はじめに
本日は表記のような演題で講演させていただくこととなったが、私自身は、教育行政論の専門家でも何でもなく、一介の行政法研究者であるに過ぎない。それにも拘わらず、本日こうした席に講師として呼ばれたのは、恐らく、ここ数年来、私が、橋本内閣の下での行政改革会議の委員、そして、地方分権推進委員会の参与として、現在進められつつある国の数々の行政改革の一環に携わってきたことに由来するものと思われる。こういったこととの関係で、私はその間、国立大学の独立行政法人化の問題等についてもいくつかの発言をして来た。そこで、本日の私の役割についても、おそらくは、そういった経験を踏まえた上で、今日大学の戦略的経営ということが重大な問題となってきている、その背景等について、総括的なお話をさせて頂く、ということが期待されているのではなかろうか、と考えている。本日のプログラムに書かれてある「高等教育システムの変動と大学の戦略的経営」という演題は、主催者の方から与えられたものであるが、このような意味で、本日の私の話の内容は、むしろ、「国の行政改革と高等教育システム」といったようなものになる、といった方が正確であるように思われる。
こういった出発点に立った上で、本日の話について、いくつかの前提を置かせていただきたい。
第一に、今申したような意味において、本日の話は、「大学の戦略的経営のあり方」ということ自体について、何か積極的な提言をしようとするものではない。こういった点についての提言は、本日、どなたか、他の方がなさることであると心得ている。ただ、右に申した「国の行政改革と高等教育システム」という問題を、できるだけ「大学の戦略的経営のあり方」というテーマに引き寄せて、取り扱うこととしたいと考えている。
第二に、「行政改革と高等教育システム」といっても、我が国の場合、高等教育の担い手すなわち大学には、国立、公立、私立、という違いがあって、現在行われつつある国の行政改革がこれらに及ぼす影響は、いうまでもなく、決して同じであるわけではない。すなわち、国立大学にとっては、国の行政改革は、まさに自らの改革をも意味するものであるが、公立大学にとっては、それは、大いに参考になることではあっても、直接の影響をもたらすものではなく、影響は間接的なものに止まっている。更に私立大学になると、基本的にはその影響は、国立大学が変わることによる間接的な或いは反射的なものであるに過ぎない。従って、国の行政改革が高等教育システムに及ぼす影響というものを、一口で論ずるということは、この意味において、そもそも不可能であるか、或いは少なくとも極めて困難である。ただ、現下の問題が、具体的には何よりも、行政改革による国立大学の変容ということをめぐって生じていることは否定できない事実であるように思われるので、本日の話もまた、「行政改革による国立大学の変容」ということを手掛かりとするところから始めることとしたい。
一 問題の基礎 …… 現下の国の行政改革とは何か
1.まず第一に確認しておく必要があるのは、現下の行政改革とは何であり、何を目的として行われているのか、ということである。通常「行政改革」という言葉を聞けば、すぐ頭に浮かんでくるのは、行政のスリム化による効率化、それを通しての財政赤字の縮減、といったような事柄であろう。現在行われている行政改革の中身として、このような側面が存在すること自体は、勿論否定できない。しかし、より重要であるのは、そこで目指されているのは、単に行政のスリム化といった目先の問題ではなく、より総合的包括的な、我が国の国家・社会全体にわたるシステムの改革ということなのだ、ということである。これを、平成9年12月に出された行政改革会議の最終報告では、「この国のかたち」の変革という言葉で表わしている。
例えば現在、行政改革の重要な一環として、省庁再編とか或いは公務員数の削減といったことだけではなく、情報公開制度の導入、パブリック・コメント制度の導入といったことが、強調され、また実現されてきている。ところで、単に行政の手間暇を省き、経費を安くあげる、という観点だけから考えるならば、行政手続とか情報公開とかいったことは、まさに、行政の事務処理過程を煩雑にし、またその分のコストを余計にもたらす、という面を持っていることを否定できない。それにも拘わらず、今日こういった事柄が、行政改革の欠くべからざる要素と考えられているのは、問題がまさに、専ら行政のスリム化・効率化を図るといった矮小化された問題としてではなく、行政のシステム全体の改革という、より大きな問題として考えられているからなのである。では、そこでいう「行政のシステム全体の改革」とは、どういうことか、これが次の問題である。
2.そこでこの問題に答えるために、多少迂遠ではあるが、今日、国レヴェルでの行政改革が焦眉の急とされている、その背景について、整理してみることとしたい。
明治維新以来の我が国の発展は、一口で言えば、いわば「西欧諸国に追いつき追い越せ」ということをモットーとして行われたものであった。そして、これを短期間に達成するためには、人的・経済的資源の集中的な投資が必要だということになるわけであるが、そのためには、少数の能力あるエリートに、そのための企画立案・実施を委ね、国民の大多数は、その指導の下これについて行くというシステムを採ることが、最も効率的である、ということになる。このパターンは、周知のように、明治維新以後、我が国が近代化するに当たって、極めて大きな機能を果たした。同時にこういうパターンは、第二次大戦後の文字通りの廃墟の中から我が国が新たに出発した際にも極めて有効であった。そしてその際、この指導者たる中核的エリートの役割を果たしたのが、霞ヶ関の中央省庁の官僚群であった。行政官僚は、本来は、行政権・執行権を担うに過ぎないはずであるが、実際には彼等は、単に国会が定めた法律の執行・実施に当たるだけでなく、政府の政策の企画立案、政府提案の法律についての立案作業についてまで、自ら携わって来た。また、民間の活動に対しても、単に法律を適用するというだけでなく、行政指導・補助金等によって誘導するという形で働きかけることによって、我が国の国策としての「追いつき追い越せ」を達成してきた。
ところが今日、こういったシステムがうまく働かなくなる、いくつかの要因が登場している。例えば第一に、そもそも「追いつき追い越せ」という目標(そのための資源の効率的利用)自体が、疑いを入れないものであるか? つまり、どういう意味で「追いつき追い越す」のか、という問題がある。我が国の「追いつき追い越せ」は、第二次大戦前は「軍事大国」として先進西欧諸国に追いつき追い越せというものであったし、また、戦後は「経済大国」としてのそれであった。しかし、それでよいのか、ということが問題になってきているわけで、例えば、経済の高度成長は、他面で、例えば資源の浪費、地球環境の悪化、といった負の結果をももたらす、という問題がある。要するに、単に経済的に成長すればよい、ということではなくて、価値観の多様化という問題が生じている。しかもこれが、今日、単に一国内の問題としてでなく、全世界的な規模で生じている。例えば、発展途上国の資源を食い尽くして先進国が経済的な発展を遂げるといったようなことでよいのか、といった問題である。
第二に、あらゆる問題がこういう形でグローバル化して来ると共に、問題処理のスピード化の要請が格段に高まる、という問題がある。例えば、金融危機の世界同時化、同時発生の危険といった問題等が、その典型的な例である。また、金融危機の問題といっても、例えば金融派生商品をめぐる問題のように、問題自体が極めて複雑化し多様化する。しかもそれ等が、極めて短期間のうちに、著しい変容を見せるのである。こういった中で、ごく少数のエリート官僚だけで的確な判断がなし得るかという問題が出てくる。そしてこれは、何も我が国だけではなくて、基本的には、全世界的に起きている問題なのである。 例えば、このようなシステムが行き詰まった典型例が、社会主義国家の崩壊である。ただ、我が国を始めとする西欧的民主主義の国では、エリートのリクルートシステムが、社会主義国家のように閉鎖的ではなく、特定の身分や出身の者でなければ上位に行けないといったことはなくて、広く開かれた採用試験に基づいて、能力さえあれば国民の誰でもがそういうエリートの仲間入りができるリクルートシステムが確立しているから、それで何とかやってきたが、危機的な状況は、実は、社会主義国家が崩壊したのと、根本的に同じところにある、と考えられる。
そして、その従来のシステムは、まさに、霞ヶ関のエリート官僚が体現するところの「国」こそが、あらゆるエゴとか私的な利益から中立に、国民全体のために適正な判断を下しうる、という考え方に基づいて出来ている。この考え方の下では、一般市民とか、或いは地域代表等がこういう国策の判断過程に携わるということは、公共の利益を私的利益ないし部分的な利益によって歪めることになる恐れがある。従って、そういうことは、できるだけ例外的なこととされなければならない。国策というのは、あらゆるエゴとか私的な利益から中立に、真に国民全体のために適正な判断を下しうる者に委ねられるのでなければならないのであって、まさにそのような資質を備えているのが、霞ヶ関の官僚だ、という発想である。
しかし、果たしてそうなのか、というのが今問われている問題であるわけであって、先に見たような価値観の多様化とか、判断のスピード化・柔軟化ということが要請されている時代にあっては、より多くの衆知を内外に求めて利用するということこそが必要なのではないか、ということになる。また、国、すなわち中央のエリートが判断することは常に正しくあるべきだし、また事実正しいという前提に立つのではなくて、誤った判断も起こりうる、という現実から出発すべきだ、ということになる。例えば最近、公共事業計画の再評価・見直しの必要ということがしきりに指摘されているのは、こういった問題が表面化した典型例である。
要するに、今必要であることは、少数の限られたエリートが手取り足取り国民の面倒を見て、教育ママ的な発想で、危ないことが起こる前に全て面倒を見てくれる、面倒を看られる方も、これに全てをお預けしてしまって「お任せしますから宜しくお願いします」という、もたれ掛かりのシステムを変えると言うことである。この霞ヶ関と国民との間の、教育ママ的、或いは、親分子分的な関係が、我が国の明治維新以来の急速な発展を大きく支えて来たシステムであったわけであるが、それではもう駄目なのではないか、というのが、今日の基本的な問題なのである。つまり、今や国民の一人一人が自分の問題として国政を考えて行かなければならない、ということである。言葉を換えて言えば、今求められている「この国のかたち」というのは、創造性と柔軟性に溢れた国家・社会を作るということであって、こういった見地から、ではそれをどうやって達成して行くか、ということで考えられたのが、中央省庁の再編を中心とする行政改革会議の行政改革案であったし、また地方分権推進委員会の提言した地方分権の推進案であったのである。
3.尤も、以上に見たのは、現下の行政改革の「背景」であり、「理念」であって、現実には、各省庁やそれを取り巻く諸利益グループ(例えばいわゆる「族議員」)の抵抗により、果たして、こういった理念が、目下進みつつある行政改革により、直ちに実現されることになるか否かには、数々の疑念もある。しかしいずれにせよ、「お上に全てをお任せする」ということではもはや済まず、また政治家や官僚のようなリーダーの側でも、「知らしむべからず、依らしむべし」といった旧来の発想でやって行くことはもはやできない、ということは、広く今日の我が国社会に根付きつつある認識である、と言って良いように思われる。
このことは、国の行政と私たち国民の間だけではなく、例えば、経済社会ないし企業の世界においても、今日顕著な現象となっている。たとえば、先人の積み上げてきた高度経済成長時代の経営の方法を、疑うこともなく引継ぎ、また、株主に対して経営の方針とか実態について明確な説明をする必要など毛頭考えても来なかったような経営者達が、思いも寄らなかったバブルのはじけによって、右往左往し、企業の倒産を招くとか、株主訴訟等でその責任を追及されたり、退陣に追い込まれる、といった現象が、従来の我が国では考えられもしなかったような規模及び頻度で、老舗の大企業においてすら、起きるようになっている。
つまり、およそある目的を持って存在している組織の運営に当たる者が、ひたすらに伝統に従い、これといった固有の創意工夫をしないままにただ流れて行く、ということではもはや済まない、ということが、国家であろうと社会であろうと、今日、我が国のあらゆるセクションにおいて、現実の経験に鑑み、広く共通の認識として痛切に感じられるところとなっているのである。そして、大学といえども、こういった全般的な動向から自由であり得るものではないことは、改めていうまでもないのであって、ただ「学問の研究・教育は、他の行政活動や企業活動とは違うから」という理由だけで、漫然と従来通りのやり方を維持する、ということでは、もはや国民一般の理解と協力とを得ることはできない状況となっているのだ、ということが、まずは、出発点として十分に理解されなければならないのである。
二 国立大学の改革と高等教育
そこで、以上の一般的な考察を前提とした上で、次に、このことが、大学に関してより具体的な形で表れている、現下の国立大学をめぐる行政改革に焦点を当てて、再度問題を考えてみることとしたい。
1.いうまでもなく、大学における高等教育については、それぞれの大学による自主的な創意工夫が何よりも大事であるということから、文部省による高等教育行政は、従来から既に、大学の自律的運営の可能性をより拡げる方向で推移してきた。例えば、平成12年5月26日付けの「国立大学長・大学共同利用機関長等会議における文部大臣説明」というものがあるが(その一部を、本日のレジュメ中に引用しておいた)、そこでは、その間の経緯について、簡単な総括がなされている。それによると、昭和59年に設置された臨時教育審議会の答申以後、国立大学のあり方に関する政策は、いわば、「自主・自律体制の確立」「教育研究の特質に応じた柔軟・活発な運営」の実現を改革の方向としつつ、「行財政的諸規制の大幅な緩和・弾力化」をその手法として進められた、とされている。具体的には例えば、大学設置基準の大綱化、大学院制度の弾力化、等が、その代表例である。そこに降って沸いて出てきたのが、この度の、国立大学の独立行政法人化問題であった。
2.周知のように、行政改革会議の最終報告は、国立大学の独立行政法人化問題については、次のように述べていた。すなわち、「独立行政法人化は、大学改革方策の一つの選択肢となり得る可能性を有しているが、これについては、大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図るという長期的な視野に立った検討を行うべきである」というものであって、少なくともそこでは、直ちに法人化に着手せよ、という積極的要請は行ってはいなかった。これは、現実問題としては、行政改革会議の委員の多くを占めていた国立大学関係者に対する、他の委員からの遠慮ということもあったかも知れないが、考え方としてはむしろ、現に文部省や国立大学協会を中心として進められつつある大学改革の進展を、まずは見守るべきである、ということであった。そしてその過程で、仮に独立行政法人という制度が、利用するに値する制度と判断されることとなったならば、その時点で、大学の自主的判断に基づき、具体的に法人化を考えることとするのが適当であろう、という趣旨であったのである。
国立大学の独立行政法人化についての、当初の文部省の対応は、明確に否定的なものであった。その理由については、例えば、文部省は、国立大学が法人化することによって、大学についての管理権限の多くを失い、自らコントロールがし難くなることを嫌がっているのだ、といった見方もあったし、また、そういった見方も一面では当たっているのかも知れない、とも思われる。しかし、私自身はむしろ、文部省の官僚達が、大学制度の改革について他の部局(ここでは、中央省庁等改革本部及び総務庁)にヘゲモニーを握られるのを嫌がり、実質上同じことをするにしても自分達の従来の政策の延長線上に位置付けた形で行いたかったから、というのが、実態ではないか、と考えている。
いずれにせよしかし、国立大学の独立行政法人化の問題がこのように焦眉の急の問題となったのは、具体的には明らかに、政治的な圧力を機縁とするもので、一昨年末から昨年始めにかけての、小渕内閣における太田誠一行政改革担当大臣と有馬文部大臣との間のせめぎ合いで、いわば有馬大臣が寄り切られる結果となってからのことである。そしてそれ以降は、文部省は、一転して、独立行政法人化を積極的に進めるところとなった。そしてそれは、実質的に見て、国立大学に独立の法人格を与えるということ自体は、文部省の従来の政策の延長線上にも充分に位置付けられ得ることであったからであり、政治的にそれがもはや不可避と判れば、もはや徒らにメンツに囚われているよりも、積極的に自己の政策として取り組む姿勢に立った方が賢明である、との判断に基づくものであった、というべきであろう。この点について、右に触れた去る5月26日の「文部大臣説明」は、次のように述べている。いささか長きにわたるが、独立行政法人化ということについての文部省の考え方を明確に示しているものとして、レジュメ中に引用しておいた。
その内容は、次のようなものである。
「臨時教育審議会及び大学審議会による改革路線は、現行の設置形態の枠組みの中での改革として、多くの成果を納めてきたのであるが、10年以上にわたる行財政的諸規制の緩和のための取り組みは、現行設置形態に由来するところの改革の限界点をも、徐々に明らかにしてきている。
例えば、予算面では、国の行政組織の一部である以上、予算の単年度主義や費目間流用の原則禁止の壁は、極めて厚いと言わざるを得ないし、給与や服務など人事面の諸規制についても、公正、中立を旨とする公務員制度の性格上、現行のままでは規制緩和が非常に困難である。更に、組織編成の面でも、国の機関である以上、組織の設置改廃や定員管理を担当官庁の審査対象から除外する、といった抜本的な改正を実現することは、極めて困難である。そもそも、国立大学が法人格を持たず、権利義務の主体となり得ない組織である以上、意思決定や財務の使途等において裁量権を制限されているのは、当然ということになる。
また、そもそも、国立大学が、国の行政組織の一部、言葉を換えれば、いわば文部省の附属施設(施設等機関)として位置づけられている以上、規制緩和を進めたとしても、文部大臣の広範な指揮監督権の下に置かれる状況には変わりはないのであって、国立大学の運営の自主性、自律性と自己責任の範囲が、依然として不明瞭なままであることも否定できない。
一方、国立大学を取り巻く社会の情勢に目を転じて見ると、グローバル化、情報技術革命、少子高齢化といった時代の大きなうねりの中で、戦後の我が国の発展を支えたシステムや考え方の多くが、時代に適合しないものとなり、「次なる時代」への改革が迫られている。このため、「知」の再構築が求められ、人材養成と学術研究を通じて社会の発展を支えてきた国立大学に対しても、各界から、かつてないほどの大きな関心と期待が寄せられるとともに、運営の効率性を高め、国際的な通用性を重視し、世界的水準の教育研究を展開し、さらにリードしていくことが、強く要請されている。
こういった中で、21世紀の大学像を今後の改革方策とともに提言した平成10年10月の大学審議会答申は、今後の大学のあり方として、学生や社会の要請等に的確に応えられるように研究教育システムを柔構造化すること、教育研究の質的向上に主体的に対応し、適時適切に意思決定を行うなど、開放的で積極的な自主・自律体制を構築すること、そして、教育研究の不断の改善を図りつつ、各大学の個性化等を進めるため、多元的な評価システムを確立することを求めている。つまり、そこでは、21世紀においても、大学が、真の自主性、自律性を確立し、自己責任を全うするための取り組みが、引き続き大きな課題として位置付けられているのである。
このような状況の中で、今回、大学改革の方策として、また、行政改革に資するものとして、国立大学の独立行政法人化の問題が提起されたところであるが、従来の行財政的諸規制の大幅な緩和・弾力化という改革手法に限界が見える中で、大学の教育研究システムや組織運営の自主性、自律性や自己責任を大きく前進させ、世界的水準の教育研究を展開していくためには、今こそ、国立大学にふさわしい形での法人化の可能性について、真剣に検討する時期にある、と受け止めるべきであろう。」
3.さて、国立大学の独立行政法人化ということそれ自体については、周知のように既に様々の議論が行われてきている。とりわけ大方の関心を集めているのは、独立行政法人化によって、一方では、右の文部大臣説明が指摘しているように、組織編成権、人事権、財務処理権等の拡大という点で、大学の自主性・自律性の大幅な拡大が期待されうるものの、他面では、いわばその裏の面として、主務大臣による中期目標の設定、法人が策定する中期計画の認可、そして、主務省及び総務省におかれる評価機関による評価、等のシステムの導入により、従来は大学に保障されてきた、研究・教育上の自由に、これまでにない制約が掛かるのではないか、といった問題である。こういった問題点については、私自身もまた、これまでに、様々の機会において発言してきているところであるし、ここで改めて繰り返すつもりはない。ただ、その後の各方面における検討状況を見ると、問題は、おおよそ私が当初予測した方向で解決されることになりそうな気配であると言って良い。すなわち、国立大学協会、東京大学、文部省、そして自民党政務調査会等がこれまでに明らかにしている検討結果を見ると、現在では、概ね、大学が独立の法人格を持つこと自体については、これを肯定するものの、その間成立した「独立行政法人通則法」が定めているところをそのままに適用するような形での独立行政法人への移行は、大学における研究・教育にとって適当ではない、という考え方が、政・官・学界において、ほぼ共通する認識となりつつあるように思われるのである。そしてこのような状況の下、現在、国立大学協会を中心とし、各方面で、それでは、大学にふさわしい独立の法人とはどのようなものかについての、具体的な制度設計が進められつつあるところである。
ところで、このような制度設計が、独立行政法人通則法に対してどのような特例を定めるものとなるにしても、いずれにせよそれが「独立行政法人」という制度の枠内で行われものである限りは、この制度の根幹を否定するような形のものとはなり得ない。つまり、大学の自治、大学の自主性・自律性を強調するあまりに、国の行政庁(主務大臣)からの一切の介入を否定する、ということになるならば、政治的には当然、それならば、国からの財政支出を前提とする独立行政法人に止まるのではなく、民営化しろ、という話になるからである。そして、こういった反応は、単に政権党である自民党がそう考えるということではなく、今日、納税者である国民の多数がまた採るであろう反応であることも、充分に認識しておかなければならない。そこで、ここでも、独立行政法人制度の本質ないし根幹はどこにあるのか、ということを、今一度確認しておく必要があるであろう。こういった意味での独立行政法人制度の本質を、ここでは、主として本日のテーマである「大学の戦略的経営」という問題との関連で、再確認しておくこととしたい。
まず、国立大学が独立行政法人になるということは、民営化する、ということとは全く意味が異なる。独立行政法人通則法は、その第二条で「独立行政法人」を定義して、「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって、国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち、民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがあるもの……を効率的かつ効果的に行わせることを目的として、…… 設立される法人をいう」としているのであって、このように、「確実に実施されることが必要な事務及び事業」であって、かつ「民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがある」からこそ、民営の法人とは異なった特別の法人制度を設け、かつ、国が財源措置を執ることとされているのである(法四六条)。従って例えば、独立行政法人化されれば、地方国立大学の中には倒産するものが出てくるのではないか、といった疑念が述べられることがあるが、右に述べたような意味において、独立行政法人には、そもそも「倒産」ということはあり得ない。また、赤字経営が続くということを理由に、各省に置かれる評価委員会、そしてとりわけ総務省に置かれる評価委員会が、当該独立行政法人の廃止を提言することになるのではないか、という懸念についても、もともと「民営化したのでは確実な実施が期待できない」事業であるが故に独立行政法人としているのであるから、「赤字が続く」ということ自体が、当然に廃止の理由となるものではない。問題は「赤字経営」であるかどうかということ自体にあるのではなく、当該の事業が、依然として、「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施する必要」のあるものであるかどうかということこそが、決定的に重要なのである。もとよりこういった見地からするならば、例えば、高等教育機関としてその地域に当該大学が存在すること自体にもはや実質的な意味が無くなったが故に、学生数も減り、その累積が大幅な財政赤字となっている、といったケースにおいては、赤字が、必要性を判断するための一つの指標として、当該大学の廃止へ向けて働くことになる、ということはあり得ないではないであろう。しかし、先にも述べたように、問題はあくまでも、「大学」としての存在意義を明確にアピールできるか否かにこそ掛かるのであって、「赤字」の問題は、あくまでも、間接的なものでしかない。むしろ、逆に、余りにも黒字経営に囚われるあまり、商売上手で金が溜まり過ぎるといったことがあるならば、今度は、「民間の主体に委ねた場合には必ずしも実施されないおそれがある」という要件をクリアーしないものとして、独立行政法人としての特権を失い、民営化の道を辿らされるということすら、あり得ないではないのである。例えば、経営赤字を怖れるあまりに、ともかくも多数の学生を入学させることを第一義とし、徹底的にレジャーランド化した大学経営が行われるようなことになったとしたならば、それが、事業としては如何に大当たりしたとしても、それを民営化せず、依然として独立行政法人として国の財政支出を続けるということの意味は、甚だ疑わしいものと評価されることになるであろう。そして、こういったことこそが、独立行政法人に対し、主務大臣が「中期目標」を定め、その達成度を評価しつつ法人の存廃についても検討する、という独立行政法人の根幹的システムが持っている本来の意味なのである。
独立行政法人通則法は、その役員の任命について、法人の長がこれを行うこととし、その対象としては、「一、当該独立行政法人が行う事務及び事業に関して高度な知識及び経験を有する者」と並び、「二、前号に掲げる者のほか、当該独立行政法人が行う事務及び事業を適正かつ効率的に運営することができる者」を挙げている(20条)。この第二号の規定は、いうまでもなく、独立行政法人が独立の経営主体となることから、それにふさわしい陣容を備えることができるようにするためのものであって、例えば大学の場合であるならば、経営担当の副学長を置き、企業等、学外から人を呼んでくるようなことが想定されていると言って良いであろう。ただその際、ここでいう「事業の適正かつ効率的な運営」ということには、右に見たような要請が前提となるのであって、そのためには、やはり、二号役員であっても、実質的には一号役員たるべき内実を備えた者であることが必要となるであろう。或いは、少なくとも、二号役員のみが事業経営を牛耳るような結果となるのでは、制度本来の趣旨に反することともなり得ることを、充分に心得ておかなければなるまい。
三 地方国立大学の問題 …… 地方分権推進との関係について
右に既に触れたように、独立行政法人化に対しては、例えば旧帝国大学のように規模の大きな大学は十分対応することができようが、地方国立大学の場合にはその力が無く、中には潰れるものも出てくるのではないか、といったことが、関係者の間で心配されている。この問題に関連して、以下若干の考察をしてみることとしたいが、まず「倒産」のおそれ、ということについては、右に既に説明した。右にも申したように、問題は「経営の黒字・赤字」ということそれ自体にあるのではなく、ことは専ら、高等教育機関としてその地域にその大学が存在することがどうしても必要であるということが、充分な説得力を以て説明できるかどうかに掛かることになる。ところが、この点については、実は、地方国立大学の場合、従来あまり触れられてきてはいないが看過することのできない、極めて重要な問題が存在しているように思われるのである。そしてそれは、これまた現下の行政改革の重要な一環として進められている、地方分権推進の問題である。
国立大学の独立行政法人化の動きに対しては、地方国立大学の中から、独立行政法人化すると経営が困難となり、潰れるおそれがある、ということを前提として、「地域に密接した高等教育機関は是非とも必要である」ということを理由に、反対の声が挙がっている。また例えば、平成12年5月11日付の自民党政務調査会「提言 これからの国立大学の在り方について」では、「国立大学を「国立大学法人」に移行した後も、国土の均衡ある発展の観点から、地方の国立大学が地域の産業、文化の振興などに果たして来た役割を十分評価し、その維持強化を図るべきである」と述べられている(同8頁)。しかし、この理由付けは、少なくとも理論的には、論者の意図とは逆に、地方国立大学不要論に繋がることにもなりかねないように思われる。それはつまり、「地域に密接した高等教育機関が是非とも必要」であるのならば、それは、公立大学のより一層の充足によって果たされるべきなのであって、それと並んで同一地域に国立大学が存在する必要性はない、という議論をも招きうるからである。
平成7年に定められ、現在進行中の地方分権推進の基礎となっている地方分権推進法は、あるべき国と地方公共団体との役割分担につき、その第4条で、次のように定めている。
「地方分権の推進は、国においては国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務または全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、地方公共団体においては住民に身近な行政は住民に身近な地方公共団体において処理するとの観点から地域における行政の自主的かつ総合的な実施の役割を広く担うべきことを旨として、行われるものとする。」
ところで、従前のように、地方国立大学が、文部省という国の行政組織の一部として、少なくとも建前の上では、国の統一的な高等教育政策を直接に担うものとして位置付けられていた限りにおいては、恐らくは、右の基準の中の「全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施」の一環として、その存在意義が根拠付けられることになろう。しかし今や、各国立大学が独立の法人として、その自主的な才覚によってそれぞれ固有の経営を行うこととなり、しかも、その存在意義が、地域に密接した高等教育ということに置かれることになるとすると、公立大学と比較した場合の使命・その必要性は、少なくともかなり不明確なものとなる。つまり、それがどうしても国の出費によって行われなければならない事務・事業である、ということの説明は、それだけ困難となるからである。
尤もこのことは、仮に独立行政法人化せず、文部科学省の組織の一部として残ったとしても、基本的に同じことである。すなわち、仮に、旧帝国大学等、国立大学の一定の部分が独立行政法人化したとするならば、それはすなわち、国は、高等教育について、必ずしも「自ら主体となって直接に実施する必要」はないのだ、という認識が明らかになったことを意味する。そうした上で、それでは何故地域に密接した高等教育だけ自らが直接行わなければならないのか、ということは、極めて説明がし難くなる問題であることは、明らかであろう。実際、例えば京都大学の佐和隆光教授は、国立大学の独立行政法人化に対して反対の意見を述べておられるが、その理由として説明されるところは、「今回の独立行政法人化の企みは、地方国立大学を潰そうとする目的を持つものであるから反対なのであって、地方国立大学が地域に貢献してきた実績と重要性に鑑みるならば、国はむしろ、充分な財政的裏付けをした上で、これらの大学を地方に移譲すべきだ」ということなのである(私も同席したある会議での発言)。
いずれにせよ、今後の地方国立大学の戦略的経営は、こういった状況を踏まえて行われなければならないものとなることは、明らかである。つまり、その独自の存在意義を主張しようとするならば、それは、地域密着性とは別の、教育・研究内容自体の固有性と、そして、それが国全体の見地からして不可欠なものであることを、各大学毎に、明確に主張するものでなければならないのである。
四 公立大学及び私立大学の場合
1.公立大学の場合には、問題はいわば、右に見た地方国立大学の場合と裏腹を成すものであるように思われる。まず、一方で、仮に地方国立大学が独立行政法人化し、その自由を活かして経営に成功したとするならば、公立大学が従来通りの経営形態を続ける限り、その競争力において、著しく後れをとることになろう。その結果は、公立大学もまた独立行政法人化して、競争力を付ける方向を目指すか、或いは逆に、存在意義を問われて、廃止される方向に向かうことになる。他方で逆に、仮に地方国立大学が、右に見たようなコンテクストにおいてその存在意義を失うようなことがあったとすれば、公立大学の地方密着型高等教育機関としての意義は、今日のそれを遙かに越えた重要なものとなる。いずれにしても、従来通りの経営で、安閑としているわけには行かなくなる。
そこで恐らく、地方国立大学及び公立大学について共通に言えることは、将来において、何らかの形での両者の協力関係ないし提携関係(いわゆる「棲み分け」も含めて)を、明確に確立することであろう。
2.私立大学の場合については、何よりも、国立大学(及び、場合によっては公立大学も)の独立行政法人化によって、経営上の強力なライヴァルが登場することになる点が、深刻な問題である。従来国立大学は、経営上の基盤は確実であるものの、その反面、国立であることに伴う様々の経営上の制約があって、周りの状況の変化に機敏に対応するようなことが困難であった。従って、私立大学としては、その間隙をついて、国公立大学の場合にない柔軟な経営をするチャンスがあったのである。すなわち、ある意味では、こうした形での国公立大学との棲み分けが可能であった、ということができるかも知れない。しかし、仮に独立行政法人化が、その狙い通りに成功した場合を考えるならば、一方ではこういった意味での機敏性を備え、他方では、経営の基盤を確実に持った、まさに強力な競争相手が、ほぼ同質の平面ないし空間において登場することになるのである。もとより、先にも見たように、独立行政法人化は民営化とは異なるから、そのことに伴う行動の制限は、依然として無くなるわけではない。しかし、少なくとも、従来の国直営の場合に比べれば、格段にその経営上の自由度が増すことは、否定できないのである。
五 将来の展望
さて、国立大学の独立行政法人化問題を機縁として生ずる以上のような状況は、高等教育システムの在り方について、理論的に何を意味するか、を、再度総合的に考えてみることとしよう。
何よりも明らかであることは、国立・公立・私立という三類型の相対化ということである。平成9年12月に公にされた行政改革会議の最終報告は、21世紀における「この国のかたち」を新たに形成するための行政改革の理念の一つとして、「公共の空間は官の独占するところではない」という考え方を明らかにしている。高等教育(或いはそもそも教育一般)は公共の空間に属するものであり、それゆえに官(国)がこれを一貫して自ら行わなければならない、という考え方は、例えばドイツ等においては典型的に見られるところである。これに対し我が国の学制は、ドイツのみならず、早くから、イギリス等々の諸国の影響を受けていることもあり、官立大学と並び私立の大学も、高等教育において重要なその一翼を担ってきたことは、いうまでもない。しかし、他面で、国が高等教育を、その公共性の故に、少なくともその大きな部分において自ら行わなければならない、という考え方自体は、疑いを入れぬ大前提として、今日まで受け継がれてきた。国立大学を独立行政法人化するということは、言葉を換えて言えば、高等教育は、公共上の見地から確実に実施されなければならない事業であるとしても、だからといって国が自らこれを行う必要はなく、国は、必要に応じ、援助をすればよい、という発想に立つことである。ここでは、「誰が行うのか」ではなく「何が行われるのか」が、公共性の有無についての決め手となっている。このことは、今後、経営主体の如何による違いではなく、そこで何が行われるか、が、高等教育機関(大学)の類別化の中心的な視角となる可能性を意味している。つまり、従来の国立・公立・私立という違いを越えて、そこで高等教育として行われる事業内容がどのようなものであるのか、つまり、例えば、高度の研究と結びつき研究者としての後継者育成をも意味するような教育なのか、それとも、高度の専門職業人の育成なのか、より大衆化された一般教養としての教育なのか、はたまた、百貨店方式(ユニヴァーシテイ)なのか、専門店方式(単科大学)なのか、等々によって、国の対処方法が異なってくる可能性が生じている。そして、ここのところを十分に理解した上で、果たして自らは何をやろうとするのかを明確にしないまま、過去のやり方をただ守って行く、ということでは、もはや、大学として生き延びて行くことができないおそれがあることは、以上の話からも、充分に推察されるのではないかと思われる。
おわりに
以上、現在進行しつつある国の行政改革、とりわけ、国立大学の独立行政法人化ということを機縁として、大学の運営ないし経営に関しどのような課題が生じているか、ということにつき、真に大雑把ではあるが、私なりの概観を行ってみた。このようなお話で、本日の研修会で私に与えられた役割を充分に果たし得たのかどうかは、甚だ心許ないものがあるのであるが、ともかくも、これでひとまず私の話を終えさせていただくこととしたい。