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東北大学法科大学院メールマガジン

第28号 01/25/2008

◇ミニ・オープンキャンパス(平成21年度入試・東京入試説明会)のご案内(既報)

 東北大学法科大学院では,下記により「ミニ・オープンキャンパス(平成21年度入試・東京入試説明会)」を実施いたします。

開催日時:
 2008年3月8日(土)13:00-16:30(12:30受付開始)

会場:
 東京八重洲ホール 201会議室
 東京都中央区日本橋3丁目4番13号新第一ビル
 http://www.yaesuhall.co.jp/

プログラム:
−開会の挨拶(法科大学院 院長 坂田宏教授)
−講演(法科大学院 教員)
−東北大学法科大学院紹介DVD上映
−法科大学院入試・カリキュラム・新司法試験の説明
−質疑応答

 参加を希望される方は,opencampus@law.tohoku.ac.jp 宛,氏名・連絡先・所属を明記の上,お申し込み下さい。会場の都合上,定員(60名)に達し次第締め切らせていただきますので,ご了承ください。

 ご連絡の際に,質問等あらかじめございましたら,お書き添えください。質問を提出していただいた場合には,できる限り資料等を用意したうえで,プログラム「質疑応答」でお答えすることができます。

 東北大学法科大学院の受験を希望される方はもとより,法曹の仕事に関心のある方,法科大学院への進学を考えている方など,たくさんの方のご参加をお待ちしています。

※ミニ・オープンキャンパスに関しては,下記サイトもご覧下さい。
 http://www.law.tohoku.ac.jp/lawschool/opencampus/#tokyo

◇教員エッセイ

 今回は,実務民事法,法と経済学を担当している森田果准教授のエッセイをお送り致します。

KKK・政党・宗教団体

 KKK(Ku Klux Klan)とは,アメリカ合衆国で,南北戦争後の南部で勢力を拡大した,白人至上主義を掲げる人種差別集団である――と一般的に考えられている。しかし,そのようなイメージは現実に沿っているのだろうか? 最近公表された,Roland FryerとSteven Levittによる"Hatred and Profits: Getting Under the Hood of the Ku Klux Klan"というペーパー
http://www.economics.harvard.edu/faculty/fryer/papers/Hatred and Profits, Getting Under the Hood of the Ku Klux Klan.pdf)は,この問いに答えている。KKKは,南北戦争後に勢力を拡大した後,いったん消滅し,その後,1920年代に再興してその勢力が最も強くなった。FreyerとLevittは,この時期のKKKがどのような影響を持っていたのかについて,データに基づいて実証して見せた。彼らは興味深い結果を報告している。

 驚くべきことに,一般に信じられているのとは異なり,KKKは,黒人差別に大きな影響を持っていたわけではなかった。KKKの活動が盛んだった地域において黒人に対するリンチ事件の数が有意に多かったという事実は観察されていないし,人口移動率が高くなっていた(黒人がその地域から脱出し,逆に白人がその地域に流入してくる)という事実も観察されていない。このように見ると,KKKが活発に活動しても,黒人差別が悪化することはなかったことになる。KKKは,その「本来の目的」の実現という観点からすると,全く失敗していたのである。

 むしろ,KKKが成功していたのは,資金調達の側面だった。FreyerとLevittは,KKKの上部メンバーが,どれくらい多額の資金を調達していたかを明らかにしている。例えば,インディアナ州1州だけで,KKKの全国リーダーについては2006年のレートに換算して年間400万ドル(4億7000万円)の収益,インディアナ州リーダーについては年間240万ドル(2億8000万円)の収益を得ていたのである。当時の米国の一人あたり平均年間所得が8000ドル(94万円)だったことと比較すれば,これがいかに莫大な金額であったかが理解できるだろう。

 すると,結局,KKKという集団の実態は,差別・憎悪感情というものを商品にして人々から資金を吸い上げる組織だったと言える。そう考えてくると,KKKのように,「表面上の目的」については,それがどれだけ現実に機能しているかどうかが不明確であるのに対し,他方で何らかの商品を提供することで集金を図っている点では非常に有効に機能している組織が他にもいくつか存在することにすぐに気づく。

 例えば,政党という組織を考えてみよう。確かに,自民党のように政権をとることができる政党であれば,政策の変更という形の「表面上の目的」を実際に実現し,そしてそれに応じて,政治献金のような形で利益集団等から資金を調達することができることは合理的に説明できそうである。これに対し,少なくとも現在の日本ではよほどのことがない限り政権をとれそうにないと思われる共産党が,他の政党よりもはるかに多額の資金調達を党員からなし得る(だからこそ政党助成金の交付を受けなくてもやっていける唯一の政党でもある)のは,KKKの分析と同じ構図を当てはめてみるとよく理解できそうである。

 共産党は,現時点ではおよそ政権をとれる見込みがないにもかかわらず,少なくとも今夏の参院選までは全ての選挙区で候補者を立てるという,一見非効率なことを行っていた。そして,そのような政党であるにもかかわらず,他の政党よりはるかに多額の資金を党員から調達していた。これは,党員に対して,「現在の社会状況・政治状況に対する不満のはけ口」という商品(KKKの場合で言えば,hatred)を売りつけ,その代金を党員から徴収していたことになる。党員からすれば,そのような商品(サービス)の価値が,徴収される代金より低ければ,党員としてとどまり続けるインセンティヴを持つ。負けると分かっていても全ての選挙区で候補者を立てるのは,選挙というお祭りで党員に対して提供するサービスの一環だということになる。

 同様のことは,宗教団体についても言える。よく知られた例としては,宗教改革がある(もちろん,以下の記述が宗教改革の全ての側面を記述しているわけではない)。当時,カソリック教会が免罪符という商品(それを購入することによって贖罪という精神的効用を得る)を販売することによって資金調達していたのに対し,ルターはカソリック(=ローマ)にお金が流れるのはばかばかしいと言うことで,自分たちの周りでお金が流れるシステムを打ち立てようとしたのだった(このように見ると,ルターは優れたビジネスマンだったことが理解できる)。また,いわゆる新興宗教の一部が,実態としては集金ビジネスとして機能していることも耳にしたことがある人は多いかもしれない。

 しかし,いくら実態が集金ビジネスであるとしても,我々の多くは,後者2つ(政党と宗教団体)とは,そのことを理由に規制の対象にしたいとは思わないだろう。逆に,我々が通常,規制対象としたいと考えてきた集金ビジネスは,マルチ販売(無限連鎖講)や原野商法のようなビジネススキームや,霊感商法のようなビジネススキームである。今,そのような結論が妥当だと仮定しよう(本当はもちろん,その価値判断についても議論の余地があり得る)。では,その仮定の下で,規制されるべき集金スキームと,規制されるべきでない集金スキームとを合理的に区別できるのだろうか?

 まずは簡単な方から。マルチ販売や原野商法(これのヴァリエーションはいろいろあって,和牛・IP電話・円天など枚挙にいとまがない)については,売主も買主も,金銭的な便益を取引の目的としている。ところが,これらのビジネススキームにおいては,売主が提供を約束したサービス内容の提供が,客観的に(=算数上)不可能になっている。つまり,10のものを売るといいながら,実質的には1のものしか売ってないことが,客観的に(=算数上)明らかなので,それは正確な情報を伝達せずに取引に誘引しているから,詐欺でしょうということになるわけである。

 ただ,こう考えると,ちょっと分からなくなることがある。最近施行された金融商品取引法では,様々な「金融商品」について,情報開示を通じた投資家保護が図られている。では,なぜ,同じくサービスを売りつける政党や宗教団体についてはそのような情報開示(ないしは説明責任)が不要なのだろうか。政党については選挙があるし,宗教団体については信者の支持があるから,情報開示をするかしないかは自然に選別されるのだ,という反論があるかもしれないが,それでは答えにならない。なぜなら,金融商品であっても,マーケットで売買されているのであり,質の悪い商品は自然に駆逐される,というロジックが成り立ってしまうからである。もし,政党や宗教団体は違うというのであれば,両者の市場のメカニズムが違う,ということが示されなければならないが,筆者にはその違いがよく分からない(あり得る一つの回答としては,対価が金銭でなくて精神的サービスの場合には,情報開示のしようがないということなのかもしれない)。

 次に簡単なのは,これらのビジネススキームが,第三者に対する外部効果を発生させているケースである。例えば,KKK――FreyerとLevittの上記の研究によればそのような側面は強くなかったということだけれども――は,黒人に対するリンチのような外部効果を生んだし,わが国でもオウム真理教がサリン事件という外部効果を生んだことは記憶に新しい。このような深刻な外部効果を発生させるような場合には,それを理由に規制の対象とすることができるだろう。

 しかし,それ以外の区別はなかなか難しい。特に,宗教団体と霊感商法とはどうやって区別されるのだろうか。どちらも,精神的満足を得られるようなものを売主が買主に提供している。このため,マルチや原野商法の場合のように,客観的に(算数上),提供されたサービスが行ったとおりのものではないということを立証することは難しい(例えば,「神が存在する」ということを裁判所で証明するわけにはいかないだろう)。なぜ,ある宗教団体が配布するお札には効力があって,別の宗教団体が配る壺には効力がない,といえるのだろうか? はたまた,ある共産党員が共産党に対して,「革命を起こそうとしないのは詐欺だから,党費を返還せよ」と提訴してきた場合,裁判所が革命の実現可能性やそのための戦略を審査してくれるのだろうか?

 なかなか難しいが,違うかもしれないのは,勧誘の仕方である。すなわち,多くの「まっとうな」宗教団体は,自ら積極的に信者を勧誘するということはしない。これに対し,霊感商法などは,積極的に怪しい壺の買主を勧誘する。このような勧誘の行為態様に問題があるのだ,という議論である。確かに,このことは一面ではポイントを突いているかもしれない。割賦販売法や訪問販売法(現特定商取引法)は,消費者保護法の中でも先駆けにあたる立法だが,その立法がなされた原因は,セールスマンが個別の家庭に訪問して売る場合には,消費者の側にプレッシャーが働いて不当な契約が締結されてしまう危険性が高い。そこで,そのような販売形態を規制しよう,という考慮が働いていたのである。それと同じような勧誘方法で,規制の有無を区別できそうにも見える。

 しかし,これもよくよく考えると難しい。すなわち,多くの「まっとうな」宗教団体が積極的な信者の勧誘が不要なのは,それらの宗教がある程度のベースを社会の中で既に確立しているからであることが多い。これに対し,新興宗教団体は,未だベースを確立していないから,必然的に積極的な信者勧誘をせざるを得ない。そうだとすると,勧誘方法に着目して規制を行うことは,既存の宗教や政党を助け,新しい宗教や政党に不利に働く,というバイアスになってしまう。現状がそうなっている,という点(=記述的側面)は,政治的にそうなるのはもっともだ(既存の集団がそれなりの政治的な権力を持つことはしばしばあるから)ということになるが,法学としてそれが妥当なのだ(=規範的側面)と言ってよいかにはややためらいを覚える(もっとも,法学にはもともとconservativeな側面があるのは確かなので,それでもいいのだという人もいるかもしれない)。

 記述的,という側面をいうのならば,現在の状況とは,「たまたまそうなっているだけに過ぎない」という議論もあり得る。つまり,政党や宗教団体も結局は集金ビジネスモデルであるのだけれど,既存の政党や宗教団体は,たまたま党員や信者からのクレームがついていない,というだけのことなのかもしれない。これも確かにもっともそうな説明だが,それでは,将来,例えば,お寺にお布施(ただし,お布施の意味については,シグナリング理論(このモデルについては,エリク・ポズナー『法と社会規範』(木鐸社)を参照)で説明できるかもしれない)を支払った檀家が「あのお布施に効果はなかったじゃないか」とクレームをつけて訴えてきたときや,「あの選挙戦略は間違っていたじゃないか」と党員がクレームをつけて提訴してきたときなどにどうすべきかがよく分からなくなってしまう。

 そうすると,最後に残りそうなのは,価格の程度の問題くらいであろうか。つまり,「まっとうな」宗教団体が売るお札は,物理的原価からさほど乖離していない価格で販売されることが多いのに対し,そうでない宗教団体が売る壺は,物理的原価からかなり乖離した価格で販売されることが多い。この点が,違うから規制の対象になるのだ,という議論である。確かに,政治的主張や宗教の「正しさ」を判断するよりは,客観的な「価格」なのであれば,裁判所にも判断しやすいだろう。その意味では,この議論が一番もっともらしそうであるが,それでも,「ではいくらの上乗せまでは政党の自由や信教の自由の範囲内なのか」と問われると,よく分からない。

 ただ,このような形での評価が適切なのかもしれないもう一つの可能性がある。よく知られている格言に,"There's no free lunch"というのがあるけれども,ぼろもうけをするチャンスというのは普通はその辺に転がっていない。もし,ぼろもうけのチャンスが存在していたら,他の人が既にそれを実践していたはずなので,もしぼろもうけをしているビジネスメカニズムがあったら,それは何かおかしいことをしているがためにメカニズムが回っている可能性が高い。メカニズムの利潤の程度(逆から言えば対価性)に着目する前述のような判断枠組みは,実はこの点を裏から見たことから出てきているのかもしれない。

 このように,いろいろと検討してきたけれども,結局,なぜある種の集金メカニズムは規制の対象になって別の種の集金メカニズムはならないのかについて,決定的なところはよく分からない(か,分かるように見えても結構危うい――on slippery slope――)。ひょっとすると,読者の皆さんの方がより説得的な答えを見つけられるかもしれない。

 ともあれ,「なぜ?(why)」をめぐって考えていくと,このように,ああでもないこうでもないと思い悩むことはしばしばある。ここで取り上げたのは,現場で実際に問題になることは滅多になさそうな"教室設例"にすぎないけれども,このように「考える」力は,現実に未知の新しい問題に遭遇したときに役に立つのではないかと思う。

◆編集後記

 今回は森田先生のエッセイをお届けしました。価格の程度というと,本体部分を安く売ってサービス・消耗品で利潤を上げようとする戦略−携帯電話と通信料金,複写機とカートリッジ等−が思い浮かびます。今のところ規制ということにはなっていないようですが,もし問題になるとすると,規制可否の「しきい値」は何なのか−商売が「まっとう」か否かの判別ということになるのでしょうか。

 来る3月のミニ・オープンキャンパス(平成21年度入試・東京入試説明会)では,東北大学法科大学院の受験を希望される方はもとより,法曹の仕事に関心のある方,法科大学院への進学を考えている方など,たくさんの方のご参加をお待ちしています。ミニ・オープンキャンパスに関しては,下記サイトもご覧下さい。
 http://www.law.tohoku.ac.jp/lawschool/opencampus/#tokyo

(平塚記)

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発行:東北大学法科大学院広報委員会

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