道州制とナショナル・ミニマム

藤 田 宙 靖            

(平成14年6月11日)       
(民主党地方分権WG勉強会における講演)



はじめに


 今回のご依頼は、今後の地方分権のあり方、とりわけ道州制の下での、国と道州の間での事務配分のあり方につき、なかんずくナショナル・ミニマムの確保という見地を中心として、考え方を述べよ、というご趣旨と理解している。こういった問題については、行政学、政治学、経済学、財政学等、さまざまの立場からの意見がありうるはずであるが、私の専門分野は法律学であるので、問題を、もっぱら法律家の眼に立って考えてみることとする。

 ところで、法律学の議論というのは、採るべき政策としてこれが唯一の選択肢である、というようなことにはならず、おおむね、許される選択の外枠を理論的に探る、という結果になることが多い。本日の話も、そういう性格のものとならざるを得ないのであって、「とるべき道はこれだ!」といった話にはならないことをお断りしておきたい。そこを判断するのは、政治家の皆さんの役割である。


一 地方自治制度における道州制の位置付け


○ 問題を考える出発点として、まず、「道州」は日本国憲法(92条以下)のいう「地方公共団体」か、ということを検討しておく必要がある。なぜならば、これまでのわが国の地方分権の推進は、憲法の定める地方自治を現実化する、という大前提の下に行われてきたからであり、且つ又、憲法が地方自治の担い手として明示している受け皿は、もっぱら「地方公共団体」であるからである。

* この問題に関しては、何よりも、特別地方公共団体の一種である特別区が憲法でいう「地方公共団体」であることを否定した最高裁判決(最判昭和38年3月27日刑集17巻2号121頁)が参照されなければならない。すなわち同判決は、次のように述べている。

 「(憲法93条2項にいう地方公共団体たるためには)単に法律で地方公共団体として取扱われているということだけでは足らず、事実上住民が経済的文化的に密接な共同生活を営み、共同体意識を持っているという社会的基盤が存在し、沿革的に見ても、また現実の行政の上においても、相当程度の自主立法権、自主行政権、自主財政権等地方自治の基本的権能を付与された地域団体であることを必要とするものというべきである。」

* この基準を当てはめると、「道州」は、これを仮に地方公共団体と呼ぶとしても、普通地方公共団体(憲法のいう「地方公共団体」)ではなく、特別地方公共団体の一種に過ぎないということにもなりそうである。仮にそうであるとすると、一方では、その自治のあり方に対し、必ずしも普通地方公共団体と同レヴェルでの憲法上の保障を受けない反面、他方では、その行いうる事務の内容について、「地方公共団体」であるが故の制約も、都道府県や市町村の場合と同じようには受けない、ということになる。

○ このことを、より詳細に検討するために、次に、現在行われつつある地方分権推進の文脈において、「地方公共団体」の役割はどのように考えられているか、について確認してみる。

* まず、地方分権推進法は、「地方分権の推進は、国においては、国際社会における国家としての存立にかかわる事務、全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務又は全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施その他の国が本来果たすべき役割を重点的に担い、地方公共団体においては住民に身近な行政は住民に身近な地方公共団体において処理するとの観点から地域における行政の自主的かつ総合的な実施の役割を広く担うべきことを旨として、行われるものとする。」と定めている(地方分権推進法4条)。同様の規定は、これを受け継いだ現行地方自治法1条の二第2項にも存在する。

* また、地方自治法2条2項は、「普通地方公共団体は、地域における事務及びその他の事務で法律又はこれに基づく政令により処理することとされるものを処理する。」と定めている。

* ここで言っている「住民に身近な行政」或いは「地域における事務」の観念は、はたしてまたどこまで、「道州」になじむであろうか?

○ こういった問題の所在からすれば、「国」と「道州」の間の事務配分の問題は、おそらく、先にも触れたように、これまでの地方分権推進政策と同じ次元では議論し切れないものを持つことになるのではないかと思われる。


二 「ナショナル・ミニマム」とは何か?


○ 私自身、実はこの「ナショナル・ミニマム」という概念については、よくわからないのであるが、ここでは一応この概念を「日本国民である以上、全ての者が同等に国家から享受することができるのでなければならないサーヴィス」として理解するところから、話を始めることとしたい。

* このようなものとして理解した場合、そもそも近代国家というものが成立した際の目的である「国民の生命・身体・財産の安全の確保」ということを別にすれば、このようなサーヴィスの内容は、時代によりまた社会的・経済的状況により、さまざまに変わりうるのであって、常に同じであるというわけではない。たとえば、発展途上段階にある国家と、すでに成熟段階にある国家とで、直接国家がなさなければならないことが同じであるはずはない。この意味において、「国がなすべきことはナショナル・ミニマムの確保」という基準は、それだけでは事務配分の基準として有用ではなく、何が、現時点(あるいは近い将来)における「ナショナル・ミニマム」であるかについての議論が、前提として必要になる。

○ そしてその際、この議論については、次の点についての理解が前提として必要であると思われる。

* まず第一に、ここでいう「国家」とは「国」に限られるわけではないのであって、憲法でいう統治団体としての「地方公共団体」もまた、この「国家」の組織の一部を成すものであることを明確にしておかなければならない。この「国家」と「国」との違いについては、しばしば意識されないことがあり、そのことが、今回の地方分権推進の過程で障害要因となった面がある。

 例えば、従前国の機関委任事務であった都道府県収用委員会の土地収用事務を、都道府県の事務とすることについて、建設省が当初行った反論は、理論的にそもそも、近代国家において、収用権は国以外の者に帰属するはずは無い、ということであった。同様の議論は、もろもろの資格付与の事務等についても各省からなされたところであったが、いうまでもなく、理論的に収用権が帰属するのは、「国家」ではあっても「国」に限られるわけではない(このことは、わが国の場合にも、警察権については早くから都道府県の事務とされてきたことを考えれば、自明の事柄である)。

* また、わが国現行法上、「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業であって、国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもの」が存在することが確認されている(独立行政法人通則法2条参照)ことにも、眼を向けておく必要があろう。言い換えるならばつまり、「国民生活及び社会経済の安定等の公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務及び事業」であるからといって、当然に「国が自ら主体となって直接に実施する必要のある事務・事業」であるわけではない。


三 採用されるべき具体的基準についての考え方


○ 以上述べたことを踏まえた上で、「国」が行うべきことは何かについて、いま少し具体的に考えてみることとするが、その際検討の手順としては、現下の地方分権推進の基礎となっている、先にも見た地方分権推進法4条を手掛かりとして考察を始めるのが適当であろうと思われる。

* まず、そこにいう「国際社会における国家としての存立にかかわる事務」が国の事務であるのは自明の事柄である。ただ問題は、その一部を地方公共団体に委任することができないかどうか(例えばいわゆる「自治体外交」の問題)であって、とりわけ「道州」の場合、その事務には、上記のように、「住民に身近な行政」「地域の事務」とはやや異なる要素が含まれるとするならば、この辺は、正面から検討する余地があることとなろう。

* 「全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則」の設定も当然国の行うべき事務である。ただいうまでもないことながら、これが妥当するのは、「準則」の設定(企画立案)に止まり、その適用(実施)にまでは、当然には及ばない。

* 「全国的な規模で若しくは全国的な視点に立って行わなければならない施策及び事業の実施」。これは、「準則の設定」とは違い「実施」活動についての話であって、こういった「全国的な」施策ないし事業の実施が国の事務であることについては、一件当然のようであるが、なお、例えば以下のような論点が残る。

1.「全国的な視点」とは厳密にはどういうことを意味するか?「全国的」な意味をもつが同時に「地域的」な意味を持つ事務というものは存在し得ないか? 比喩的に言うならば、例えば、指先の怪我は、身体の一部としての手の問題であると同時に身体全体の問題でもある。

2.「全国的な規模」又は「全国的な視点」は、果たしてまたどこまで、「企画立案」のレヴェルを越えて「実施」まで行わなければ達成されないか? 例えば地方分権推進委員会における「自治事務」と「法定受託事務」との振り分け作業において、当初は、事務の水平的な区分を行う方針に立っていたのが、後に、垂直的な振り分けを行うこととなった、という経緯があるが、国と地方公共団体との事務の振り分けについても、同様の問題はあるはずである。例えば、年金事業は、その性質上全国的規模での実施が必要となろうが(規模の経済)、生活保護についても当然にそうか?

* 「その他の国が本来果たすべき役割」は、それ自体としては内容的に無意味な表現であるが、上記の「全国的な視点」について述べた点が問題となる。上記の比喩を再度用いるならば、「身体全体の問題」として捉えるのは「手の問題」として捉えたのでは充分な治癒が不可能となる場合に限る、という原則(すなわちいわゆる「副次性の原則」)の確立が必要となろう。

* この場合、「手の問題」として処理することも可能ではあるが、「身体全体の問題」として捉えた方が、より効率的な治癒が可能となる、という場合をどう考えるか(例えば、都道府県の現状を前提としての「三桁国道」の地方移管の是非の問題はこのレヴェルの問題であるように思われる)? 現行の都道府県制の場合と異なり、道州制の下ではこういった問題は無くなるものと考えてよいか?


fujita@law.tohoku.ac.jp
ホームページへ