現下の地方分権推進論議について

(平成8年11月27日 東北地方建設局地域づくり懇談会における講演)

藤 田 宙 靖


 

一 始めに  この懇談会で何か話をして欲しいというご依頼があったのは、夏休み前であったが、本年4月始めに、地方分権推進委員会から依頼があって、その作業を、参与という資格でお手伝いしているところであったので、あるいは、同委員会での経験などを踏まえて、現下の地方分権推進論議について、私なりの感想を述べさせて頂くというのではどうか、ということを申したところ、それでよろしいということになった。ところで、同委員会では、現下の作業である機関委任事務の廃止とその後始末の問題につき、12月に答申を出すスケジュールとなっており、そういったことをも睨みながらお話をするとすれば、ほぼこの時期にならざるを得ないのではないか、ということで、本日の日程が決まったわけである。
 ただ、本日このようなお話をすることについては、お断りをしておかなければならないことがいくつかある。何よりもまず、本日お話しするのは、専ら私個人の考え方であって、同委員会自体が決定した内容ではない、ということである。それは第一に、同委員会の答申内容は、ほぼ固まってきたとはいうものの、まだ最終決定がなされたわけではないこと、従って、仮に私の考え方と同委員会の結論とが全く同一のものであったとしても、本日の段階では、これを同委員会の結論として申し述べることはできない、という状況にあることによる。また、第二に、同委員会での私の立場は、「参与」ということであって、これは、同委員会委員の方々が作業を進めるに当たって、様々の行政法上の問題に突き当たったとき、行政法の専門家として、参考意見を述べる、という責務を負うものである。従って、私が会議で主張したことがそのまま同委員会の意見となる、というものではないし、また、逆に、同委員会が決定したことに、私が、直接の責任を負うものでもない。第三に、現実問題として、同委員会での作業日程は、当初聞いたところを遥かに越えて、すさまじいものであり、東京在住でない私にとっては、とうていその全てに参加することはできず、ごく限られた貢献しかできなかった、という事情もある。いずれにせよ、こういったことから、本日の話は、同委員会の作業を素材とするものではあり、また、同委員会の考え方については、もとより私自身、基本的な方向において賛同するものではあるにしても、ここで話すことと委員会の結論とは、とりあえず同一のものではないことを、再度お断りしておきたい。

二 「機関委任事務」の廃止、ということについて

 地方分権推進委員会は、本年3月末に出した中間報告で、いわゆる「機関委任事務」の全廃という方針を打ち出し、この一年間は、主として、その実行のための具体策の検討を行ってきた。私が参与として議論に参加したのも、専らこの問題を巡ってのことである。この12月に行われる答申では、その成果が示されることになっている。そこで、ここでもまず、「機関委任事務の廃止」とは、一体どういう意味を持つ事柄であるのか、ということの確認から、始めることとしたい。
 その際、この問題は、その法制度上の意味と、行政運営上の意味、つまり、言い換えれば、法的な意味と実際的な意味との二面から考えることができるものと思われる。

1。法制度上の意味

 周知のように、現在の日本国憲法は、その第八章で、地方自治の保障を行っており、これが、明治憲法と異なるその一つの大きな特徴とされていることは、いうまでもないところである。そして、このことをより具体化するために、地方自治法という法律が定められているわけであるが、こういった法規定の下、国と地方公共団体との関係が基本的にどのように考えられているか、というと、次の通りである。
 まず第一に、地方公共団体は、法的にいって、国の下部組織であるのではなく、独立の法人格を持ち、固有の資格と権限によって行政を行う、一個の「行政主体」である、ということである。つまり、地方公共団体は、その権限を国から与えられることによって初めて持つことになるのではなく、一般的抽象的にいえば、憲法によって既にそういった権能を与えられている。ただ、具体的に、どういった領域にどういった地方公共団体を置くかということは、憲法自体が定めていることではないから、国の法律によって定められなければならないが、そうやって置かれた地方公共団体が、独立の行政主体として活動する権能を持つということは、法律で自由に左右することができる事柄ではなく、憲法上既に定まっていることなのだ、というわけである。
 第二に、そうすると、国と地方公共団体は、いわば上下の関係ではなく、それぞれ別個の資格で、我が国の行政を分担することになるわけであるが、その分担の仕方は、基本的に、どのようなことになるか、である。この点について、憲法では、せいぜい「地方自治の本旨」ということを言っているに過ぎないが、これを受けた地方自治法では、その二条で、地方公共団体が行うべき事務内容を、極めて広いものとして定め、しかも、市町村が、「基礎的な地方公共団体」として、一般的にこういった事務を行うものとしている。詳細はここでは省略するが、要するに、現行の憲法・地方自治法で定めている国と地方公共団体との事務の分担のあり方は、基本的に、行政活動については、市町村がまず中心となって行い、広域にわたる等の理由でその手が及ばないところを都道府県がカバーし、更に、地方公共団体ではどうしても手に余る全国的な事務のみを、国が行う、という構造になっているものということができる。
 ところが、こういった見地から見るとき、機関委任事務という制度には、次のような問題がある。まず何よりも、それは、本来全くその組織を異にする地方公共団体の長等に対して、国の機関(大臣)が指揮命令を行って事務をやらせる、というのであるから、いわば他人の家の使用人に命じて自分の家の仕事をやらせるようなものであり、本来それは筋違いではないか、ということになる。そして、このような筋違いを広く認めているのは、結局、地方公共団体を国の下部組織と考える、明治憲法時代の意識が残っているからなのではないか、ということにもなるわけである。それからまた、こういったように他人の家の使用人を使わざるを得ない、というのは、それがそもそも自分の家の仕事ではなくて、他人の家の仕事であるべき筈のものに口を出しているからなのではないか、ということにもなるであろう。機関委任事務の廃止、ということは、法的に見れば、こういった不自然な状態を解消し、憲法・地方自治法がもともと想定していたシステムを、もう一度実現し直そう、という意味を持つものであるのである。

2。行政運営上の意味

 法的にみれば、もともと以上に見たような問題があるにも拘わらず、我が国において「機関委任事務」というシステムが維持されてきたについては、上に見たような、「地方公共団体は本来国の下部組織ではない」という理屈が、本当には理解されてこなかった、ということもさることながら、むしろ、行政運営の現実からして、このようなシステムによらざるを得ないのだ、という理由があったものと思われる。つまり、まず、地方公共団体、とりわけ市町村は、「基礎的な」行政主体である、といってみても、現実問題として、人的財政的に力が弱く、とても、広範にわたり必要とされる行政活動を担って行くことはできない、ということである。そしてとりわけ、今日住民の日常生活に深く関係する諸々の行政活動は、その影響が単に一地域内に限られるものではなく、必然的に広域的あるいは全国的な影響を持つことになるので、こういったことを各地方公共団体の自治に任せておくと、ナショナルミニマムの確保という見地からして、問題が生ずること、従って、こういったものについては、国が統一的な見地から行わざるを得ないこと、等が理由とされてきた。
 それならばしかし、これを実際上地方公共団体にやらせる(つまり、地方公共団体の人 手を使ってやらせる)のではなくて、国が自分で、自分のところの手を使ってやればよい ではないか、ということになりそうであるが、そこは、必ずしもまたそうは行かないので、国の人手にも限りがあるし、また、さしあたって地方住民の日常生活に密接な関係を持つ行政活動としての側面もある以上、地方公共団体の職員の手を借りて、これを行い、国としては、ポイント・ポイントで、これをチェックできるようなシステムが存在するのが、最も合理的だ、と考えられてきたわけである。
 機関委任事務制度を廃止する、ということは、何よりもまず、先に見たように、自分の家の仕事をやるのに他人の家の使用人を直接に使う、という非常識なことは止めよう、ということであるが、それは言い換えれば、自分の家のことをやるのならば本来自分の使用人を使うべきだし、また、他人の家の使用人を使わなければうまく行かないのだとすれば、それは結局、その仕事が本来他人の家の仕事だったからではないのか、という考え方をすることである。そしてこのことは、使用人が同じことをやるにしても、他人の家の仕事としてやるのではなく、まさに自分の家の仕事として、自分の判断と責任においてやる方が、ずっと効率も良く、良い仕事ができるのではないか、という考え方に基づいている。
 ここで私が思い出すのは、第二次大戦直後に行われた、いわゆる農地改革である。周知のように、あの改革は、不在地主から農地を取り上げて、小作人、つまり、現実に現地で農地を耕作している者に、その所有権を与える、という改革であった。そして、そのようなことが行われた理由は、抽象的に言えば「農地制度の民主化」、ということであるが、その背景にはまさに、現実に耕作をしている者が農地の所有権をも持った方が、より農業生産の向上をもたらし、国家的利益ともなるのだ、という考え方があったことは、ご承知の通りである。機関委任事務制度の廃止ということは、抽象的に言えば「地方自治の充実」であるが、その背景には、現実に地方公共団体が行っている事務は、地方公共団体自らの事務としてこれをやらせた方が、事務の効率も上がり、住民の福祉に寄与する、という考え方がある点で、私はこれは、いわば、平成における一種の「農地改革」である、という風に捉えている。

3。改革への抵抗とその検討

 さて、地方分権推進委員会の作業過程においては、各省庁等からのヒアリングもずいぶん行われたが、その過程では、当然のことながら、上に見たような考え方に立つ機関委任事務の廃止、ということに対して、反論ないし多くの抵抗があった。そういった反論の中で、各省庁に共通するもののいくつかを選んで、以下に私なりの論評を加えてみることとしたい。繰り返しお断りしておくが、以下は、全く私個人の考え方であって、必ずしも委員会全体としての考え方であるわけではない。

 1)「国民に特権や法人格を与えるのは国のみに許された権能であって、他の者(従って地方公共団体もまた)がこれを行うことは、そもそもできない」という議論について

 これは、例えば、土地収用の事務を自治事務化しようという案、また、各種法人の設立認可事務を自治事務化しようとする案に対して、関係各省からなされた反論であり、霞ヶ関では、これまで、広く浸透してきた考え方のようである。しかし、私の見るところでは、この考え方は、「国」と「国家」とを混同するという、決定的な誤りを犯している。
 例えば、土地収用事務の自治事務化について、建設省が述べるところによれば、土地収用における事業認定というのは、公用収用特権という、本来国にしかない特権を、起業者に与える行為なのであって、このようなことは、国以外の者にはできないから、地方公共団体が自治事務としてこれを行うことはできない、というのである。確かに、他人の土地を強制的に取り上げるというような公権力の行使を行う権能は、近代国家においては、国家にしか認められず、それ以外の者、例えば、宗教団体や大企業、果ては暴力団のような、いわゆる「実力者」であっても、このようなことは許されないのは、いうまでもないことである。しかし、その場合の「国家」というのは、決して、地方分権が問題になる場合の「国」とは同一物であるのではない。こういう意味での「国家権力」は、本日冒頭に見たような、憲法による地方自治の保障の下では、憲法及び法律の定めるところにより、「国」と「地方公共団体」との間に配分されて行われるのであって、地方分権のあり方について議論するということは、専ら、こういった配分を定める法律の内容のあり方について議論することなのである。言い換えれば、「国」と「地方公共団体」は、いずれも「国家」の構成部分に過ぎないのであって、そのいずれかのみが「国家」を成すわけではない。「国」イコール「国家」とする、先のような考え方は、現行憲法の下、地方公共団体はもはや、国の一下部組織に過ぎない存在ではなく、憲法によって公権力行使の権限をも認められた、独立の行政主体(統治団体)となった、ということについての十分な理解を欠くものであるといわなければならない。更に言葉を換えていうならば、上記の意味での「国家」とは、憲法それ自体なのであって、「国」もまた、「地方公共団体」と同様この憲法の下に立つ、一行政主体であるにすぎないのである。

 2)「全国的(あるいは広域的)に影響を持つ事務」あるいは、「国民のナショナルミニマムを保障する事務」については、「その統一的な処理をするために、これを国の事務とすることが不可欠である」、という議論について

 この議論は、殆ど全ての省庁が、判でついたように述べ立てた主張であった。そしてそのことは、この主張には、それなりの説得性がある、ということをも意味しているといって良いであろう。しかし、私は、こういった主張の当否を考えるためには、次のような問題について改めて検討する必要があるものと考える。すなわち、
 まず第一には、問題とされている事務について、本当に、「統一的な処理」なるものが必要なのかどうか、という問題、
第二には、仮に必要であるとして、それを地方公共団体に委ねたのでは、本当に統一的な処理は不可能であるのか、という問題、
である。
 この第一については、私は、このように考える。この「統一的処理」の必要なるものは、各省庁が、てんでに自ら所管する事務について述べ立てているのであるが、問題は、それぞれの事務が全て全国統一的に処理されなければならないかどうか、ということである。
 ここで私が思い出すのは、小中学校の頃に出された、夏休みの宿題である。当時、国語、数学、社会、理科から、果ては、図画工作・習字・家庭科・保健体育に至るまで、(生徒の目から見るならば)まさに山のような量の宿題が出されたものであるが、今になってみるならば、夏休みに全教科であのようにたくさんの宿題を課することが、本当に合理的であったのかどうか、相当に疑問が感じられるところである。当時の先生方の考え方は、まさに自分が責任を負う教科について、長期にわたる夏休みの間、これだけのことは最低やってもらうのでなければ、生徒の教育に責任を持てない、ということであったであろう。しかし、生徒の間には個人差があり、それぞれに自己にとって大事と思うこと思わないことがあるのであるから、仮に宿題を出すにしても、夏休みの間に何をやるか、ということは、自分で選択して決め、ある者は全てを平均的にやるけれども、ある者は何か一つを重点的に掘り下げてやる、といったようなことがあっても良かったのではなかろうか。画一的な教育よりも、個性に応じた教育の方が、創造的人間を育てるのには重要であって、我が国の従来の学校教育には、その点での問題がある、ということは、漸くこの頃では、一般的に認められるようになってきたところである。地方公共団体が行う行政活動についても、こういった意味での凸凹を認めることは、必要ではないのか。つまり、国の縦割り行政による縦割りの統一的処理を強制することは、こういった余地を否定することになりはしないか、という問題がある、と思われるのである。
 次に、上の第二の問題についてであるが、仮に、基本的には以上見てきたようなことが言えるとしても、しかし必要最小限度の統一性(いわゆるナショナルミニマム)の確保と いうことは、どうしても欠かすことができない(例えば、教育の個別化・個性化を基本的には認めるとしても、最低限度、読み・書き・そろばんについての、画一的な義務教育を行うことは必要である)という考え方は、あり得ないではない。自治事務とすることによって、果たしてこれを達成することができるか、は、確かに問題とならないではないと思われる。しかし、この点については、まず、到達すべき基準を国が法令の形で定めることは、現行憲法の下でも許されることであるし、また、その実行についても、地方公共団体相互間での自主的協力方式によってこれを行うことは、理論的には、不可能なことではないのである。すなわち、現在の機関委任事務制度を廃止し、その多くを地方公共団体の自治事務としたならば、ナショナルミニマムの達成が不可能となる、ということは、少なく とも、理論必然的にに導かれる帰結である、というわけではない。

 3)「今日、機関委任事務というのは、国と地方公共団体との間の緊密な協力によって行われているのであって、これを国対地方公共団対の対立関係ないし指揮命令関係として捉えるのは現実に即さず、従ってまた、それを、本来国の事務たるべきか地方公共団体の自治事務たるべきか、という見地から分類し直すのは、こういった協力関係を破壊することとなり、適当ではない」という主張について。

 この主張も、いくつかの省庁、とりわけ建設省からは強くなされたところであった。そして私もまた、今日の多くの行政活動が、本来国の事務かそれとも地方公共団体の事務か、といった観点から分類するには適当でないような状況になっていることは、これを否定できないところであると思っている。つまり、かつて国の事務と地方公共団体の事務との振り分けがなされた観点は、「全国的な事務」かそれとも「地域的な事務」か、ということであったのであるが、今日交通・通信制度の発達等により、ある事務が純粋に全国的であるか地域的であるか、といったことは、殆ど言えなくなっており、いずれの事務も一面では全国的でありまた地域的である、といった事態になっている。そして、こういった状況が、また、機関委任事務というものの存在を広く許してきた一つの原因であることも、先に見た通りである。そこで私は、仮に国の事務と地方公共団体との事務とを分けるのであるとするならば、それは、今日、事務の内容ないし分野による区別ではなく、同一の分野において、国が果たすにふさわしい役割ないし機能・地方公共団体が果たすにふさわしい機能の違いによってこれを行うべきものなのではないか、と考えている。少なくとも、こういった見地からの再検討が、どうしても必要なのではないか、と思われる。
 こういった見地からする振り分けとは、例えば、全国的処理の必要な事務についての基準設定は国の事務であり、それを各地域において実施適用するのは地方公共団体の事務である、といった役割分担である。そして、この両機能の間にうまくバランスが取れるための、国・地方公共団体相互間の調整システムは、別に考えられても然るべきであろう。
 問題は、こういった整理それ自体が、現在機関委任事務としてうまく行っている両者の協力関係を壊すことになるのではないか、という指摘である。私はまず、この、現在、機関委任事務における国と地方公共団体の関係が、緊密な協力関係としてうまく行っている、という認識事態が、本当に正しいのかどうか、単に、国の省庁の側から見ればうまく行っている、いうことに過ぎないのではないか、という疑問を拭えないのであるが、それはさておき、我が国の行政が、多くの社会関係と同様、主としては、いわゆる「和」の原理に基づき、関係者間のソフトな協力関係によって運営されていること、そしてそのこと自体には、それなりに積極的に評価されるべき側面があるということは、これを否定できないものと思っている(私のいう、「紛争文化」に対する「紛争回避文化」のメリットである)。しかし、この「和」の原理ないし「紛争回避文化」は、いうまでもなく他面で、例えば弱者の不満を「和の達成」、「協力」の名の下に不合理に押さえ込む結果となる等、多くの問題をも含むものであることは、周知の事実である。そして、今日我が国で進められようとしているいわゆる「行政改革」なるものは、その一面で、明らかに、こういった、我が国社会に伝統的な「和」の原理によるマイナスの側面を、行政の組織と運営から追放しようということを狙っているのであって、これは、いわゆる地方分権の問題についても、同様である。従って、この問題の場面に、「和」ないし「協力」ということを、従来のままの形で持ち出したのでは、とうてい一般に認められるところとはならないのであって、「協力関係」をいうならば、より明確なそれぞれの「権限」と「責務」についての理論的な整理の上に、それを踏まえた形での協力関係のあり方を述べるものでなければならないのである。

三 地方分権推進委員会の方針

 さて、以上のような問題点を踏まえて、地方分権推進委員会では、どのような方針で物事を考えようとしているかを、簡単に紹介しておこう。ただ、この点については、冒頭にお断りしておいたように、未だ同委員会の最終答申は公表されていない段階なので、ここでは、これまで、こういった方針についての「叩き台」として、各省庁その他関係者に対し提示されたものを対象とするに止まる。

1。機関委任事務の廃止と、「自治事務」並びに「法定受託事務」への振り分け

 1)法定受託事務の観念

 機関委任事務制度を廃止すること自体は、既に中間報告で明らかにされていたところであるが、現在の段階では、こうして同制度を廃止した後、従前機関委任事務とされていたものの振り分けを行うに際しての受け皿として、同中間報告でも示唆されていた、「自治事務」と「法定受託事務」との区別を行っている。このうち「自治事務」の観念については特に説明を必要としないであろうが、「法定受託事務」については、取りあえず、「事務の性質上、その実施が国の義務に属し、国の行政機関が直接執行してもおかしくない事務であるが、国民の利便性又は事務処理の効率性の観点から、法律又はこれに基づく政令の規定により地方公共団体が受託して行うこととされるもの」と定義されている。その考え方は要するに、先に見たように、他人の家の使用人に直接命じて自分の家の仕事をやらせるというのは筋違いなので、どうしても自分の家の仕事を他人の使用人にやらせたいのならば、まず、その仕事が、他人の家自体に委託され、他人の家の仕事としてなされるようなシステムとしなさい、ということである。そして、委員会の考え方では、自分の仕事は自分のところでやるというのが原則であるから、こういった例は極めて限定的にのみ認められることとされているのである。

 2)振り分けに関しての若干の留意点

  ア。 振り分け案の前提

 委員会の案は、自治事務と法定受託義務の二つの受け皿を用意しているが、しかし、原則としては、従前機関委任事務とされていたものは「自治事務」の方に振り分けられる、というのがその骨子である。その場合、この考え方は、先にも見たように、国の事務か地方の事務かを考えるに際しては、行政活動をいわば縦割りに、ある分野を全体としてどちらに振り分けるか、という考え方をするのではなく、機能別に考えて行くべきである、という前提に立っている。すなわち、全国的に統一的処理をすべきものについても、国は一般的な基準を定めるに止め、その適用ないし実行は、地方公共団体の仕事とする、という考え方である。従って、ここで「自治事務」とされるものについても、国が法令によって一般的な基準を定めることは、当然にあり得るもの、という考え方が前提とされている。また逆に、先の「法定受託事務」の定義における事務の内容も、「その実施が国の義務に属し、国が直接執行してもおかしくないもの」という言葉で、専ら「実施」「執行」を本来誰がやるべきものか、という観点から説明されていることに注意する必要がある。

  イ。 「法定受託事務」のメルクマール

 上記の前提を徹底するならば、「事務の性質上、その実施が国の義務に属し、国が直接執行してもおかしくない」ものなどはない、ということにもなりそうである。実際、私などは、理論的にはそう言えようと考えている。しかし、委員会が立てた「法定受託事務」というカテゴリーは、まさにその例外を設けようというものであって、様々の考慮からして、基準の設定から実施にわたる活動を、一貫して、本来国が行うべきものとした方が合理的と考えられる場合もまたある、という考え方に立つものである。そういった考慮は、そこに掲げられている、アからキまでのメルクマールの中に、示されているのであるが、そこには様々のものがある。例えば、カのように、その事業自体が国の事業であるようなものについては、比較的容易にこういったことが言えそうであるが、しかし、例えば、ウ・エ・オのように、広域性とかナショナルミニマムとかを理由とするものは、ここに挙げられているもの以外の事務との厳密な理論的区別をするのは、なかなかに難しく、少なくとも、地方公共団体の自主的な協力システムが進展してくるならば、理論的には、何が何でも国がやらなければならない事務ではないことにもなってこよう。そういった意味で、今回提示されている「法定受託事務」並びにそのメルクマールは、必ずしも理論的な必然性に基づくものであるわけではなく、地方分権の全体構想の上では、経過措置的なものに過ぎない、ということを理解しておくことが必要であろう。

2。国の関与方式の整備と、関与に関する一般原則の明示

 これは、上に見たような見地から、国と地方公共団体の守備範囲を、明らかにした上で、しかしその相互間の調整システムの整備が必要である、ということから、検討されているものである。そこで前提とされているのは、行政主体としての国と地方公共団体の、基本的な対等性、ということ、並びに、先にも触れた、行政改革の基本理念、すなわち、行政の組織と運営における、透明化・責任の明確化・効率化等の実現、といったことである。時間の制約もあり、ここではその詳細に立ち入ることは避けるが、いずれにせよ、先にも触れたとおり、このようなシステムが国と地方公共団体を殊更に対抗関係に置くことになり、現在の心地よい協力関係を破壊することになる、といった理屈は、もはや通用する段階ではないことを、再度明らかにしておきたい。

四 終わりに ―― 地方分権推進問題の今後

 冒頭に述べたように、この一二月に出される予定の地方分権推進委員会の答申は、主として、従来機関委任事務とされてきたものの、自治事務と法的受託事務への具体的な振り分けと、それに伴う、国から地方公共団体に対する関与のあり方についての再整理、である。言葉を換えていえば、ここでは、それ以外の地方分権問題については、差し当たり、検討の対象とされてはいない。それ以外の問題とは、例えば、従来、機関委任事務ではなく、国が直接行ってきた事務、すなわち、いわゆる直轄事業につき、果たして今後、従来通り、国の直轄としておいて良いのか、地方におろす必要はないのか、おろすとすれば、何をどの範囲においておろすべきか、といったような問題、また、国の法令の規定によって、各種機関等の設置を義務付けること(いわゆる「必置規制」)、あるいは、地方公共団体のいわゆる自治事務ないし団体事務(固有事務、団体委任事務、行政事務)に対し国が補助金を通じて介入するシステムが、地方自治の抑制になっていはしないか、といった問題等である。こういった問題については、今回の答申以後、地方分権推進委員会においても、引き続き議論されることとなっている。
 こういった問題につき、将来の展望を行うことも興味深いことであるが、本日は、時間の制約もあり、現下の問題としての、機関委任じむ廃止の問題に、話題を絞らせていただいた。こういった機会を与えて頂いたことと共にご静聴を感謝したい。

fujita@law.tohoku.ac.jp
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