ判断が困難なケースがあるが、ここではとりわけ、解釈方法論との関係で、イについて取り上げてみることとしたい。

 ここに定められている「法令の規定により又は慣行として公にされ、又は公にすることが予定されている情報」とは、文字通りに読めば、全くの事実的要件であって、要するに、当該の情報を公にしている法令ないし慣行があるか否か、或いは公にすることが予定されているという事実が存在するか否か、という、その意味においては純然たる事実の有無の認定によって、勝負は決まるかのように見える。言葉を換えて言えば、従来までの事実としてはそのような慣行や法令は特に無いが、情報の性質上、今後は当然そのような慣行が作られるべきである、といったケースは、これに該当しない、ということである。しかし、このような解釈を杓子定規に全ての場合に当てはめて良いか、という問題が、現実には存在する。

 実際上、法令の規定により直接に公にすることが定められているケースというのは、そう多くはないので、問題となるのは通常、慣行としてそのようなことが存在するかどうか、ということであるが、「慣行」として存在するというためには、文字通りに言えば、少なくとも、これまで繰り返しそのようなことが行われている、という事実が存在することが前提になろう。しかし、情報によっては、公にされたという事実自体(例えば新聞報道)はこれまでに一度しかない(従って、「既に公表の慣行がある」とは言えない)が、しかし、性質上、今後同様の事態が生じれば、当然にまた公にされたとしても不思議ではない、と考えられるようなものもある。また、今後公表されることが明確に予定されている、といったわけでもないが、しかし、同じく、今後同様の事態が生じたとして、果たして、どうしても公表を拒まなければならない性質のものであるかどうかが疑問に感じられるような場合もある。例えば、第三部会で取り扱ったケースとしては、石川啄木の犯罪容疑に関する記録の公開を巡るケース(平成13年諮問35号)がある。これは、かつて石川啄木が、犯罪容疑で検事の取り調べを受けたことを記録する明治39年の検事事件簿の中、啄木に関する部分の公開が求められた事案であるが、このような行政文書は、当然個人識別情報であるし、またそもそも、そのような記録があるという事実が明らかになるだけで、啄木が検事の取り調べを受けた、という事実(それ自体が個人識別情報)が明らかにされてしまうから、原則的に言えば、存否応答拒否がなされることになる事案である。諮問庁の原案は、まさにそのようなものであった。ところが、この文書については、その間昭和57年に、諮問庁である盛岡地方検察庁自ら、地元で行われた企画展において、出品協力者として、これを出品提供していたという事実があった。そしてその結果、写真撮影され、当時の新聞記事に掲載されたほか、図録中に取り入れられて、現在でも地元の図書館や国立国会図書館等に所蔵されており、何人もこれを閲覧することが可能な状態にある、という事実が認定された。更にまた、啄木自身、自らの著作の中に、自分がそういった取り調べを受けたことについて、書いていたのである。こういった経緯に照らすならば、(当人が既にとうの昔に亡くなっている故人であり、また、著名な文学者であることをも考慮し)現時点でこういった情報を公開すること自体、実質的に問題は無いように考えられる。しかし、このケースで、この情報が、文字通りの意味で「慣行として公にされている情報」と言えるかどうかについては、当然異論もあり得るであろう。ただ、今後こういった情報が公開されたとしても実質的には問題が無いと考えられるならば、事実としてはともかく、その性質上、これは、「公にすることが予定されていると考えるべき情報」である、と考えることはできるのではないであろうか?

 尤も、この事案で、第三部会は、そこまで突っ込んだ判断をしたわけではなく、ただ、上記のような諸事実が認められ、更に、その間、諮問庁が、地元の図書館等に対し図録の当該部分の閲覧の禁止を求めるなど、不特定多数の者が当該個人の犯罪歴の有無を知りうる現状を是正するための何らかの措置を講じた形跡も認められない、という事実があること等、全ての状況を総合すれば、啄木が検事に取り調べられたという事実の有無は、「慣行として公にされている情報に該当する」という説明をして、一号イ該当性を認めたのであった。いずれにしても、ここには、「慣行として公にされている」あるいは「公にすることが予定されている」かどうかという問題は、単に、「慣行がある」あるいは「予定されている」という文字通りの事実があるか否かという問題に尽きるのではなく、様々の状況の総合判断によって決定されるのだ、という考え方が示されているものということができよう。更に言うならば、これらの要件は、文字通りには単なる事実要件であるかのように見えて、実は、一定の価値判断を内含する要件、あるいは、一種の規範的要件なのだ、ということになるかもしれない。

 こういった考え方を前提とすれば、例えば、先に見た、特定個人の申請に対する処理状況を示す文書の開示請求、といった場合にも、先に見たような理由で存否応答拒否をするのか、それとも、5条1号イを適用するのか、については、その申請が、何についてのどのような申請であるのか、を、一つの判断要素とする、ということが考えられる。言葉を換えて言えば、これは、そこでは、ある特定の個人が一定の申請をしているという事実が公になるということが、果たしてまたどの程度、当人の権利・利益を侵害するおそれがあるか、ということについての、一定の判断を避けることはできないのではないか、ということでもある。すなわち、情報公開法がプライヴァシー保護型ではなく個人識別型を採用した、という事実は否定のできない事実であるとしても、それを金科玉条としていかなる場合においても徹底することが、制度全体としてあまりにも不合理な結果をもたらすと考えられる場合には、もともと個人識別型の採用というのも、本来個人の権利・利益の保護を完全にするためのことであった、という原点に立ち戻って問題に対処することが要請されるのではないか、ということなのである。


 2) 「おそれがある」の解釈について

 法の定める不開示情報の中には、開示をすると一定の「おそれがある」ことが要件とされているものが、数多くある。この中で、最もしばしば問題とされ、また実際に困難な判断を強いられるのは、5条5号の定めるいわゆる意思形成過程情報、及び同6号の定めるいわゆる事務・事業情報である。なお、「おそれがある」か否かという判断そのものについては、3号及び4号のケースの方に、より深刻なものがあるのであるが、ただ、これらについては、法定の要件としては、5号・6号の場合とは異なり「……おそれがあると行政機関の長が認めることにつき相当の理由がある情報」とされているため、審査会としては、行政機関の長の判断に「相当の理由がある」か否かを判断すれば済むのであって、必ずしも、直接に「おそれ」の有無を決定する必要は無い。

 そこで、この5号情報及び6号情報に対象を絞って検討すると、まず、そこでいう「おそれがある」という要件については、抽象的・一般的にそのようなおそれがある、というだけでは足りず、具体的・現実的なおそれの存在が認定されるのでなければならない、ということについては、当初から、諸文献において指摘されてきているとおりであり、審査会もまた、明確に、そのような考え方に立っていると言って良い。

 次に、ここでいう「おそれ」の対象となる一定の支障については、単に、意思形成とか事務・事業の遂行に「何らかの支障を来す」というだけでは足りないのであって、このことは、法文上既に「率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性が不当に損なわれるおそれ、不当に国民の間に混乱を生じさせるおそれ又は特定の者に不当に利益を与え若しくは不利益を及ぼすおそれ」(5項の場合)、また「当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれ」(6項の場合)等の表現を以て明示されている。そこで、ここにいう「不当性」或いは「適正さ」とは、具体的にはどのようなものであるかが、法適用上の問題となるわけであるが、いうまでもなく、これはそう簡単に答えられる問題ではない。例えば、審議会の議事録を公開すると、委員に対し、外部の利害関係者からの圧力が掛かるおそれがあるため、委員が自由闊達な発言をすることができなくなり、「率直な意見の交換若しくは意思決定の中立性」が不当に損なわれるおそれがある、というのは、従来、各機関が議事録の公開を拒んできた最大の理由であったが、他方では、審議会の密室性を排除し議論を透明化することこそが重要なのであって、いやしくも審議会の委員としての就任を受諾したものが、外部の圧力をおそれて自由な発言をしないなどとは、そのこと自体許されないことである、という考え方もある。そして今日、一般に原則として審議会の議事録の公開がなされるようになったことは、周知のとおりである。ところでこの場合、審議会の委員は、外部の圧力が予想されても、それに屈することなく堂々と正論を述べよ、というのは、規範論としては、まさに正論であるが、しかし、事実としては、全ての委員がこのように立派な人物であるわけではなく、従ってまた、自分が何を発言したかが全て明らかにされるというのでは、ここは口をつぐんでおいた方がよい、ということになってしまうケースも、おそらく、生じ得るものと考えられる。こういった、事実として支障が生じ得る、ということと、他方で、そのような支障はそもそもあってはならないものなので、そのような支障を前提として議論をすること自体適当でない、という考え方、言葉を換えて言えば、事実論と規範論との間の相克に、最も難しい問題があるものと言って良かろう。例えば、第三部会が取り扱った例では、いわゆる「労災隠し」の問題などが、その典型例の一つであって、労働災害が起きた事業所から基準監督署が受ける事故報告書につき、これを開示せよ、という請求に対し、行政機関の側では、こういったものが開示されると、今後、事業所側は、例えば風聞被害等をおそれて、事故が起きても詳細な報告をしないとか、或いは偽った報告をする等、適正な協力をしなくなるおそれがあり、それでなくとも摘発が難しい労災隠しについての調査が、一層困難になる、という理由から、不開示が相当と主張して来ている。この種のケースは、事業所側の非協力ということ自体が、本来あってはならないことなのであって、それを前提として議論すること自体適当でない、と考えるべきなのか、それとも、それが良いか悪いかはともかく、事実として、そういった事態が生じ、事業に支障が生じるおそれがある以上、情報開示はなさるべきでない、というように考えるのか、とりわけこのようなケースでは、第三者の協力が得られるかどうかが重要なポイントとなっており、必ずしも、行政機関の側の努力のみで完全に解決できる問題だけではない、といった側面があることから、甚だ難しい判断が強いられるケースである。

 こういった難しい実情はあるが、しかし、この問題は、やはり、基本的に、規範論的立場から考えることをその出発点とせざるを得ないものであるように考える。すなわち、審議会の委員は、やはり、常に堂々と議論をすべきなのであるし、監督署が、本来あってはならない事業所側の非協力の恐れを理由とすることは、極力避けられなければならないのである。それが無理だ、というためには、無理であるということ、例えば、委員の現実の身の危険、労災隠しを防ぐにはそれしかない、といった事情が、具体的かつ詳細に説明されるのでなければならない。こういったスタンスを明確にせず、徒らに事実論的立場に立って判断することが習いとなると、「事実として困難」という理屈の前に、「それは本来あってはならないこと」という認識が後退し、そこに歯止めが効かなくなってしまう恐れがある。こういったスタンスに立つことにより、仮に、現実の行政運営の上で、従来より円滑性を欠くことが生じるとしても、それは、行政の説明責任の明確化という目的のために情報公開制度というものを導入したことに伴い、行政が、そして国民全体が払わなければならないコストの一部と言わなければならないのであると考える。

 ただ、これは、出発点としてそのように考えるべきだ、ということであって、現実には、具体的な事案毎に、今後も、審査会として、さまざまに判断に苦しむであろう問題であることには、変わりはないといわざるを得ない。


三 終わりに


 情報公開審査会は、情報公開法という法律の運用を中立・公正ならしめるために、不服申立てを処理する過程におかれた第三者機関であるが、このような意味を持った第三者機関の例としては、その法律上の機能は常に同じではないものの、例えば国税不服審判所等、これまでに例が無いわけではない。ただ、これらの先行例は、いずれも、限られた特定の行政分野における争訟について設けられたものであった。これに対して、情報公開審査会の場合は、情報公開法という、全行政分野を横断する一般法、その意味で、行政法総論の分野に属する法律の適正な運用の確保を狙いとして置かれた機関であることに、注目すべきものがある。そして、それが現在果たしている機能に照らしてみると、これは、将来の行政審判庁構想あるいは、更に進んで、行政裁判所制度の設立に向けての一里塚ともなりうべきものを持っているのではないか、と思われるのである。中央省庁等改革基本法は、政府に対し、行政審判機能の充実強化の方策およびこれを担う組織のあり方について、検討することを義務付けている(同法50条3項)。もとより、現在の情報公開審査会がそのまま、より包括的権限を持った行政審判庁へと成長してゆく、ということを夢想しているわけではないが、仮に将来、同法が要請しているような検討が始まり、行政改革会議の最終報告でふれられていたような行政審判庁構想が日の目を見るような日が来た場合には、情報公開審査会の経験・実績が、一つの大きな参考資料となるのではないか、と思われるのである。私自身が将来に向けて密かに抱いているこのような展望をご披露することを以て、本日の話の締めくくりとさせていただきたい。


fujita@law.tohoku.ac.jp
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