東北大学法科大学院メールマガジン

第17号 05/30/2007

◇「JR東日本奨学生」制度のお知らせ

 2006年度中にJR東日本株式会社より多額のご寄付をいただき、2007年度も引き続き同額のご寄付を受け入れることになっておりますが、このほど、その主要な使途の一つとして、東北大学法科大学院院生を対象とする「JR東日本奨学生」制度が新設されることとなりました。

 東北大学法科大学院は、かねてより院生諸君の就学支援のために取るべき方策を模索してきましたが、JR東日本株式会社のご寄付により財源を得ることができました。この「JR東日本奨学生」制度により、法科大学院院生の学修意欲がますます高まってゆくことを期待しております。

 JR東日本株式会社には、重ねて御礼申し上げます。

法科大学院長  坂田 宏

「JR東日本奨学生」

 法科大学院院生のうち、成績優秀者10名(第1年次生3名、第2年次生7名)に、「JR東日本奨学生」として、奨学金を給付する。

〔選考基準〕
 第1年次生:当該年度の第1年次科目単位加重総得点の高得点者上位3名。
 第2年次生:当該年度の基幹科目単位加重総得点の高得点者上位7名。

〔給付額〕
 20万円

〔給付時期〕
 2008年3月

◇トピックス−春季大講演会「女性法曹の軌跡」

 去る5月25日(金)夕方,川内キャンパスにおいて,東北大学法学部・同窓会による春季大講演会(東北大学創立百周年記念事業)が行われました。

 会場となった法学部第一教室には,あいにくの雨の中を多くの聴衆が参加。午後4時30分,及川行翁同窓会事務局長の挨拶により開会,稲葉馨法学部長による挨拶,吉田正志教授による講師紹介に続いて,拍手の中,法科大学院で民事・行政裁判演習等を担当されている藤田紀子教授(実務家教員・弁護士)が登場。「女性法曹の軌跡」と題して,弁護士としての経験談も交えた力強い講演に,聴衆は熱心に聞き入っていました。

 当日の講演内容は,法学部同窓会報に掲載予定とのことですが,法科大学院メールマガジンでは,同窓会および藤田紀子教授の許可を得て,当日参加できなかった方々のため,本号,次号において,その概要を掲載いたします。

春季大講演会「女性法曹の軌跡」
 —女性弁護士として私の心掛けること,目指すこと—
     東北大学法科大学院教授(実務家教員・弁護士) 藤田 紀子

○母の思い出と名前の由来

 どうもありがとうございました。紹介をいただきました藤田です。
 私が生まれたときに,母は「あ,女の子が生まれてしまった」と−好きな新聞も読めないし,好きな本も読めない,そんな男性に虐げられる性である女の子を産んでしまったということで,非常にがっかりしていたそうです。

 ところが,私の父は裁判官ですから,これからはそういう時代じゃない,女でも大いに男と同じように活躍できる,そういうふうに新憲法14条も24条も規定されている,そういう新しい時代に生まれたのだ,ということで,私の名前を「紀子」とつけた,というふうに聞いています。この「紀」とう字は「日本書紀」とか「二十一世紀」とか,新しい時代の始まり,という意味で,これからは女でも裁判官でも検察官にでもなれる−父は裁判官でしたから特に女の裁判官を目指すように,という気持ちがあったのかも知れません。

○低かった女性の地位

 戦前の日本の女性の地位は非常に低かったわけですね。完全な男性社会で,女性は常に男性に支配される,というような状態だったし,家制度というのが強くて,家督の権限が強く,女性にとって,いわゆる「男尊女卑」がつよく生きていた時代だったわけです。

 家制度だけではなくて,「姦通罪」といって,夫のある女性が他の男性と関係を持つとそれは刑法で処罰される。一方,男のほうはどうかというと,犯罪にならないどころか「甲斐性がある」と賞賛される,というような時代だったわけです。

 教育においても差別されていて,男子は教育を望めば最高学府までの教育を受けることができたわけです。ところが,女性の方は,小学校を終えると,4〜5年制の女学校に行って,それから3年制の専門学校に行くということで,高等教育を受ける機会,男性と同じように教育を受ける機会というのは非常に制限されていた。そのなかで,ここの東北大学(当時は東北帝国大学)は,大正3年という非常に早い時期に,全国で初めて−これは残念ながら法学部ではなくて理学部ですが,女性3名の入学を受け入れました。その後,明治大学で昭和4年,北大は昭和5年と,「例外的」ではありますけれども,女性の入学を認める大学が出てきました。でも,その頃はまだ,女性が弁護士になるとか,まして裁判官や検察官になるということはできない,そういう時代でした。

 弁護士法(明治26年制定)には,男性しか弁護士になれないことが謳われていましたが,その後何度も請願を重ねた結果,昭和11年に改正されて,やっとこれで,女性も弁護士になれる,ということになり,昭和13年に,日本で初めて3名の女性弁護士が生まれました。そのうちのお一人は三淵嘉子さんといって,私も非常にお世話になった,とても尊敬している方です。

 昭和20年までに,さらに8人の女性弁護士が誕生しました。そして,新しい憲法の下で,昭和24年4月に,初めて3人の女性任官者が出ました。そのうちの一人は,三淵嘉子さんが弁護士から裁判官に任官されたわけです。それからは毎年1〜2名の女性任官者が出て,どんどん女性も法曹界に進出するようなことになっていきました。

○新憲法下における動き

 法曹の機構も戦後変わりまして,機構上も,実際も,女性法曹が活躍しやすい状況になったわけですけれども,最初の頃は,女性の裁判官も検察官もそれから弁護士も当然数が少なく,非常に大事にされたそうです。大事というと聞こえはいいけれども,「敬遠された」こともあったように伺っています。女性の方も不満で,女性でも強姦事件とかヤクザ事件も担当できるとか,独りで支部の事件を担当できるのだ,というようなことを思っていたし,男性の裁判官からも,これは「逆差別」ではないか−重い事件をさせないとか,東京や大阪ばかり担当させるのはおかしい,という声があがって,人事交流を図るということになりました。

 ところが,昭和30年頃から,戦後の男女平等の運動に対して,反動とまでは行かないまでも,女性に対して拒否的な動きが出てきて,裁判官も検察官も女性を採用しない,という年が続きました。弁護士事務所でも,女性弁護士は採用しても出産や育児ということで休みがちで役に立たないというようなことで,女性弁護士は不採用,ということを明言する例も出てきました。これに対しては,戦後作られた「婦人法律家協会」というところが,何度もそういうことのないように,きちんと女性を採用するように,という要請がなされました。

○三淵裁判官の思い出

 司法修習生の時に,三淵裁判官のところに女性法曹の心構えについて伺ったことがありました。その際,三淵さんが仰っていたことは,まだまだ女性の法曹というのは例外的で少ない,自分は女性裁判官第一号ということもあるし,今までの裁判官生活を男性裁判官以上に頑張ってきたつもりだ。「だから女性はダメなんだ」というようなことでは,せっかくこれから女性として仕事を目指す人に申し訳ない。だから,もし裁判官になるなら,特に男性以上に頑張って仕事をするように心がけなさい,ということを言われまして,これはなかなか厳しい世界だな,というふうに思ったわけです。

 私は,実は最初は裁判官志望だったのですが,三淵裁判官の話を聞いて逆に恐ろしくなってしまって,それで弁護士になってしまった,というのが本音です。

○統計で見る女性法曹

 ここでちょっと統計を見てみますと,検察官は,全体の数が増えたこともありますが,昭和52年には,2000人のうち女性は20人(1%),今は2480人のうち234人(9.5%),10倍以上増えています。
 裁判官は,昭和52年には,2700人のうち女性は58人(2.1%),それが今は3200人のうち450人(14%)です。
 弁護士は,昭和50年には,10000人のうち300人(3.1%)位でした。その後,毎年毎年増えて,今は22000人のうち3137名(13%)という統計が出ています。
 日弁連の「女性の地位を守るための法制度・平等に関する委員会」で「三人から三千人へ」という本を作りましたけれども,まさに,昭和13年の弁護士法改正で 3名の女性弁護士が誕生したわけですけれども,それがとうとう3000人を超えました。

○労働差別改善への動き

 戦後は新しい憲法・法規の下に男女平等という新しい理念の下で出発したわけですが,現実はいろいろなところで差別があったわけです。例えば,労働の場でも,女性は男性と比べて賃金が低いとか,同じ仕事に就かせてもらえない,同じ研修を受けられない,それから結婚退職制というような,本当は労働基準法というのが作られて同じ労働者として男女は平等なはずなのに,実際にはそうではなかった。それを,憲法違反だ,労働基準法違反だ,ということで争ってきたのはほとんど女性弁護士で,大きな成果を挙げています。

 女性弁護士が,女性労働者の訴訟代理人となって,裁判を起こして勝訴したというのが,昭和42年に提訴した,女性の若年定年制が違法であることを主張した事件−「30歳定年」というのは憲法にも労働基準法にも違反している,ということで,東京地方裁判所で認められました。

 実はその前に,昭和41年に,結婚退職制は違法だという訴え−住友セメント事件−このときは女性弁護士による代理ではなかったのですが,東京地裁において結婚退職制は違法という判断が出されています。

○男性優位の壁

 それでもやはり,そんなに簡単に勝てるわけではなくて,中には,女性弁護士あるいは女性労働者にとっては自明の理だと思われることでも,負けたりするようなことはあったわけです。例えば,日産自動車事件(昭和46年提訴)では,男性は55歳で女性は50歳という,5年差の定年の定めについて,男性と同じまで働けるという地位を求める仮処分申請の中で,担当した裁判官は男性なのですが,次のように言っているのですね。
「一般に,女子の生理的機能・水準自体は男子のそれに劣り,女子50歳のそれに匹敵する男子の年齢は52歳位であり,女子55歳のそれに匹敵する男子の年齢は70歳位となる。」

 非常に非科学的で何の根拠もないのですけれども,そういう分析をした。それで,猛烈に反発して,本案の方の判決ではこれは「違法」とされて,会社側は控訴したけれども,東京高裁においても第一審の本案の判断が引き継がれ,最高裁で確定しました。

 それから,伊豆シャボテン公園事件(昭和47年提訴)では,女性47歳,男性57歳という定年差別について,会社側が「女性の観光サービスという職種には,若さ,明るさ,優しさ,清潔感,機敏性が求められる,女性は47歳以上になるとそういうものが欠けるから,定年でも仕方ない」というのですね。それで非常に怒って「中高年は不潔なのか」ということで争って,第一審で勝訴して,控訴審で和解したと,そういうことがありました。

○10年裁判

 実は私も,昭和40年代に,東北の女性弁護士で弁護団を組んで訴えを起こしたことがあります。ある女性のご主人が代議士で,議員手当が出ていたのですが,選挙で落選して無収入になってしまったので,女性が勤める銀行に家族手当の申請をしたわけです。ところが,その銀行の規定が「男子たる行員に家族手当を支給する」ということで拒まれて,これは明らかに男女差別だということで,家族手当を支払え,という訴えを起こしたわけです。

 ところが,銀行は訴えの途中に給与規定を改正して「世帯主たる行員に家族手当を支給する」というふうに変えて,男女差別ではない,家族手当が欲しければ世帯主になればいい,という理屈を立ててきたわけです。それで,世帯主は夫のままでいい,世帯主でなくとも,収入のない家族を抱えている行員として家族手当を請求しているのだ,ということで訴えを続けていたところが,事件が「世帯主」概念のところに紛れ込んでしまって,10年も経ってしまったわけです。結局,銀行は手当を支払え,ということになり,銀行が控訴したのですが,その間に女性は定年になって,裁判だけが延々と続いていた,というような状況で,高等裁判所において,ほぼ第一審で認められた家族手当を支払う,という内容で和解が成立しました。

 女性であるために家族手当が支払われないとはなんと不都合なことか,なんでこんなことで10年も裁判をするのか,という思いの中で担当してきたわけですが,そう簡単なことではないのですね。現実には,まだまだ女性が差別されている,そういう状況の中で,専ら女性弁護士が中心となって,女性の労働条件を男性並みにしていく,という裁判での闘争が続けられているわけです。

○男女雇用機会均等法の実現

 昇格格差についても,訴えを起こして,勝訴したり勝訴的和解したりというようなこともありますし,そういう中で,昭和60年に男女雇用機会均等法ができてからは,主張もしやすくなりました。裁判を起こして戦うだけではなくて,ずいぶん国会に陳情に行きましたし,法制審議会の中に女性が参加して,女性の立場からも立法について意見を言うというような,ことでも活躍しているわけです。けれども,私たち,働きかけをした女性弁護士から言わせると,まだまだ不十分で,例えば昇格とか,施設利用とか,上級職のための教育とか,どれも努力目標になっている。これは努力目標では足りないので,禁止規定にして,それに違反した場合には罰則も受けなければならない,そういった運動もして,そのあと改正されて,少しずつ女性の見方になるような法律ができてきています。

 それから,「婦人雇用コンサルタント」として,いろんな会社の経営に対して,憲法違反,労働基準法違反,というような意見を出して,会社自ら規定を変えていく,というような指導もしてきました。被害者であった女性のほうが差別に対しては敏感であるので,「このままではいけない」という意見はそれだけ強く言えるわけですね。

 明治以来ずっと男性優位で,それが,一夜にして考え方が変わる,というわけには行かないので,それは裁判を通して,それからいろいろな立法を通して,男性自身の意識を変えていかなければならない,そういう共通の思いが女性にはあるわけです。

(次号に続く)

◆編集後記

 平成19年度より広報委員会メンバーが交代し,メールマガジンも新体制の下での発行となりました。今後も,積極的な情報発信,必要な情報の適時提供を心がけつつ,できる限りコンスタントに発行していきたいと考えております。

(担当:平塚記)

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発行:東北大学法科大学院広報委員会

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