東北大学法科大学院メールマガジン
第9号 05/23/2006
◇オープンキャンパスのご案内
東北大学法科大学院では下記によりオープンキャンパスを実施いたします。
- 開催日時:
- 2006年7月2日(日)13:00-17:00(受付12:30)
- 会場:
- 東北大学片平キャンパス,法学研究科第1号棟(法科大学院棟)
- プログラム:
-
・法科大学院長挨拶
・入試,カリキュラム,新司法試験の概要説明
・模擬授業(既修者・未修者別に開催します)
・施設見学
・個別相談・懇談会(教員や在学生と懇談していただきます)
参加を希望される方は,
opencampus@law.tohoku.ac.jp 宛
てに,氏名・連絡先・所属・模擬講義のクラス希望(既修者クラス/未修者クラス)を明記の上,事前にご連絡いただけると幸いです。
ご連絡の際に,質問等あらかじめございましたら,お書き添えください。質問を提出していただいた場合には,できる限り資料等を用意したうえで,プログラム「個別相談・懇談会」でお答えすることができます。
事前の申込をなされていない方も,当日のご参加を心から歓迎いたします。
※オープンキャンパスに関しては,下記サイトもご覧下さい。
http://www.law.tohoku.ac.jp/lawschool/opencampus/
今回は,仙台高裁判事を含む35年の裁判実務を経て,現在,本学法科大学院で,実務民事法など民事法系科目と法曹倫理を担当している石井彦壽教授(Prof. ISHII Hikonaga)のエッセイをお送り致します。
「新任裁判官のための十戒」
東北大学法科大学院教授(実務家教員・元裁判官) 石 井 彦 寿
旧約聖書には、神からモーセに与えられた十戒が記載されていますが、アメリカには、ミネソタ地区連邦地方裁判所エドワード・J・デヴィッド首席裁判官が1978年に公表した「新任裁判官のための十戒」というのがありますので,これから法曹とりわけ裁判官を志す方にその内容をご紹介します。
新任裁判官十戒(Ten Commandments for the New Judge)抄(ミネソタ地区連邦地 方裁判所Chief Judge J.devitt)
一 親切であれ(Be Kind)
裁判官がただ一つだけ徳性を持ちうるものとすれば。それは親切で思いやりのある心でありたい。
二 忍耐強くあれ(Be Patient)
優しい、忍耐強い人は、怒りっぽい天才よりも遙かに良い裁判官になることができる。
三 威厳を備えよ(Be Dignified)
裁判宮は正義の観念の体現者である。
四 あまりに勿体ぶるな(Don't Take Yourself Too Seriously)
「そんなに裁判官臭くならないでよ。」といつも注意してくれる賢夫人に勝る予防方法はない。
五 怠惰な裁判官は劣った裁判官であると心得よ(Remenber That a Lazy Judge Is a Poor Judge)
六 判決が破棄されても落胆するな(Don't Be Dismayed When Reversed)
破棄は我々の激しさを抑制し、裁判官気質を育てる。
七 重要でない事件は一つとしてないと心得よ(Remenber There Are No Unimportant Cases)
正義を示すことに馴れてしまった裁判官は、ミサを行うことに馴れてしまった司祭のようなものだ。
八 長期の刑を科するな(Don't Impose Long Sentences)
正義の目的にもっとも叶うのは、投獄という事実であって、その長さではない。
(注:アメリカの刑事事件の量刑は日本と趣を異にすることに留意。)
九 常識を忘れるな(Don't Forget Your Common Sense)
十 神の導きを祈れ(Pray for Divine Guidance)
裁判官は、他の何者よりも神の助けを必要とする。
「親切であれ」、「忍耐強くあれ」とは、裁判、和解、調停のみならず、日常すべての場面で求められる心構えでしょう。裁判所全体としても、国民に利用しやすく、分かりやすい裁判所を目指しております。
「威厳を備えよ」とは、法廷における、品位と秩序を厳正に保つために必要なものと理解すべきものでしょう。日常においては、その人本来の人格から意識しなくても自然に滲み出てくる威厳であれば格別ですが、意識して、威厳を保とうとすると、次の「あまりに勿体ぶるな」ということになろうかと思われます。
「怠惰な裁判官は劣った裁判官であると心得よ」ということについては、横田正俊著「法の心」から、次の部分を引用しておきます。
「裁判官は、単なる法学者、法律技術者ではなく、ましてや法律的計算機ではない。その裁判は、具体的事件について責任を負う裁判官その人の人格と識見によって裏付けられた全人格的な法的裁断であらねばならない。この裁判官の資質は、その人の天性に基づくこともあるであろうが、豊かな人生経験と、厳しい修練によって育まれることが多いと思われる。その意味において、裁判官の仕事は、実に、その生涯をかけてのものというべきであろう。」
「判決が破棄されても落胆するな」とは、自分の判断が唯一絶対のものではないという謙虚さをもつこと、また、明らかな過誤があって破棄されたのであれば、その原因となった自分の弱点を素直に見つめ、それを正すことに吝かでないことを求める言葉であろうと思われます。
「重要でない事件は一つとしてないと心得よ」とは、マンネリになって心のこもらない仕事をしてしまわないようにするための戒めです。また、当事者にとっては、一生に一度の大事な事件であるかもしれません。
「長期の刑を科するな」とは、「バランス感覚と方向感覚」を持てということだと解すべきでしょう。
「常識を忘れるな」という言葉も大切です。常識あるいは一般教養は、正しく判断するための過程においても必要ですし、判断の結果も勿論常識からはずれたものであってはならないわけです。
「神の導きを祈れ」という言葉は、キリスト教国では素直に理解されると思われます。日本では、神社仏閣などに参拝して、御利益祈願をすることがありますが、ここでは、そういう意味ではなく、裁判官は、人の運命を大きく左右する仕事に携わっていること及び人知の及ばないことに対し常に謙虚であらねばならないことをこの言葉が示していると解すべきであろうと思います。
なお、若干意味が違いますが、この言葉から、板倉周防守重宗の次のような逸話を思い出します。
重宗は、庁に出る毎に西に向ひ遥に拝して黙祷した。その理由を人から問われたとき、重宗は、次のように答えたという。
「西向して拝することは愛宕の神を拝するなり、多くの神の中に殊に愛宕は霊験あらたなると聞きし程に、所願ありてかくは拝せり、その所願というは今日重宗が訟を断ぜんに心に及ばん程は私のことあらじ、若し過って私のことあらんには、たちどころに命を召させ候へ、年頃深く頼み奉る上は少しも私の心あらんには世にながらえさせ給うなと毎日祈誓するにて候。」
要するに、重宗は、裁判をするに当たり、自らの心に及ばんほどの私の心(自分では気づかない程の私心、予断偏見等)をすら持つことを戒め、もし誤ってそのような心を持って裁判をした場合には、たちどころに命を召させ候へと神に祈願したというのです。
裁判官というポストは、決して自分の人格の一部ではなく、いわばお預かりしているものと考えるべきものですが、そのポストには、前記の十戒が求められているわけで、自分の人格がその求められたものを備えるよう絶えず努力を続けなければならず、そういう意味で裁判官は人間性を磨く努力を求められていると思われます。
以上のように見てくると前記の十戒は、法曹一元の理念からすれば必ずしも裁判官ばかりではなく、読み替えれば実は弁護士という職業についてもかなりの部分が当てはまるような気もします。第六戒のところは、読み替えれば「敗訴判決を受けても落胆するな」ということになるのでしょうか。
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発行:東北大学法科大学院広報委員会