行政改革に向けての基本的視角

藤 田 宙 靖


 

は じ め に

 本稿は、平成9年4月2日開催の行政改革会議第9回会議において発表した私の意見に、一部加除修正を行い、一般向けの形としたものである。同会議の検討課題とされている三事項の中I「21世紀における国家機能のあり方」に関しては、これまで各方面より述べられているところと、私もまた実質的にさほど違った意見を持つものではないが、以下はいわば、同じことを私の言葉で表現するとどうなるかを示したものであると言ってよい。なお、同会議検討事項中のII「中央省庁の再編」及び同III「内閣機能の強化」に関する項目については、現在の時点で、ある程度の明確性を以て発言できることのみを述べることとしているものの、全てはなお、暫定的なものであることを断っておきたい。

本 論 

一 21世紀に向けての行政改革の理念

I 現下における行政改革の動きの持つ意味

 1.国家と社会の全般にわたる体質改造の中での行政改革

 行政改革に向けての動き自体は、我が国でも古くから存在しており、今日において議論されている諸改革の具体的な中身についても、その多くについては、既に、第一次臨調以来、一度ならず検討の対象とされてきたところである。しかし、ここ10年来の動きの中で、特に明らかとされてきたのは、今日、行政改革は、単に、財政赤字の解消とか、スリムにして効率的な行政、といった、財政管理あるいは行政管理の分野に止まるものでなく、いわば、我が国の国家と社会の全般にわたる「体質」の改造という、大きな動きの中の一環として、位置付けられるものとなってきているということである このことは例えば、行政改革の一環として、行政組織のスリム化、権限削減、といった、行政機構内部の改革問題のみならず、行政手続法の制定とか、情報公開法案の策定など、いわば、行政と市民とが直接に関わりを持つ分野についての改革が、しかも極めて重要な問題として取り上げられ、また実現化されてきたことに、端的に現われているということができる。

 2.伝統的な「集団主義・団体主義」的国家・社会から、西欧流の「自由主義・個人主義」的な国家・社会へ

 では、この意味での、「体質」の改造とは、一体、どのような意味での改造であるのか?この点については、既に、様々の見地から、様々の言葉によって言い尽くされてきたところであるが、私など公法学者になじみの深い言葉を用いるとするならば、いわば、集団主義的ないし団体主義的色彩の濃い国家・社会から、より自由主義・個人主義的な国家・社会への移行、ということになるであろう。これを、より詳細に説明するならば、以下の通りである。
 日本国憲法の制定により、我が国においては、西欧流の近代的な市民社会の成立を前提とした、自由主義・個人主義的国家システムの構築が行われた筈であったが、現実には、日本社会に残る様々の集団主義的要素(これは、しばしば、「ムラ」的要素とも呼ばれる)により、必ずしも、その徹底は見られなかった。このような集団主義的要素とは、例えば、日常生活においても見られる「出る釘は打たれる」「長いものには巻かれろ」式の生活様式から始まり、「談合体質」「行政指導」「根回し」、「和」の文化、更に、「制服・校則」「お受験」、「みんなで渡れば怖くない」から、果ては、「護送船団方式」、「世間をお騒がせした」ことへの責任、「顔を潰された」ことへの憤り、に至るまで、様々な形で表出しているものであって、要するに、「個」を殺し(あるいは少なくとも抑え)、自らの運命を、いわば無条件に集団(そしてそれを代表するオヤブン)に委ね(預け)、そして他面、この集団ないしオヤブンは、(これらの者が、この集団の掟ないし生活様式に忠実である限り)理屈抜きにどこまでも面倒を見なければならない、という社会のあり方である。このような社会においては、全員の「合意」ないし「和」が、ことを行うための前提となるところから、一部の指導者に一方的な権力行使が認められている社会よりも、一見、個人の意思がより尊重されているようであり、従ってより民主的であるように見える場面も登場する。また、一部の強者の突出を許さず、集団の構成員全体に利益を平等に配分することを重視することから、場合によっては、より社会(主義)的であるように見えることもある。そういった意味で、上手く行く限りにおいては、この社会は、個人的自由主義・民主主義を基盤とする西欧社会に比べて、その良いところはこれを備え、他方その弱点はこれを克服した、理想的なシステムを備えた社会として機能し得る面を持つ。これが、いわば、第二次大戦後急速な経済成長を遂げた「日本の奇跡」の秘密であった。
 しかし、この一見した民主制は、実は他面で、大勢に対し個人が正面切って異論を述べる事態があり得ることを前提ないし想定しないものであり、その意味において西欧流の民主主義とは大いに異なり、また、一見した社会(主義)性は、そういった利益の配分が、専ら、特定の集団内部限りでの配分としてのみ考えられ、集団外の者に対しては、むしろ徹底的な差別を以てすら臨むことを許すものである点において、西欧流の博愛・平等の精神とは、これまた大いに異なるものであった。

 3.「世界クラブ」参加のための資格要件

 今我が国社会が迫られているのは、世界に通用している西欧文化と上に見た意味での伝統的な集団主義文化との間のギャップを、更に一層埋めよ、ということである。それは、いうまでもなく、グローバリゼーション、ボーダーレス社会の進展、が、しかも、好むと好まざるとに関わらず、アメリカの主導の下、西欧流文化をベースとしたものとして行われているからであって、こういった世界から孤立するのでなく(今日の我が国の場合には、既に、そもそも孤立が許されない)、世界クラブの一員としてやって行くためには、否応なしに、こういった世界クラブの会員規則を守らざるを得ないからである。いわば、世界クラブの会員資格を本当に充足しているかどうか、その点の再検討を迫られている、というのが現下の我が国の実状であり、行政改革の必要も、ここにその根源を持っている。
 従ってまた、求められているのは、単に行政改革のみではなく、政治改革であり、更に国民の意識改革であり、要するに先の意味での集団主義的・団体主義的色彩に染まった、あらゆる制度及び人の改革である。このことはまた、現下の行政改革は、他のこういった改革が同時に伴わない限り、その意義を全うすることができない、ということを意味している。
 こういった要請は、明治維新そして第二次大戦における敗北に際して、西欧諸国から最も鋭く突きつけられたところであり、我が国の近・現代史は、基本的にはまさに、国を挙げてそれに応えようとする過程そのものであった。しかしその成果が未だ不十分である、ということが、21世紀を目前として、再度、白日の下に晒されつつあるのだ、というべきであろう。現下の改革が、明治維新及び第二次大戦の敗戦に並ぶ、国家の浮沈を掛けた第三の大改革である、ということが、時にいわれるのは、まさにこういった意味において、象徴的である。

II 現下の行政改革のあるべき理念

 1.世界クラブの会員資格をクリアーするということの意味

 このように、現下の行政改革の課題は、我が国が世界クラブの会員資格をクリアーするために、行政の分野から、伝統的な集団主義によって支配された部分を切り落とし、新たに、(西欧流の)自由にして民主的な社会にふさわしい行政システムを構築することである。従ってそこでは、当然に、世界クラブに属する諸外国と共通の社会的経済的、政治的、また文化的なルールを前提とする行政のあり方が求められなければならない。

 2.世界クラブの会員資格と伝統的なるものとの相互関係

 但し、そこで同時に明確にしておかなければならないことは、ここで必要なのは、あくまでも「会員資格」をクリアーすることに止まり、この資格をクリアーした上で何をするかまで、「世界」によって一律に規定されてしまうわけではなく、まして、何から何まで、西欧のいずれかの国をモデルとして行動しなければならないわけではない、ということである。一例を挙げるならば例えば、行政指導という手法は、従来、まさに我が国の、上記に見た集団主義的な文化を代表するものとして、我が国に独自固有のものと見られ、それ故に、今後、本来消滅させられなければならないもの、として扱われてきた。しかし、今日、我が国の行政指導類似の行政活動( informal administrative action, informale Verwaltungshandlungen ) の存在は、ドイツ・アメリカ等、他の先進的な産業国家においてもまた、認められるところとなり、その功罪の分析と共に、適切な法的取り扱いの問題が、(決して、否定的な見地からのみではなく)真剣に検討されるようになってきているのである。そこでは、当然のことながら、我が国での問題処理の諸経験に、熱い目が向けられている。従って、仮に、行政指導が、我が国の行政活動上不可欠かつ有意義な手法であり、これを抹殺することは必ずしも適当ではない、という一面を持つのであるとするならば、如何なる理由から如何なる意味においてそうなのかを、世界が理解できる言葉で、世界に向けて積極的に発信すべきなのであり、またそのことは、世界からむしろ期待されているものというべきである(参照、藤田宙靖「行政指導の法的位置付けに関する一試論」高柳信一先生古希記念論集「行政法学の現状分析」平成3年頸草書房)、Tokiyasu Fujita"Streitvermeidung und Streiterledigung durch informelles Verwaltungshandeln in Japan", Neue Zeitschrift fuer Verwaltungsrecht 2-1994 : Tokiyasu Fujita "Informal Administrative Actions", International Academy of Comparative Law, General Reports of 14th International Congress , Hellenic Institute of International and Foreign Law,1994) 。世界クラブの一員としての資格要件をクリアーし、しかもなお、我が国に伝統的な文化を尊重する、ということは、例えばこういったことである。

二 国家機能の在り方

I「国家」観の転換の必要性

 1.集団主義と特定の「国家」観との結合

 我が国社会における集団主義的体質の改造の問題を考えるとき、同時に考慮しなければならないのは、少なくとも国家という集団が問題となる限りにおいて、この集団主義は、ある特定の「国家」観と根強く結びついたものとして展開されてきた、ということである。すなわち、我が国のこれまでの官界・司法界等においては、意識すると否とに関わらず、あるタイプの「国家」観(ないしは、少なくとも、かつて存在したそのようなものの残滓)が根強く存在しているように思われる。それはもともと、近代ドイツ国家学上の「国家と社会の分離」という観念に由来するものであり、「公(ないし官)と私(ないし民)の峻別」という考え方にも繋がるものである。この考え方自体には、様々な側面があり、その理論的射程も単純ではないが、ここで特に目を向けなければならないのは、「社会(Gesellschaft)は、それ自体本質的に、私利私欲によって支配されたカオスであり、その赴くままに放置するならば、必然的に弱肉強食すなわち強者による弱者の収奪をもたらすことになるので、こういった事態を避け、弱者を救済するためには、それ自体本来中立・公正にして理性(Vernunft)を代表する存在であるところの国家(Staat)の力によって、社会の無秩序が抑制されなければならない」という基本的な発想である。ここでの「国家」は、社会それ自体の必要に基づき社会の中から生み出されるものではなく、社会に超越し、対立し、それ自体の中に存在理由を持つものである。このような国家観は、もともと、君主並びにそれを取り巻く貴族集団が国権の担い手であるような社会構造を反映して成立してきたものであったが、国民主権が確立した後においても、エリート集団としての官僚を中核とする国家行政機構・司法機構が維持されることによって、上記のような観念としての「国家」、そして、その「社会」に対する役割についての、上記のような基本的な理解もまた、本質的に変わることなく維持されてきたものということができる。

 2.「国家(Staat)」観からの諸帰結

 このような国家観はまた、「国家」を巡る次のような様々の思考と結びつくことになる。
 まず、「国家」は、「社会」の横暴から弱者を救い、福祉をもたらすところにこそ、その存在理由があるのであるから、国家行政に携わる者は、常に、社会の横暴に対し警戒を怠らず、全力を挙げてこれを排除しまた防御するようにしなければならない。また例えば、「国家」の存在意義は、上記のように「中立・公正」であるところにこそあるのであるから、国家機構を担う公務員は、厳にあらゆる社会からの影響を受けることのないよう、細心の注意を払わなければならない。従って、例えば公務員の政治的行為が厳に禁止されるのはあまりにも当然の理であるし(最高裁判例)、また、外国人が、国家機能の核心を成す公権力行使に携わる職務に就けないのも、「当然の法理」である(内閣法制局見解)。また、国家公権力はいわば「始源的(urspruenglich)かつ排他的(ausschliesslich)」なものであって、例えば、公用収用権の行使とか、法人格の供与といった行為を行うことは、「国家」以外の何者にも(たとえ普通地方公共団体であっても)許されない(建設省見解、etc.)。

 3.自由な社会の「government」観

 こういった国家観とは全く対照的であるのが、次のような国家観であって、ごく大雑把に見るならば、例えばアメリカ社会におけるそれが、これに近いものということができるであろう。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同様、国家機構なるものもまた、いわば、社会(一般国民)が、自らの必要のために自ら作ったものであるのであって、従ってまた、国家と社会は本来対立する存在であるわけではなく、前者は、後者が必要とする限りにおいてその存在意義が認められる。従って、例えば、社会は本来横暴でありカオスであるとされ国家による規制のあり方もそこを出発点として構想されるのではなく、むしろ逆に、社会の有意義な生産性を信ずるところから出発する。また例えば、公務員の政治的中立性も、それが実際に必要な限りにおいて確保されればよいのであり、また、外国籍の者であろうとも、その者を公務に就ける実際上の必要があるならば、それを妨げる「当然の法理」などがあるわけではない。
 先に見たように、今日、世界クラブの一員であるための資格要件をクリアーするために、伝統的な集団主義的文化からの基本的離脱が要請されているとして、それはまた同時に、少なくとも国政レヴェルで見る限り、ここに見た意味での国家観の転換を要請するものでもある。それは、一言を以て表わすならば、「社会に超越し、その存在自体を自己目的とする[国家Staat]の抽象的な観念」から、「自由かつ自立的な社会のため、その必要に応じて形成される政府機構[government]の具体像」(Horst Ehmke)への転換の要請である。現下の行政改革の諸理念も、つまるところは、ここに行き着く。

II あるべき国家機能について

 1.社会の補完機能としての国家機能

 上記のような、新たな国家観の下では、国家機能は、いうまでもないことながら、原理的に、社会の補完機能に制限さるべきことになる。その出発点は、社会への信頼であり、その創造性・活力を積極的に評価することである。社会の必要を超越した、観念的抽象的な「国家公共の利益」なるものは、それ自体としての当然の正当性は認められないことになる。あらゆる議論は、このことを再確認するところから始められなければならない。

 2.社会が必要とする国家の「補完機能」とは何か

 しかし、真に困難な問題は、ここから始まるのであって、すなわちそれは、上記の出発点に立ったとして、それでは、社会が必要とする国家の「補完機能」とは一体何か、という問題である。そしてこの問題は、いうまでもなく、時により、処により、また、社会の成熟度に応じて、決して一律な解答を与え得る問題ではなく、そこには様々の違いが生じ得る。以下では、この問題について、現段階で私が一般的に考えることを、国家機能の各類型に即して述べることとする。
 なお、国家機能の類型化は、様々な観点から様々に行い得るところであるが、ここでは、a) 社会の安全を保障する機能、b) (知的・経済的な)「創造」ないし「生産」を行う機能、c) (創造ないし生産されたものの)「配分」を行う機能、の三類型をベースとすることとした。もとより、国家機能の全てが、この三類型によって、理論的に完全に区分し尽くされるものでもなく、また、この三類型相互間には、重なり合う部分がないでもないと考えられるが、さしあたっては、このような出発点に立つのが以下の考察にとって便利であるように思われる。

  a) 社会の安全を保障する機能

 第一に、社会全体としての対外的また対内的安全を保障する機能(外交・防衛・警察等)が、国家の不可欠の機能であるということについては、時と処を越えて、広く認められてきているところであり、このことは、新たな国家観の下でも、変わることはない。しかし問題は、このような機能を実行する方法がどうあるべきか、にある。例えば、地方公共団体をも含めた国家行政機構が、その国民ないし住民の、領域内における生命・身体・財産の安全の保護に任ずべきこと、すなわち、広い意味における警察行政作用を担わなければならないことはあまりに自明のことであるとして、この場合、仮に例えば、国家が、この課題を、自ら全面的な責任を持って完全無欠に果たさなければならないものであるとするならば、それを実現する方法は、必然的に、(自己を含めた)人の生命・身体・財産に少しでも危険を及ぼすおそれのある行為の全面的な禁止と、事前の許可制度等を含む徹底した取り締まりでなければならないことになる。他方でしかし、国家機能の「補完」性を極端にまで徹底するならば、私人のあらゆる行為は原則的に自由とし(事前の行政法的な規制は一切行わず)、ただ、そのことにより、現実に他人の生命・身体・財産等を損なう結果が生じた場合にのみ、民事法上の不法行為責任や、刑事法上の責任を追及するシステムを採用することも、不可能ではない。このようなシステムの下では、例えば有毒物質その他身体に有害な物質を含む食品や薬剤の販売行為等についても、このような形での責任追及の法システムが実効的に働く限り、それらの行為はいずれ市場から淘汰されて行くことになるから、理論的には(少なくとも長い目で見る限り)事前の国家的規制は不要である、ということになる。しかし、このようなシステムを全面的に採用することは、いわば、行政法の必要性そのものを否定することでもあり、今日の我が国社会の成熟度に鑑み、こういった分野において一切の事前規制を必要としないとする考え方は、なお、取ることができまい。
 結局の処、現実のシステムは、この両極端の方式の中間のどこかにおいて構築されることにならざるを得ないのであって、このことは、21世紀においても変わることはない。そして、その「どこか」とは具体的にどこかということは、結局は、問題となる分野毎に、試行錯誤によって見定めて行かざるを得ない問題である。但し、傾向的な問題として一言するならば、従来の我が国の、この種の規制の中には、交通規制・建築規制(単体規制)・教育行政等を中心として、自傷行為に対する規制、すなわちパターナリズムに基づく規制が余りにも多過ぎるのではないか、との印象が否めない。そして、ここには、自己の危険において行動することを避け、自己の安全すらをも全面的に集団に預ける、といった、伝統的な集団主義の残滓が色濃く見られるように思われる。今日我が国の国民に、果たしてまたどの程度、自立的精神と自己責任の自覚に基づいた市民社会としての成熟度を認め得るか、という問題は、未だ大いに残されているにしても、今後21世紀における国家機能のあり方としては、まず以て、行き過ぎたパターナリズムからの撤退を、その第一歩とするべきであると考える。そしてこのことは同時に、国民の側でも、国家の保護を過大に期待せず、自らの危険において(auf eigene Gefahr)行動することを原則とすることを意味する。例えば、本来私人間の不法行為であるものにつき、国家の取り締まりが不十分であったことを理由として国家賠償請求が多発する傾向等は、この意味において、今後のあるべき国家像と矛盾するものである。先にも触れたように、集団主義的社会の改造とは、いうまでもなく、集団の側の改革のみでなく、集団を構成するメンバーの側の改革の必要をも、当然に意味する。

  b) 「創造」ないし「生産」に関わる機能

 ここには、例えば、学問・科学技術・文化活動、物資の供給・インフラ整備、その他、国民の文化生活・経済生活を豊かにするための機能、が含まれる。
 上に見たような、あるべき国家像の下においては、こういった意味での「創造」ないし「生産」の分野においては、何よりも、社会の自立的な活動が保障されなければならないのであって、ここでは国家は、自らがこのような活動を主導するものであってはならず、その任務は、専ら、このような諸活動が充分に展開され得るための環境・諸条件を整備する機能に制限される筈である。「表現の自由」「学問の自由」そして「自由主義的経済」の保障は、まさに、このことの制度的表現である。しかし、周知のように、20世紀における国家機能の増大、そしていわゆる行政国家への変貌は、一つには、これらの機能分野における「給付国家」としての役割の著しい増大化に起因するものであった。このジレンマを、今後どのように考えて行くのかは、甚だ難しい問題であるが、さしあたっては、次のように考えざるを得ないものと思われる。
 第一に、こういった国家機能の中には、その種の需要を充たして行くためには、かつて、社会(民間)には未だ経済的・技術的な力が不充分であったために、国家がこれを担って行かなければならなかった、という側面を持つものがある(例えば、国立の様々な文化施設、エネルギー供給事業、住宅建設、運輸・通信サーヴィス、その他)。こういったものについては、社会(民間)の側に充分な力が付いてくれば、国家は、もはやそういった活動分野からは撤退してもよいし、また、民間の側のこういった力を一層育成するためにも、むしろ撤退すべきであるのではないか、という考え方が、当然になされ得る。今日の規制緩和論の重点の一つは、まさに、こういった側面に置かれているものと思われ、私もまた、それには、少なくとも原理論としては、充分な理由があるように考える。
 他面、第二に、仮に、社会(民間)の側に、少なくとも潜在的には充分な給付能力が備わってきているとしても、そのことを理由に、国家が直ちに撤退することは許されないか、あるいは少なくとも撤退するのが適当ではないと考えられる活動分野も確かに存在する。
その場合、国家の撤退が許されないとされるのは、通常主として、経済的採算が取れないかあるいはリスクが大きいために民間の参入が期待できないが、その分野における「創造」ないし「生産」は是非とも行われなければならない、という理由、或いはまた、経済的採算の見地から民間の参入が期待できない地域があるが、それにも拘わらず、国内全域にわたり、ナショナルミニマムが保障されなければならないようなケースがある、といった理由である。
 前者としては、例えば、学問研究の促進・科学技術の開発等がその典型例として挙げられようが、これらの分野、とりわけ基礎的・原理的な研究に関する施設の設置・維持は、21世紀においてもなお、基本的に、国家が自ら引き受けることを全く放棄することはできない分野であろうと考えられる。
 また後者としては、例えば、地方ないし過疎地におけるインフラ整備、教育・医療施設の整備等々の問題が挙げられるが、この問題は、むしろ、実質的には、次に見る「配分」機能の問題となるように思われるので、後に、改めて触れることとする。

  c) 「配分」機能

 行政国家ないし社会国家の本質は「配分国家」であることにある、といわれる。通常そこで意味されているのは、経済的社会的強者に一定の負担を負わせることにより弱者を保護するという形で、生産された財を配分する、という意味である。例えば、社会福祉、社会保障、労働者保護、等々、まさに20世紀の国家行政を象徴的に代表した国家機能が、これに当たる。しかしここでは、これらに加え、更に文化的創造物、すなわち、知的生産物の配分ということも含めて、問題をより広く考えることとしたい。このような見地からは、例えば、教育の問題も、ここでいう「配分」の問題としての一面を持つことになる(なお、教育については、ここでいう「配分」の面と、先に見た「創造」との、両面があり、このどちらを重視するかによって、その取り上げ方も異なることになるが、詳細はここでは省略する)。
 「配分」における国家機能は、21世紀においても、「創造」ないし「生産」の場合以上に、その重要な部分が維持されなければならないものと考えられる。適正かつ充分なる「配分」を自立的に行い得る社会とは、本来、その成熟度が極めて高いものでなければならないが、21世紀において、我が国社会がそのような段階にまで到達できるかには、なお相当の疑念が残るからである。このことを前提とした上で、しかし、なお考慮さるべきいくつかの論点を以下に示しておくこととする。
  第一に、いうまでもないことながら、「配分」は、「創造」ないし「生産」が充分に行われていることを前提とする。国家が「配分」を重視するあまり、社会の「創造」ないし「生産」への意欲を喪失ないし減退させるような結果となってしまってはならない。社会主義国家体制の崩壊の原因は、まさに、ここにあったといわれるが、同様のことは例えば、学習指導要綱等による極度の締め付けが、現場の学校教師の創造的な教育意欲を失わせる、といった問題にも現われる。
  第二に、「配分」については、何人と何人の間での配分なのか、という問題がある。従来想定されてきたのは、例えば、富者と貧者、資本家と労働者、健常者と障害者、男性と女性、若者と老人、等々であった。これを更に拡げるならば、例えば、中央と地方、人口密集地と過疎地、躍進産業と衰退産業、等々の各セットが挙げられることになろう。いずれにしてもしかし、これらは、現存する人々の間の配分の問題であって、その意味においては、いわば、水平的な配分の問題である。これに対して、21世紀の国家においては、いわば、垂直的な配分、すなわち、未だ誕生していない、未来の人々(我々の子孫)と、現存する我々との間の配分の問題が、正面から考えられなければならないのではないか、と思われる。すなわち、今日世界的に、自然環境・天然資源はもはや無限であるとは言えないことが認識され、将来におけるその枯渇が、憂慮されている。また、一国内の問題として見ても、例えば、我々が裕福な生活を享受するために累積する財政赤字は、当然のことながら、我々の子孫の大きな負担として残されることになる。そこで例えば、ドイツでは、我々が基本的人権を享受することは、子孫の人権を制限することになるのではないか、といった問題が提起されるところともなっている。このような問題を充分に考慮に入れた上で、適切な国土利用計画を立て、それに従った生産活動・消費活動を行うだけの分別が、今日の我が国社会に充分に存在するかは、なお疑念無しとしない。そこで、こういった配分問題については、当面、国家の機能が大きく期待されざるを得ないものと思われる。
  第三に、配分の基準となる「適正さ」ないし「公平さ」をどのように考えるか、という問題がある。すなわちまず、全ての国民には、どのような状況下にあろうとも、必ず、同一の内容のサーヴィスが与えられなければならないのか、そして、その場合のコスト負担は、全員につき均一なものでなければならないのか、ということが問題となる。例えば、当然のことながら、道路・公園等のような施設の中には、都市においては不可欠であっても、田園では本来不要であるようなものもある。また、便利ではあるが自然の豊かさに欠ける大都市生活と、都市的意味での便利さには欠けるが自然の豊かさにあふれた田園生活とで、どちらを真に豊かな生活と考えるかは、考え方の問題であり、少なくとも、国家が一義的に決めるべき問題ではない。すなわちこういった判断は、本来当該地域の住民の、自主的かつ真剣な選択によって決めるべき問題なのである。そしてまたその決定は、その自主的選択の結果が、選択の内容としては必ずしも不合理であるとは言えないが経済的におよそ採算の取れないものであり、それ故に国家に何らかの援助を必要とするものであるような場合には、その選択につき、自らもまた応分のコストを引き受ける(狭義の受益者負担)ことすらをも覚悟の上で行われるものでなければならない。こういった問題解決の方式の如何も含め、問題にどう対処するかということは、本来その地域の人々が、自己責任を自覚した自主的な選択によって決めるべきことであり、少なくとも、国が一律に決めるべき問題ではないし、また、常に必ず同一の責任を負わなければならないものでもない。

 3.「国」と「地方公共団体」の関係

 なお、以上に見た「国家」の補完機能に関し、「国」と「地方公共団体」との関係について、次の点を明確にしておきたい。
 先に見たように、新たなる国家像の下では、社会(国民)の具体的な必要を超越した観念的抽象的な「国家公共の利益」なるものは、それ自体としての存在理由を認められ得ず、国家は、社会がその必要に応じて作った、その意味でいわば一種の道具としての一機構(government)として位置付けられるに過ぎない。ところで、この意味での「機構」は、必ずしも「国」だけとは限られず、市町村・都道府県等の地方公共団体も、当然のことながら、そういった性質を持つ機構の一つである。この意味においては、「国」と「地方公共団体」との間に本質的な違いはないのであり、両者は、上に見た意味での「国家機能」を、それぞれの役割において分担する、その意味で対等な存在である。「国家機能」は、「国」と「地方公共団体」とに分属せしめられるのであり、決して「国家」イークオール「国」であるのではない。日本国憲法が、「地方自治の本旨」を保障したのも、まさにこの意味である。
 そして、こういった諸機構は社会の具体的な必要に応じてこそ存在するのであるとすれば、こういった必要に最も近いところに存在するのは、市町村であり、都道府県である。すなわち、これら地方公共団体は、社会にとっての「近い公共性」を体現するのであり、この意味では、「国」は「遠い公共性」を体現するものであるに過ぎない。地方自治法が、市町村を「基礎的な地方公共団体」として、一般的な事務処理権限を認めているのは(2条4項)、まさにこの意味である。いわゆる地方分権の推進とは、こういった理念の実現を図るものであるに他ならない。

三 省庁再編問題について

I 省庁再編問題の位置付けと、同問題へのアプローチの仕方

 1.現下の行政改革において省庁再編問題が持つ意義

 省庁再編問題については、何よりもまず、いま何故省庁再編が必要なのかについての理論的な説明が、明確になされるのでなければならない。この点の検討を、以下試みることとする。
 現下の行政改革問題が持つ基本的意義及びその背景は、先に一において見た通りであるが、これを、より具体的に行政改革そのものに絞ってみた場合、今日、「行政改革推進」の名の下に解決を求められている問題は、おおよそ次のようなものであると言えよう。すなわち、ア)経費節減(財政赤字の解消)、イ)行政の効率化(縦割り行政による弊害の除去)、ウ)国の介入の削減(市場原理の尊重、経済・社会活動の活性化)、エ)行政過程の透明化(密室性の排除)、オ)官僚の腐敗防止、等々である。このうち、ア)イ)ウ)は、いずれも、国の仕事の減少と行政組織のスリム化を要請するものであり、その意味において、省庁再編問題と関係することになる。また、エ)及びオ)も、行政過程の密室性と官僚の腐敗が、現在の組織機構のいわゆる「疲弊」に、少なくとも間接的な原因を持つものと考えるならば、同じく、省庁再編問題と何らかの関連を持つことになるであろう。そこで、ここでは、省庁再編問題を、a.行政組織のスリム化、b.縦割り行政による弊害の除去、c.既存の行政組織に生じた「積年の宿弊」ないし「澱」、あるいはそこに生えた「苔」の大掃除、を目的とするものとして、考えることができよう。

 2.問題へのアプローチの仕方

 このうちまず、a. 行政組織のスリム化、という目的に関していうならば、この見地から省庁再編問題を考える以上、当然のことながら、それに先立ち、まず、どのような国の行政活動を削減するのかが、明確にされなければならない。その意味において、行政改革会議における議論としては、行政改革委員会及び地方分権推進委員会の答申を具体的にどう活かすか、また、政府の規制緩和作業の成り行きをどう扱うか、が、最初にして最大の論点となる筈である。ただ、この問題に関しては、他に、このようなスリム化の内容自体ではなく、スリム化の方式を巡り、いわゆる「エージェンシー」のアイデアの導入を巡る議論があるので、この点については、後に別項目として取り上げることとしたい。
 また、スリム化の問題とは一応別に、b.縦割り行政の排除、という見地に絞って、省庁再編についての考察を進めることも、理論的には、必ずしも不可能ではない。何故ならば、仮に行政組織のスリム化を諦めた場合であっても、縦割り行政の弊害という問題自体は、別に存在するからである。そこで次には、対象をこの問題に絞って、やや詳細に検討してみることとする。
 なお、上記c.の論点については、縦割り行政問題との関連において触れることとなる。

II いわゆる「縦割り行政の弊害」の除去について

 1.「縦割り行政の弊害」とは何か

 この問題を考えるに当たっては、まず、「縦割り行政の弊害」といわれるものが、具体的にはどのようなことを意味しているのか、を整理しておかなければならない。そしてそれは、おそらく、次のようなことになるものと思われる。すなわち、
 第一に、同一の対象に多くの省庁の権限が重複し、また手続の無駄が生じること、
 第二に、新しい事業計画につき、管轄についての縄張り争いが生じ、調整がつかないために、プロジェクト自体が棚上げにされてしまう(宙に浮いてしまう)こと、
 第三に、逆に、ある省庁の管轄するプロジェクトにつき、実質的には関連を持つ筈の他の省庁が、関心を示さず、結果として、総合的な考慮を欠く、一面的な事業計画が進められてしまうこと、
 第四に、各省庁毎に、予算配分のいわゆる既得権化が進み、財政の無駄が生じ易いこと、等々である。
 現下の省庁再編論の基調は、これらの弊害を、省庁の再編、特にその「大括り」によって、解消しようとするものであるといえよう。そこで次には、「大括り論」の合理性について、検討しなければならない。

 2.「大括り論」が抱える基本的な問題点
     ――― 組織が持つ分節機能との関係において

 「大括り論」は、諸々の行政活動を、相互に共通する目的ないし機能によって大括りし、こうして括られたものを、新たに省庁に、所掌事務として配分しようというものである。この問題を考えるとき第一に考慮しなければならないのは、一般に組織というものが持つ分節機能の維持をどう考えるか、ということである。すなわち、例えば、縦割り行政により調整が困難であって、行政が非効率である、ということは、別の観点からするならば、同一の対象につき、異なった観点からの判断がなされることにより、全体としての決定を慎重かつ理性的なものとしている、という意味をも持ち得るのであって(組織内部でのチェック・アンド・バランス機能)、仮に縦割り行政の弊害除去を省庁の統合という方法によって解決しようとするならば、この機能をどうするか、が検討されなければならない。すなわち例えば、統合した上で実質的に省内省ができるようでは、統合の意味がないが、逆に、決定の内実が粗雑なものとなるのでは、これまた問題である、という関係にあるのである。
 第二に、こういった見地を踏まえた上で、組織の分節機能を維持しようとする場合、どのような見地からの分節を最も重視するか、が問題となる。すなわち、少なくとも今日において、諸々の行政活動は、その目的においても結果においても、いずれも相互に密接に関連し合っていて、その性質上当然に分かたれるというものはない。従って、目的の共通性のみを見て行くのでは、極端に言えば、理論的には、巨大な一省庁が存在すればそれで済む、ということにもなりかねないのである。そこで、共通性よりはむしろ、相互に分かたるべき異質性を見出すことが必要であり、そのためには、異質であることを判断するための基準の設定が必要となる筈である。例えば、現下の大蔵省再編論議では、実施・監督と監査の機能の分離が最も重要であるとの見地からの議論がなされている。他方で、従来、例えば建設省と農林水産省との間での、都市周辺地の利用のあり方を巡る綱引きは、少なくとも、乱開発を防ぎ、将来の合理的土地利用への余地を残すという意味においては、それなりの重要な意味を持っていた。同様のことは、環境庁と建設・運輸・通産諸省との関係等についても言えるであろう。一言でいうならば、どのような要素(利益)とどのような要素(利益)との対立を、最も重要な対立項として、今後維持しなければならないか(すべきであるか)の問題である。これはまさに、21世紀における日本社会はどのような社会であるべきか、という、基本的な問題に関わる。

 3.「縦割り行政の弊害の排除」と「大括り論」

 以上を前提とした上で、次に、先に見たような縦割り行政の弊害の排除は、省庁の「大括り」によらなければ実現できないかどうかにつき、検討してみることとしたい。
 まず、弊害の第一点(権限・手続の重複)については、理論的に言えば、権限・手続それ自体を減らすことによって、問題を解消することが、相当程度において可能であるように思われる。すなわち、一つは、規制緩和及び地方分権であり、今一つは、手続上の整理である。この後者は、例えば、ドイツにおける公共施設建設のための計画確定手続( Planfeststellungsverfahren)の場合に見るように、公共事業計画のある段階において、国家機関をも含め、同事業に関心を持つ全ての者に意見を述べさせることとし、その上でなされた決定は、全ての関連法における許認可等に代替する効果を持つこととするようなシステムである(参照、藤田宙靖「西ドイツの土地法と日本の土地法」創文社、昭和63年)。もしこういったことが可能となるならば、その限りにおいて、省庁の大括りは、必ずしも必要がなくなる筈である。
 次に、弊害の第二点(新規事業への縄張り争いによる、計画の挫折)については、理論的に言えば、まさに、こういったことにより、行政全体としての理性が働く結果になることもあり得ることを認めなければならない。すなわち例えば、一時のフィーバーによる過度の開発意欲が、こういったことによって水を掛けられる、といったケースである。しかし、一般的にはむしろ、不合理かつ不毛な縄張り争いに終わることが多いのであるとすれば、それは、後で見る、「苔」の清掃の必要の問題に帰すると思われる。
 弊害の第三点(総合的な利益考慮の欠如)については、例えば我が国の公共事業が、しばしばこういった欠点を持ち、バランスを欠いた突出的なものとなり易いことは、従来からも指摘されてきているところである。しかしこれは、理論的に言えば、例えばドイツにおけるように、長期にわたる総合的な計画(国土整備計画等)を立て、それに従った施設整備等を逐次行ってゆくというシステムが、我が国の場合には整備されていないことに、基本的な原因があるものと思われる(参照、藤田・前掲「西ドイツの土地法と日本の土地法」)。従って、今後もしこのようなシステムが整備されるならば、問題の解決を省庁の大括りに委ねる必要はないものであるし、また、仮に大括りをしたとしても、このようなシステムが整備されない限りは、問題の根本的な解決を見ることはできないのではないかと思われる。
 弊害の第四点(予算配分の既得権化)については、財政学上の問題とも関連し、充分な自信を持っての発言はできないが、こういった弊害が生じる少なくとも一つの原因は、予算の編成及び執行についての現在のあり方にもあるのではないかと思われる。すなわち、予算の配分が、各省庁、各部局毎に、必ずしもその使途についての厳密な指定を伴うことなく、いわば大づかみに行われ、またその執行についての監査が、翌年度の予算編成に必ずしも充分に活かされる形で行われてはいないために、結局は、各省庁からの予算要求につき、前年度予算をベースとした査定を行うことになる(インクリメンタリズム)のが、こういった硬直化を招く原因であるように思われる。すなわち、理論的に見る限り、この問題は、予算制度の改変によって、少なくともそのかなりの部分が解消し得る類のものなのではないか、と考える。

III 省庁再編論の意義(または有効性)

 1.省庁再編の現実的意義

 さて、以上見てきたように、少なくとも理論的な見地からは、いわゆる「縦割り行政の弊害」の排除は、少なくとも相当程度、省庁再編(大括り)によらずとも、他の種類の制度改革によって可能であるし、また、それが本筋である、ということになる。従って、省庁再編論ないし「大括り論」を展開しようとする場合には、こういった意味での反論が、必ずや各方面から生ずるであろうことを、十分に承知しておかなければならない。
 問題は、上記に見たような他の種類の制度改革は、現在の我が国においては、それ自体、甚だ多くの困難を伴うことであり、その実現には百年河清を待つの感がないでもない、ということである。そこで、それに代わる機能を、省庁再編に期待することが可能かつ合理的であるかどうかが、以上に見たこととは別に、問題となり得るものと思われる。この点で、やや似た側面を持つのが、首都機能移転問題である。首都機能の移転に対しては、「それが必要とされる理由の相当の部分は、地方分権を進めまず首都機能そのものを減らすことによって、失われるのであって、従って、実行さるべきはまず分権であり、首都機能の移転が先に立つべきではない」という批判がある。理論的には全くその通りであると思われるが、ただ、これに対してはまた、「霞ヶ関省庁の抵抗により、地方分権は容易に進むとは思われないが、まず首都機能の移転を決めれば、引っ越しを容易にするために、中央省庁は自ら、荷を軽くする方向に向かわざるを得ない」という議論がある。もしこの後者の議論が的を射ているとするならば、縦割り行政の弊害排除についても、あるいは、強力な政治的リーダーシップの下、省庁の再編を行うことによって、河清を待つのに百年を要しない結果となることが、あり得るのかもしれない。

 2.「積年の宿弊」ないし「苔」の大掃除について

 なお、省庁再編論の意義については、先に見た「積年の宿弊」または「澱」ないし「苔」の大掃除、という側面の検討が残されている。この問題は、行政機構それ自体についての理論的な問題というよりはむしろ、人間の主観的な感情に関わる問題であり、本稿の冒頭で見た、「ムラ」社会の心理ないし行動様式にも関わる問題である。すなわち、各省庁に属する官僚達が、自己の職場を、省庁単位あるいは部局単位で「ムラ」と感じ、そこに「帰依」すると同時に、部外の者に対しては、積極的な関心を持たないか、あるいは関連が生じた場合には、基本的に拒絶的に対応する、といった側面である。もし、官僚達のこういった人間的側面が、先に見た「縦割り行政の弊害」の最大の根源になっているのであるとすれば、その宿弊は、先に見た様々の制度改革によってはなお排除し切れないものであるし、基本的には、「ムラ」の解体、すなわち行政機構の大掃除によらざるを得ないことになる。但し、このような大掃除によって、とりあえずこれまでの「苔」は取り除くことができたとしても、ことの本質上、時が経過すればまた、新たな「苔」が生えることは避け得ない。そうであるとすると、この「ムラ」の解体ないし大掃除も、果たして、「ムラ」ないし「イエ」の外枠自体の解体によるべきなのか、あるいは、そこの住人の編成(すなわち人事のあり方)についての改変によるべきであるのか、なお、検討の余地があるであろう。この後者の問題については、後に改めて触れることとする。

IV いわゆる「エージェンシー」問題について

 省庁再編に関しては、先にも触れた行政組織のスリム化との関係で、いわゆる「エージェンシー」制度の導入の是非が問題とされている。いわゆる「エージェンシー」については、未だその実体の詳細が不明であるところもあるが、以下では、これまでに得られた情報の下、私が現在の時点でとりあえず考えていることにつき、覚え書きを残しておくこととしたい。

 1.「企画立案機能」と「実施機能」の分離について

 イギリスにおけるいわゆるエージェンシー制度の導入に当たっては、まず、「企画立案機能」と「実施機能」との分離が前提とされていると聞く。しかし、そこで問題とされる「企画立案機能」と「実施機能」の区別なるものが、正確には何を意味するのかは、必ずしも十分明確であるとは言えない。
 例えば、今日我が国の行政学では、現実の行政過程において、大方の場合、「企画立案」のプロセスと「実施」のプロセスを厳密に分離するのは不可能である、との指摘がされてきている。すなわち、この両機能が比較的明確に区別され得るのは、軍隊・警察・消防等、その性質上、上部組織によって立てられた統一的な方針を機械的に実行しなければならない、むしろ例外的な国家活動の場合に限られるのであって、大方の通常の行政活動の場合には、その全段階において、この両機能が混在しており、それはまた、今日の行政の性質からくる必然でもある、と説明されているのである(参照、西尾勝「行政学」)。そこで、この認識を前提として考えるならば、エージェンシー制度の導入を検討するに当たっては、企画立案機能と実施機能の区別ということを、単純に想定することはできず、むしろ、考え方としては、様々の性質と内容とを持った企画立案機能のうち、何が中央省庁の手に残さるべきものであり、何が、外部に出しても差し支えないものなのか、を、よりきめ細かく分析する必要があるのだ、ということになるであろう。
 もともと、「企画立案機能」と「実施機能」という対概念は、様々なコンテクストにおいて用いられ得るし、また現に用いられてきた。例えば、a)「企画立案は政治部門に委ね、行政は実施のみを行うべきである」という提言がされることがあるが、この場合には、そこでいう企画立案とは、法律案の作成をも含めた「政策決定」のことである。また、b)「行政部内における企画立案機能の強化を図るべきである」という提言がなされる場合には、「企画立案機能」と「実施機能」とは、現実にはいわば、スタッフ機能とライン機能の区別の意味で用いられていると言ってよい。また、c) 非現業と現業、ないし、裁量を伴う業務と裁量を伴わない業務との区別、といった意味に用いられることもあるように思われる。更に、d) 上記の行政学からの指摘は、いわば、「今日の行政活動において、企画立案とその実施は、通常の場合、トップダウンシステムによるのは不可能で、むしろボトムアップシステムの存在を不可避とする」という意味合いを持つものである。そこで、「企画立案機能」と「実施機能」を組織的に分離する、ということは、現実には、a) の意味では、法律案の作成を行政機構には任せず、立法府の能力を強化する、というコンテクストとなり、b) の意味では、ラインと区別されたスタッフ組織を設置・強化する、ということになり、c) の意味では、現業ないし非裁量業務をアウトソーシングする、という意味であり、d) の意味では、現行のボトムアップシステムの解体の要請を意味することになる。
 エージェンシー論の前提としての「企画立案機能」と「実施機能」の区別の問題は、おおむね上記のc) を中心とするものであるように思われるが、それのみならず、そこには、霞ヶ関諸官庁の役割の限定というニュアンスも含まれており、そういった意味では、b) ないしd)のコンテクストとも関わりを持つことになり得る。このように、エージェンシー論の場合、「企画立案機能と実施機能の分離」という表現の下、具体的には何が要請されているのかを、更に正確に詰める必要があるように思われる。

 2.「実施機能」の多様性

 またその場合、仮にc) の意味での区別、すなわち、現業ないし非裁量業務であるかどうかを中心として考えるとしても、こういった業務の中には、例えば現業の郵便事業の場合のような非権力的サーヴィス事業から、許認可の付与のような権力作用まで、様々の違いがある。我が国の従来の法律学においては、権力作用と非権力作用との違いは、様々の法制度・法理論上の違いをもたらしてきたのであって、権力作用を行う行政機関を、果たしてまたどのような形式で通常の国家行政組織の外に出すことができるかについては、充分な詰めを行わなければならない。

 3.「外局」及び「特殊法人」との関係

 いわゆる「エージェンシー」は、外国において、その国の事情に基づき生まれてきた制度であるが、我が国の場合には、既に、これに似たような機能を果たす制度として、「外局」そしていわゆる「特殊法人」の制度が存在している。そして、とりわけこの特殊法人制度については、その存在意義につき、今日様々の批判がなされていることは周知の通りである。従って、いうまでもないことながら、エージェンシー制度の導入を考える場合には、その、これら既存の制度との違いを明確にし、これらの制度を今後どうするのかについての、明確な説明を伴うのでなければなければならない。私は、この問題については、いわゆる「エージェンシー」は、国家行政組織のスリム化に関する我々の検討の参考にはなるとしても、その「導入」という形で議論さるべきではなく、むしろ、我が国従来の「外局」そして「特殊法人」の両制度をベースとしてその改善を考え、いわば、今後あるべき「外局」制度「特殊法人」制度はどのようなものか、という問題として、全体を捉えるべきではないか、と考える。
 そして、その際の検討の中心は、特殊法人に関しこれまでにも各方面から指摘されてきているように、何よりも、会計制度及び業績評価システム、そして人事システム等の改善である。この点で、民間企業のメリットを取り入れることが制度改革の中心となるが、究極的な民営化までの激変緩和措置としてさしあたり特殊法人化するもの、公権力の行使に当たるため、最終的に民営化は許されないもの、等々、様々のケースがあり得るものと思われる。

四 内閣機能の強化について

I 問題の所在

 一般に「内閣機能の強化」あるいは「官邸機能の強化」と称されている問題には、理論的に正確に見れば、内閣それ自体の機能の強化問題と内閣総理大臣の機能の強化問題とが混在しているように思われる。前者の問題としては、何よりも、内閣官房の強化が検討の対象となるが、後者の問題であるならば、総理自体の権限強化の問題と共に、総理府が果たすべき調整機能の強化もまた検討の対象となる筈である。しかしここでは、いずれにしても、とりわけ内閣総理大臣を中心とする、政策立案機能・総合調整機能・危機管理機能・更には広報機能等の強化全般が問題となるものとして問題を捉え、以下、内閣総理大臣の権限強化、内閣官房のあり方、総理府及びその外局たる総合調整機関の位置付け、の問題につき、順次取り上げることとしたい。なお、これらのうち、行政改革会議で、先行して議論することとされた危機管理機能の問題については、これらについての検討の後、別に取り上げることとする。

II 内閣総理大臣の権限の強化について

 1.内閣法6条問題について ――― 私見

 いうまでもなく、この問題は、何よりもまず、内閣法6条の「内閣総理大臣は、閣議にかけて決定した方針に基づいて、行政各部を指揮監督する」という規定、及びその基盤を成すとされる憲法72条の「内閣総理大臣は、内閣を代表して…行政各部を指揮監督する」という規定を、どう解釈するか、という問題に関わる。従来の法律学説の大勢及び内閣法制局は、これを文字通りに解し、いつ如何なる場合でも、内閣総理大臣が閣議を経ることなく行政各部を指揮監督することは許されない、という見解に立っている(但し、これとは別に、平成7年2月22日の最高裁ロッキード丸紅ルート事件判決では、「内閣総理大臣は、少なくとも、内閣の明示の意思に反しない限り、行政各部に対し、随時、その所掌事務について一定の方向で処理するよう指導、助言等の指示を与える権限を有するものと解するのが相当である」とされており、いわば、法的拘束力を有しない行政指導的なものならば、一々の閣議を必要としないものとされている)。ただ、私自身は、この両規定についてのこのような解釈には、かなりの疑問を抱くものであって、その理由は、次の通りである。
 まず、いつ如何なる場合にも閣議を経ることが不可欠であるとする理由の一つは、現行法上は各大臣が行政事務を直接分担管理することになっている、というものであるが、このことは、少なくとも明文上は、内閣法及び国家行政組織法という法律レヴェルで初めて定められていることであり(内閣法3条1項、国家行政組織法5条一項)、憲法上は「行政権は、内閣に属する」と定められているに過ぎない(65条)。内閣法等の上記の規定は、沿革的には、行政権が天皇に属していた明治憲法の下において、各大臣が直接天皇に対し責任を負うこととされていた時代の尻尾を引きずっているものであって、現行憲法の下では、必ずしも明確かつ合理的な理由を持たないものである。また、現行憲法が議院内閣制を採用していることが、上記のような解釈を採るべき理由とされることがあるが、しかし、議院内閣制の本質は、総理大臣が議会において選出され、その責任において組閣するところにあるのであって、いわば、議会により直接の民主的正当性を付与されているのは、閣僚の中では総理大臣だけなのである。従って、議院内閣制の本旨に照らして見るならば、総理大臣の権限行使にいつ如何なる場合にも閣議を必要とするという制約を加えるシステムは、むしろ理論的には異質なものである、という考え方をすることすらも不可能ではないように思われる。残る最大の理由は、内閣が合議体である、ということであるが、合議体であるということから理論必然的に、例えば緊急事態において、その代表者に例外的に果たしてまたどのような権限を与え得るか、ということが、直接一義的に導き出されるわけではない。以上要するに、従来の多数説並びに法制局見解は、つまるところ、憲法72条の「代表して」という文言を、あまりにも形式的に解し、またこれを金科玉条とすることに基づくものであって、近時、国会における法制局長官の内閣法6条についての解釈が、ますます緩和されたものとなりつつあるのも、究極的には、このような事情のためであると思われる。

 2.内閣法6条の枠内での可能な処理

 以上のように、私自身は、憲法及び内閣法の両規定についての、従来の解釈は改めるべきものと考えているが、しかし、先にも見たように、これは、現在直ちに一般に通用する考え方ではないと思われるので、大事を取るとするならば、行政改革会議としては、このような問題の所在は意識しつつも、さしあたり、先に見た通説を前提として考えた方が賢明であろう。
 ただ、いずれにせよ、内閣法6条の下でも、予め閣議で了承を得た基本方針に従って、総理大臣が、個別的な処理をすることは可能である、ということは、今日既に、広く認められるようになっている。しかも、今国会での内閣法制局長官の答弁によれば、この基本方針とは、各国会毎に行われる施政方針演説あるいは所信表明でもよいものとされている。こういった意味では、現行法の下においても、内閣法6条の制約を実質的にクリアーすることは、相当程度可能であるものと思われる。従って、当面内閣法6条を改正するまでのことはなく、その解釈を緩和する方向を進めることによって対処するのが賢明であろう。なお、この問題は、後に危機管理機能の問題について述べる部分で、再度触れるところがある。

 3.内閣総理大臣の基本方針発議権について

 なお、上記に触れた内閣総理大臣による基本方針の発議については、内閣法4条3項の規定に基づき現行法下で可能であるとも解し得ようが、ただ、同条文は、少なくともその文言上は、「各大臣」が案件を「内閣総理大臣に提出」することを前提としているため、ここでいう「各大臣」の中には総理大臣は含まれないのではないかとの問題が生じる。尤も、内閣総理大臣は、総理府の長として主任の大臣でもあるので、その立場で、内閣の代表としての内閣総理大臣に、案件の一つとして提出するという理屈も考えられようが、ただ、現行の総理府設置法は、「各行政機関の施策及び事務の総合調整」を、総理府の「任務」の一つとしては掲げているものの(3条2号)、「所掌事務」ないし「権限」としては明確に定めていない(4条各号及び5条各号を参照)。してみると、総理府の長としての内閣総理大臣に、件のような基本方針の発議権が存在するかどうかは、必ずしも問題なしとはしないことになる。
 ことの性質上、ここで問題となるような基本方針発議権は、本来、総理府の長としての総理大臣というよりは、内閣の代表としての総理大臣に帰属すべきものと思われる。こういったことに鑑みると、やはり、内閣法上、念のために、内閣総理大臣の閣議への発議権に関する規定を新たに設ける方が、より適当なのではないかと思われる。

III 内閣官房のあり方について

 1.企画・立案機能について

 内閣官房がどのような規模を持ち、どのような機能を果たすべきかは、行政府における企画・立案が、基本的に、内閣総理大臣を中心とした内閣からのトップダウン方式によって行われるか、それとも各省庁からのボトムアップによって行われるか、によって異なる。すなわち、前者であるとすれば、内閣官房に、積極的に企画・立案する能力を充分に備えた大量の専門家集団が、スタッフとして常勤することが必要となるが、後者であるとすれば、内閣の主たる任務は、総合調整機能の方に傾斜することになるため、むしろそのような機能にふさわしいスタッフを充実することが、重要となるであろうからである。我が国の場合は、先に見たように、各大臣が行政事務を分担管理する原則が採用されていることもあり、アメリカ大統領制の場合とは異なり、むしろ、基本的には後者のパターンに属するものというべきであろう。そのため、内閣における企画・立案は、行政の全般にわたる詳細なものではあり得ず、政策の基本的枠組みないし基本方針の決定を中心とするものになる筈である。そうであるとすれば、このような作業に従事するスタッフ組織は、むしろ、少数精鋭を旨とし、状況に柔軟に対応のできる、比較的小さな組織である方が望ましいのではないかと思われる。そしてまた、その構成等についても、総理大臣の自由な選択に委ねる余地を、広く残すべきものであろう。

 2.調整機能について

 他方これと並び、調整作業に携わるスタッフ組織は、かなりの規模と数とになる筈である。すなわち、現在でも存在する、総務庁による組織管理、人事院による人事管理、内閣法制局による法制管理は、何らかの形で、今後とも存続されなければならない。また、特に問題となるのは、財政管理(予算管理)であって、従来専ら大蔵省に属していたこの機能につき、少なくともその一部を内閣に移管すべきではないかということは、従来からも、様々に議論されてきているところである。こういった機能は、現在よりも更に強化された上、何らかの形で(いわゆる「内閣府」構想、あるいは、現在の総理府の改組等)、内閣に直属する組織に帰属せしめられるべきであろうと思われる。
 因みに、その際、機能強化の側面で考えられるいくつかの点を付言しておくならば、以下の通りである。
 まず、人事管理については、公務員の一括採用ないし「大括り」採用、高級官吏の人事についての内閣の関与、各省間での高級官吏の人事交流、等々の問題があるが、これらについては、後に改めて触れる。
 また、法制管理について、現在では、各省が作成した法律案を、事後的に法制局が審査するに止まっているが、より早い段階から内閣が関与するシステムを導入することも、考えられるように思われる。
 予算管理については、予算の編成作業そのものを大蔵省から内閣に移すということは、現実性を欠くであろうが、予算の大枠ないし基本方針を定める機能を持った組織を内閣に設置することは、これとは別に考え得るものと思われる。

 3.現行の総理府及びその外局の改組・整理について

 なお、現行の総理府及びその外局は、調整機能と同時に、一定の通常業務をも行う、その意味で、性格の甚だ曖昧な機関となっている。上に見た内閣官房の機能の整理に伴い、総理府のこういった諸機能をも整理し、調整機能は内閣直属の組織に統一し、通常業務は、そこから排除して、独立の省庁(あるいは他の省庁)に属せしめることにすることが考えられよう。
 また、先に見たように、柔軟に小回りの利く内閣官房と、機能の整理をした上で内閣に直属する総理府を置く、という構想は、名称の上では、やや不適切なのであって、むしろ現在とは逆に、前者は総理大臣に直属し、後者が内閣に直属する組織であることを、名称の上でも明確にする必要があろう。

IV 危機管理機能について

 1.「内閣の危機管理機能の強化」ということの意味

 内閣の危機管理機能の強化が特に叫ばれるようになったのは、阪神大震災、ナホトカ号オイル漏出事件等において、国が迅速に対応することができなかった、という理由によるものであった。この場合、例えば、国に、大惨事に備えてのレスキュー部隊の常置がないとか、あるいは、オイル除去のための船の数が足りないとかいうことは、それ自体は問題であるにしても、ここでいう内閣の危機管理機能の問題ではない。また、政府の立ち上がりの遅延が問題とされるが、こういった事態に対しては、初動は通常まず地方公共団体によって行われる筈のものであるから、地方公共団体からの要請があったにも拘わらず国が迅速に対応できなかったというのならばともかく、単に、政府が初期において行動しなかったということ自体が、直ちに内閣の危機管理機能の欠如ということには、理論的にはならない筈である。それにも拘わらず、こういったことが強調されるのは、おそらくは、「危機」が発生した場合に、政府は、直ちにこれを認識し必要があるならば直ちに何らかの手が打てる体制にある、という安心感自体が、国民によって求められているためであると思われる。その意味において、内閣の危機管理機能の強化という問題には、少なくともかなりの重みを持って、心理的な要素が絡んでいるものと思われる。

 2.危機管理のための特別の組織の設置について

 そういった意味においては、内閣に、国民の目に見える形で、危機管理のための特別の組織ないしシステムが設けられるならば、そのこと自体既に、一つの問題解決となるものということができよう。例えば、内閣官房に、危機管理を専門に担当する、内閣官房副長官と同程度の職としての「危機管理官」を置く、といった方法である。但し、国民の安心感の確保ということに重大な意味があるとするならば、現実に「危機」が発生したときに、この「危機管理官」が上手く機能しなかった場合には、こういった特別の制度をおいたことは、かえって大きな逆効果を生むこととなるのであって、このことは、十分に承知しておかなければならない。従ってまた、いうまでもないことながら、このような制度を置く以上は、現実にそれが充分機能し得るよう、充分な手当がなされなければならない。

 3.情報収集機能について

 そのために必要なのは、何よりもまず、充分な情報収集機能である。とりわけ、「危機管理官」が必要を感じた場合には、拘束力を以て、行政各部ないし地方公共団体から報告を聴取するくらいの権限が与えられるのでなければならない。
 次に、収集された第一次情報が、どのような意味を持つのか、すなわち、「危機」が発生しているのかどうかを、的確に分析する能力が備わっていることである。この意味において、この危機管理官は、本来、特別職として、広く行政組織の内外から適任者を選ぶべきである。また、危機管理官を、こういった機能において補佐する専門的なスタッフが必要となろう。こういったスタッフ組織は、「危機」の発生に備え、常日頃の研鑽を積むことが必要であろうが、ただ、「危機」自体は、必ずしも頻繁に生ずることが前提とされ得るものではないから、こういったスタッフ組織を、しかもかなりの規模において常置することは、一面では、大きな組織上・財政上の負担となる。また、一度設置された組織は、まま、その存在理由を見出すためにのみ「仕事」を見出して行く傾向があるということは、よく知られた事実である。そういった意味においては、このスタッフ組織は、むしろ、行政組織の外部の専門家をも含めた、ネットワーク組織として形成されることも考えらるべきであろう。

 4.迅速な対処について

 得られた情報に基づき、必要な場合には、政府として迅速に対処することができるシステムを構築することが、いうまでもなく不可欠である。この問題については、総理ないしその意を体した危機管理官による、行政各部への直接の指揮監督権限を認めることが必要となろうが、ここで再び制約となるのが、先に見た内閣法6条の規定である。
 この点、先に見たように、予め、閣議に計って定めた方針に基づいて、個々の場合に指揮監督することは、内閣法6条の下でも許される、とされるのであるから、まず考えられるのは、「危機」の類型を定めて、これらにつき予め閣議の了解を得ることであろう。しかし他方、「危機」の本当の「危機」たる所以は、むしろ、まさに、このように予め類型化して想定され得ないケースにおいて存在する。そこで、このようなケースに対処し得るように、類型化され得ないケースについての処理を、概括的な形で予め閣議に計ることも許されると考えるべきである。従来一般に、内閣法6条の枠内では、このように概括的な処理をすることは(たとえ危機管理についてであろうとも)許されない、とされてきたが、これは、あまりにも杓子定規な解釈であって、先に見たように、同条及び憲法72条についての従来の解釈には、その論拠につき相当の問題があることをも思い合わせるならば、仮に一般的には通説の立場を前提とするとしても、少なくともこういった本当の「危機」の事態にあっては、この限りの例外的処理を認めることは、決してこれらの規定の精神に反するものではないと考える。

  5.情報の事後公開について

 なお、危機に際し執られる個別的な措置については、緊急を要するものが多いため、必ずしも事前の情報公開等を必要としない。しかし、事後的には、如何なる問題に対し如何なる措置が執られたかを、直ちに公開することが、是非とも必要である。これは、行政の透明性・民主性の確保という要請からしても、当然のことであるが、更に、先に見たように、政府の危機管理機能の強化という問題自体が、国民の安心感の確保ということとの関連において生じているものと思われるからである。

  V 国家公務員制度について

 最後に、以上述べてきたこととの関連において、国家公務員の任命制度問題について、簡単に触れておくこととしたい。

 1.「縦割り行政の弊害の排除」と官僚の人事管理

 いわゆる「縦割り行政の弊害」を除去するための方策として、官僚の人事管理を通ずる方法があり得ることは、先に既に触れた。こういった方策として、理論的にまず考えられるのは、かねてより各方面から提言されているように、キャリアーの採用を現在のように省庁別に行うのではなく、人事管理機関において、一括して行う方法である。尤もこの場合、技術系の職員についてそれが可能であるかどうかには、問題が残るが、少なくとも事務系職員については、理論的には充分考えられることであると思われる。但し、この方式については、唯一の人事管理機関が、全職員につき、その勤務状況・能力・適正等を正確に把握して、的確な人事を行うことが可能であるかどうかにつき、疑念も提起されているところである。そこで、もし、このような問題が実際に存在するのであるとすれば、一括採用をする以上は、国家公務員法の原則に立ち返って、昇任人事は全て競争試験によるものとする以外にないであろう。
 また、人事管理機関において、全職員につき一括人事をすることが困難であるとしても、一定の幹部職員(例えば課長級以上、または局長級以上)については一括人事をするという方法も、考えられないではない。

 2.幹部職員人事についての内閣の関与について

 なお、一定の幹部職員の人事について内閣の関与を認める現在の方式を、正式に法制度化することも考えられる。この場合、任命権・懲戒権等の人事権に関する現行国家公務員法上の規定等を考慮するならば、現実性があるのは、内閣による任命方式ではなく、各省毎に行われる人事案件を内閣の承認に掛からしめるという方式であろう。  ただ、理論的にいうならば、人事権を有する各大臣がそれぞれ、内閣の一員としての立場に立って適切な人事を行うことは、本来可能である筈なのであって、真の問題は、各大臣に、官僚の抵抗を押し切ってそれを貫徹するだけの気力・胆力がないところにあるように思われる。そうであるとすれば、各大臣から実際に提案された人事について、たとえ内閣によろうとも、政治家による実質的なコントロールが可能であるのか(すなわち、内閣が承認を拒否するケースが実際にあり得るのか)については、疑問が抱かれなくもない。結局この方式の持つ意味は、官僚に対する優れて心理学的な効果に止まるものと思われる。

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