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東北大学法科大学院メールマガジン

第30号 03/14/2008

◇トピックス−メンタルヘルス講演会 その2

 今回は,去る平成19年12月25日(火)夕方,片平キャンパス第4講義室において,二木文明先生(東北文化学園大学医療福祉学部教授,精神科医)をお迎えして行われた講演会の概要を掲載します。

「神経症性障害−PTSDと解離(多重人格など)−について」
     東北文化学園大学医療福祉学部教授 精神科医 二木 文明

○はじめに

 二木です。よろしくお願いします。前回,林先生から統合失調症と躁うつ病についてお話があったと思いますが,このような内因性の精神病(原因は不明)に対して,今日は心因性の精神障害(心の葛藤やストレスが原因となるもので,神経症と呼ばれている),特に,PTSDおよび解離性障害(多重人格など)についてお話します。PTSDは,犯罪被害と関係してくる点があります。解離性障害は,犯罪における責任能力と関係してきます。

 心因性の精神障害(神経症)は,精神病と異なり,日常生活や社会生活において何らかの支障はあるけれども深刻ではなく,また,原則として現実検討能力の障害を持っていないことです。現実検討能力は,統合失調症や躁うつ病ではその欠如(幻覚・妄想など)が問題となりますが,神経症ではこのような問題はまずありません。

 分類として,最近はWHOの「ICD-10」という診断基準を用いています。これは,精神疾患に関する世界共通の分類と診断基準を目的として1992年にWHO総会で合意されたものです。この他に,アメリカ精神医学会による「DSM-W」というのもありますが,診断書の作成などWHO基準を用いることが多いので,以下でもそれに従います。

○重度ストレス反応および適応障害

 この中の下位項目として,PTSDがあります。他に,適応障害,急性ストレス反応があります。適応障害は,日常生活の変化やストレス性の出来事(失恋,離婚,解雇,入学,結婚,親になるなど)に対して個人が順応していく時期に発生する障害で,主観的な苦悩と情緒障害(抑うつ気分,不安,心配など)が起こります。そんなにひどい症状ではないですが,日常的な業務の遂行が困難となることもあります。ストレスとなる出来事から1ヶ月以内に起こり,持続は6ヶ月を超えないと定義されています。

 急性ストレス反応は,強い身体的・精神的ストレスに対して,ふつうは数分以内に現れ,数時間か数日以内に治まる重篤な障害です。PTSDと症状が似ていますが,幻惑状態(失見当識,意識野の狭窄,刺激を理解できないなど)が起こります。その他,抑うつ気分,不安,激怒,絶望,過活動(逃避など),引きこもり,自律神経症状(頻脈,発汗,顔面硬直など)があります。

 外傷後ストレス障害(PTSD)は,ベトナム戦争以降,北米圏で急速に注目されるようになり,我が国でも,阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などをきっかけに関心が高まっていますが,同じような障害は,20世紀の初頭から,シェル・ショック(砲弾炸裂にともなうショック)とか戦争神経症としても知られています。PTSDにおける外傷とは,災害や激しい事故,変死の目撃,拷問,テロ,レイプなどの,ほとんど誰に対しても大きな苦悩を引き起こす,並外れて驚異的で破局的な出来事や状況に対する心的反応です。数週から数ヶ月(ふつう6ヶ月を超えない)の潜伏期間を経て発症し,回復する場合も多いが,慢性に経過するものもあります。症状としては,再体験症状(侵入的回想),回避・麻痺症状,覚醒亢進状態,不安,抑うつ,自殺念慮などがあります。

○解離性障害

 かっては「ヒステリー」と呼ばれていましたが,差別的なニュアンスをもつという理由から現在ではこの表現は使われていません。過去の記憶とか,自己の同一性の意識,手足など身体運動のコントロールなどの統合が部分的あるいは完全に失われるので,「解離性」と呼ばれるわけです。原因として,解決困難な葛藤を抱え,その葛藤にともなう苦痛や不安に耐え切れず,そこから逃れるために,葛藤に関係する意識を無意識的に切り離すとか,身体的な症状に置き換えたりするということが考えられています。また,人格特徴として,誇張的・演技的・未成熟で小児的であり,被暗示性の亢進(暗示にかかりやすい)もみられます。以下に小項目を示します。

 解離性健忘では,事故や予想外の死別などのような外傷的な出来事について,部分的・選択的(特定の期間,特定の人物)の記憶喪失が起こります。記憶の三つの要素(記名,保持,追想)のうち,追想ができなくなるのが健忘です。健忘には,まれですが「全生活史健忘」というのもあります。顔を洗う,服を着るなどの記憶(手続記憶)はあり,日常生活は問題がないのに,自分の個人的な記憶(エピソード記憶)が完全になくなってしまいます。

 解離性遁走(フーグ)とは,ストレスなどが原因となって,突然に日常生活から離れて放浪に出る(意図的に旅に出る)ことです。放浪の間は,自分自身に関するそれ以前のことを思い出せない−つまり,解離性健忘を伴います。ただし,放浪中の行動はまとまりを保っています。

 解離性運動・感覚障害は,心因性の運動面と感覚面の障害です。脳神経や末梢神経には障害がないのに,手が動かない,歩けない,立ち上がれない,失声などの症状が起こります。感覚障害では,触られても感じないとか,視野の狭窄などがあります。

 多重人格障害は,アメリカ精神医学会による「DSM-W」では「解離性同一性障害」と呼ばれています。複数の人格が同一個人のうちに存在し,それらの人格が交代で出現します。それぞれの人格は独立した記憶・行動・好みをもち,通常,あるひとつの人格(主人格)が他の人格(副人格)に比べ優位となっています。互いの人格の存在に気がついていないのが普通ですが,中には互いの人格を知っているケースもあります。人格が変換する際,初回の変換は突然に起こり,外傷的な出来事と密接な関係を持っています。二回目以降の変換は,初回の変換を惹き起こした外傷的な出来事と関連のないストレス性の出来事,劇的事件,催眠,リラクゼーションによっても起こることがあります。

 心因性もうろう状態は,意識障害(意識の覚醒レベルが下がること)とは異なり,意識野の狭窄に加えて錯覚や幻覚,不安をともなう状態で,夢遊病のように徘徊したりすることもあります。もうろう状態が終わった後は,そのときのことを覚えていません。

○パーソナリティおよび行動の障害

 心因性障害(神経症)の診断を行う際に,鑑別すべきものとして詐病と虚偽性障害があります。詐病や虚偽性障害では,意図的に身体症状が捏造されたり偽装されたりします(腹痛でもないのに激しく痛みを訴える,看護師の目を盗んで体温計をこすって熱があるように見せかける,傷口をわざと不潔にして化膿させたりするなど)。詐病の場合,意図的に症状を作り出す現実的な理由(保険金を騙し取る,会社を休む,刑罰を逃れるなど)があるのに対し,虚偽性障害の場合,不思議ですが意図的に症状を作り出す現実的な理由がなく,「病人になること」自体を目的としているように考えられます。

 以上,神経症の中でもPTSDと解離性障害について凡そのところを述べましたが,細かくみるならば問題点がなくもないので,以下に補足の形で追加します。

○PTSDに関する補足・問題点

 「PTSD」と「急性ストレス反応」との鑑別について−これは結構精神科医でも間違えやすいところです。症状が似ていますが,急性ストレス反応では幻惑状態が起こるという点で,また,発病時期や持続期間の点でも違いがあります。

 PTSDにおける“二相性の反応”−「再体験症状」や「覚醒亢進状態」のような激しい症状と,これとは反対の「回避・麻痺症状」のような症状とが現れるわけですが,前者は,外傷的体験を自分の心の中に統合する,組み入れることの失敗から来ているのに対し,失敗した自分を外的から守ろうとする防衛的反応として,後者が起こるものと考えられています。

 「外傷」概念に関する「ICD-10」と「DSM-W」との定義の微妙な違い−前者では「殆ど誰に対しても,大きな苦悩を引き起こす」と定義されているのに対し,後者では,それが主観にとって重大な出来事とされていて,「誰でも」ということにはなっていません。「外傷体験」に関してはその客観的な判断が難しく,どうしても主観性が入ってくるのですが,公的な診断書作成の場合は前者に準拠しますので,後者は参考という位置づけになろうかと思います。

 PTSD発症の際,個体の側の危険因子として,劣悪な養育環境にあった場合(親との離別,虐待を受けたなど)には発症率が高いという統計があります。また,教育暦が低い場合にも,発症率が高いというデータがあります。性格面では,内向的,神経症的傾向(あれこれ悩む,不安になるなど)の場合,発症率が高い傾向にあるようです。家族の中における精神疾患の罹患率が高いと,PTSD発症率も高いといわれています。

 PTSDの治療:原則として,本人が安心できる治療環境を提供して,外傷の記憶を自我に統合し組み入れていく作業が中心となります。具体的には,支持的な精神療法−話を聞いたり,受け止めたりします。あるいは,除反応−外傷体験を少しずつ想起させ,その記憶にまつわる情動を開放することによって,自我統合を試みる方法もあります。その過程で興奮したり泣いたりする―すなわち再体験症状が生じ,危険を伴うことがあります。

 犯罪被害におけるPTSD−我が国でも阪神淡路大震災やサリン事件以降,関心が集まっています。ただ,精神科医にとってPTSDの患者を診断したり治療したりすることには慣れていても,外傷体験を客観的に証明するようなことには精通しておらず,客観性を持たせてPTSDを証明するというのは困難な作業です。アメリカでは「PTSD訴訟当事者の司法鑑定のためのガイドライン提案」といったものがあり,鑑定者はこうした公式の診断マニュアルを用いるようにしており,独善的な定義は避けるなどの原則も打ち出されています。

○解離性障害に関する補足・問題点

 ひとつの個体のうちに複数の人格は存在しうるのか?私の臨床経験では多重人格者に出会った経験はさほどありませんが,次のように考えています。人格というのはしつけや教育などを通して形成され,自分なりのものの見方を身につけるものですが,主人格の他に,ひそかに別の人格が成長しているというのは想定しにくいのではないか。ただ,人間には仕事の面,家庭の面,あるいは理想像など色々な側面があるので,多重人格における「多重性」とみえるものは,こうした多面的な側面のそれぞれの表現と考えられなくもありません。特に,外傷体験の後,その恐怖や不快感から逃れようとして,普段とは違う自分の別の側面に同一化して,多重人格が形成されるということも考えられます。

 「解離」を生むような外傷的出来事にはどのようなものがあるのでしょうか?精神科医の岡野によれば,欧米ではもっぱら幼児期の性的・身体的虐待が多いのに対して,我が国では性的・身体的虐待は見当たらず,代わりに,特有のストレス―「関係性のストレス」とでも呼ぶべきもの―に基づく解離性障害があるのではないか。対人関係に係る慢性的なストレスを外に表現できず,自分自身に向けて溜め込んでしまう傾向があり,そして,ストレスを溜め込んだ自分に耐え切れず,そこから逃れるために,遁走,健忘,別人格への変換が起こるのではないかと岡野は説明しています。自分の意見を主張するよりも相手に合わせるという,我が国の文化に特有の心性に基づいており,このような人間関係は侵襲的ではないが,持続的に働くストレスになりうる可能性はあると思われます。

 「心因性もうろう状態」下での犯罪例−いわゆる「仁左衛門殺し」という有名な事件があります。終戦直後の事件で,歌舞伎役者の片岡仁左衛門宅に住み込みで働いていた青年が,片岡夫妻との感情的軋轢から,夫妻とその子供,使用人の計5人を斧で殺害したという事件ですが,被告人は,事件当時のことを一切覚えていないと主張しました。鑑定は「心因性もうろう状態」ということで,心神喪失,あるいは少なくとも心神耗弱状態であったと結論されました。

 「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」−最初の精神鑑定の結果は人格障害で,責任能力が問われるということでしたが,これに対して弁護側の要請で第二回目の鑑定が行なわれ,結果は2つに分かれました。ひとつは統合失調症,他方は多重人格というもので,このときに「多重人格」という鑑定が話題を呼びました。この二回目の鑑定結果はどちらも不採用になり,結局,一回目の鑑定結果が採用され,昨年(平成18年)死刑が確定しました。

 「多重人格」による犯罪の鑑定の難しさ−前述の連続幼女誘拐殺人事件の場合でも,初回鑑定と第2回目の鑑定とでは交代人格の現れ方が異なり,交代人格を確認することの困難性が指摘されています。また,多重人格であることは間違いないと思われる場合でも,犯行時に果たして人格変換が起こっていたかどうかという問題や,犯行当時は多重人格ではなかったものが,鑑定行為によって多重人格が呼び起こされ,その後継続するというような問題もあります。また,犯行当時に交代人格であったことは強く疑われるが,犯罪以前の幼少期に遡っても交代人格を目撃者した人が誰もいないという(補強証拠の)難しさもあります。

 「多重人格」による犯罪の責任能力をどう考えるか−これは,三つに分けて考えることができます。@犯行時の人格が主人格であれ副人格であれ,その行為の邪悪性を識別・制御できなければ,責任能力なしとする考え方。A副人格が犯行を行うとき,主人格が副人格の犯行を関知・制御できなければ,責任能力なしとする考え方。B多重人格であれば,それは“病気”ということだから責任能力なし,という考え方。第3の考え方は,最近では犯行時の精神状態が責任能力の判定に加味される状況にあることを考えると,単に「病気だから」という理由で責任能力無しという見方は難しいように思われます。第2の考え方の場合は微妙です。これは副人格の独立性,安定性が強く,主人格との境界がはっきりしているケースを想定しているわけで,言い換えるならば解離の度合いが根深いというか,病理性が大きいという点で,責任能力を免除できる可能性があります。わたし個人としては第1の考え方に寄っていますが,厳密には,解離のメカニズムについての今後の更なる解明を待たなければならないと思います。

 以上で終わります。どうもありがとうございました。(拍手)

◇トピックス−医事法講演会

 去る平成19年10月22日(月)夕方,さくらホールにおいて,町野 朔先生(上智大学教授・刑法)をお迎えして,「臓器移植の法理論」をテーマとする講演会が開催されました。この講演会は「医事法」の授業の一環として行われたものですが,受講者以外にも多くの方々が参加していました。以下,特別に参加して下さった法学部4年の竹内友紀子さんに纏めて戴いた概要を,町野先生の許諾を得てここに掲載いたします。

「臓器移植の法理論」
                上智大学教授(刑法) 町野 朔

T 臓器移植法について

 臓器移植の議論の手掛かりは、臓器移植法6条にある。同条1項は脳死した者の身体を含む死体から、ドナーが生前に書面で臓器提供の意思表示をし、かつ遺族の不同意がなければ臓器摘出が可能と定める。同条2項は、「脳死した者の身体」を定義する。しかし、このように臓器移植の場面でのみ脳死を死と認める脳死論は、「死」という概念を臓器移植という目的に副う形で相対的に定義するものであり、法概念の歪曲だと考えられる。また、脳死判定の前提となる同条3項の要件は、脳死または心臓死の選択をドナーとドナーの遺族に委ねるが如き不適当な要件とも評価されよう。死は本人の選択に任されるにはあまりにも大きい存在である。人間の「死」は社会的側面を有しており、個人の自己決定に任せるべきでないのである。

 かような臓器移植法成立の背景には、1968年札幌医科大学心臓移植事件、1974年筑波大学付属病院膵腎同時移植事件があった。これらの事件を受け、1992年脳死臨調が「脳死は人の死である」「ドナーの意思尊重」「公平な死体臓器の分配」という3点を柱とした報告書を提出する。その後、脳死を人の死とすべきでないという主張もあり、「脳死は人の死か」という問いに対する明確な解答は開かれたままに、1997年に臓器移植法が成立した。

 臓器移植は、「脳死は人の死か」という脳死概念をめぐる問題(U脳死論の運命)の他に、「誰」の「いかなる」承諾によって臓器摘出を認めるかという問題(V死者の自己決定論)を有する。1978年の欧州評議会は、本人または遺族の臓器摘出に対する明示の不同意がなければ臓器移植が可能である(Opt-Out)との立場を取った。アメリカでは、Uniform Anatomical Gift Act(1968)が、ドナーまたは遺族の明示の承諾によって臓器摘出が可能としている(Opt-In)。日本では、脳死体においては本人の事前の書面によるOpt-Inが存在し、遺族のOpt-Outが存在しない場合、心臓死体では本人のOpt-Outがなく、遺族のOpt-Inがある場合に臓器摘出が可能である。

 臓器移植法は脳死を人の死と定義せずに、心臓移植を認めようとする妥協の産物であるが、「理論」がないわけではない。同法は多様な立場に配慮して危ういバランスの上に成立しており、これを維持すべきという声もある。しかし、あるドイツの刑法学者によって、わが国の臓器移植法が「明らかに破綻した妥協の存在で、正しい判断ではない」と評されていることも忘れてはならない。

U 脳死論の運命

 移植用臓器の摘出は「死」の概念と深く関わる。臓器摘出は、それが死体からならば死体損壊罪、生体からならば傷害罪の構成要件に該当する。両者は成立する犯罪も保護法益も異なるため、違法阻却に関しても別個の議論が必要である。加えて、生体からの心臓摘出は殺人罪の構成要件に該当するが、同意殺人が処罰されることを考えると、移植における殺人罪の違法阻却は困難である。また、医療関係者にも、仮に脳死者が生きているのであれば、その心臓を摘出しようとは思わないとする意見が圧倒的である。

 当初、日本における脳死論は、脳死判定の信用性に関わる手続的な議論であった。唄孝一教授は、脳死から心臓停止までをα期間と称し、心臓移植を可能とする生と死の間の中間的期間を設けるという『α期間説』を提唱した。しかし、同説も脳死の判定が確実になされない状態での臓器移植を認めるものであり、脳死説の欠点を克服できていないという大谷實教授からの批判を受け、『α期間説』は凍結された。

 後に、「脳死は脳幹を含む全脳の不可逆的な全機能の喪失」と定義され、脳死判定基準(竹内基準)も定められた。このような脳死説が説かれるようになり、「脳死は人の死か」という問いが顕在化した。大谷實教授は脳死を人の死とせず、臓器移植の違法阻却による解決を提唱する。だが、脳死が人の死でないならば、前述の通り、心臓移植における違法阻却は伝統的刑法理論からは認められない。中山研一教授も、臓器移植に可罰的違法性はないとして解決を図ろうとする。かような違法阻却による処理に対し、平野龍一教授は「刑法学者にあるまじき便宜主義」と批判を加えた。また、森岡正博教授は、脳死問題は「脳死の人」をどう扱うかの問題であり、脳死が人の死かという問題ではないとする。しかし、人間の生死を定めずに臓器摘出ができるとは考えられない。生者の尊厳とは異なる死者の尊厳もあるはずであり、生者を生者と扱い、死者を死者と扱うことこそ人間の尊厳にかなう態度であろう。現行の臓器移植法の立場である、心臓移植の時に限り脳死を死と扱う相対的脳死論は、「心臓移植のために脳死の人を死人にする」という論理であるとして、平野教授から批難を浴びている。更に、脳死か心臓死かドナーが自己決定によって自らの死を選べるという自己決定論に対して、死は社会的関心事であり自己決定の領域に属さないという唄教授の批判がある。

 以上の脳死論の混迷を概観すると、脳死概念は単に医療の問題であるだけでなく、法律学の問題でもあることがわかる。ここで、医学的な脳死判定基準と「死」の概念は別に存在しており、分離すべきものである。判定とは別に「死」は存在する。もっとも、そもそも「死」の概念自体についても、明確な議論が行われてきたわけではない。全ての死は脳死であるという脳死一元説や、全脳機能の不可逆的停止(脳死)または循環機能の不可逆的停止(心臓死)を死とするという二元的な死の理解も存在する。日本では、死の概念が詰められていないことに加え、概念が存在した上でそれを判断する基準が作られるという認識が不十分なこともあり、「臓器移植のために心臓摘出ができるから脳死は人の死である」といった「死」概念の不適切な利用が起こりえてしまう。

 臓器移植について違法阻却論を主張する丸山英二教授は、「脳死は人の死」と言わないことが「優しい」と述べる。だが、本当にそうだろうか。臓器提供を求める時、コーディネーターは遺族に脳死患者の死を受け入れてもらわなければならない。違法阻却論は、この時に「患者は生きているが違法ではないから心臓を提供して下さい」と主張するに等しい。生体に臓器提供を要求するが如き違法阻却論は、本当に生の重みを理解しているのであろうか。生の重みと独立の死の重みを考え、別個に尊重すべきである。

V 死者の自己決定権論

 臓器移植法の問題は、「誰」の「いかなる」承諾によって臓器提供がなされるかという点にもある。即ち、本人または遺族のOpt-In/-Outの意思表示をどう認めるかという問題である。

 現行の臓器移植法は、ドナーの事前の書面によるOpt-Inの存在を要求しており、「死者の自己決定」を重視したものといえる。ところで、死者は権利主体たりうるのか。刑法・民法上の死者の扱いに鑑みて、日本で死者は権利主体ではないと解すべきである。なお、実際には、旧角腎法(角膜及び腎臓の移植に関する法律)の遺族主義(移植の可否が遺族の諾否のみによって規律されていた)に対する批判から、本人の自己決定権を重視する流れが存在しており、本人のOpt-Inが重要な要件と考えられている。

 しかし、法律は生きている人のために存在する。死者の権利保護があるとしたら、それは、生きている人間による死者のための行為でしかないだろう。それ故、臓器摘出の際には、本人だけでなく遺族の意思が勘案されることがある。現行法上も、本人のOpt-Inの存在に加え、遺族のOpt-Out不存在が求められている。Opt-Out不存在という要件からは、遺族の消極的立場が窺え、遺族に権利を付与しない法制も考えられよう。だが、臓器移植法の下で初の臓器移植が行われた際の遺族の決断に向けられたマスコミの眼差しを想起する時、かかる日本社会において遺族に権利がないと言うことまではできないと思われる。

W 最後に

 臓器移植を考える時に、理論と政策の両者が登場する。ここで重要なのは、Franz von Lisztの「学問には妥協はない。しかし立法は妥協である」という言葉である。ドイツにおいて、刑法の新派と旧派は妥協のない激しい論争を繰り広げたが、立法の際には互いに妥協しあった。立法で妥協する際には、その背後に妥協を許さない学問が存在していなければならない。さもなくば、理論面の妥協点に無自覚なまま、政策が実行されてしまうからである。臓器移植法は前述の通り、妥協の産物と評される。政策において妥協がなされている以上、まずは廉直に学問に取り組む姿勢が求められよう。

 また、しばしば社会的合意論なるものが唱えられる。しかし、何が社会的合意かは明らかではない。更に、これは社会的合意があれば良いと主張するだけで、自分の立場や考えを明示しない卑怯者の論理だという加藤一郎教授からの痛烈かつ正当な批判がなされている。

 日本社会は、立場の相違が倫理の相違と結びつき、それが許される社会である。例えば、救命医療など臓器移植に関与しない医療関係者が「脳死は人の死か」という問いにすら関心を示さないのに対し、小児科学会など心臓疾患を持つ患者を抱える医師らは「脳死は臓器移植の場面において人の死である」ということを強く主張する。しかし、立場の違いが倫理の違いを生む状況は、議論を宗教戦争化させかねない不健全な状況といえる。立場の異なる者の主張に一切耳を貸さない状態では、建設的な議論などできはしない。そして、法律研究者は、議論を通じて理解し合い一定の帰結を求める存在である。知的廉直性の重要性は言を俟たないが、法律研究者が自身の立場に固執した議論を行い続けるべきではないという点にも留意が必要である。

◆編集後記

 今回は,法科大学院における「心理学的法曹実務教育プログラムの構築」の一環であるメンタルヘルス講演会の続編として,東北文化学園大学の二木文明先生をお迎えして行われた「神経症性障害」講演会の概要をお送りしました。講演概要の掲載にご快諾いただいた二木先生に,心から御礼申し上げます。

 また,今回は,上智大学の町野朔先生をお迎えして行われた「臓器移植の法理論」講演会の概要をお送りしました。講演概要の掲載にご快諾いただいた町野先生,概要を纏めて戴いた竹内さんに,心から御礼申し上げます。

(平塚記)

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発行:東北大学法科大学院広報委員会

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