国の行政改革と地方

(平成10年6月1日 東北経済連合会、地域開発講演会講演)

藤 田 宙 靖


 

 はじめに

 本日の講演の演題は、標記の通りであるが、これは、本日の主催者の側から、依頼されたものである。昨年の12月3日に、行政改革会議が、内閣機能の強化や国の省庁の再編成その他についての重要な提言を含んだ最終報告を出し、この報告に基づいた中央省庁等改革基本法案が、現在国会で審議されているところであるが、その内容については、只今小山参事官から、ご説明のあったとおりである。私の役割は、それを踏まえて、特に、このような国の行政改革が地方行政に対してどのような意味を持つか、そこでは、地方に対しどのようなことが期待されているのか、ということに焦点を絞って、今少し詳しいお話をすることである、と心得ている。ただその際、次の二点について、お断りをしておきたい。
 第一に、私は、法律学を専攻するものであって、経済とか財政の問題については、もともと、必ずしも詳しくない。従って、国の行政改革が地方に対して持つ意味、と言っても、話の内容はどうしても、法制度、或いはせいぜい、政治ないし行政制度のあり方を中心としてのものに止まらざるを得ないのであって、果たしてまたどの程度、経済界の皆様方にとって御参考になるお話ができるかどうかについては、心許ないものがある。しかし、いずれにしても、私も皆様方と同様、一地方都市に住まいする一住民である点については同じであって、そのような意味で、差し当たっては、経済人としてのお立場に囚われず、地方に住む一住民としてのお立場で本日の話を聞いて頂ければ幸いである。
 第二に、私の本日のお話は、行政改革会議の最終報告の作成に携わった者の一 人として、そこで目指している国の改革に際しては、地方に対し、どのようなこ とが期待されているか、と言うことを問題とするものである。言い換えれば、国 の行政改革を進める側から見て地方に何が期待されるか、という話であって、地 方の行政改革を進める側から見て国に何が期待されるか、という話ではない。こ ういった意味でも、或いは、皆様方のご関心とは、その方向が必ずしも一致しな い点があるかも知れないことを怖れるのであるが、もしそのようなことがあった とすれば、後に、質疑応答ないし意見交換の時間の際にお聞かせ頂ければ、 と考えている。

 一 国の現下の行政改革の背景 ……「従来日本の国民が達成した成果を踏まえつつ、より自由かつ公正な社会の形成を目指して「この国のかたち」の再構築を図る」(行政改革会議最終報告)ということの意味

 行政改革に向けての動き自体は、我が国でも古くから存在しているのであるが、ここ何年かの動きの中で、特に注目されるのは、改革の必要性が、かつてのそれのように、財政赤字の解消とか、スリムにして効率的な行政、といった、単に財政管理あるいは行政管理の分野に止まるものでなく、いわば、我が国の国家と社会の全般にわたる「体質」の改造という、大きな動きの中の一環として、位置付けられるものとなってきているということである。では、この意味での、「体質」の改造とは、一体、どのような意味での改造であるのであろうか? この点につき、行政改革会議の最終報告の中では、その冒頭、行政改革の理念と目標について述べた部分で、「従来日本の国民が達成した成果を踏まえ、より自由かつ公正な社会の形成を目指して「この国のかたち」の再構築を図る」と言う言葉で触れられている。そこで、まず、このことの意味につき、もう少し詳しい説明をするところから、話を始めさせて頂きたいと思う。

 1.集団主義的・団体主義的色彩を帯びた国家・社会から、自由主義的・個人主義的国家・社会への移行

 我が国の国家と社会の全般にわたり従来存在しており、今その改革が必要とされている「体質」とは、どのようなものであるか、ということについては、これまで、各界の識者によって、様々の見地から、様々の言葉によって言い尽くされてきたところであるが、これを私の言葉で言うとすれば、集団主義的ないし団体主義的色彩の濃い国家・社会ということであり、従って、今求められている「改造」とはつまり、そういったものから、より自由主義・個人主義的な国家・社会への移行、である、と言うことが出来るように思われる。このことについて、私は既に昨年、私が行政改革会議で発表した意見を、別に、「自治研究」誌上で公刊したところであるが、以下、本日の講演内容との関係で、再度簡単に触れておくこととしたい。
 第二次大戦における敗戦、そして日本国憲法の制定が、我が国の国家と社会の 根本構造についての変革をもたらそうとしたものであったことは、改めていうま でもないことであって、一口で言えばそれは、我が国に、西欧流の近代的な市民 社会の成立を前提とした、自由主義・個人主義的な国家及び社会のシステムの構 築を行おうとするものであった。しかし現実には、日本社会に残る様々の集団主 義的要素(これは、しばしば、「ムラ」的要素とも呼ばれる)により、必ずしも、 その徹底は見られなかった。このような集団主義的要素とは、例えば、日常生活 においても見られる「出る杭は打たれる」「長いものには巻かれろ」式の生活様式から始まり、「談合体質」「行政指導」「根回し」、「和」の文化、更に、「制服・校則」「お受験」、「みんなで渡れば怖くない」から、果ては、「護送船団方式」、「世間をお騒がせした」ことへの責任、「顔を潰された」ことへの憤り、に至るまで、様々な形で表出しているものであって、要するに、「個」ないし「私」を殺し(あるいは少なくとも抑え)、自らの運命を、いわば無条件に集団(そしてそれを代表するオヤブン)に委ね(預け)、そして他面、この集団ないしオヤブンは、(これらの者が、この集団の掟ないし生活様式に忠実である限り)理屈抜きにどこまでも面倒を見なければならない、という社会のあり方である。このような社会においては、全員の「合意」ないし「和」が、ことを行うための前提となるところから、一部の指導者に一方的な権力行使が認められている社会よりも、一見、個人の意思がより尊重されているようであり、従ってより民主的であるように見える場面も登場する。また、一部の強者の突出を許さず、集団の構成員全体に利益を平等に配分することを重視することから、場合によっては、より社会(主義)的であるように見えることもある。そういった意味で、上手く行く限りにおいては、この社会は、個人的自由主義・民主主義を基盤とする西欧社会に比べて、その良いところはこれを備え、他方その弱点はこれを克服した、理想的なシステムを備えた社会として機能し得る面を持つ。これが、いわば、第二次大戦後急速な経済成長を遂げた「日本の奇跡」の秘密であった。
 しかし、この一見した民主性は、実は他面で、大勢に対し個人が正面切って異論を述べる事態があり得ることを前提ないし想定しないものであり、その意味において西欧流の民主主義とは大いに異なり、また、一見した社会(主義)性は、そういった利益の配分が、専ら、特定の集団内部限りでの配分としてのみ考えられ、集団外の者に対しては、むしろ徹底的な差別を以てすら臨むことを許すものである点において、西欧流の博愛・平等の精神とは、これまた大いに異なるものであった。
 今我が国社会が求められているのは、こういった意味での集団主義的・団体主義的色彩に染まった、あらゆる制度及び人の改革なのであって、行政改革というのも、こういった背景を持ったものであることに、特に留意をしておくことが必要である。こういった要請は、実は既に、明治維新そして第二次大戦における敗北に際して、西欧諸国から最も鋭く突きつけられたところであり、我が国の近・現代史は、基本的にはまさに、国を挙げてそれに応えようとする過程そのものであった。しかしその成果が未だ不十分である、ということが、21世紀を目前として、再度、白日の下に晒されつつあるのだ、というべきであろう。現下の改革が、明治維新及び第二次大戦の敗戦に並ぶ、国家の浮沈を掛けた第三の大改革である、ということが、時にいわれるのは、まさにこういった意味において、象徴的である。

 2.「国家」ないし「国家」行政というものについての考え方の転換

 行政改革の必要性を、以上見たような背景の下で理解するとき、そこではまず、次のような意味で、国家行政というものについての従来の考え方を変えなければならないのだ、ということが明らかとなる。
 以上見たような我が国社会における集団主義的体質の改造という問題を、国家という集団についてみるならば、こういった意味での集団主義が、ある特定の「国家」観と根強く結びついたものとして展開されてきた、ということが注目される。すなわち、我が国のこれまでの官界・司法界等においては、意識すると否とに関わらず、あるタイプの「国家」観(ないしは、少なくとも、かつて存在したそのようなものの残滓)が根強く存在しているように思われるのであって、それはもともと、近代ドイツ国家学上の「国家と社会の分離」という観念に由来するものであり、「公(ないし官)と私(ないし民)の峻別」という考え方にも繋がるものである。この考え方自体には、様々な側面があり、その理論的射程も単純ではないが、ここで特に目を向けなければならないのは、「社会(Gesellschaft……市民社会ないし「民」 と言ってもよかろう)は、それ自体本質的に、私利私欲(エゴイズム)によって支配された混沌(カオス)であり、その赴くままに放置するならば、必然的に弱肉強食すなわち強者による弱者の収奪をもたらすことになるので、こういった事態を避け、弱者を救済するためには、それ自体本来中立・公正にして理性(Vernunft)を代表する存在であるところの国家(Staat……「官」と言ってもよかろう)の力によって、社会の無秩序が抑制されなければならない」という基本的な発想である。
 (このような国家観は、もともと、君主並びにそれを取り巻く貴族集団が国権の担い手であるような社会構造を反映して成立してきたものであったが、国民主権が確立した後においても、エリート集団としての官僚を中核とする国家行政機構・司法機構が維持されることによって、上記のような観念としての「国家」、そして、その「社会」に対する役割についての、上記のような基本的な理解もまた、本質的に変わることなく維持されてきたものということができる。)
 因みに、このような国家観はまた、「国家」を巡る次のような様々の思考と結びつくことになる。
 まず、「国家」は、「社会」の横暴から弱者を救い、福祉をもたらすところにこそ、その存在理由があるのであるから、国家行政に携わる者は、常に、社会の横暴に対し警戒を怠らず、全力を挙げてこれを排除しまた防御するようにしなければならない。その際、私人の行う活動には、その性質上常に、秩序と安全を乱すおそれが内在しているのであるから、何よりもまず、そもそもそのような活動をさせて大丈夫かどうかを事前にチェックする事前規制が、不可避の手段となる。また例えば、「国家」の存在意義は、上記のように「中立・公正」であるところにこそあるのであるから、国家機構を担う公務員は、厳にあらゆる社会からの影響を受けることのないよう、細心の注意を払わなければならない。従って、例えば公務員の政治的行為が厳に禁止されるのはあまりにも当然の理であるし(最高裁判例)、また、外国人が、国家機能の核心を成す公権力行使に携わる職務に就けないのも、「当然の法理」である(内閣法制局見解)。
 こういった国家観とは全く対照的であるのが、次のような国家観であって、ごく大雑把に見るならば、例えばアメリカ社会におけるそれが、これに近いものということができるであろう。すなわち、社会のあらゆる組織機構と同様、国家機構なるものもまた、いわば、社会(一般国民)が、自らの必要のために自ら作ったものであるのであって、従ってまた、国家と社会は本来対立する存在であるわけではなく、前者は、後者が必要とする限りにおいてその存在意義が認められる。従って、例えば、社会は本来横暴でありカオスであるとされ国家による規制のあり方もそこを出発点として構想されるのではなく、むしろ逆に、社会の有意義な生産性を信ずるところから出発する。この意味において、国家の機能は、社会の機能を前提として、その補完的なものとしてのみ、正当性が認められる。
 また例えば、公務員の政治的中立性も、それが実際に必要な限りにおいて確保されればよいのであり、また、外国籍の者であろうとも、その者を公務に就ける実際上の必要があるならば、それを妨げる「当然の法理」などがあるわけではない。
 行政改革会議が掲げた理念としての、「自律的個人を基礎としたより自由かつ公正な社会の形成」というのは、端的に、このような国家観・社会観への転換ということであると言ってよいであろう。

  二 「国」と「地方公共団体」の基本的な関係

 さて、以上見てきたような「国家」観の転換を前提とすれば、「国」と「地方」との相互関係についても、従来の考え方が、根本的に改められなければならなくなる。
 例えば、従来の「国家」観の下では、しばしば、「国家」ないし「国家権力」ということと「国」ないし「国の権限」ということが、同一視されてきた。私は、行政改革会議の他、地方分権推進委員会にも、参与として関係しているのであるが、同委員会で中央省庁のヒアリングをした際にも、このことは、しばしば感じられたところであった。例えば、いわゆる機関委任事務の廃止をめぐり、土地収用の事務を自治事務化しようという提案に対し、建設省は、当初、「土地収用特権は、国家が独占するものであるから、地方公共団体など国以外の者がこれを行使することは許されない」という論理を展開したのであったし、また、各種の法人の設立認可を自治事務化しようとする提案に対しても、関係諸官庁からは、「法人格を付与するのは、国家の特権であって、国以外の者がこれを行うことは出来ない」という反論を述べていたのであった。
 この論理の下では、「国」のみが「国家」なのであるから、地方公共団体は、国家権力を担い得るものではなく、その意味では、一般私人と同じ立場で、国に従属するものであることになる。しかし、先に見たような新たな国家像の下では、このような考え方はもはや成り立たない。新しい国家像の下では、「国家」なるものは、国民(市民社会)を超越し、先天的に存在するものではなく、国民がその必要に応じて作った、その意味ではいわば一種の道具としての一機構であるに過ぎない。ところで、この意味での「機構」は、必ずしも「国」という法人だけには限られず、市町村・都道府県等の地方公共団体もまた、当然のことながら、そういった性質を持つ機構の一つである。この意味においては、「国」と「地方公共団体」との間に本質的な違いはないのであって、両者は、いわゆる「国家」の機能をそれぞれの役割において分担する、その意味で対等な存在である。そして、日本国憲法は、明治憲法の時代と違い、地方自治を、憲法上の制度として保障し、地方公共団体にもまた、国と並ぶ一種の地域的「統治団体」としての性格を認めているのである。言い換えれば、日本国憲法の下では、「国家機能」は「国」と「地方公共団体」という二種類の法人に分属せしめられているのであり、決して「国家」イークオール「国」であるのではないのである。地方分権推進委員会が、「国」と「地方公共団体」の相互関係を、基本的に対等な関係である、と言っているのは、まさにこの意味であると言わなければならない。
 そして、こういった諸機構は、国民ないし市民社会の具体的な必要に応じてこそ存在するのであるとすれば、こういった必要に最も近いところに存在するのは、市町村であり、都道府県である。すなわち、これらの地方公共団体は、国民にとっての「近い公共性」を体現するのであり、この意味では「国」は「遠い公共性」を体現するものであるに過ぎない。実は、地方自治法は、始めから、市町村を「基礎的な地方公共団体」として位置付けているのであって(同法2条4項)、これは、まさにここに述べた意味なのである。いわゆる地方分権の推進とは、そういった意味で、実は本来、日本国憲法や地方自治法がもともと抱いていた理念を、現実化しようということに他ならないのである。

 三 中央省庁の再編と地方

 さて、以上を踏まえた上で、次に、今回の中央省庁等改革基本法案ないし、そのベースとなった行政改革会議最終報告と地方との関係について、触れてみることとしたい。

 1.省庁の大括りと地方分権

 今回の改革案の目玉の一つとなったのは、なんと言っても、中央省庁の、大括りによる再編ということであった。ところで、この大括り構想には、もともとその重要な一つの前提として、地方分権の推進による、国の行政事務の減量、ということが置かれていることに、まず留意して頂きたい。すなわち、行政改革会議での審議が始まった始めから、橋本総理は、省庁再編案を作成するに当たっては、一方で、先行する行政改革委員会の検討結果を基に規制緩和を進め、他方では同じく先行している地方分権推進委員会の検討による地方分権を進めることによって、まず、国の行政を身軽にした上で、残った国の事務につき、大括りによる省庁再編を進めるのだ、という構想を示して居られたのであった。これは、大括りされた省庁は、極めて巨大なものとなり、そのような省庁に権限が集中することは、却って行政改革の趣旨に反するのではないか、という疑問に対する回答でもあったわけである。ただ実際には、行政改革会議で我々が最終報告を書いた段階では、一方で、行政改革委員会は、規制緩和の基準は示したものの、具体的にどのような行政事務を廃止するかについては、結論を示していなかったし、また、地方分権推進委員会も、機関委任事務の廃止は提言していたが、現に国が直轄で行っている行政の地方への移譲については、何も具体案を示していなかった。そこで行政改革会議としては、具体的な減量案無きままに、省庁の大括り案を示さざるを得ないことになったのである。その結果、野党やマスコミは、具体的な減量案無き省庁再編は、単なる看板の掛け替えに過ぎず、行政改革の名に値しない、として、一斉に批判を行ったのであるが、行政改革会議の最終報告では、省庁の再編に当たっては、先に述べたような減量が不可欠であることを、繰り返し述べていることを、是非見落とさないで頂きたい。つまり、省庁再編の具体化は、基本法が成立して後、各省設置法等の改正があって初めて実現されることなのであるが、現在の状況下では、今後こういった具体的な再編作業を進める傍ら、国の行政の減量作業が、同時進行するようもくろまれている、ということになる。そして、まさにこのコンテクストの下で、現在、地方分権推進委員会は、国の具体的な減量案を示すべく、第五次勧告に向けての作業を行っているわけである。
 ただ、具体的な減量案が示されないうちに省庁再編案を先に示すのは、手順がおかしいのではないか、という問題は、理論的に言えば、確かに存在するのであるが、この点については、私自身は、次のように考え、また、これまで、様々な機会にその旨の発言をして来ている。すなわち、省庁再編とはつまり家の改築である、と見ることができるのであって、どのような改築をしたらよいかを考える際に、理論的に言えば、まず身の回りの要らないものを捨てて、本当に必要な家財だけを残した上で、その家財を収納するに必要な容積の家を建てる、というのが、本来の筋であるかも知れないが、ただ、長年持ち続けてきた家財というものは、なかなか捨てられないのが実態であって、そうであるとすれば、まず、一定の容量を持った家を先に建てて、そこに持ち込めるのはこれだけだ、という外枠をはめることによって、現実に家財の整理も進むのだ、という考え方をすることも、充分出来るのではないか、ということである。実際、こうした見地から、最終報告は、大括り案のみならず、新たな省庁に置かれる局や課などの数・定員の在り方等についても、例えば、各省の局数は原則として10以下に抑える等、具体的な数字を以て提言を行っているのである。
 さて、それはともかく、マスコミ等の外部からのみならず、行政改革会議の中 においてすらも、大括りによる弊害が最も懸念されたのは、従来の建設省及び運 輸省所管の公共事業を抱え込むことになる、国土交通省であった。従来の建設省 と運輸省が単に合体しただけでは、全公共事業予算の7割をこの新省が持つこと になり、巨大な利権官庁が生まれるのではないか、という懸念は、現在でも、各 方面から出されているところである。しかしこの点については、行政改革会議の 最終報告もまた中央省庁等改革基本法案も、国の行政の減量の必要ということに つき、充分に意を払っているところであって、例えば基本法案では、「国土交通 省の編成方針」の中で、特に「所管行政の全般にわたり、地方分権推進委員会の 勧告を着実に実施すると共に、更に地方公共団体への権限の移譲、国の関与の縮 減等を積極的に進めるほか、徹底した規制緩和、民間の能力の活用等を図ること」 という条項をおいている(22条五号)。そして、現在、地方分権推進委員会で は、これを受けて、国土交通省所管の直轄公共事業の地方への委譲の在り方について、真剣な検討が始まっているところである。

 2.企画・立案機能と実施機能の分離

 このような、ある一定の分野の事務を全体として民間や地方公共団体等に移譲すること(例えば、道路の建設なら、整備計画から始まって、実際の建築工事に到るまで ……私はこれを「水平的減量」と呼んでいる)と並び、ある分野の事務を、その事務について、どのような内容の作業が行われるか、という観点から分けて、その一部を民間または地方に移譲する、という減量の方法(私のいう「垂直的減量」である)もあり得る。これが、行政改革会議の最終報告で、「企画立案機能と実施機能の分離」といわれているものである。その基本的考え方はつまり、例えば公共施設(道路)の建設・整備について、どのような道路網をどのような交通計画に基づいて建設・整備するか、という企画・立案については、国(霞ヶ関省庁)が行うが、それを現実に実施するについては、例えば、地方公共団体が、地方公共団体の事務としてこれを行う、といったことである。いうまでもなく、地方公共団体が建設・整備を実施するとして、更に、その内容を部分的に民間に移譲ないし委託することも、充分あり得ることである。この考え方は、このように企画・立案事務と実施事務とを組織的に分離して行わせることにより、一方では、企画立案に際し、実施をめぐる地域の複雑な利害関係(例えば一種の既得権化した既成事実)に絡め取られて、純粋に国家公共のためを考えた、柔軟かつ時の要請に適った企画立案が出来なくなる(そこに、いわゆる利権問題もまた生じる)、ということを防ぐと共に、実施側から見れば、地域の事情に通じない霞ヶ関が、実施をめぐる様々の問題に口を挟んで、合理的な作業が妨げられる、ということの無いようにする、というものである。
 そして、行政改革会議の最終報告もまた中央省庁等改革基本法も、国の行政全般について、霞ヶ関の中央省庁の任務は、基本的に、こういった意味での企画立案作業に限定されるのだ、という考え方に立ち、このようにして、大括りされた中央省庁の巨大利権官庁化が起こらないように、と考えているのである。
 ただその場合、「企画立案」と「実施」とを、どのようにして具体的に区別す るか、という問題は、なお残されている。例えば道路などの公共施設の建設につ いて、その具体的な箇所付け作業(つまり、具体的にどこに建設するかの決定)は、果たして、「企画立案」なのであろうか、「実施」なのであろうか? これは、理論的には、どちらに解する可能性もあるように思われるのであって、「実施」とは、現実の建築工事のみだ、という考え方も、今後、恐らく霞ヶ関の方から、主張される可能性があるのではないか、と思われる。しかし、行政改革会議の最終報告が考えている、「企画立案機能と実施機能の分離」ということのコンテクストからするならば、「実施機能」というのは、単に現実の「トンカチ」作業に止まるものはないのであって、こういった決定事務もそこには含まれることになるものと、私は考えている。
 因みに、これは地方分権と直接の関係を持つ事柄ではないが、企画立案機能と実施機能の組織的分離という基本的な考え方は、国の直轄事業として残されたものについても採られているのであって、例えば、基本法の45条では、「地方支分部局の整理及び合理化」の一環として、「地方支分部局が関与する許可、認可、補助金等の交付の決定その他の処分に係る手続について、できる限り、当該処分に係る府省の長の権限を当該地方支分部局の長に委任し、これらの手続が当該支分部局において完結するようにすること」と定めている(同六項)。と同時に、特に「公共事業の見直し」との関係で、「次に掲げるところにより、地方支分部局にその管轄区域内において実施される公共事業に関する国の事務を主体的かつ一体的に処理させること」とし(46条三項)、「イ 事業の決定及び執行に関する府省の長の権限について、明確な法令の規定により、できる限り地方支分部局の長に委任すること」「ロ 府省の長は、イに規定する権限の委任を受けた地方支分部局の長がその判断で事業の決定及び執行を行うことができるよう、各地方支分部局ごとに所用の予算額を一括して配分すること」と定めて(同項)、地方支分部局の、本省からの束縛を大幅に緩和することを意図している。

四 地方分権の受け皿としての地方の在り方
 さて、このように、従来国が行ってきた事務を今後大幅に担当することを期待されている地方公共団体については、当然のことながら、その受け皿としての資格・能力が問われることになる。このことに関連して、今日様々に取り沙汰されているのが、いうまでもなく、一つには、地方公共団体の合併問題であり、また今一つには、地方公共団体の自前の財政力の強化の問題であるが、本日は、この問題に立ち入ることはせず、むしろ、全ての制度改革の前提となる、いくつかの基本的な問題に触れておくに止めたい。

 1.「全国的に統一されていることが望ましい基本ルール」「真に全国的規模・視点で行われることが必要な施策・事業」とは何か?

 行政改革会議の最終報告は、中央省庁再編の前提としての国と地方の役割分担の在り方につき、「国と地方の役割分担の観点から、地方分権を推進し、国の事務・事業は、国家の存立に直接関わる事務、全国的に統一されていることが望ましい基本ルールの制定、真に全国的規模・視点で行われることが必要な施策・事業に純化すべきであり、地域行政は、基本的に地方公共団体の手に委ねられるべきである。」と述べている。実は、ここで述べられた役割分担の基本原則自体は、既に、平成7年制定の地方分権推進法がその4条で明言しているところでもあり、今日何人もこれを否定することは出来ないものである。それにも関わらず、国と地方との間で激しい綱引きが起こるのは、結局のところ、このルールで言っている「全国的に統一されていることが望ましい基本ルール」とは具体的に何か、また「真に全国的規模・視点で行われることが必要な施策・事業」とは一体何か、ということにつき、国と地方で、理解に違いがあるからに他ならない。こういった違いは、地方分権推進委員会のこれまでの作業に際しても、現にしばしば見られたところである。
 例えば、この点について、「ナショナルミニマムの保障は、国の責任であって、地方に委ねることは出来ない」と言われることがしばしばある。その前提となっているのは、「全ての国民には、一定限度において、必ず与えられなければならないサーヴィスがある」という考え方と、「地方に任せておいたのでは、そのサーヴィスが確実に行われないおそれがある」という懸念とである。この考え方は、一般論としてみる限りは、それなりに説得力を持った議論なのであるが、しかし、それが具体的にどのような形で適用されるか、ということについては、十分慎重に検討する必要があるし、また、地方の側でも、頑張って反論しなければならないところなのであろうと思われる。
 第一に、まず、「ナショナルミニマム」とは一体何か、という問題がある。一 口で言うならば、ナショナルミニマムとは、いわば、どのような状況下にあろう とも、全ての国民に、同じように与えられなければならないサーヴィスのことで ある、ということができようが、しかし、この「全ての国民に同じように与えら れなければならないサーヴィス」が、具体的に何であるかについては、それほど 明確な理論的基準があるわけではない。例えば、当然のことながら、道路・公園 などのような公共施設の中には、都市においては不可欠であっても、田園では本 来不要であるようなものもある。また、便利ではあるが自然の豊かさに欠ける都市生活と、都市的意味での便利さには欠けるが自然の豊かさに溢れた田園生活とで、どちらを真に豊かな生活と考えるかは、考え方の問題であり、少なくとも、国家が一義的に決めるべき問題ではない。すなわちこういった判断は、本来、当該地域住民の、自主的かつ真剣な選択によって決めるべき問題なのである。そして、更にいうならば、この点についての選択は、その自主的選択の結果が、選択の内容としては必ずしも不合理であるとは言えないが経済的におよそ採算のとれないものであり、それ故に国に何らかの援助を要請する必要があるものであるような場合には、その選択につき、自らもまた応分のコストを引き受けるだけの覚悟を以て行われるのでなければならない。こういった費用負担の方式のあり方をも含め、問題にどう対処するかということは、本来、その地域の人々が、自己責任を自覚した自主的な選択によって決めるべきことであって、少なくとも国が一律に決めるべきことではないし、また、国に常に同一の責任を負わせるべきことでもない。
 第二に、「ナショナルミニマムの保障は、国の責任」ということが言われるとき、その背後にあるのは、地方に任せたのではそれが出来ない、という、地方に対する能力不信であることを否定することは出来ない。そしてその場合、そこでいう「能力」が、単に、行政的・財政的能力のことであるならば、そういった能力の欠如は、しばしばいわれている市町村合併、或いは財源の地方への移譲、といった、制度的な改革によって、対処することも可能であろう。しかし、より致命的であるのは、国側のこういった不信は、より深く、地方の住民の、政治的資質そのものについての不信に根付いている、ということなのである。例えば、霞ヶ関の役人達と懇談をする際、しばしば聞かれるのは、「地方の行政そのものは、かなり信頼に値するものとなってきているけれど、地方議会の実態を見ると、とても、多くを任せることは出来ない」ということである。実は、こういった、地方議会ないし地方の住民の政治的資質に対する不信は、もともと地方自治を広範に保障している筈の地方自治法においてすらも顔を出しているのであって、それを象徴しているのが、次の例である。

 2.住民の政治的資質の問題について

 ご承知のように、地方自治法では、住民の直接請求制度として、条例の制定改廃請求権、首長のリコール等々の制度を設けているが、例えば、条例の制定改廃請求権については、特に「地方税の賦課徴収並びに分担金、使用量及び手数料の徴収に関するもの」が、明文の規定でもって、その対象から除かれている(法74条1項)。これは、こういったものをも対象に含めると、住民の負担が減るような提案、例えば、地方税条例の廃止の提案などに対しては、付和雷同的な賛成が集まり易く、請求が濫発されるからである、といわれている。ところで、いうまでもなく、地方税というのは、地方公共団体の運営、そして、地方自治を実行して行くための、不可欠の自主財源なのであるから、それを適正に負担するのは、住民の不可欠の政治責任であって、それをただ、自分の負担が減るからということで、付和雷同的に廃止を求めるというのでは、地方自治を担って行く住民としての自己責任と自覚に全く欠けると評価されても仕方がないところであるといわなければならない。しかし、ここでの問題は、何よりも、地方自治法が、こういったことを防ぐのを、地方公共団体の自主的な努力に委ねようとするのでなく、国が法律で規制しなければ実現不可能と考えている、ということなのである。
 更にまた、議会の解散請求、長等の解職請求(リコール)については、一度こ れが成功すると、その日から一年間は、再度の請求は出来ないことと法定されて いる(法79条、他)。これも、このような制限を定めておかないと、直接請求 制度が、徒に政争の具として使われて、濫発されるからだ、といわれている。直 接請求制度というのは、いわゆる住民自治を実現するための、基本的な制度であ るにも拘わらず、このような制限を法律によって課しておかないと、住民がこれ を馬鹿なことに濫用し、制度の趣旨が活かされなくなる、というのは、いうまで もなく、地方住民の政治的資質に対する不信感の表現以外の何ものでもない。
 問題は、地方自治法自体が既に示しているこのような不信感に対し、各地方公 共団体そして地方住民が、果たしてまたどの程度、胸を張って反論できるか、で ある。もとより、現在でも既に、多くの地方公共団体については、そういった懸 念はもはや無用のものである、と言えることを信じたいが、しかし、巷間伝えら れるところを見ても、全国3000の市町村の全てが、そのような段階に達して いると言えるかについては、なお、確信を持つことが出来ない。恐らくは、全国 の市町村が、説得性を以て、これらの法律条項の廃止を求めることができるよう になった時点においてこそ、行政改革会議の最終報告が述べている、「自律的な 個人を基礎としつつ、より自由かつ公正な社会」が形成され得ることになるのであろうと考える。

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